簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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芭蕉と賢治

2016-12-05 | Weblog
 奥の細道を旅した松尾芭蕉も、同行する曾良と共に中尊寺に立ち寄っている。
その旅姿の像と句碑が、「金色堂」の近くに建てられている。
彼らは鎌倉時代に造られたと思われる「旧覆堂」の中に入って、ガラス越しでない
生のお堂を見ていたことになる。



 『光堂は八代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて既に頽廃空虚の叢となる
べきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時、千歳の記念となれり。

     五月雨の 降り残してや 光堂』



 一時期、栄華を極めた平泉・藤原文化も早500年の歳月を経て、多くのものが朽
ちてかつての面影が薄らぐ中、「金色堂」だけが未だ昔のままに輝いている。
そんな光堂を、五月雨までもが降り残し、守ろうとしている・・そんな句意らしい。
芭蕉四十六歳、梅雨の季節のことである。



 岩手に生まれた宮沢賢治は、熱烈な法華経の信者としても知られていたらしい。
明治四十五(1912)年5月、盛岡中学の修学旅行で松島、仙台、平泉などを訪れた
賢治は、その時の印象から詠んだ短歌を残している。



 “中尊寺 青葉に曇る夕暮れの そらふるはして 青き鐘なる”

 法華経の精神を受けて建立された中尊寺で、夕暮れに低く震える鐘の音を聞き、
その教えと共に深い共感と感銘を覚えてのことであろう。
賢治と中尊寺の結びつきは知らなかっただけに、少し以外でもあった。



 「金色堂」とは参道を挟んだ反対側、本坊の一角にその鐘楼が建っている。
説明によると康永二(1343)年の鋳造で、銘には寺の創建や建武の火災のことが
刻まれていると言う。
この当時は、まだ朝な夕なに鐘はつかれていたのであろうか、今日では撞き座の
摩耗が激しく、撞かれることもないが名鐘として知られている。(続)




JR北海道留萌線・留萌-増毛駅間を廃止。12月4日最終列車の運行を終え、
95年の歴史に幕を閉じました。   関連記事はこちらをクリックして下さい。




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