陪膳(ばいぜん)とは、「禁中で供御を奉じる時、又武家で儀式の時
など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。
膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。
江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。
二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。
貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。
木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。
小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)
にほんブログ村
など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。
膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。
江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。
二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。
貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。
木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。
小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます