簾 満月「バスの助手席」

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陪膳浜(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-19 | Weblog
 陪膳(ばいぜん)とは、「禁中で供御を奉じる時、又武家で儀式の時
など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。



 膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
 「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。



 江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。

 二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。



 貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。



 木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
 この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。



 小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)





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