環境活動家を何百人と逮捕しているエジプトにおいて開催されたCOP27へ口先だけの偽善者たちが何百機ものプライベートジェットを使って到着するなか、ポルトガルでは、元石油大手幹部の経済大臣が、その辞任を要求する数百人の気候変動抗議者によって襲撃された。イギリスのJust Stop Oil運動、アメリカの物流ストライキ、イランのフェミニズム蜂起、ロシアの徴兵忌避、中国のアンチワーク(躺平、摆烂)など、各国で市民的不服従の機運が高まっている。
これらはヌリエル・ルービニが言うところのメガスレット=巨大脅威(人工知能台頭、人口過多、スタグフレーション、通貨暴落、債務危機、金融崩壊、脱グローバル化、新冷戦、気候変動、パンデミックなど)がそれぞれ波及し合って増幅される複合危機=ポリクライシスの現実に対する最後の抵抗に他ならない。代表的なポリクライシス論者のアダム・トゥーズは、世界の金融の不安定性に関する限り、最も重要なパズルのピースは日本だと指摘する。理由は、日本が世界最大の対外債権国であり、過去十年で日銀が禁忌の財政ファイナンスに手を染める世界唯一の財政従属中央銀行へと変貌してしまったからなのだが、この事態を招いた張本人はその結末を見ることもなく暗殺された。
7.8事件の深層が明らかになるにつれ、かの荊軻の故事が脳裏を過り始める。白虹貫日。この成語に因むわけではないらしいが、偶然か必然か、東アジア反日武装戦線は昭和天皇暗殺計画を「虹作戦」と呼称した。(計画は未遂に終わり、天皇のための爆弾は三菱重工爆破に転用された。日本企業が戦後なお帝国主義的侵略を資本主義体制下において続けているという彼らの見立ては、今年になって敵基地攻撃能力のための長射程ミサイル開発を三菱重工が担い始めたことを考慮すれば炯眼だったようにも思える。)
三島由紀夫亡き後の1970年代、大道寺将司らが「虹作戦」を準備する一方、高柳重信は「日本海軍」という標題を掲げて多行形式の俳句作品を発表しはじめる。地名からとられている旧日本海軍の艦名を新しい歌枕と見立ててそれぞれの句に詠みこんだのだ。私は当連載の前回で「多行形式=革新」「一行定形俳句=保守」というような図式化をしたが、ここには意図的な見落としがある。それはつまり、多行形式を創出した高柳重信は、俳句表現においては確かに革新派だったが、彼自身が左翼的だったとは必ずしも言えないということだ。
高柳重信はむしろ戦中派知識人の例に洩れず天皇主義者だった。家族の証言によると、戦前の彼の蔵書には皇国史観に基づく歴史書が数多く並び、敗戦時には米軍の上陸に備えるため、それらの本を壺に入れて土へ埋めたらしい。吉田松陰の教えを毛筆で書き写し、和綴じにして、重信自身の血で誓詞と署名を刻んでいたともいう。また、岩片仁次編集の略年譜によると、重信は敗戦直後、「福寿院本堂にて勤皇文庫『保建大記』『中興鑑言』を筆写、亡国を嘆ず。なお時期不明なるも、 憂国の情を発し『群』にいた小崎均一等とある種の行動を企画したと推定される。それは志においては、 後の三島由紀夫の自刎事件の情と相似たものであった」。
このようなエピソードを知るにつけ、占領下において「敗北の詩」と題する敗北主義俳句論を発表した高柳重信の心理にマゾヒズムを見出すことも難しくはない。戦後、山口誓子がいわゆる戦後青年を批判したことに対して高柳重信は世代論を展開し、自らの心象を「負けのせり上げ」と表現している。
戦後青年と彼が呼ぶ一群は、大きな傷をうけているのである。あの戦争の間に、そして、その終局がもたらした戦後の嵐の中に、いわゆる戦後青年は徹底的に傷ついたのである。戦中戦後を通じて、僕は、そして、僕等は、徹底的に自分の存在が不正であることに苦しんで来たのである。僕は、ここで、日頃から大嫌いな僕等という言葉を使ったが、いまは、それもやむを得ない。僕は、いま、これを根底に於いては無責任な、しかも威圧的な暴力をもっている言葉としてではなく、一人乃至二人の熱烈な共感者のあることを確信して使用する。
僕等は、人を殺しながら、また殺されながら、また、それらを見ながら、徹底的に自分の不正に苦しんで来たのである。その上、毎日、毎日、それに対する自己弁護にも苦しんで来たのである。だが、自己弁護など、到底成立する余地はなかった。自己弁護をすればするほど、自分が見失われてゆくのであった。こうした毎日毎日が、僕等を傷つけ、僕等はいよいよ傷ついて行ったのであった。そこにあったのは、負けのせり上げだけである。
戦後日本人男性とマゾヒズムは多くの研究で結びつけられており、その場合のマゾヒズムとは、占領という過酷で認めがたい状況をどうにか受け入れるため、苦痛を快楽へと転倒させる生存戦略、あるいは、強い罪の意識から、自己を罰してほしいと願う心理として用いられている。
だが、河原梓水「マゾヒズムと戦後のナショナリズム──沼正三『家畜人ヤプー』をめぐって」(坪井秀人編『戦後日本文化再考』2019年)によると、ことはそう単純ではなく、大正後半から末期生まれの「戦中派」知識人にとって戦後とは生き延びてしまった余生であり、そして彼ら(三島由紀夫や、同論中で沼正三と同定されている倉田卓次)のマゾヒズムは、死ぬはずだった者がみる白日夢のようなものであった。その夢のなかで、いまやどこにもない神国日本を訪れること、それが敗戦と占領を経験した知識人のマゾヒズムであり、そしてこのマゾヒズムは、一部のエリート男性たちに共有されていた、近代国家における支配者としての連帯という男同士の権力関係への欲望と表裏一体だったという。
1923年生まれの高柳重信は倉田卓次より一つ下、三島由紀夫よりは二つ上だ。この三人はいずれも東京で生まれ育ち、大学は法学部を卒業しており、戦中派青年のエリート文化圏に属していたという意味で共通点が多い。「マゾヒズムと戦後のナショナリズム」論を高柳重信に敷衍することもできるだろう。
彼が戦後三十年を経て『日本海軍』を書いたのは、「亡国を嘆」じて「憂国の情を発」し、「ある種の行動を企画」した自らの青年期が、三島由紀夫の死によって強く想起されたからであるようにすら見えてくる。
腹割いて
男
花咲く
長門の墓
『日本海軍』は結果的に彼の多行形式による最後の句集となったが、これほどの皇道観を持っていた高柳重信が、『日本海軍』に至るまでの三十年間、その内面を作品に反映させなかったと言えるだろうか。高柳重信の諸作は今一度「皇道マゾヒズム」とでも呼べるような観点から読み直すことも可能ではないか。
連合軍占領下の日本、極東国際軍事裁判(1946年〜1948年)が進み、昭和天皇の戦争責任が問われつつあるなか、1947年には高柳重信が多行形式の俳句作品を初めて発表した。
身をそらす虹の
絶巓
処刑台
ここにも「虹」が現れている。白虹貫日の故事を踏まえるならば、処刑台に据えられているのは裁判で死罪を宣告された天皇ということになるのではないか。飛躍があるかも知れないが、この天皇の姿に聖セバスティアヌスを重ね合わせることもできる。同時期に三島由紀夫は自伝小説『仮面の告白』を書いて1949年に発表、作中特に有名なのは聖セバスティアヌス殉教図のくだりだろう。聖セバスティアヌスに関しては、戦前邦訳されたトーマス・マンの『ヴェニスに死す』でも言及されているため、戦前から外国文学に親しんでいた高柳重信も一般教養の範疇で知っていたと考えられる。虹はrainbowとも言うように世界中の神話で弓に擬えられている。その虹=弓が「貫」くのは、「日」であり血塗られた日章旗であり天孫たる天皇であり「身をそら」して殉教するセバスティアヌスでもあった。そしてここには、弓に貫かれたはずの天皇=殉教者自身が「身をそらす虹」の弓そのものでもあるという自罰的倒錯が見られる。
高柳重信の多行形式は最後の『日本海軍』を待つまでもなく、既にその出発点から皇道マゾヒズムに捧げられていたのだった。
これらはヌリエル・ルービニが言うところのメガスレット=巨大脅威(人工知能台頭、人口過多、スタグフレーション、通貨暴落、債務危機、金融崩壊、脱グローバル化、新冷戦、気候変動、パンデミックなど)がそれぞれ波及し合って増幅される複合危機=ポリクライシスの現実に対する最後の抵抗に他ならない。代表的なポリクライシス論者のアダム・トゥーズは、世界の金融の不安定性に関する限り、最も重要なパズルのピースは日本だと指摘する。理由は、日本が世界最大の対外債権国であり、過去十年で日銀が禁忌の財政ファイナンスに手を染める世界唯一の財政従属中央銀行へと変貌してしまったからなのだが、この事態を招いた張本人はその結末を見ることもなく暗殺された。
7.8事件の深層が明らかになるにつれ、かの荊軻の故事が脳裏を過り始める。白虹貫日。この成語に因むわけではないらしいが、偶然か必然か、東アジア反日武装戦線は昭和天皇暗殺計画を「虹作戦」と呼称した。(計画は未遂に終わり、天皇のための爆弾は三菱重工爆破に転用された。日本企業が戦後なお帝国主義的侵略を資本主義体制下において続けているという彼らの見立ては、今年になって敵基地攻撃能力のための長射程ミサイル開発を三菱重工が担い始めたことを考慮すれば炯眼だったようにも思える。)
三島由紀夫亡き後の1970年代、大道寺将司らが「虹作戦」を準備する一方、高柳重信は「日本海軍」という標題を掲げて多行形式の俳句作品を発表しはじめる。地名からとられている旧日本海軍の艦名を新しい歌枕と見立ててそれぞれの句に詠みこんだのだ。私は当連載の前回で「多行形式=革新」「一行定形俳句=保守」というような図式化をしたが、ここには意図的な見落としがある。それはつまり、多行形式を創出した高柳重信は、俳句表現においては確かに革新派だったが、彼自身が左翼的だったとは必ずしも言えないということだ。
高柳重信はむしろ戦中派知識人の例に洩れず天皇主義者だった。家族の証言によると、戦前の彼の蔵書には皇国史観に基づく歴史書が数多く並び、敗戦時には米軍の上陸に備えるため、それらの本を壺に入れて土へ埋めたらしい。吉田松陰の教えを毛筆で書き写し、和綴じにして、重信自身の血で誓詞と署名を刻んでいたともいう。また、岩片仁次編集の略年譜によると、重信は敗戦直後、「福寿院本堂にて勤皇文庫『保建大記』『中興鑑言』を筆写、亡国を嘆ず。なお時期不明なるも、 憂国の情を発し『群』にいた小崎均一等とある種の行動を企画したと推定される。それは志においては、 後の三島由紀夫の自刎事件の情と相似たものであった」。
このようなエピソードを知るにつけ、占領下において「敗北の詩」と題する敗北主義俳句論を発表した高柳重信の心理にマゾヒズムを見出すことも難しくはない。戦後、山口誓子がいわゆる戦後青年を批判したことに対して高柳重信は世代論を展開し、自らの心象を「負けのせり上げ」と表現している。
戦後青年と彼が呼ぶ一群は、大きな傷をうけているのである。あの戦争の間に、そして、その終局がもたらした戦後の嵐の中に、いわゆる戦後青年は徹底的に傷ついたのである。戦中戦後を通じて、僕は、そして、僕等は、徹底的に自分の存在が不正であることに苦しんで来たのである。僕は、ここで、日頃から大嫌いな僕等という言葉を使ったが、いまは、それもやむを得ない。僕は、いま、これを根底に於いては無責任な、しかも威圧的な暴力をもっている言葉としてではなく、一人乃至二人の熱烈な共感者のあることを確信して使用する。
僕等は、人を殺しながら、また殺されながら、また、それらを見ながら、徹底的に自分の不正に苦しんで来たのである。その上、毎日、毎日、それに対する自己弁護にも苦しんで来たのである。だが、自己弁護など、到底成立する余地はなかった。自己弁護をすればするほど、自分が見失われてゆくのであった。こうした毎日毎日が、僕等を傷つけ、僕等はいよいよ傷ついて行ったのであった。そこにあったのは、負けのせり上げだけである。
(「病人の言葉」高柳重信『バベルの塔』pp.154-155)
戦後日本人男性とマゾヒズムは多くの研究で結びつけられており、その場合のマゾヒズムとは、占領という過酷で認めがたい状況をどうにか受け入れるため、苦痛を快楽へと転倒させる生存戦略、あるいは、強い罪の意識から、自己を罰してほしいと願う心理として用いられている。
だが、河原梓水「マゾヒズムと戦後のナショナリズム──沼正三『家畜人ヤプー』をめぐって」(坪井秀人編『戦後日本文化再考』2019年)によると、ことはそう単純ではなく、大正後半から末期生まれの「戦中派」知識人にとって戦後とは生き延びてしまった余生であり、そして彼ら(三島由紀夫や、同論中で沼正三と同定されている倉田卓次)のマゾヒズムは、死ぬはずだった者がみる白日夢のようなものであった。その夢のなかで、いまやどこにもない神国日本を訪れること、それが敗戦と占領を経験した知識人のマゾヒズムであり、そしてこのマゾヒズムは、一部のエリート男性たちに共有されていた、近代国家における支配者としての連帯という男同士の権力関係への欲望と表裏一体だったという。
1923年生まれの高柳重信は倉田卓次より一つ下、三島由紀夫よりは二つ上だ。この三人はいずれも東京で生まれ育ち、大学は法学部を卒業しており、戦中派青年のエリート文化圏に属していたという意味で共通点が多い。「マゾヒズムと戦後のナショナリズム」論を高柳重信に敷衍することもできるだろう。
彼が戦後三十年を経て『日本海軍』を書いたのは、「亡国を嘆」じて「憂国の情を発」し、「ある種の行動を企画」した自らの青年期が、三島由紀夫の死によって強く想起されたからであるようにすら見えてくる。
腹割いて
男
花咲く
長門の墓
(高柳重信『日本海軍』)
『日本海軍』は結果的に彼の多行形式による最後の句集となったが、これほどの皇道観を持っていた高柳重信が、『日本海軍』に至るまでの三十年間、その内面を作品に反映させなかったと言えるだろうか。高柳重信の諸作は今一度「皇道マゾヒズム」とでも呼べるような観点から読み直すことも可能ではないか。
連合軍占領下の日本、極東国際軍事裁判(1946年〜1948年)が進み、昭和天皇の戦争責任が問われつつあるなか、1947年には高柳重信が多行形式の俳句作品を初めて発表した。
身をそらす虹の
絶巓
処刑台
(高柳重信『蕗子』)
ここにも「虹」が現れている。白虹貫日の故事を踏まえるならば、処刑台に据えられているのは裁判で死罪を宣告された天皇ということになるのではないか。飛躍があるかも知れないが、この天皇の姿に聖セバスティアヌスを重ね合わせることもできる。同時期に三島由紀夫は自伝小説『仮面の告白』を書いて1949年に発表、作中特に有名なのは聖セバスティアヌス殉教図のくだりだろう。聖セバスティアヌスに関しては、戦前邦訳されたトーマス・マンの『ヴェニスに死す』でも言及されているため、戦前から外国文学に親しんでいた高柳重信も一般教養の範疇で知っていたと考えられる。虹はrainbowとも言うように世界中の神話で弓に擬えられている。その虹=弓が「貫」くのは、「日」であり血塗られた日章旗であり天孫たる天皇であり「身をそら」して殉教するセバスティアヌスでもあった。そしてここには、弓に貫かれたはずの天皇=殉教者自身が「身をそらす虹」の弓そのものでもあるという自罰的倒錯が見られる。
高柳重信の多行形式は最後の『日本海軍』を待つまでもなく、既にその出発点から皇道マゾヒズムに捧げられていたのだった。