「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 「クプラス」創刊号について 田村 元

2014年04月29日 | 日記
 2014年3月、俳句雑誌「クプラス」が創刊された。発行人は高山れおな。高山に、山田耕司、上田信治、佐藤文香を加えた四名が編集人を務めており、執筆者に依光陽子、杉山久子、関悦史、阪西敦子、古脇語、谷雄介、野口る理、生駒大祐、福田若之が名を連ねている。

 「クプラス」の表記は、もしかしたら「ku+」が正しいのかもしれないが、雑誌の奥付に「クプラス 第1号」とあったので、本稿ではそれに従った。表紙には「ku+1」とロゴがあり、最後の「1」は「第1号」の意味だろうか。今後、年2回の発行を予定しているとのことだ。

 ページをめくっていくと、イラストや、水着の写真や、漫画のカットが現れるのが普通の俳句雑誌と異なるところだ。見た目は、俳句雑誌というより、ムック本のような親しみやすさがある。表紙の裏側は赤。ページの隙間からはなんだか異様な熱量が伝わってくる。熱い雑誌が出たなぁというのが第一印象である。

 同人誌と総合誌の中間のような位置付けの雑誌だろうか。執筆者が一応固定されているらしいという意味では同人誌的であり、企画や構成、造本のプロっぽさからは、総合誌に近い一冊と言えるかもしれない。

 さて、「クプラス」創刊号の第1特集は「いい俳句。」である。特集の内容は、誌面の評論や座談会、俳人諸氏へのアンケートを読んでいただくことにして、この機会に、私も「いい俳句」について少し考えてみたいと思う。私が思う「いい俳句」がどんなものか、言葉で表すのは難しいのだが、「いい俳句」と私が思う句を読んでいると、短歌や小説などの他のジャンルの文芸では味わえない、独特の感覚が訪れることがある。子どもの頃に読んだ懐かしい絵本の風景が、ふと蘇ってくるような感覚なのである。

 「クプラス」創刊号の中から、私が「いい俳句」だと思う句を読んでみたい。

 秋風の大阪弁に和む日も 依光陽子

 シウマイに透けるももいろ春隣 杉山久子

 投票用紙の書き味に秋澄みにけり 関悦史


 依光作品では、「大阪弁」の人懐っこいイメージと、「秋風」の冷たさが、取り合わせによって混ざり合い、新鮮な空気感を生み出している。杉山作品では、「シウマイに透けるももいろ」というフレーズが、読者の「あ、それ分かる」という回路を経由することで、「春隣」の季節感と親和性を持って結びつけられている。関作品の「投票用紙の書き味」というのは、かなり実感に沿った表現だが、「秋澄む」という季語によって、投票という行為の秘める虚しさ、といった所まで、読者を連れて行ってくれる。

 どの句も、読者は自分の体験と作者(あるいは句の主体)の体験を接続させることで、句の世界に入っていけるのだが、いつの間にか現実とは少し違う世界に迷い込んでいるような感覚に誘われる。

 雨すこし重たくなつて烏瓜 阪西敦子

 水澄めり君なら月見うどんだらう 山田耕司

 死に際にボタン電池と見つめあふ 谷雄介

 迷路ではない浮世の岸の秋だらう 高山れおな

 口の無い月のひかりの枯野かな 上田信治


 阪西作品では、重たい雨の中に灯る「烏瓜」が、存在の覚束なさを物語っている。山田作品は、「君なら月見うどんだらう」という、一見何の根拠もない、やや強引に感じる推量が、「水澄めり」という季語に支えられ、妙な説得力を持ち始めてくるから不思議である。谷作品は、死に際に見つめ合う「ボタン電池」の異物感が、人生の一回性を際立たせている。高山作品は、「迷路ではない」と言ったことが「浮世の岸の秋」の混沌を感じさせるし、上田作品は「口の無い月」によって、返って口のある月の映像が頭から離れなくなる面白さがある。

 産業革命以来の冬の青空だ 福田若之

 あたらしい君がやさしい秋刀魚の夜 佐藤文香

 ぼんやりと見れば野焼の煙とも 生駒大祐


 福田作品の「産業革命以来」という把握のスケールの大きさ、佐藤作品の「あたらしい」「やさしい」のリズムが生む透明感、生駒作品の「野焼の煙」が持つ不確かな存在感。

 どの句も、どこか遠くて懐かしい。

 俳句は他ジャンルの文芸に比べて、より「言葉」なのではないだろうか。「いい俳句」を読んだとき、私の中にやってくる独特の感覚は、どこか言葉に出会い始めた幼少期の記憶に繋がっているように思える。「いい俳句」から私は、言葉への郷愁のようなものを感じているのかもしれない。

俳句評 新宿俳句泥棒日記 カニエ・ナハ

2014年04月29日 | 日記
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいる。
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいて、自由きままに本を読みあさっている。かれは横尾忠則で、かれはまだ青年で、数日前ここで若いうつくしい書店員さんに本を万引きするところを捕えられて、社長室へとつれていかれた。社長室でじっさいの社長さんが社長さんを演じる社長さんに説教ともつかない説教をされた。大島渚の映画『新宿泥棒日記』を見ていたらそんなシーンが出てきて、もう半世紀近く前の映画だけど、あのレンガづくりはそのままで、紀伊國屋書店の社長さんのせりふはたどたどしいけどなんだかものすごく貫禄も説得力もある。ご本人役で映画に出てしまうくらいの社長さんが創業者でもある紀伊國屋書店って、やはりなんかへんな本屋さんである。おなじ建物の一階には化石と鉱物の専門店やらパイプとナイフの専門店やらが入っているし、地下にはおいしいカレー屋さんやらおいしい和食屋さんやらもある(和食屋さんのなまえは珈穂音(カポネ)である)。詩歌のコーナーがやたらに充実していて、へんな本屋さんである(詩歌の本なんて売れないだろうに)。いまどんな俳句が読まれているんだろうと思って、紀伊國屋書店新宿本店をおとずれてみた。榮猿丸さんの『点滅』(ふらんす堂)という句集がPOPつきで平積みにされている。かたわらに無料の冊子がおかれていて、「榮猿丸 句集 点滅 紀伊國屋書店新宿本店フリーペーパー」と表紙にしるされている。

 別れきて鍵投げ捨てぬ躑躅のなか 榮猿丸

 深夜の誰もいない書店はうすぐらくて、はじめわたしは躑躅(つつじ)を髑髏(どくろ)と読みちがえてしまった。髑髏のなかに投げ捨てられた鍵が立てた乾いたツメタイ音を聴いてしまった。しかし、よく見ると躑躅であった。躑躅という漢字はごちゃごちゃしていてここに鍵を投げ捨てたら二度と見つかりそうにない。おまけに虫までいて(右下のあたり)こいつは鍵喰い虫といって躑躅のなかに潜んでいて捨てられた鍵を糧としている。復縁はないだろう。梶井基次郎のせいで桜の樹を見るたびにその下に埋まっている屍体をおもうことになってしまったのとおなじように榮猿丸さんのせいで今後、躑躅を見るたびにそこに投げ捨てられた鍵とそれを喰う虫のことをおもうことになってしまった。

 ビニル傘ビニル失せたり春の浜

 ビニールがビニルになるだけでやたらにニヒルに感じられる、ましてやビニルは失せていて、あとは骨ばかりの春の浜だ。おんなのひとの横顔がちらっと見えて、しまった見つかった、と思ったらPOPのなかの写真だった。鹿もいる。深夜の書店に美女と鹿。それは野口る理さんの句集『しやりり』(ふらんす堂)のPOPで、手書きのPOPに収録句がいくつか書かれている。本はパールの紙がやみのなかでもあやしくかがやく装幀で触れるとたしかにしゃりりという音がする。

 はつなつのめがねはわたくしがはづす 野口る理

 谷崎潤一郎の『盲目物語』はひらがなを効果的につかうことで盲目のくらやみをあらわしているけれど、ひらがなはくらやみのもじで、めがねをはずされて、よくみえない。ふたりでむかえるはじめてのなつかもしれない。よるかもしれない。めがねをはずされて、ここからほんとうのこいがはじまるのかもしれない。

 象死して秋たけなはとなりにけり

 ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』のタイトルの由来にもなっているという故事成語「群盲象を撫ず」は目の見えないひとたちがそれぞれ象の部位に触れて(牙、鼻、脚…)、その感想を語り合う。その象が死んでしまって、私たちはこれからなにをなかだちにして語り合えばいいのか。ぽっかりと巨大な穴のあいた秋だ。鹿の視線のさきには長嶋有さんの句集『春のお辞儀』(ふらんす堂)が二色並んで平積みされている。中身はおなじ。(にしても、どの本もふらんす堂ですね。『泥棒日記』のジャン・ジュネは言うまでもなくフランスの作家・詩人・劇作家・政治活動家そして泥棒。)ぱらぱらとめくってみる。

 押せば出るフロッピーディスク出さぬ春 長嶋有

 フロッピーディスクという言葉のなつかしい響きに立ち止まる。そのとなりには、

 薫風や助手席にいてチューバッカ

 という句があり、フロッピーディスクとチューバッカ。なつかしい響きがひびきあって、はるか昔、とおい銀河の未来だった。森山大道さんの著書のタイトルにあるように『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』。フロッピーディスクの句はよくわからないのだけど、ワープロ(だと思う、パソコンじゃなくて。たぶん)がお役御免になったことを言っているのか、書きかけの文書(原稿かあるいは手紙かもしれない)が行き詰ったままなのか。いずれにせよ、ワードプロセッサーは消えたけどフードプロセッサーは生き残った。にもかかわらず、フープロがワープロほど略語として定着していないのはなぜなのか。チューバッカの句は薫風に吹かれる助手席(オープンカーかな)で接吻ばかりしていることをチューバッカにかこつけてノロケているのかと思ったが、「しおり」にチューバッカの註が載っていて「キスばっかりしている人ではありません。」と釘をさされてしまった。あるいは優秀な機械工であるチューバッカならば壊れたワードプロセッサーを直してくれるかもしれない。(ちなみにチューバッカって、映画『スターウォーズ』に出てくる、ハリソン・フォードの相方の、毛むくじゃらのことね。そのモデルといわれているヨークシャーテリアのことをこの句では言っているのかも。なにせ「サイドカーに犬」の作者だものね。)