素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

山田洋次監督へのインタビュー

2023年02月12日 | 日記
 朝、テレビのスイッチを入れると山田洋次監督がインタビューに答えている映像が飛び込んで来た。ずい分お年を召されたなと思った。91歳になられたのこと。昭和6(1931)年生まれだから大阪市にいる妻方の叔母と同じである。

 満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした。小学校1年~3年生のときに落語に熱中し、あるときジフテリアを患い明日の命も危ぶまれた際、憐れんだ父親から何でも好きな物を買ってもらえることになり、古本屋の落語全集を買ってもらったという。

  戦中の1943年、東京都立第八中学校に入学するが、その年の5月、空襲を避け、満洲国の旧制大連第一中学校へ移る。1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。この時期父が無職になったため生活を支えるためいろいろな仕事をしたという。ちくわを仕入れて売り歩くということをしている時、ちくわがたくさん売れ残り途方に暮れている中で、おでん屋に持って行けば?と思いつき「ちくわ買ってもらえませんか?」と店に入ったら、そこのおかみさんが山田少年の事情を尋ねた後、「そこへ全部置いておき。そしてこれから売れ残ったらおばさんの店に持っておいで全部引き取ってあげるから」と言ってくれた。名前も知らないこのマドンナとの出会いは山田さんの心に深く刻まれた。

 山田さんは、引き揚げ体験とこの行商体験が自分の原点で、映画をつくる上でもそこから離れることができない。それが自分の限界なのかなと思うが仕方がない。と述懐する。

 インタビューの最後に「山田さんにとって しあわせってなんですか?」という質問があった。答えるのに難しい問いである。少し間を置いて

「生まれてきて良かったなって思うことに生きている中で何度か出会うことがある。それを積み重ねていくことかな」という主旨のことを静かに語られた。

 男はつらいよ・第39作の中で、寅さんに語らせているシーンがあった。

 満男「伯父さん、人間てさ、人間は何のために生きてんのかな?」
  寅「難しいこと聞くなぁ・・・何というかな・・・あぁ、生まれて来てよかったなって思うことが何べんかあるんじゃない。
      そのために人間生きてじゃねえか」
 満男「ふ~ん」
  寅「そのうち、お前にもそう言う時が来るよな・・・まぁがんばれ」


 山田さんを始め、昭和のヒトケタ世代は、十代前後の時に大きな戦争体験をくぐり抜けている。そのことが心の奥底に流れているように感じる。五木寛之さんの話の中にも強く感じる。昭和3年生まれの私の叔母がある時、ふと「私は軍国少女やった」とつぶやいたたことがあった。同じようなつぶやきを昭和8年生まれの知人からも聞いたことがある。小学校の担任の先生に気に入られようと戦争を美化、戦意を発揚する発言を積極的にしていたことが苦々しい記憶として未だに残っているとのこと。

 そういう方々が90歳を越えつつある。今だから話せることに耳を傾けていかねばと思った。
    
               
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