素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

幻の甲子園

2010年08月15日 | 日記
 志摩の磯部町には2軒の本屋があったが、その中の大きな方の店が鵜方の方へ移転したため本を入手するのが困難になった。父は週刊朝日と文藝春秋は長く定期購読していて、それらは残っている1軒の本屋に届けてもらっている。そこに新刊書などをたのむと2週間以上日数がかかる。基本的に本は「読みたい!」と思った時が旬の時。できるだけ早く手にしたいものである。

 数年前、そのようなことをこぼしていた父に、アマゾンを利用して本を注文し、送ってあげた。2~3日で自宅に届くことに驚きと喜びがあったみたいで、以来欲しい本があるとFAXで私に連絡してくるようになった。7月末にも『増山修水彩画集~ガッシュで描いた日本の原風景~』頼まれた。どうせ盆の時帰るので、ついでに私の本とCDも一緒に注文して送ってもらうことにした。

 8月7日にNHKで放送された『戦時下の球児たち・幻の甲子園』の原作である。放送の日は同窓会で見ることはできないとわかっていたし、録画は好きでないので本を読もうと決めていた。私が帰郷する1週間前に届いた増山さんの画集と一緒に入っていた早坂隆さんの『昭和17年の夏・幻の甲子園・戦時下の球児たち』にも興味をひかれたらしく、「3日で読んだ。」と12日に帰ったら、すぐに話題になった。

 大正13年(1924)生まれの父にとって、戦争には特別な思いを持ち続けているみたいで、関連する本はずっと読み続けている。ただ、家族の者にはほとんど語ったことはなかった。昭和17年(1942)の夏は18歳で、師範学校に在学していた。翌年学徒出陣となるのだが、ちょうどこの本で取り上げられている大会とダブルところがあったという。

 今、熱戦がくり広げられている夏の高校野球の前身である中等野球の全国大会(=全国中等学校優勝野球大会)は大正4年(1915)に大阪の豊中グラウンドで第一回大会がひらかれた。大正13年(1924)の春からは選抜大会も始まった。主催していた夏の大阪朝日新聞社と春の大阪毎日新聞社の紙面で試合の動向が大きく報道されたことやラジオでの実況放っていったが送(昭和2年開始)のおかげで全国に定着し、年々盛り上がっていった。

 しかし、戦況が逼迫するにつれ開催が危ぶまれるようになった。昭和15年(1940)夏の甲子園大会は文部省の後援という形で『全日本中等学校体育競技総力大会』の一部門として行なわれた。昭和16年の春の選抜大会は例年通り開催されたが、夏の大会は7月に入ってから突然中止と決まった。昭和17年(1942)には春の選抜大会も中止になった。こうした状況下で、全国の野球部の中には、休部や廃部となるところが増えた一方で、近いうちに自らが応召、出征することを覚悟しつつ、わずかに残された時間を好きな野球の練習にに没頭した球児もいた。

 昭和17年の6月に、ミッドウェー海戦で、日本海軍が大敗し、日本が敗戦へと向かう第一歩を踏み出した頃、状況が大きく変わるのである。6月24日、文部省が全国の都道府県庁に対し、甲子園大会の開催を知らせる通達を出したのである。ただ、この大会の主催は大阪朝日新聞社ではなく、文部省とその外郭団体である“大日本学徒体育振興会”であった。大会名称も『大日本学徒体育振興大会』となり、中等野球も一つの競技という位置づけであった。中等野球から高校野球に至る長い歴史の中で、この昭和17年の大会だけが“国”による主催で、正式名称は「第二十八回大会」ではなく、「第一回全国中等学校体育大会野球大会」となっていて、朝日新聞社の記録も「昭和16年~20年戦争で中止」となっている。昭和17年の大会が「幻の甲子園」と呼ばれる所以である。

 体育振興大会の開会式が8月22日に奈良・橿原神宮の外苑運動場であり、中等野球球児たちは他の9つの競技参加者たちとともに開会式に臨んだ。私の父も、“戦場運動”という新種目の射撃の選手(当時は選士と呼んだ)として開会式に参加した記憶があるという話であった。

 偶然ではあったが、1冊の本から父の青春時代の1コマを垣間見ることができた夏であった。
コメント
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