某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

命の恩人

2012-03-10 23:50:44 | ぼやき
 別のところに書いたことがあるので気が引けるが、私が今生きていられるのは名も知らぬ二人のお方のお陰なのだ。そのことを機会があるたびにお礼申し上げたい。
ロンドン大学の寮のリリアン・ペンゾン・ホールというところの6階に、私は入居していた。入居に際して近所の開業医に登録することになっていたので、一番近い医者に登録した。米屋の登録みたいなものだな、と思った。当時日本では近所の米屋に登録しないと、そこに住んでいると認められなかったから。
 ある日、どうにも腹が痛くてたまらず、図書館から早めに帰ってきて、登録済の医者に行った。7時頃だったろうか。ところが、時間外だから明日こい、の一点張り。「あんたがいるじゃないか」と言ったが駄目。仕方なしに寮に帰ったが、夜中まで痛くてどうにもならない。先程行った医者に電話して往診を頼んだが酔っ払っていて話にならない。散々苦労した後、やっと気がついて寮の受付に救急車を頼んだ。ポーターのおじさんは、早速私の登録してあった医者に救急車の手配を頼んだ。ところがさっぱりラチがあかない。すると、おじさん、凄まじい語気で何か怒鳴った。私には何だか全然聞きとれなかった。ところが、ポーターの彼は「医者が来るから部屋で待ってろ」という。半信半疑で部屋に帰り待っていたら、間もなく本当に医者が来た。でも全く酔っ払っていて駄目。「お前の名前は?」」とそればかり繰り返す。嫌になった。
 そんな押し問答の途中に、下で車の警笛が凄く鳴った。酔っ払い医者は「俺の車だ」と訳の分らぬことを言って出て行ってしまった。「もう駄目だ、こんなところで死ぬのか」と悔しがっていたら、凄く長い(と思えた)時間の後、くだんの医者が真っ青な顔をして戻ってきた。口の端から赤い血が一筋垂れていて、ぎょっとした。「こいつドラキュラか」と.
 ところが医者は、「お前の名は」とまた聞く。またか、と思いながら素直に返事すると、簡単に診察して、「盲腸だ、救急車を手配するから用意して待っていなさい」と全く適切。狐につままれた、とは此の事。でも安心は出来ないので、絵ハガキの右半分に「これから盲腸の手術を受ける、後は終わってから」と書いて、宛名に家内の住所を書き、切手を張った。今からみれば余計な怖がりかただが、あのときは悲痛だった。最後の手紙になるかもしれない、と思ったのだ。
 朝四時頃病院で手術。医者は「日本人の盲腸を始めてみる」と喜んでいた。全身麻酔。「ミスター・ウエノ」とほっぺたを叩かれた。「イェス」「ハウ・ドゥウ・ユー・スペル・イット」「ユー・イー・エヌ・オウ」。此処まで言って目が覚めた。枕元の時計は丁度9時だった。
麻酔で眠っていたのに、この問答は今でも鮮明に記憶している。良く返事出来たものだ。中学一年生の英語が命を救った。
 医者を怒鳴りつけて私を救ってくれたポーターのおじさんにお礼を言いたくて、数年後ロンドンに行った際寮を訪れた。残念なことに、彼は既に亡くなっていた。まだそれほどの歳ではなかったろうに。
 酔っ払い医者を覚醒させたのは、タクシーの運転手だった。医者が車を道に放置したのでタクシーが怒り、降りてきた医者を殴りつけたのだという。その後寮監夫人と酒を飲んでいて、医者がいきなりドラキュラに変身した話をしたら、彼女が「そのタクシーの運転手が貴方の命の恩人ね」としみじみ言った。その時の夫人の情感あふれる言葉と仕草が今でも目に浮かぶ。美人だったなぁ。
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続ロンドンの音楽会

2012-03-10 02:00:51 | ぼやき
 フェスティバル・ホールに良く行く、という話が大学の友人たち(LSEというところなので旧英領植民地からの留学生が多く、友人にはインド、マレー、シンガポール、セイロン、パキスタン、中国系など様々だった。ギリシャの美人もいた)にいつの間にか知れ渡った。クリスマス近くなった頃、こうした連中が、音楽会に行きたいと言い出した。それなら、と「初心者用」にチャイコフスキーのバレー「くるみ割り人形」に連れて行った。舞台から数列離れた良い席をまとめて買ったつもりだったが、行ってみると一番前の席。いつもならオーケストラが陣取る舞台でバレーをやるため、前の席が数列取り払われ、そこでオーケストラが演奏した。
 休憩になるまでは一番前に我慢して座っていた。しかし、数列後ろの席が一列そっくり空いていたので、休憩のときに、ドア・マンの紳士に「あそこに移ってよいか」と聞いた。ドア・マン氏は「私が良いとは言えない」と言いながらウインクした。やった!と喜んで我々10人ばかりは一斉にそこに移動した。やがてオーケストラの人々が戻ってきたのだが、バイオリンの若い楽団員がいきなり私たちの方におっかない顔をしてやってきた。ありゃ、席を変えたので叱られるか、と皆ドキドキした。ところが彼はバイオリンの代わりに傘を持っていた。ギリシャ美人が元の席に忘れてきた傘だった。彼女に傘を渡すと彼は澄ましてもどっていった。演奏中彼は目の前にいるギリシャ美人ばかり気にしていたのだろう。指揮者など見もしなかったのだろう、良く演奏出来たものだ、とあと後まで笑い話になった。
 中国人は、バレーの中の「中国人の踊り」に腹を立てていた。何故中国人をあんな道化にするんだ、と。
 開幕のシーンは印象的だった。舞台が紗の透けた幕で奥と手前に分けられてあり、奥では裕福な一家が暖かい部屋の中でクリスマスのごちそうを食べている。手前は道路で、惨めな女の子がマッチをすって少しでも温まろうとするがすぐ駄目になる。「くるみ割り人形」を「マッチ売りの少女」で始めていた。なるほど、と感心した。日本ではどんな演出をしているのだろうか。
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出た!2002点!申し訳ない。またまた吹矢自慢

2012-03-10 00:42:07 | スポーツ吹矢の練習
 今日久しぶりに銀座の吹矢練習場に行った。まず、協会が新しく売り出した極上の矢を求め、調節して使ってみた。10㍍6ラウンドで、なんと2002点!(31,33,33,35,35,35).いや驚いた。今までの最高得点は今年の1月16日に出した200点で、その前の最高得点は昨年2月3日の198点。前にも書いたが2点上げるのに11カ月もかかっている。それが、まず不可能だと思っていた200点を越える記録を1カ月半で出した。実力ではあるまい。新しく開発された矢の威力だろう。「弘法ほど筆を選ぶ」と言うが本当だ。日本スポーツ協会が出来て14年、創立メンバーの先生方は、筒がゆがんだり、矢がよれよれになったりしてあらぬ方に飛んでゆくのを抑え抑えして練習されたことだろう。だんだんに筒はゆがまなくなり、矢もバランスが良くなって、今のように的に当たりやすくなったのだろうと思う。私は良い時に始めた。
 4月にまた試験を受ける。試験会場は今日2002点を出した練習場だから幸先がいい。会場に馴れているかどうかでえらく違う。40肩でまだ右手をきちんと上げられないから、基本動作がしっかりできない。あと一カ月、なんとかして直さなきゃ。
 
コメント (2)
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