某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

メーデー事件60年。

2012-03-13 16:10:26 | ぼやき
 あれからもう60年になるのだ。 
 1952年5月1日。学友約百人と一緒にメーデーに参加した。何故か私が旗持ちで、大学の大きな旗を捧げ持ってデモした。会場から日比谷公園まで行進した。いつの間にか私たちが一番先頭になっていた。素人の悲しさで、どんなことが次に待っているか、全然何も知らなかったのだ。皇居前広場は集会禁止にされていたので、「広場に行こう」「人民広場奪回」と、横断歩道を渡った。お巡りさんが少しいてちょっと「阻止」されたが、たいしたこともなく広場に入り突きあたりのお堀まで行った。一番乗りだ、と旗を振って気勢を上げていた。何故か皆宮城の方を向いていて、中には最敬礼する奴もいた。まだ戦時中の習慣が抜けきらなかったのだろう。次第に学生や労組が到着し、次には何をするのかな、と少々待ちくたびれていた。「バイトに遅れるから」と何人かは帰って行った。すると、後ろからいきなりドドーッと群衆が押し寄せてきた。バチバチ叩く音と右往左往する人の動きで、何か騒ぎが起こったと知った。次の瞬間、何かが飛んできて、友人が殴られた。後はもう訳が分からない。ただ必死に逃げた。棍棒で頭を殴られ、眼鏡を叩き落とされたが、やっと「味方」の中に飛び込んだ。大学の旗のことなどすっかり忘れていた(今でも、あれをどうしたかは思い出せない。)警官隊とわれわれデモ隊員がかなり間を明けて対峙した。催涙弾が飛んでくる。ガスが目に染みるので拾っては投げ、拾っては投げを繰り返す。熱くて手のひらをやけどした。警官たちが棍棒を振り上げて突進してくる。一目散に逃げる。何人もの友人がけがをした。近所の病院に担ぎ込み手当をしてもらう。どこの病院も混雑していた。
 車をひっくり返す人々もいたようだが、私たちは東京駅前に集結し「寮付近には警官が見張っているだろうから帰るな、分散して友人のところに泊めてもらえ」と言い渡して解散した。
 私は水野の家に泊めてもらった。お母さんが「ご苦労さま」と言ったので良い気になり、風呂で泥を落とし、お酒を頂いて、二人で自慢たらたら「武勇伝」を語り合っていた。いつの間にか水野の兄さんが部屋にいた。彼は大先輩で興銀のエリート社員だった。いきなり雷が落ちた。「いつまでいい気になっているんだ。赤穂義士の討ち入りじゃないんだぞ」「いいように利用されて、まだ分からないのか」と。恥ずかしくなり、シュンとして寝てしまった。法政大の近藤さんという人が警官のピストルに撃たれて死亡した、と後で知った。
 翌日から、先輩が何人も逮捕された。一説には、病院の名簿に本名と住所を書いたため手配されたという。本当かうそかはしらない。しかし、友人たちは後で保険を使うために皆本名を書いた。これも素人の悲しさだろう。そうした「素人」たちは誰も逮捕されなかった。やはり、前から目を付けられていた人々が狙われたのだろう。
コメント (1)
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