某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

対抗びんた

2011-07-31 12:48:38 | ぼやき
 80歳を記念して、双葉中学(高校)の同級生で文集を作った。『傘寿を迎えて』。この三月に出来たばかりの本を皆に郵送しようとした矢先、あの東日本大震災。双葉近辺にいる多数の同級生たちの避難先が分からなくなって、郵送不能。分かり次第送ってもらっているが、まだ世話役の会社に沢山積んである。
 みな記憶が確かで、戦中戦後の中学生生活の思い出がよく書かれている。中に「対抗びんた」の話もあった。私にもあれは苦い思い出として残っている。昭和十九年のある日。私どもが2年生の時の放課後、いきなり3年生が「2年はみな校庭に出ろ」と怒鳴りまくった。2列に向かい合わせに並ばされ「前の奴を思い切りなぐれ」という。前にいたのは同じ町(富岡)の太田平八。わけがわからず、そーっとお互いのほっぺたをなでていると、3年生が寄ってきて「何だそれは、こうやるんだ」と太田をめちゃくちゃに殴りつけた。「二人でこうやれ」と威張ってどこかに行った。また、二人でほっぺたをなでていたが、もう見つからずに済んだ。
 何が原因か見当もつかなかったが、すぐ分かった。便所の大の方に落書きがあって、「復讐」と書いてあったそうだ。「一年はまだこんな字は習っていない。2年が3年を恨んで復讐すると書いたのだ」と3年の馬鹿どもが解釈した。だか、人数が多すぎて3年が2年を皆なぐることは出来ない(下級生いじめに加担する3年生はそんなに多くないから。)それで、当時軍隊で流行していた「対抗びんた」をやらせたという。
 当時双葉中学では、4年生5年生は日立の方の工場に動員されていて、工場の寮に泊まっていた。3年生は登校するが授業はなく、雨天体操場を改造した学校工場で旋盤をまわしていた。勉強するのは2年生と1年生だけ。3年生には、勉強ばかりしている下級生が腹立たしかったのだろう。何かと口実を作っては2年生をいじめにかかった。
 対抗びんたの時、空は青く晴れていて、すぐ近くの飛行場から練習機(赤とんぼとよばれるチョット赤い色の複葉機)が飛び立ち、のんびり飛んでいた。特攻隊の訓練だといわれていた。敵の艦載機P51などが空襲にくると飛ばない。子供が見ても性能の違いは歴然としていた。敵がいなくなると飛びはじめる。「あんなに遅くて軍艦に突っ込めるのかな、射ち落されそう」と見当違いの心配をした。
 戦後、あの飛行場(磐城飛行場)の跡地に原子力発電所が出来た。今は放射能汚染で双葉高校の生徒たちはあちこちの高校に分散している。甲子園に三回も出場した福島の野球名門校県立双葉高校は、多分、もうなくなるのだろう。戦争が負けた時は、生き残った特攻隊員に校舎をぶっ壊され、今は放射能にぶっ壊されて、学校の存続すら危くなっている。校歌は土井晩翠作詞・信時潔作曲で、歌詞も曲も良いものだ。甲子園で勝って校歌が放送されると、高校の事務所に必ず問い合わせの電話が沢山かかってくるという。「良い歌ですね、楽譜をいただけませんか」と。あの歌を歌うのは、もう卒業生だけになるのだろうか。
コメント
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