前回(→こちら)の続き。
リー将軍銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだったが、この件で
「自分はレイシスト」
と主張したり、KKKやナチス、白人至上主義者を擁護する人、それも日本人がいる(だって彼らに対して「差別される側」なのに)というのが不思議だ。
理由としてまず、差別意識はだれの心の中にもあるけど、それを垂れ流しにすることに私は興味がないし、みっともないという倫理的な観点があるわけだが、もうひとつは「危機回避」の問題。
よく、イジメ問題のとき、なぜか
「いじめられる方にも問題がある」
みたいな意見が出てくるけど、こういう人は、
「自分がいじめられる側」
に立たされた時、どうするんだろうと、いつも気になる。
だって、
「いじめられてもしょうがない」
「被害者にも責任がある」
って人を攻撃したら、自分が同じ理論で攻められたとき、反撃したり正当性を主張する「道義的権利」を失ってしまうのだから。
強盗が強盗にあっても、
「おまえが言うな」
「自業自得では?」
って終わらされる可能性が高くなる。
それを、「助けてくれ」とか「オレにも裁判を受けさせろ」というのは、間違ってはないけど「虫がいい」とは思われる。心証はよくない。
これは断言してもいいけど、だれかを
「いじめられてもしょうがないヤツ」
「相手の方にも責任がある」
と理不尽に攻撃した人が、立場逆転したときに、
「自分もそうやって攻撃したのだから、当然むこうのいうことを受け入れるべきだな。たしかに、こっちにも責任があるとしなければならない。だからいじめられても、文句は言いません」
っていうこと、まずないはず。
他にも、女性差別をする人の中に(ちなみに私は男です)「女は男より頭が悪い」って言う人もいるんだけど、もし科学的精査によって、
「調べてみたら、男の脳は女よりも機能がおとっている」
って結果が出たら(なぜみんな、この事態についてもっと想像力と危機感を働かせないのだろう? ありえるでしょ全然)どうするのだろう。
「男は女より頭が悪かったか。じゃあ、これからは女尊男卑でいくことにしよう」
とか、絶対言わないだろう(というか、そんな人はもともと差別なんかしないだろうけど)。
でも、そういうのって「フェアじゃない」気がするのだ。
私は決して、できた人間ではない。だから、
「理由はないけどムカつくヤツ」
「いじめられても、しょうがないという気持ちを誘発させる人」
がいることは否定しきれない。
でも、だからってやらないほうがいいと思うのだ。
モラルとして当然として、それにもしかしたら自分も、だれかにそう思われてるかもしれないわけで、そこを考慮に入れたら今度はリスクが高いからする気も起らない。
もう一度言うけど、私は差別主義にはくみしない。
ひとつはそういうのは、「みっともない」(時として犯罪のこともある)し興味もないから。もうひとつは「リスクヘッジ」として。
理不尽な暴力から身を守るために、他人に理不尽な暴力をふるって言質を取られるようなことはしない。
うーん、なんか当たり前のこと言ってるだけの気もするけど、まあそう。
それとも、みんなそんなに「攻撃側チーム」にずっといられると確信しているんだろうか。
いや、逆かも。そうカン違いしてる人も多いかもしれないけど、
「いつ自分が被害者になるか」
にビクビクしてるから、過剰な反応になってる人もいるのかもしれない。
「受け身に立たされた自分」を、そもそも想像したくない。
だから、それを打ち消すために、論理や倫理よりも「声のデカさ」「嘲笑」を持ち出して、必要以上に「攻撃側」をアピールする。
白人である著者が肌を黒く塗って、自らが「差別される側」に立った経験をレポートしたジョン・ハワード グリフィン著『私のように黒い夜』によると、白人による黒人リンチ事件の発端の多くが、
「これまでしいたげてきた黒人が暴動を起こして、復讐しにやってくる」
という白人側の「罪悪感からくる被害妄想」が転じて「先手必勝」と襲いかかることだという。
どこかで……というか、どこででも聞く話だ。
だったら「そもそも最初から攻撃しない」ことこそ、本当はベターな選択じゃないのかなあ、と。
まあ、このあたりは「趣味」の問題だから(思想関係のことは「正しい」「間違い」などなく、「しょせんは好き嫌い」と解釈している)、他人の私が理屈こねても、しょうがないかもしれないけど。
……て、なんか前置きが無駄に長くなっちゃったけど、今日オススメしたい映画は、アメリカ南部つながりで、
『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』
「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」という番組で紹介していたものだが、内容については次回に。
(続く→こちら)