このドイツ文学がすごい! E・T・A・ホフマン『黄金の壺』

2018年03月26日 | 

 第二外国語の選択はむずかしい。

 というテーマでここ少し前に語ったことがあったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」だった。

 なぜにて、そんな因果な羽目におちいったのかといえば、これはもう10代のころ「ドイツ文学」に目覚めてしまったからに他ならない。

 前回はゲーテの『ヘルマンとドロテーア』を紹介したが(→こちら)、今回も、ただでさえ足を踏みはずしがちだった私の人生を、完全にレールの外に追いやってしまった、罪深くもすばらしい本の数々を紹介したい。

 E・T・A・ホフマン『黄金の壺』。

 主人公アンゼルムスは、エルベ川のほとりで見かけた美しいゼルペンティーナに一目ぼれする。
 
 この道ならぬ恋に、周囲は大混乱

 アンゼルムスに思いを寄せるヴェロニカが、彼を振り向かせるべく、あれこれ画策したり。

 ゼルペンティーナの父リントホルストが、追放された霊界に戻るため、娘とアンゼルムスをくっつけようと奔走するなどして、話がややこしくなってくる。

 そこに、ゼルペンティーナの持つ「黄金の壺」をねらう謎の占い師がからんできて、恋はもつれ、アンゼルムスはガラス瓶に閉じこめられ、ついにはリントホルストと占いの老婆が、恋路と壺をめぐって壮絶な魔法バトルに突入し……。

 『砂男』『クレスペル顧問官』『くるみ割り人形とねずみの王様』などでも知られる、ホフマンの代表作といえる幻想文学。ドイツロマン派の雰囲気バリバリ。

 一言でいえば「人外萌えの原型」

 10代のころ読んで、ロマンチストである青年と美しいのロマンスという絵が、あまりにも甘美でシビれたものだ。

 すごい発想やなあと。蛇と恋って、キリスト教的観点から見ても、意味深だし。

 よくアイドルや、美少女フィギュアを好む男子を見て、



 「あんなもん、作り物の幻想だろ」

 「現実の女に相手にされない負け犬



 なんてことを言う人もいるけど、特にそれらを好むわけでない私なのに、そうした「良識的意見」にいまひとつ賛成しかねるのは、たぶんホフマン影響

 人は蛇とだって恋できるのだ。

 だったら、「生身の異性」しか愛せないというのは、逆にむしろ狭量な愛の幅しか持ち合わせていないという解釈だって、成り立つのでは?

 いろんな愛があって、いいじゃんねえ。

 いや、実際ホフマンにしろ、こないだ紹介したフーケーにしろ、今の日本に生まれていたら、アニメの二次元美少女に惚れてた可能性あるよ。

 だって「ロマン派」ですから。

 「恋人を宮廷顧問官にして、そのうえで結婚して玉の輿に乗ろうとする」

 みたいな女には目もくれず、「人でなし」に走るんだから、そらもうガチです。

 昔なら『ちょびっツ』とか、HMX―マルチとかに絶対ハマってたはず。

 イヤだったんだろうなあ、「現実」的な女が。ギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』読んだら、アワ吹いて死ぬかも。

 でもそんな「生身の女めんどくさい音頭」を、こんなウットリするような美しい物語に昇華さしめるのが、さすがの作家魂。

 嗚呼、才能って素晴らしい。

 ただ個人的には、「恋敵」であるヴェロニカが、なんとなく憎めないんだよね。

 岩波文庫版のあとがきでもあるけど、アンゼルムスがダメとわかったとたん、すぐ切り替えて、別の男にとっとと乗り換える。

 でもって、そいつをささっと宮廷顧問官に仕立て上げ、自分はそこの奥さんに収まるとか、そのちゃっかりしたところが、いっそほほえましいではないか。

 ホフマン先生、美しい蛇もいいけど、現実的女子も悪くないよ! って、そりゃ単に、私に気が多いだけか。

 ポー乱歩先生、ブラッドベリミルハウザーなんかにも通じる作風かもしれない。

 萩尾望都先生とかに、マンガにしてもらえんだろうか。『イグアナの娘』の視点替えたような話だし。

 
 (ハイネ編に続く→こちら



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