私は、今は、「菊池のぶひろの4年間の議会活動の記録」という冊子をもって、挨拶回りをしています。今日、富谷では、徳田球一や川上貫一と出会ったことがあるという方と遭遇し、「あんたなんかはまだ若造だから、もっとがんばなければと」と励まされました。
徳田球一というのは、1950年代にレッドパージされた日本共産党の幹部です。あの当時は、ソ連の共産党の影響もあり、「自主独立路線」を確率しない時代でもありましたから、その評価は難しいところがあります。しかし、その86歳になる女性は、栃木県の真岡市で、10代のときに、徳田球一さんの演説を聴いたというのです。話は上手でかっこよかったというのです。いまでもちゃんと覚えているといいます。「ヤッパリ、議会に共産党は必要よ」と励まされました。
もう一人は、大阪にいた時代、共産党の衆議院議員・川上貫一さんの宣伝カーに乗って、アナウンサーをしたというのです。川上貫一議員は、1951年の単独講和で、反対演説をした議員として有名です。旧大阪2区では6期当選しています。あの時代、アナウンサーをしていたというのですから、筋金入りです。この方からは、「体に気をつけてがんばって」と励まされました。
いろいろな出会いがあるのは、楽しいことです。
徳田球一というのは、1950年代にレッドパージされた日本共産党の幹部です。あの当時は、ソ連の共産党の影響もあり、「自主独立路線」を確率しない時代でもありましたから、その評価は難しいところがあります。しかし、その86歳になる女性は、栃木県の真岡市で、10代のときに、徳田球一さんの演説を聴いたというのです。話は上手でかっこよかったというのです。いまでもちゃんと覚えているといいます。「ヤッパリ、議会に共産党は必要よ」と励まされました。
もう一人は、大阪にいた時代、共産党の衆議院議員・川上貫一さんの宣伝カーに乗って、アナウンサーをしたというのです。川上貫一議員は、1951年の単独講和で、反対演説をした議員として有名です。旧大阪2区では6期当選しています。あの時代、アナウンサーをしていたというのですから、筋金入りです。この方からは、「体に気をつけてがんばって」と励まされました。
いろいろな出会いがあるのは、楽しいことです。