菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

真壁町五町内、田地区で20ヵ所街頭演説

2022年01月30日 20時48分15秒 | 議員活動
 昨日は、午後から寒くなったので、今日はカイロを背中につけて、10時過ぎ、家を出発した。



 昨日の続きということで、高上町の市営駐車場前から出発。高上町で2ヵ所、仲町で2ヵ所、新宿で1ヵ所、古城で1ヵ所、上宿で2ヵ所、下宿で2ヵ所、飯塚で3ヵ所と午前中だけで13ヵ所演説し、今日は山尾の「そば処にしむら」へ。にしむらのオヤジさんから、「もう選挙運動かい?」。私は「そうですよ」と答えて、「4年間の活動記録」を手渡しました。
 「にしむら」の北側は、上曽トンネルの入り口にあたります。工事もかなり進んでいたので、写真を撮ってきました。









午後は2時から、真壁町田の鍋屋にいき、旧真壁小学校を一周する形で7ヵ所演説し、計20ヵ所になったので、帰途につきました。
 20ヵ所の演説も、かなり疲れます。

 夕方、フジイ薬局に、血糖値の測定を兼ねて、糖尿病のクスリをもらいに出かけました。
 そこで聞いた話ですが、今日は、日曜のためもあり、無料のPCR検査を受けに来た人数は20人になったとのことでした。


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前川喜平氏が語る「瀨長亀次郎」

2022年01月30日 09時17分03秒 | 日々の雑感
 今日の東京新聞・本音のコラム欄は、前川喜平氏が、日本共産党の副委員長でもあった瀬長亀次郎について書いている。
 今年は、沖縄が日本に復帰してからちょうど50年になる。それまで、沖縄は米軍の基地の島であり、アメリカの「統治下」といってもいいほどであった。
 私は、笠間高校の修学旅行で沖縄の地を踏んだことがある。そこで、復帰以前の話を、タクシーの運転手から聞いたことがある。
 日本本土は、自動車は左側通行であったが、復帰以前は、沖縄はアメリカと同じ右側通行であった。復帰に伴って、左側通行に変えるときの混乱ぶりを、タクシーの運転手から生の声を聞いた。右側通行を左側通行に変えるとき、一番上手に「順応した」のは、運転の専門家ではなく、素人の人であった。タクシーやバスの運転手は、いつもの習慣が仇となり、多くの事故が発生したとの話を、直にきくことができた。
 当然、沖縄には日本共産党は存在しなかった。沖縄で共産党と同じ役割を果たしていたのは人民党という地域政党であった。その時の中心となっていた人が、瀬長亀次郎であった。沖縄復帰に伴って、人民党は日本共産党と合流しました。そして、瀬長亀次郎は、日本共産党の副委員長に選出されたのです。

 命どぅ宝
 劇団文化座の「命どぅ宝」は、1950年代から沖縄返還に至る時期の瀬長亀次郎と阿波根昌鴻の闘いをを描く芝居だ。
 瀬長は沖縄人民党を結成し52年の第一回立法議員選挙で当選。琉球政府創立式典では米国への宣誓を拒否する。米軍統治と真正面から批判した瀬長は投獄されるが、出獄後の56年には那覇市長に選ばれる。米国民政府は財政圧迫を加えるが、那覇市民は自主的な納税で市財政を支える。
高等弁務官は瀬長を公職から追放するが、復帰した瀬長は68年の選挙で再び立法院議員となる。踏みつけられても必ず立ち上がる不屈の人。「沖縄90万人人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を越えて、ワシントン政府を動かすことができます」と人々を鼓舞する。

 阿波根は伊江島でデンマーク式農民学校の建設を志すが、沖縄戦で一人息子を失う。敗戦後は「銃剣とブルトーザー」による米軍の土地強奪に非暴力で抵抗。田畑を奪われて飢えた阿波根らは、55年に「乞食行進」を始め、「乞食をするのは恥であるが、武力で土地を取り上げ乞食をさせるのはなお恥です」と訴える。それが沖縄のしまぐるみ闘争につながっていく。
 
 祖国復帰運動に立った瀬長と阿波根。だがこの50年、祖国は沖縄を裏切り続けた。見終わってこみ上げるのは怒りと悔しさだった。
(現代教育行政研究会代表)

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