今日の茨城新聞には、「医療ではない自宅療養」と題して、真壁医師会長・落合聖二氏の意見が載っている。私も、「自宅療養」は「自宅待機」であって、医療ではないと思っている。真っ当な意見がやっと出てきたと、紹介したい。
臨時コロナ施設整備を
医療ではない自宅療養
落合聖二
甘かったパンデミック対策
これほど長い戦いを強いられるとは誰が予想したであろうか。人間の英知と科学力をもってすれば程なく終息に向うとであろうと考えていた人は少なくないはずである。しかし現実はそうではなかった。
新型コロナウイルスの正体を摑みきれずに、昨年3月以降、感染拡大の波が繰り返されている。ウイルスが人間の予測をはるかに超える勢いで変異を繰り返し、感染の波はむしろ増大の傾向になる。
そもそも今回の感染症に対する認識が甘かった。感染拡大の状況から考えれば、パンデミック(世界的大流行)は避けられないと思われた。しかしWHO(世界保健機関)の発表は遅れた。100年に一度の感染症を経験する者はいないが、歴史的事実は引き継がれている筈である。情報の共有と検証がなされてこなかったのであろう。
全く足りなかったPCR検査数
以前、PCR検査とGoToトラベルの組み合わせで、少なからず安全安心が担保され感染拡大の防止と経済への効果につながると述べたことがある。しかし当時国は検査に消極的であった。いまやイベントへの参加や人の移動には検査が必須である。変異を繰り返して環境に適応していくウイルスに対して、今こそしっかりと対策を講じなければかってない大きな打撃を受けることになるであろう。すでに医療に限らず社会全体が危機に瀕している。
医療体制の構築と経済支援、そして人々の行動変容の徹底が早期に論理的に実行できていれば、災害級などと呼ばれる事態は避けられたのかもしれない。人流が減れば感染者が減少することは確認されている。
しかし緊急事態宣言の効果は得られにくくなっている。一方でエビデンスや科学的根拠に基づくことのない、感覚的かつ希望的政策が感染拡大を助長してきた。日本の統治システムの宿痾でもあると言われているが、そこに後手なる政策が生まれたと考えると科学者の一員としてやりきれない思いがある。
「自宅医療」は、医療ではない
医療の現場に必要なことは、感染者への医療システムの構築である。問題は、感染者が医療に結びつかないシステムが行なわれていることである。入院病床の逼迫が理由だが、コロナ偏重で一般医療も危機に瀕している。従って病床の負担を減らす手段を講じるべきである。そこで課題となるのが自宅療養である。東京では3万人に迫る勢いであり、茨城でも2千人近い数である。重症度分類による判断であるが、入院先が乏しい現実への逃避とも取れる。自宅でなくなる患者も増えつつある。自宅療養の中に家庭内感染を恐れて車中泊をしている感染者もいると聞く。そもそも自宅療養は医療ではない。
真壁医師会では自宅療養の健康フォローアップについてアンケートを実施した。111施設のうち、109施設が回答を寄せた。参加が32,不参加が77であった。参加の多くは診療時間内の電話対応であった。往診も可という施設も2,3あったが、たとえ往診によるケアを行なうとしても自宅での医療はないに等しく、時間的にも極めて非効率的である。さらに入院の必要があると分かっても行き先がない。見放されたと感じる声も聞く。
福井県のような臨時医療施設を
せめて酸素供給が可能な宿泊施設や、いわゆる”野戦病院”的な臨時医療施設を整えるべきである。集合的な診療体制であれば人員も減らせ医療スタッフの協力も得やすい。ネーザルハイフロー(鼻からの酸素吸入)なども準備できれば、十分とは言えないが重症化へのリスクも減らせる可能性があり、入院病床の負担も減る。コロナ病床を増やすことは必要だが、人材の確保や設備投資にも莫大な費用もかかる。それでもベッドはすぐに埋まってしまうだろう。別な解決策を早急に行なうべきである。
すでに別の医療施設を実践している所がある。福井県である。同県の自宅療養者はゼロである。施設の治療により病院への入院患者を抑えることが可能となり、その結果重症者の受け入れも容易となる。さらに回復者を受け入れ病院への負担を軽減させている。感染者がきちんと医療につながっていると感じる。
ウイスルに命をささげるようなことがあってはならないのである。
(真壁医師会長)