Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

高江はゴジラぢゃないよ

2016-08-07 | Weblog
『シン・ゴジラ』を観た。映画の評価は林海象監督の言う「壮大な自主映画」というのがアタリであろう。庵野氏はやりたいことをやったのだと思う。
「災害事件」としてのゴジラ出現について、政治家や官僚が対応していく姿だけが続々と点描されていくわけで、映画的感興は乏しい。
とうぜんこの国の、東日本大震災、原発事故への対応という体験が、なぞられている。あくまでもなぞりである。もっともらしいだけである。通常のヒーローやヒロインがいる怪獣映画へのアンチテーゼということかもしれないが、結局は主人公ぽくふるまう若い政治家にも、なんの魅力もないので、観客はただ推移を眺めているしかない。
それにしても幼児期?のゴジラがオモチャめいた真ん丸な目といい姿形の色調絵柄といいアニメかだんじり祭のさいに曳かれていく出し道具にしか見えず、興ざめである。
というか、ほぼ全篇CGになったゴジラ映像だが、コンピューターグラフィック技術の発達によってほとんどの映画がアニメ化してしまった現在、どの画面もじつは実写のようだが、アニメだったのかもしれない。
この映画も「映画らしさ」は皆無だし、ゴジラじたいが薄っぺらいつくりものにしか見えない。着ぐるみに入ってしっかり歩く方がいいと個人的には思う。それがないと「擬人化」という仕組みによる批評性が、ほぼ成り立たないからだ。もちろんそれも一つの選択である。
モーションキャプチャーで野村萬斎が動いてると言われても意味不明だし狂言ぽいすり足が出てくることに、何の必然性もない。
滅私奉公する人々だけが描かれ、「それが現実だ」とすることに幾ばくかの批評性があると、みるべきなのだろうか。人間はそれぞれ自分の事情を生きているだけだ、という「真理」を描いているということにでもなるのだろうか。
簡単に言えば、登場人物の誰も「ゴジラ」と関わってはいない。
これじゃゴジラじゃないよ、と思う人が多いだろうし、平成版怪獣映画としては金子修介監督のガメラシリーズのほうが遥かに面白いことは保証する。

まあ私の個人的感想としては、7/22、沖縄・高江への日本政府の弾圧、千人近い機動隊らによる暴力的な排除を経て、この映画を観ても、とにかく武装した制服の人たちがずらーっと大勢並んでさも正当な使命をおびたかのように動いている様子だけでついつい、高江を包囲している権力、人を人と思わない機動隊員たちのことを思ってしまう。
日本政府が対応に困り、処分を悩み、持て余す対象としての、原発、高江、ゴジラということになるのか?!
高江に対しては、N1ゲート裏のテントが、フェンスで囲われ、5日までに撤去せよ、私物は放棄したものとみなすという防衛局の張り紙が貼られており、8/5以降に再度排除を強行するのではという話はあったが、今のところ大きな動きはないようだ。ゴジラを眠らせておく期間ってことか?

何年前からか、僅かながらも高江を知り、できることは限られているけれど関わって思うことは、私たちが内在化してしまっている現実に対する鈍感さも含んだ認識が、高江という器官と繋がることによって、あらためて問い直されるということだ。実際に身を運ぶかどうかということだけではなく、その「器官としての接続」を持つこと自体が大切だと考える。

三宅洋平や、昨日、きちんとした説明もなく高江に押し掛けた安倍夫人は、その「器官」に入ってくる人たちではないように思う。
高江から伝えられている、三宅氏の「伊方原発とか、いろんな現場にちょっとずつしか足を運べない。自分の知名度を利用してできることをしたかった」という手前味噌な発言、自分の個的な目的に利用しようとしながら「この運動は本当に開かれているんですか?」と高江の人たちに問うたという態度は、傲慢ではないのか。
三宅氏は安倍夫人訪問に手を貸し勝手にツイキャス発信するためその訪問映像を撮影させておきながら、高江の人たちには「僕たちが発信するまでは公にしないでほしい」と言ってのけたという。
三宅氏は「今すぐどうにかしないといけないんじゃない?(安倍夫人アテンドに)一縷の希望を賭けたんだよね」としつつ、「(向こうは)20年前からのロードマップに従ってやっている。安倍総理が全部決めてスイッチを押しているのではない。自民党や政権という組織が持っている思想や構造の問題では」と、別にあんたに言われたくないよとしか思えない言いぐさで、現状が体制の敷いた方向にしか動かないことを他人事のように語っていたという。

安倍昭恵は自らのFacebook上で「沖縄の高江に行ってきた。オスプレイのヘリパッド建設を巡り揉めている場所。参院戦後に三宅洋平さんに会い、高江のことを初めて知った。標的の村という映画を観た。高江の人に東京で話も聞いた。でも何が起きているのか、自分の目で確かめたい。そんな思いで高江に行った。私が行けば混乱を招くだろうし、洋平さんが責められることにもなるだろう。悩みながら、まわりの誰にも言わずに行った。夫にも言わずに。私が行ったからどうなるものでもないし、ネット上ではかなり非難もされている。批判は覚悟の上。対立、分離した世の中を愛と調和の世界にしていくための私なりの第一歩・・・」と記している。
空疎。
三宅氏は見事に利用されたのか、自ら望んだことなのか。

三宅氏と安倍夫人はそれぞれ身勝手に「自分の事情」を生きているだけではないのか。「命ある限り僕自身の運動は止まらない」という三宅氏の「運動」は、それぞれの現場の人々の個別の生の違いを、認識できているのか。
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高江とシン・ゴジラ (とし兵衛)
2016-08-10 15:09:05
坂手さん、こんにちわ(実質的にはじめまして)。

「シン・ゴジラ」は大変おもしろい作品だと思っています。
ですが、その話は一旦置いて。

『高江に対する暴力に与してきた総理夫人が「私」「個人」の立場で「実態を知りたいから来た」は、あり得ない』を拝読いたしましたが、的確な指摘と思います。

また、三宅氏の発言や態度が「傲慢」というのもよく分かります。

その線で考えたとき、坂手さんの繊細さを想像すれば、高江という「柔らかい器官」に、三宅氏のような「鈍感」な人間が、更に輪をかけて「鈍感」な安倍昭恵氏を連れてくるのが、乱暴きわまりない「あり得ない」事態ということになるのも当然です。

けれど、三宅氏は、自分の行動が「傲慢」と取られることすら理解できない「鈍感」さをさらけ出しているわけですし、ここが肝心なところですが、そうした「鈍感」と「傲慢」が今の人類の「標準」なのではないでしょうか。

そのとき、三宅氏や昭恵氏を「鈍感」で「傲慢」だと言って切り捨てるのはいとも簡単ですが、そうやって「標準」的な感覚の持ち主を切り捨てていった結果が、現在の「リベラルの弱体」のように思えるのです。

ですからぼくは、三宅氏を否定しません。

三宅氏が自らの「鈍感」と「傲慢」に気づいてくれる方に賭けたいと思います。

今回、高江のテントで彼が直面した「現場の怒り」は、彼がそれに気づく糸口になりうると思っています。
現時点の言動を見る限り、楽観は許しませんが。

さて、坂手さんが三宅氏を「否定」するのに対して、ぼくが彼に可能性を見ることと、何かが重なっている気がしますが、ぼくは「シン・ゴジラ」を肯定的に見ます。

たしかに、坂手さんも含め、東浩紀氏や杉田俊介氏など、「普通」の文脈で「物語」や「ドラマ」を期待する人には、何ら面白い映画ではないでしょう。

けれど、そうした「普通」の感覚からはみ出してしまったオタクたちの創作物が、現にヒットしているという事実を考えるとき、「映画的感興は乏しい」にも関わらず、なぜこの作品が時代に受け入れられているのかを考察することが、福島第一や高江ヘリパッドの問題にも関わってくるように思うのです。

そうした文脈で十分な考察をしたわけではありませんが、「シン・ゴジラ」について私見を述べていますので、よろしかったらご一読ください。

[きみは「シン・ゴジラ」に日本の未来を見たか(ネタばれ御免)]http://meratade.blogspot.jp/2016/08/blog-post_7.html
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