伊豆半島南部でかなり前から揉めている合併問題で、西伊豆町と東伊豆町が再び「イヤだ!」と離脱してしまったそうですね。元・下田市民としてはこの問題はとて~も気になるんですけど、、、 住んでいたときは「安易に合併して欲しくないね」と思っていましたが、合併して上手くいっている(ように見える)伊豆の国市に住むようになってみると、分裂状態のままでいる伊豆南部の事が、心配で心配で。(余計なお世話ですね)
東伊豆町は昔から伊東市とくっつきたがっていたので、「いやがるのを無理して下田に嫁がせることもない」と思っていましたが、下田と松崎町がとても地理的結びつきが強く、その絡みで隣接する西伊豆町も一緒になった方がいい、、 と愚考するのです。南伊豆と西伊豆がタッグを組んだら、(観光的に)どんな素敵が訪れるでしょう! そんなこと言うと東伊豆町と河津町も風土的共通性を強く持っており(同時に河津町は下田市とも共通する雰囲気を持っている)、東伊豆と河津も一緒にした方がいいと思うんですけどねぇ。まぁ、本人たちがイヤと言ってるんですからほんと余計なお世話です。結局、あのひとたちはバラバラなのが幸せな姿なんでしょう。…一方で、東伊豆町って(伊東市からもイヤと言われてるんですから)これから先本当に一人でやっていけてるのかしらと心配です。(余計なお世話だ)
で、伊豆の国市に越してからというもの、私はすっかり帝国主義者になってしまっているのです。領土は広ければ広い程良い。さすがに浜松市ほどの節操の無いやり方はアレですけどね。広域性と多様性を持つ事で、地域の文化性は格段に増すと思う。取りあえず、伊豆の国市に足りない物は海なのです。凍らない海が欲しい(←違う)。地縁的に三津浜・長浜は伊豆の国に近いんだから、沼津市に頼んで分けてもらうべきだ。沼津人は「沼津は伊豆じゃありません」なんて見栄を言ってるんだから、気持ち良く伊豆部分は伊豆の国に譲るべきだ。断るんだったら戦争だ! それとは別に、函南町も(頼朝伝説が数多いので)、当然伊豆の国市の仲間に加わるべき!と思ってました。…しかし、以前に宗時と狩野茂光の墓に詣でるためにドライブしたとき、まじまじと函南の街並みを眺めてみまして、「これは伊豆の国の街並みとは異質だな」と思いました。なんというか、町が山と溶け込み、独自の雰囲気を作っている。函南駅のあたりの風景に私はみとれました。ごめんなさい勝手な事を考えて。函南町もきっと自分たちだけで立つだけで幸せなんだよね。(※実際、函南町は金持ち町なので、どこの町とも合わさることを望んでいないそうです。前にこの町に住む知人に、「何か市民に無断でとんでもない投資をやって、本来なら問題になったはずだけど、その事業が上手くいって素晴らしい結果になったから、みんな幸せになった」と聞いた事があります)。清水町みたいな問題も聞かないですし。
…でも、函南町には頼朝伝説が多いんですよな~。それが惜しいんだよなー。
さて、その函南町で、頼朝様崇拝者にとって一番注目すべきスポットが、函南駅からしばらく山方面にぐねぐね入ったところにある「舟山高源寺」です。ここは、流浪時代の頼朝関係の逸話がごろごろしている聖地みたいなところです。列挙すると、「旗挙げの為に文覚上人と比企尼と頼朝がここで謀議をした」、「頼朝が酔っ払ってヒノキの木にツバキの枝を挿し、挙兵が上手く行くなら花が咲け!と言ったら見事うまくくっついたヒノキツバキの木がある」、「愛妾の丹後局が子を産むときに頼朝が奉納した子育て地蔵」、「追っ手に見つかったとき逃げる用に比企尼が作ったカラクリ機構(※現存せず)」、「椎の木の下で頼朝が眠り惚けていると、実が落ちてきて頼朝を起こしてしまったので、もう二度となるな!と怒鳴ったらほんとに実が成らなくなり、それが平家滅亡の象徴と考えられるようになった実無しの椎」、「石橋山出陣直前に頼朝軍が勢揃いした、頼朝旗挙げ祈願の松(※現存せず)」、「丹後の局が政子の勘気で西国へ逃げる途中、ここで数ヶ月逗留した」等々、これでもか!というくらいの様々なものがあるのです。あまりのいかにもっぷりに、史実としての怪しさがふんぷんとしますが、そもそも伊豆の頼朝関係の伝説はそんなのばかりですし、ひいては(世の通説に反して)頼朝様の実際はそんな感じの人間なんじゃないかな~と私は思いますので、伊豆在住の私としてはこの場所は、愛好家におすすめしたいスポットなのでございます。
このお寺に伝わっている伝説は、伊豆全体の頼朝伝説の中で特異な位置を占める「函南伝説」とも言える特別な体系を形作っているように思います。おいおいこのブログで語ろうと思っているのですが、「函南の田代信綱伝説」、「名馬生喰伝説」、「比企尼伝説」、「唯一敵対した紀六伝説」、「丹後局伝説」、「仁田忠常伝説」のすべてを統括した「函南伝説」です。これらは全てこの船山高源寺を中心に展開します。中でも比企尼と宗時の墓についての逸話は正統的頼朝解釈にも食い込んでいるから、始末におえない。
そんな怪しげな部分はさておいて、このお寺はいい感じに山の中に入り込んだ所にある、えっまだ人住んでるの?て言いたくなるくらいに人里と畑が続いていて、清流の畔にある苔むした感じの、でも空気の凛と澄んだ気持ちの良い場所なんですよね。
そして、今回の一番の注目ポイント、比企尼の墓もここにあるのです。
さすがに、頼朝の大恩人の比企尼のホントの埋葬場所がこんなところにあるわけが無い、とは思うのですが、では比企尼の墓ってどこにあるんだろう?と思って検索してみると、それが見つからないのです。鎌倉の比企氏屋敷のあった比企谷に「妙本寺」というお寺があって、そこに「比企一族の墓」があるというので、そこかなとも思うのですが、どのサイトを見ても「比企尼」の名前が出てこないんですよね。彼女ほどの人だったら大々的にアピールされているはずです。(※私はそこに行った事がありませんので、私が無知なだけだったらゴメンナサイ)。
かといって、伊豆の函南の方が本物だと断言できるかというと、、、 この写真を見ると絶句してしまう。大きな岩の上に五輪塔が建てられている。この下に遺骸があるわけがありません。大きな岩で尼の怨念を封じ込めようとしたんならともかく。これは確実に「記念碑」です。分骨の可能性すら無いんじゃないかと思う(この地点に限っては)。
でも、妄想好きの私は、この比企尼の墓の現状に、いろいろと夢想をふくらます余地があるんじゃないかと思うわけです。
頼朝様にとって、比企尼ってどういう存在だったんでしょうか?