オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

山の息吹。

2013年04月20日 00時42分08秒 |   浜松グルメ


私事公事まったくいき滞っているわたくしです。
仕事なんかはもはやほとんど身を入れてやっていませんが、プライベートもなぁ。どうもなぁ。
困った困った。
で、1ヶ月前に通常の三倍速い新車を買ったんですけど、全くドライブに行く余裕がなかったんすよ。
舘山寺←→浜北の往復で1300km稼いじまった。こりゃいやんと思って、満を持して計画を練ってドライブに行きました。

行き先は!
静岡茶の聖地、大日峠!
静岡のお茶って言うのはここから始まるんですよ。
この記事のカテゴリが「浜松グルメ」なのに大日峠が静岡市にあるのは許してね。
浜松のお茶文化というものは駿河に較べて果てしなく薄いのですけど、でもお茶無くしては浜松グルメもありえませんので。

これは思い出話です。
わたくしが小学生だった頃(当然、浜北の小学校ですよ)に、道徳だったかの授業で配布された資料で、『ふるさとの偉人』とかいうなんやらがあって、その冒頭にかかげられていたのが“静岡茶の祖”聖一国師(しょういちこくし)の物語でした。聖一国師、静岡県人でなければ決して知ることのない人名でありましょうが、静岡県人であれば知らないことなど許されない名前であります。聖一国師の生涯は一休さんになにか似ていて(それは有度山の小坊主時代の法師が“栃沢のトンチ小坊主”と呼ばれていたから)、なかなか親しみやすかった。
のちにわたくしが仏教の歴史に多大な関心を持つようになって、この「トンチ坊や」が日本の禅宗の発展に多大な功績を残した苛烈な鎌倉期の「圓爾辯圓」と同一人物だと知って以来、非常な感銘を持ち至ることとなった。
だがしかし、最近の若者たちと話をしているうちに気づいたことなんですが、この静岡県人を騙る者たち、偉大なる圓爾榔刺のことを全く知らないらしいぞ。



高校級の歴史に詳しい人だったら、円爾(えんに)は名前ぐらいは知ってますよね。
鎌倉時代中期~後期の人。
でもどんな業績を残した人かはなかなかご存じあるまい。
仏教史に関心ある人だったら、円爾は京都で妙心寺派に次ぐ東福寺派を興した人でありますから、興味があるでしょうね。東福寺は京都五山のひとつであります。
鎌倉時代が好きな人だったら、円爾は北条時頼と後嵯峨と亀山と後深草に戒をあげた人ですから、ぐっと親しみが増す。
禅師に「聖一国師」という名前を贈ったのは(死後にですけど)、花園上皇です。
(※個人的にはお花の園さんには「よくできた人格者」というイメージを持っている)

日本の臨済宗を興した明庵栄西は偉大な“お茶の祖”なのですが、彼には信じられないぐらい(失礼)後継者がいなかった。栄西のあと、臨済宗は爆発的な発展をしますが、実はそれに栄西の直接の後継者たちはほとんど関与してない。
それはそもそも栄西の臨済宗は中国の臨済禅を輸入したもので、それは日本の旧来の仏教と相容れないものであったから。
だから建久5年に栄西の「禅」は朝廷によって「禁止」させられましたし、だからこそ鎌倉幕府は栄西を鎌倉に招いたりもした。結局の所、その後幕府も中国からたくさんの禅僧を招いて、禅宗の興隆をはかることにした。
だからですね、日本で臨済宗はすごいほどの繁栄を誇ることになりましたが、その大部分に始祖たる“栄西”があずかる影響があんまりないことになってしまったんです。
そこに出現したのが“円爾”です。
円爾は駿河国出身で、若い頃、天台宗の久能山と天台宗の三井寺園城寺と(“円爾”の名はこの頃得たものだろう)、臨済宗の上野国長楽寺で学び、31歳で中国に渡り、高名な無準師範に会いました。この頃一緒に無準師範に学んだのが中国人の蘭渓道隆や無学祖元だったそうです。
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