オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

どこに行っても桜ばかり。

2008年04月03日 21時43分02秒 | 遠州の歴史


パルパルの新しい観覧車は、ようやくゴンドラを付け始めました。
観覧車ってこうやって作るのね。バランスを取る為か対照的に順番に取り付けねばならぬようで、なかなか大変そうです。それにしても思ったよりもやたらと日数がかかるものだなあ、観覧車の新造って。(※前回記事を書いたのが3/12です)

さてさて、本日は、新しく入った会社の新入社員研修ということで、バスに乗って近隣の観光スポットを巡るというのに参加させて頂きました。どうしても自分一人だと自分の興味のある所しか廻らなくて一般的な視点に欠けてしまうので、特別にこういうのをおこなってもらえるのはとてもありがたいなあ。ちょうど昨日にカメラが見つかって良かった。
しかしながら、我が社の新入社員研修は、遠州一帯に巨大な勢力を誇る遠鉄グループの新入社員研修に便乗してついでにバスに乗せて貰うというもので、計50名の参加者のうちの40名は遠鉄の社員。遠鉄の社員はみんなフレッシュマンばかりでした。しかも4/5は女の子。おのれ浜松の経済を牛耳る化け物グループめ。ぎりぎりぎり。(……いえ、あの、ムリ言って参加させて頂いてほんとありがとうございます)

行程は、
9:15エアパーク(浜松航空自衛隊のPR館)→10:35浜名湖ガーデンパーク(4年前におこなわれた浜名湖花博の跡地につくられた巨大な公園)→12:00浜松フラワーパーク→14:10奥山高原(お子様向けの小遊園地。探偵ナイトスクープのパラダイスでも取り上げられた)→14:50奥山方広寺(後醍醐天皇の皇子・無文元選が建てた寺。半僧坊天狗がいる)→15:50竜ヶ岩洞(巨大な鍾乳洞)→16:30龍譚寺(井伊家の菩提寺)
でした。

やっぱりこの付近で著名な観光スポットと言ったらこのあたりなのね。勉強になるわ~、メモメモ。今日行かなかったもののうちで重要な物と言えば、「弁天島海水浴場」「浜松城」「うなぎパイファクトリー」「浜松動物園」「舘山寺」「舘山寺遊園地パルパル」「浜松フルーツパーク」ぐらいです。浜松の観光地ってとても限られてる。

<エアパーク>

私は自衛隊反対主義者なので、常日頃、戦車・戦艦や兵器、戦術等に興味を持っているように傍目から見えるのは、あくまで「批判する為に研究している」ゆえですよ。詳しく知らないと悪口も言えないですからね。
こんな物騒な物が我が家の近所にあるのは本当に我慢ならない。自衛隊大好きッ子がたくさんいる(と思われる)東京に今すぐ全て移転すべきだと思います。
かといって、私は同時に「安保条約反対論者」でもありますので、自衛隊と安保どちらを採るか今すぐ選ばねばならないと言われたら、、、、、、 うーーーん、やっぱり安保かな。日本は軍事力を持つべきではない。両方あるのは無用の長物ですよ。日本って、第二次大戦の反省はあと100年続けてもし過ぎることは無いと思います。80年前に日本は世界史に鑑みても取り返しの付かないことをしたんだよ。「負ける戦いはするな」とクラウゼヴィッツも言ってます。それを忘れて今さら偉そうに韓国・中国の批判とは。日本人も落ちぶれたものだと、思わず自分のアトピーに天城の山葵を思いっ切りぬたくり塗り込みたくなりますわい。
取りあえず自衛隊は軍務と災害救助を切り分けるべきだと思います。たかが軍隊のクセに、「災害時に活躍してるから」などと偉そうな顔をするな。それはまるで魚屋さんが「ウチは刺身に合うビールも同時に売ってるからとても儲かってる」と自慢しているのと同じに見えます。
すべて万全にした上で我々はアメリカの未熟な行動を批判するべきだと思います。

おっと何の話をしているのか判らなくなった。浜松航空自衛隊の感想。広すぎるわーッ。全然一等地にあるわけじゃないけど、あまりに広すぎて腹立たしくなります。基地で真面目に働いている方々、災害に備えて訓練している方々、こんな感想でごめんなさい。

<浜名湖ガーデンパーク>

手の形をした浜名湖の、親指と人差し指の間に当たる村櫛半島の南端にある。
ここは意外な盲点でした。広ーーい。しかもタダ。
子供や恋人を連れてまったりと一日過ごすには非常に適しています。オレにゃお子様も恋人もいないけどな。風が強かった。
モネの庭とか国際庭園(上の写真)とか竹の道とか子供広場とかがありました。
350まんえんのマスコットキャラクターも健在でした。

見所は「モネの庭」と「百華園」みたいね。

ハスが無いせいで写真だとごらんの感じですが、力が入ってる。

また、目の前が浜名湖で、潮干狩りをしている方もたくさんいました。ガーデンパークに停めれば駐車場もタダですもんね。弁天島や船を頼む人以外は、浜名湖って貝を勝手にほじくるのも無料だそうです。

<はままつフラワーパーク>

名前の通り、花がいっぱいあるところです。入園800円。
現在は「夜桜まつり」というのをやってますので、夜来ると400円。
マスコットのウナギいぬが可愛いらしくて思わず凝視してしまいます。ぎりぎりぎり。

写真に写ってるのは一緒に行ったおねーさんたち。
赤い方がおもしろい性格の中国の方です。

実は4日前に親におねだりして夜桜を見にここに来てたんですよね。カメラ紛失中で写真はナシなんですけど。研修でタダで入れるんなら、来なくても良かった。夜桜も綺麗なんでしょうが、桜は昼間見た方がいいと思いました。…酒を飲まないんなら。
4日前は強風でも花びらが舞わなかったのに、今日はそよかぜでもハラハラと花が散る。いい感じ。

<奥山高原>

・・・なぜか一枚もここで写真を撮ってませんでした(笑)
ここも花だらけ。主に桜とハナモモ。
ここの一番のウリは100本近くある「昇竜しだれ梅」というものなのですが(育てるのに手間が掛かるらしい。「盆栽と同じ思想」と園長さんが言ってた)、梅なので見頃は(一週間前に)終わってました。

<奥山方広寺>

ここは始めてきたとき「すごーく好きな寺かも」と思ったんですが、まさかその後2ヶ月の間に三回も来る羽目になるとは。初回参拝時の記事もまだ書いてないのに~。(後醍醐天皇と絡めて書くつもりであるから)

ほんと大好きなお寺なので、がんばって近いうちに詳しく書きますね。太平記と天狗伝説はとても親和性が高い関係だと思いますが、それを理想的な形で書ける良いお寺なのです。ただ、お寺についての詳しいことは『後醍醐天皇の皇子たち』のシリーズの「無文元選王」の項で書くつもりなので、、、、いつになるか。いちおう、予定では次は「世良親王」→「瓊子内親王」→「欣子内親王」→「満良親王」と進んでその次が「無文元選王」となるつもりなので、ほんと一体いつになることか(笑)。そもそもこのシリーズは宗良親王と無文元選のことを語り尽くしたくて書き始めたものであるのに、おかしなことだね。太平記は最近すごく好きになりつつありますが、でもこのブログでは太平記のことばかり語り続けたくないのであります。(飽きっぽいから)

今回の研修が前回の訪問と違う点は、ガイドさん付きであったことでした。自分の関心とは全然違う視点で語ってくれるから、勉強にはなる。やっぱり普通に訪れただけでは面白味が全然わからないお寺ですね。「でけー」で終わってしまうと思いますふつうは。
そうそう、半月前に訪れたときに私が書いて奉納した絵馬が、まだ残っておりました(笑) 絵馬ってどのくらいの期間吊されているんだろう? 半月と言う微妙な期間を経て再び眺めるのは変な気持ちであります。周囲の人に「これは私が書いたんですよ」と言いたくなりましたが、どう見ても変なのでやめた。


食中毒ほど世の中で怖いものはありませんからね。

また、前回までの訪問時に気付かなかったことですが、宝物展に「天皇家の系図」というものが飾られておるのにビックリしました。そこにはナゾの皇子である「無文元選」の名もきっちり刻まれておりまして、「第11皇子」という文字が躍っておるのです。なんと! これが私にとってどれだけ画期的な発見であったかは、1ヶ月後くらいに「満良親王」の記事の中で語りますね。この系図はこのお寺に独自に伝わるものであるのでしょうが、いろいろおかしな点があってとても興味深かったのでした。展示物そのものは紙質から見て昭和年代くらいの比較的新しい物であったのですが。

成良親王のことを「成安」、静尊法親王を「中尊」と書いていることは御愛嬌として、懐良親王を「良懐」と書いてあるのは何の資料に拠ったのだ。確かに朱元璋は懐良のことをこう呼んだですけれど。大覚寺宮と一品公主の名は初めて聞きます。
また、尊良親王の子の守永親王について、この系図では「若宮--號奥州宮」とあるのみ。もしこの親王が遠州と深い関わりのある親王だったら、南朝動乱に深く関わったことを誇りとするこの寺でこんなそっけない書き方はしないよな。ちょっと残念であります。
ここで改めて私の勉強不足の訂正。尊良親王と守永親王は「一品」で、護良親王は「二品」、懐良親王は「無品」なのでございます。私はこの「品」を正一位や従三位などの「位」の別称なのかと考えておりましたが、調べてみると「品(ほん)」というのは親王だけに与えられている順階なんですって、これは一品~四品まであって、「親王宣下されていない王」には品ではなく「位」が与えられるんですって。要は「二品」と「正一位」を比べた場合、二品の方が遥かに偉いってことですね。理由は、親王であるから。知らなかった。無品と正一位を比べた場合はどちらが偉くなるのか知らないですけど。「無」でも親王ってだけで「正一位」よりも偉そうな。

<竜ヶ岩洞>

遠州地方最大の鍾乳洞として有名なところです。
この地名はかっこよすぎてウソっぽさを感じてしまう程ですが、「竜ヶ石」山は古来からの地名だそうだ。竜伝説があるようです。このドラゴンは奥山半僧坊の竜と同一人物かな。その奥山半僧坊の竜は「天龍川」の名の由来となった竜と同じだというのです。なんだか大がかりに調べる必要がありそう。竜ヶ石山は、宗良親王が拠った「井伊の城山」の隣りにあります。

この鍾乳洞は「浜松最大の観光スポットのひとつ」として(当地では)凄く有名です。私もものごころがついたときからこういうのが大好きで、小さい頃に何度か連れてきて貰った記憶がありますが、大人になって再訪して、改めて随所の光景を良く記憶していることに笑った。全部の箇所に見覚えがあるもの。そう言えば昔大コウモリっていなかったっけ。夏でも涼しくてとても良い場所です。一方で、せっかくの大洞窟であるのに、その経路は誰でも歩きやすいようにコンクリで舗装されていまして、その行きすぎた観光化が風情を台無しにしているのが良く非難されるところであります。私は別にどっちでもいいですけどね。
石灰岩で出来ている山は北遠にいくつもあるようです。この鍾乳洞に匹敵するような洞窟も他にあるような気がするんですけど、どうでしょう? 実際いくつか名の知れた洞窟もありますが、富士山のふもとの洞窟群ほど伝説が無いのが悔しくもあります。

今回はバスの時間の都合で、30分で見て回らないといけませんでした。なので終始駆け足で、10分ぐらいで駆け抜けました。その体験があまりにもおもしろすぎて笑った。いえ、私は全然へっちゃらなんですけど、一緒に駆けたおねえさんたち(@みんな異郷の方ですけど遠州にいるのは私よりも長い)の言動がおもしろすぎて。中国にも鍾乳洞はたくさんあるそうですよ。(中国のソレはすごそうです)。
ま、子供と家族連れだったら絶対に楽しい場所ですよね。

なんでそんなに急いだのかと言えば、「出口で売ってるソフトクリームがとても美味しくて有名」だからだそうで。ふぅん。私は甘い食べ物が苦手なので、「ワサビソフト」を選びました。300円。うん、ちょっとだけツーーーンと来ておいしい。伊豆での山葵ソフト(=生山葵が盛られてる)には敵いませんけどね。

<龍譚寺>

今回の研修の最後は井伊谷にある龍譚寺(りょうたんじ)です。
当地で平安時代から続く名族・井伊氏の菩提寺。
井伊直政が徳川家康の家臣となって近江国彦根の藩主となったとき、彦根にも龍譚寺を作ったんですよ。遠州のこっちの方が元祖であります。…彦根の龍譚寺にはなぜか石田三成の像があるそうで、とても行きたいと思っているのです。

ここではお坊さんによる解説付きでした。
「うぐいす張りの廊下」とか「変な場所に安置してある大仏」(子供によるひっかき傷付き)とか「左甚五郎の龍」とか、見所はたくさんあるお寺なのですが、一番のウリが「小堀遠州の庭園」なのだそうでございます。

小堀遠州って浜松のあたりの出身の人だと思い込んでいましたら、彼はただ名前が遠州というだけで、全然別の地域の生まれの人だそうですね。(なにをいまさら)
そんな彼がこんな辺鄙な場所に立派な庭園を作っているのは、井伊直孝つながりだと思われます。

この庭園では、長い廊下にみんなで座って、テープによる長い解説を延々と聞いたんですけど、もうすでに内容を全く覚えてない(笑)。聞いてたときは「へえ~」「なるほど~」「遠州のおっちゃんもなかなか味なことをする~」と感心しながら聞いてた(気がする)のですけど。

しかしながら、侘び寂びとか均衡耽美とかのセンスに欠ける私にはこういうのの面白さがさっぱりとワカランです。

そういえば庭の中に亀(にみたてた岩)がいるとか行ってたナ。…うーーーん。

ついでに井伊家の宝物展もやっていました。
この甲冑も井伊直孝所用の本物ですって。赤備えッ!

 

といった感じで、この研修は無事に終了しました。
どっとはらい。

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1 コメント

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うひらうひら。 (麁鹿火)
2008-04-06 03:03:43
ぎゃー。
またデタラメなことを言っていました。
系図纂要によれば、懐良親王は無品どころか正平17年(1362年)11月に「二品時式部卿」、文中3年(1374年)12月に「一品」だそうです。
ダメねアタシ。
一品となった主な人のリストがコチラにあります。
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/aoitei/kyutyu/kokyu/ippon.html
熾仁親王、、、、。
宗良親王も一品ですが、護良親王や世良親王は二品。この違いは「長生きしたかしなかったか」の違いでしょうか? それにしては征夷大将軍として大活躍した(?)尹良親王(宗良の子。50歳で戦死)は二品のまま。うーーん、よく判らん。母親の身分が関係しているのだとしたら、私は腹を立てます。世良の母の父の「三木左中将基佐」って何者? が、阿野廉子の子の成良親王は四品なのにその同母兄の義良親王は天皇になっていますからな~。…結局わからん。
ちなみに、宗良親王が一品となったのは25歳の時(1336年)。尊良親王も徳治2年生まれだとして26歳の時(1333年)です。懐良親王は元徳元年生まれだとして45歳の時ですね。だが守永親王の場合だけ多分10代後半(1337年)。…この子、逸材だったのかしら。

忘れないうちに、「系図纂要」の中の守永親王の記述を抜き書きしておきます。
「母は後京極院の御匣(=宮中貞観殿で装束を調進した所。またそこの官女の長である御匣殿別当の略。上臈女房)の右大臣藤公顕公女。
延元2年(1337年)に元服、上野太守、一品。
興国元年(1340年)5月、奥州に赴く。
興国3年(1342年)8月19日、小田城に入る。5年(1344年)10月、関城に移り、弘和3年(1383年)6月20日、出家。宇都峯宮、あるいは西応寺宮と号す」

あれ? この人こんなに長生きしてたのか。ほんとかな~。

なお、太平記の卷18には尊良親王と今出川公顕の娘との間のロマンスが長々と載っておりまして、この女性が守永親王の母です。しかし、このひと、いつ子を産む暇があったのだろうか。守永にはあとふたりの弟とひとりの妹がいたことになってます。
この女性とは別に尊良親王には正妻があったという記述を見たことがある気がするんですけど、なんだったかな。ひとりいるという守永の妹の母が「母大納言典侍=権大納言藤為世卿の女」とあるんですけど。(いとこだ)
とにかく、尊良親王についても調べれば調べる程いろんなことがぼろぼろ出てくるので大弱りです。もう一度書く必要がありそうだ(いづれね)。
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