浜名湖遊園地パルパルでは、現在新しい観覧車を作っています。毎日少しずつ形ができていって、見ていると面白い。観覧車ってこうやって作るんですね。こうして観覧車が並んでいるのを見ることも滅多にないことでしょうが、旧機と角度を変えているところを見ると、これができたら古い方は撤去してしまうのでしょうか。この遊園地では定期的に観覧車からの見晴らしを変えるように作り変えているのかな。まさかね。
聞いたところによると、この観覧車を作る職人さんたちの日当は、一日5万円だそうです。すごいね。しかし、年にどれだけの仕事があるのかと心配になってしまいます。
さて、このパルパルのある場所には、南北朝時代から明治維新にかけて「堀江城」というお城があり、「大沢家」という一族が城主をつとめていました。堀江城や大沢といっても、歴史にかなり詳しい人でも知らない名前でしょうが、これがまた極めて興味深い歴史を持った一族です。
まず、以前に作った年表で、私は堀江城にいた大沢一族について、「◎1568(永禄11)年(家康27歳)、12月12日、武田信玄が駿河に、徳川家康が遠江に侵攻開始。三河軍、本坂峠から侵略。事前に調略してあった「井伊谷三人衆」(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)が徳川方に付き、道案内をつとめる。白須賀城・堀江城は降伏、堀川城・刑部城には土豪・農民が抵抗して立て篭もるが、瞬く間に落城。西遠江で徹底的に抵抗する構えを見せたのは佐久城の浜名氏のみ。」と書いてしまったのですが、その後浜松市図書館で貰ってきた『浜松城時代の家康の合戦展』という小冊子によると、これは完全に間違いの記述でした。
のちに大沢氏が幕府の「高家筆頭」の名誉職を与えられていることを見て、私は勝手に「家康の遠江侵入に際し、大沢氏が早めに旗下に参し、重要な役割を果たしたので家康がそれを評価したんだろう」と判断してそのように書いたのですが(だって関ヶ原の戦いのときに山内一豊にそうしてるし)、事実は逆だったそうですよ。大沢氏は今川氏真に殉じて最後まで熱烈に堀江城で家康に抵抗していたみたい。
永禄11年の年末に遠江に攻め込んだ家康は、堀川城を1日で陥落させ、佐久城と堀江城を包囲するのですが、堀江城の大沢基胤は頑張ってしばらくの間それを跳ねのけ続けました。家康はひとまず浜名湖畔を放置して、曳馬から天竜川沿いを平定し、さらに氏真のいる掛川城攻略に着手しますが、その掛川城もなかなか落ちず、最終的に5ヶ月後に氏真と家康が密約を作って開城するまで、膠着が続きます。この間の今川氏真から大沢基胤に対する感状と、堀江城から掛川城への戦況報告書が残っているのだそうです。ただし、堀江城と掛川城の連絡は早いうちに分断されてしまいまして、大沢氏は孤軍で五ヶ月間、ふんばり続けるのです。
堀江城が陥落した時期について、『浜松時代の家康の合戦展』では、「永禄12年3月に家康は井伊谷三人衆に命じて堀江城を攻めさせたが落ちず、しかし家康の調略によって掛川城の氏真が和議に応じることになったので、堀江城も戦闘をやめた。4月8日付で家康は大沢氏の領地を安堵」とあるのですが、本田猪三郎氏の『浜名湖畔誌』には「3月25日に井伊谷三人衆に城を攻めさせたが激戦が続き、家康方は20日後に作戦を変えて使者渡辺成忠を送って誓書を与え、大沢基胤もこれに同意した」とあります。
氏真が掛川城を退去したのは5月6日ですが、掛川城で最後の激しい攻防が行われたのが3月5日。結局のところ堀江城の降服が氏真の決断より早かったのか遅かったのかのかがよく分らん。しかし、ここのところで大沢基胤がなにか目覚ましいことをやって家康を感服させてなければ、ただの地方豪族で名家でもない大沢氏が、江戸自体を通じて「高家」なんてものになっている説明にならん。(ウィキペディアには適当なことを書いてありますが)
その後、大沢氏は酒井忠次の指揮下に入って戦ったようですが、三方ヶ原の戦いで徳川軍が惨敗すると、堀江城とは目の先の刑部(おさかべ)城に入った信玄の大軍に堀江城は攻撃されます。舘山寺レイクホテル花乃井に立っている看板では、「城の守りは堅く、攻めあぐねた武田軍は対岸の大草山から舘山へ舟橋を渡し、裏手から攻め込もうとしたが、堀江城兵士の決死の防戦でからくも喰い止めた」と書いてあります。おおお、天下の名将・家康と信玄の猛攻を華麗にはねのけた堅城! …しかし『浜松時代の家康の合戦』では「信玄の堀江城攻撃は、刑部城にしばらく滞在するための軽い脅し」と身も蓋もなく書いてあります。
現存する堀江城本丸の大石塁と滑降式兵士射出機、そして回転式大物見櫓。
これは信玄ならずとも、攻めるのに躊躇しますよね。(大ウソ)
大草山と舘山寺の間の海峡。ここに信玄は舟橋を渡そうとしたというんですけど。その向こう側に見えるのは東名高速の浜名湖大橋。
それはそうと、ここは本当に堅固な地形だったんでしょうかねえ。地図を見ると、わざわざ舟橋を作らなくてもいろんな方向から攻められそうなのに。しかし、ロープウェイに乗ってみれば、ここに橋をかけたくなる信玄の気持ちも分かります。地形は現在とは大分変っているかもしれません。「堀江」という地名の由来は、現在「内浦」と呼ばれている風光明媚な入口の狭いこの湾のことですね。
江戸時代になると、大沢氏は「高家(こうけ)」というものになります。
わたくし、高家というものがよく分らないのですが、幕府の中で重要な儀礼やしきたりを取り仕切る名家で、領地は持っていないけど大名並の格式で遇された、ものだそうです。今川氏や関東管領の上杉氏、織田氏等は昔は大大名だったわけですから、「名誉はあげるけど土地はやらん」と言われているわけで、悲しい気がしますが、たかが寒地の小豪族だった大沢氏がそれに肩を並べているのは、すごい気がしますね。大沢氏は「初めて家康に高家として遇された」家であり、吉良氏・畠山氏と並んで「高家筆頭」「高家肝煎」とされていたのだそうです。…が、ウィキペディアを見ると、「高家筆頭などというものはない」「初めて高家になったのは秀忠の時代、吉良家・石橋家・今川家」とあってわけがわからなくなります。
が、ともかく高家としての大沢氏は、結構大活躍です。
領地は僅か1556石ですが(※高家は普通1500石だそうです。でも畠山氏は5000石、品川氏は300石)、家康の将軍就任にときにさまざまなことを調べる役を務めたことを手始めに、家康が死んだときに久能山での葬儀を取り仕切り、以後、摂家門跡諸公家往来のことを承った、とあります。領地も2度増やしてもらって、最終的に3556石となりました。和宮降嫁のときの日程立案と付き添いも大沢氏。大政奉還のときに将軍慶喜の辞表を京都まで持っていったのも、大沢です。
で、大沢氏の歴史で一番おもしろいのはこの明治維新の大政奉還の時。
江戸期を通じて高家として高い身分を誇っていたのに、領地が3千石だったので、大名ではなかったことをずっと遺憾に思ったのでしょうか。大沢家の当主・基寿は、将軍慶喜の辞表を持っていった足で、新政府に働きかけ、自分の領地を5500石に増やしてもらって「堀江藩」を樹立させるのです。おいおい、藩は一万石からだよ~。(どうも石高を虚偽の申告をしたようです)。まったく「どさくさにまぎれてなんてことしやがる」としか思えない。
戊辰戦争では当然いち早く新政府側につき、明治4年の廃藩置県では、堀江藩は浜松県との合併を頑強に拒んで、「堀江県」として独立。その浜松県は一時的に静岡県と一緒になってしまったので、一時期だけ現在の静岡県の範囲内に「堀江県」「静岡県」「韮山県」ができあがりました。静岡県と韮山県はともかく、「堀江県ってなんじゃい」と伊豆で静岡県の歴史を勉強していたときは思っていたのですが、ひとりの殿さまのわがままで、今の舘山寺のある場所に浜松県とは別の小さな県ができてしまっていたのですね。
さすがに中央政府から鋭い指導が入り、5ヶ月後に堀江県は浜松県に吸収されて消滅。
しかし、この廃藩置県の時、「それまで藩主だった大名には爵位を与える」という仰せがあったため(それを知っていたから大沢基寿はこんな大騒ぎをしたと思うんですけど)、なんとか自分の格を大名並にしようと、「浜名湖を4500石干拓する」という計画書を政府に提出します。で、「いままでの5500石と、新しい(く開拓される予定の)4500石と合わせて自分は計一万石の大名だから、男爵の称号をください」と政府に要求するのです。
しかしどうしたわけか、これが政府から「インチキだ」という言いがかりをつけられて、大沢基寿はタイホされ、1年の禁固刑を受けてしまいます。とばっちりを受けて5人の家臣も一緒に一年入牢したそうだ。
…すごく愉快な人だったと思うんですけどこの人、もしかして300年前の「高家創設」の時も、似たようなやりとりとドタバタがあったんじゃないかしら。浜名湖のどこを4000石も埋めるつもりだったのかな。
というわけで大沢家は取りつぶされ、いくつかあったとされる建物も明治初年に取り壊されて全部払い下げられてしまいました。現在ここには遊園地パルパルといくつかの観光ホテルが建っていますが、かつての大沢家とは全然関係のない資本だそうです。
上の写真はホテル「堀江の庄」。下の写真は堀江の庄からみたパルパル。ここは立派なお城だったはずですが、いったいどんなお城だったんでしょう。今となってはその縄張りもわからないそうです。ちょっと見に行きたい気もしますが、おっさん一人では遊園地に入る勇気もホテルに泊まる気力も無いなあ。小さい頃は何度も来たんだけど。誰か一緒に見に行ってくださる女性はいないかしら。
ちなみにここにはもうひとつ、「九重」という超が5つぐらい付くぐらいリッチなホテルもあります。「堀江城についての詳しい話は、フロントで聞いて下さい」ですって。でも私は怖くてとても聞けない。だって一泊が3万円ぐらいもするようなお宿ですから、そんな高級なところ、一歩でも足を踏み入れたら目が潰れてしまいますわ。
九重とパルパルとロープウェイは同じ遠鉄グループです。観覧車、新しいの作ってるし、遠鉄グループってお金持ちなんでしょうか。また浜松城も同じ遠鉄グループであるホテル・コンコルドが管理しています。おそるべし。大観光巨魁だ。でも堀江の庄は遠鉄グループじゃないみたいです。がんばれッ。
ホテル「九重」にある足湯。「ここは」入るのが無料。
こちらは埼玉に住んでいるので、静岡の情報にとても疎いので、大変楽しく読ませてもらいました。
静岡の城郭探訪は埼玉と少し勝手が違うだけでほぼ同じ要素があると思われます。
大まかに中世の城がありそうな条件を挙げると・・・
1、街道筋で眺望に優れた場所にある。
2、水利に優れて農作物その他の産業が栄えている。
3、山、谷、湖、その他の自然地形を要害として利用している。
4、古くからの集落が近くにある。
などなどがあります。たまに例外がありますが、大体この条件を多くクリアしていると中世の城館跡がある可能性は高くなるというのが私の思い込みです(笑
絵の方は最近やってません(笑
埼玉の武将に齋藤別当実盛がいるのですが、この人の人生も結構波乱に満ちていて、充分大河ドラマになるぐらいのエピソードがあります。(詳しくはネット検索してみて下さい)
実はこの方の絵を描こうと思っていましたが、平安末期の武家装束がわからず放置しております。麁鹿火さんの絵を見て真似て書いてみる事にします。
わお、為になるレクチャーありがとうございます。
なるほど、その4点でもって分析するクセをつけてみましょう。
堀江城の場合、辺鄙な場所だなあと漠然と思っていましたが、1.舘山寺と大草山という2つの物見台があって湖面を見渡せる。三河から遠江に来るには本坂峠を通ってくるのが一般的で、しかも佐久米からは船で奥浜名湖を突っ切って庄内地方に渡る渡し船のルートがあった。 2.農業は不便だが漁業資源には古来から恵まれている 3.内浦湾を要害の堀の江として利用できた 4.三ケ日原人の頃から各浦に集落がある 等々、いろいろ思い当たるふしがあることに気付きました。
斎藤別当実盛!
この人は熱海にも史跡があって、また富士川の戦いでも逸話があって、我らが伊豆にもとてもゆかりの深い人なんですよ。イラスト、楽しみにしています。衣装についてはわたしもいつもてきとーです。