オセンタルカの太陽帝国

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浜松まつり。

2014年05月03日 22時54分01秒 | 遠州の歴史


浜松まつりを見に行ってきました。

浜松では最も大きいお祭り。毎年5月3日~5日の3日間にかけておこなわれます。(昔は5日間だったと言われています)、「浜松の人のお祭り好きは大層なもので、真の浜松人は浜松まつりの3日間のためだけに1年間を生きる」と、どこかで聞いたことあるような褒め言葉もよく言われます。
このお祭りは、昼間遠州灘の海岸でみんなで仲良く凧を揚げ、夜になると市街地で屋台をひっぱって大声を上げてひたすら練り歩く、それを3日間くりかえす、そういうお祭り。
わたくしは浜北生まれの旧石器時代人ですので、浜松まつりには全く思い入れがありません。学生の頃に2度ほど見に行ったことがありますけど、凧揚げと練り歩きは部外者は参加できませんので、「参加する人はひたすら楽しいだろうが、見る人にはつまらない」という印象を持っていました。祭り期間の交通規制が酷いんですよね。最近は地域間の繋がりが弱くなり、祭りを通じた結束力も変容してきて、トラブルや要不要論も大きくなってきていると聞いたことがあります。

今年はひたすらヒマですから、30年振りぐらいに観に来てみました。
数年前から「また見に行かなければ」と思っていたのですけどその理由は2つ。
(1).何かの記述でどこかの屋台の彫り物が「源頼政の鵺退治」だというのを見た。
  (※どこでその記述を見たのか覚えてません。もしかしたら磐田あたりの別の祭りだったかもしれない)
(2).天狗模様の大凧を上げる町がある。



「昼間はタコ、夜は屋台」、ときわめて単純な祭り。
起源は伝説では450年前にまで遡るそうですが、今ではその説は「偽説」として退けられておりまして(ここのサイトさんが詳しい)、今、知られている限り「この時期に大凧をあげる風習があったらしい」とする最古の記録は寛政元年(1789年)に高林方朗が(高林家の長年に渡る記録は浜松では大変尊ばれています)日記に記した「四尺四方の凧に四百七拾弐文支払った」という記述。4尺(約1.2m)四方ってそんなに大きくないですけど。でも明治頃になるとかなり大きな祭りに育っていたそうです。ただの凧揚げ祭りで、神社的な由緒とかは全く無いそうですのに、歴史だけはそれなりに誇れるものであります。
昼間の凧揚げと、夜の豪華な市中引き回しのどちらの方が祭りの本体なのかといいますと、凧の方なんですって。
もともとは凧は各地域でそれぞれ揚げるものだったそうです。近くの地区で凧をあげていればわざわざそこまで行って凧をぶつけ合うこともなされたとか。(糸切り合戦の歴史)。それが明治42年に一つの場所に集められるようにされました。鉄道院の浜松工場建設予定地が広かったので、そこが会場に。ところが3年後に浜松工場が完成してしまったので、大正8年(一説に大正7年)に歩兵第67連隊練兵所(現・和地山公園)に移転。その間の8年間、どうしていたのかは不明です(ウィキペディアによると複数会場があったらしい)。昭和42年まで三方ヶ原の和地山でやってたのですが(昭和12~21年は休止)、あまりにも参加町が増えすぎて狭くなってしまったので、現在の中田島砂丘へ移ったのだそうです。(公式サイトでは昭和23年から中田島砂丘が会場となった風に書かれていますが)。「浜松まつり」という名前がつけられたのは昭和25年から。(その頃の浜松市の市域は現在の1/50ぐらいしかありませんでした)

今年は147もの町が凧をあげたそうです。5年ぐらい前までは参加町は増える一方だったのですが、ここ数年は落ち着いているそうです。



本日は絶好の凧揚げ日和です。
このお祭りに車で来るのは命知らずでありまして、車大好きなわたくしも今日ばかりは電車です。私は運良く遠鉄沿線に住んでるからいいとして、他の町の方々はどうしてるんでしょうね。と思ったら、天竜川沿い飯田公園に臨時駐車場が設置されるんですって。うひー大変だ。浜松駅からアクト塔まで行ってとこから中田島の凧揚げ広場までシャトルバスです。すごい人がバス待ち行列してるんですけど、臨時バスも絶え間なくやってくるのでそれほど待ちません。で、中田島の凧揚げ公園に至りますとそこから会場まで歩くんですが、その距離約15分。遠い。お祭りの出店がいっぱい出てまして、こりゃ子供を疲れさせて綿菓子やお面をいくつも買わせる作戦だな、と思いました。大変です。



まあ! 凄い人の数です。
この混沌具合を写真で表現するのは無理なのですけど、浜松は寂れた町だと思っていたけど失礼な話だったな、まだまだこんなに人がいるんだなと、感心することしきりです。主役は凧をあげる人たちですから、ただの見学者であるわたくしたちは極力邪魔をしないように注意しながらウロウロしないといけません。凧の人たちは凧の動きに合わせて移動しているので、うっかりしていると本当に容易に邪魔をしてしまいます。見学者はジャマ者。ごめんなさいごめんなさい。常に上に注意しながら歩かないと危険です。



このお祭りは「初子の誕生を全体で祝うための凧揚げ」を源としてまして、その風習は現在でも色濃く受け継がれています。そこかしこで凧の前で子供を高く掲げて皆で喇叭で囃し立てる儀式をしてました。子供は社会の財産だからこういう祝いは絶えさせてはいけない、というのが賛同側の意見。今でも初子しか祝わないんでしょうかね。(女の子の名前もいっぱいありました。1つの凧に2人ぐらいの子供の名前を書くことも普通なようです)。子供の名前の書いてない凧は、、 ま、そういうことだ。

凧は凧ですから一度あげてしまえばずっと空にいるはずです。それにしても凧をあげるって大変。今日は青空なのに風は微風で、ここでこんな大勢の人の中で大勢で大きなものをあげるには技術が要ります。なんせ会場には174の町の人と凧と、それ以上の見物客で溢れかえっているのですから。会場が狭すぎます。(最初にバスを降りた辺りや、海岸で凧を揚げている組もありました)。おまけに「凧を競わせる」というのもしなければならない。なかなか飛ばない凧や、荒ぶる凧や、ひとりだけ無尽に空を左右する凧や、墜落する凧も多々出ます。「こりゃ喧嘩になってあたりまえだよな、だって狭いんだもの」と思いました。でも昨年凧の喧嘩沙汰がニュースになったせいか、会場の均衡と穏やかさは一際留意されていると感じました。(でもそれは1日目だけかもしれませんね。この方々は3日間ひたすら5時間ずつ凧をあげつづけるのですから、かなり疲れる一方で2日目3日目ほど精神は高揚していくはず)



会場がひときわ盛り上がった場面が「凧が絡まっている場面」なのは見ていて面白いことでした。狭いので、もう、当たり前のように凧が絡みます。するとみんな集まってきて、やいしょやいしょとかけ声を揚げながら力強く糸を引く。写真にうまく撮れないのが悔しいところですが、こんなのどうやって凧を飛ばしながら糸をほどくというのでしょうね。見えないですが、糸の数だけの凧が絡まっているってことですよね。でもみんな「絡みをほどき慣れている」「こんなの日常茶飯事だ」というのが見て取れますし、傍目には喧嘩しているように見えますけど、一帯感は他のどこよりも大きくなっています。もちろん、途中で大破してしまった凧も各所で見られますが、それはそれで誇らしいものなのでしょう。



それぞれの町ごとに、予備の凧がたくさん用意されています。予備っていうか子供の数(×?個ずつ?)だけあるんでしょうね。おそらくここの見える以上の用意があると思われます。3日間揚げ続けなければならないのですから、。また、凧の用意が幾つあったとしても、各町で揚げる凧の数は、基本的に一度にひとつずつのようです。(全員で力を合わせて一つの凧を上げるため)


さて、天狗様の凧を捜しましょう。
会場でもらえるパンフレットに、各町の凧の模様とその由来が書いてありまして、バッチリと知りたいことがわかります。
天狗由来の凧をあげているのが3つの町。さすが浜松は「天狗の町」でありますからね。



そのものズバリ、「天狗様のタコ」なのは千歳町。
千歳町とは鍛治町や田町を除けば「浜松一の繁華街(歓楽街)」でありまして、ザザの裏手に当たります。モール街や三太や鰻のあつみのあることでおなじみですね。移転しちゃったけど餃子のむつぎくもありましたっけ。でも、この町の本当の顔は「夜の町」だそうですよ。どうしてその町が天狗の意匠を掲げているのかと言いますと、パンフによれば「この地方きっての古社松尾(まつのお)神社が氏神。御身体を守護する猿田彦命(天狗様)をもって他町の凧を威圧せんと若衆の意気衝天の心をよく表わしている」ですって。サルタヒコの神でしたか。



「松尾神社って天狗の神社だっけ?」と思ってあとで行ってみました。
うーーん、まったく気配すら無い。そもそもこの神社、千歳町ではなくて元魚町にあります。でもこの神社、こんな見た目ながら歴史が古く「浜松の守護神」とみなされていて、千歳町だけでなく肴町・伝馬町・平田町・旅籠町・塩町・成子町・東西菅原町・元魚町と合同で厚く尊崇しているとのことでした。(社殿が貧相なのは浜松全体が執拗な空襲で念入りに徹底的に焼かれたためです)。文中「御身体を守護する猿田彦命」とある「御身体」とは、京都の「松尾大社」と共通する主神・大山咋神のことなのでしょうね。「松尾神」と併祠される猿田彦である「白鬚神(=天狗様)」こそが浜松の産土なんですって。さらに、案内板にはこの神社を創建したのが「明徳2年に曳馬城の城主となった松尾信濃守という人」だと変なことが書いてあります。何者だ松尾信濃守?(信濃国主小笠原長忠の配下の名前に同名の人がありますけど、おそらく別人でしょう)。一般には曳馬城を築城したのは(諸説ありますが)今川貞相で、その年代は永正年間とされています。明徳と永正は近い年代ですが、静岡県神社庁編纂の『浜松市神社名鑑』(昭和57年)にも「松尾神社の宮司は浜松城に常勤し、城内にも松尾神を祀って城の鎮守としたため、浜松城は別名松尾城とも呼ばれた」と書いてあるため、何か知られない由緒を持っている神社ではあると思います。白鬚神がどうした理由で浜松まで来たのか知りたいですな。ハッ、近江--遠江繋がりでしょうかッ
ともあれ千歳町の凧の由来は天狗の元祖サルタヒコ神。これにちなんで千歳の衆は「天狗連」と名乗っており、なんかかっこいいな。





われらが三尺坊大権現の「天狗のうちわ」を凧の模様としていますのが三組町。
三組町には北遠の秋葉山の別当でありながら徳川家康の隠密となった叶坊光幡が、浜松城で近侍していた時に建てた秋葉神社(叶(かのう)坊)があるのです。明治19年に秋葉町・半頭町・清水谷町の3つが合併したので「三組町」という名前になったんですよ。
「三組町の中心にある秋葉神社が凧印の元である。秋葉神社は天狗の山として有名であり、その天狗の団扇もみじの葉が、神社旗の印になっており、神社のお許しをいただき、もみじを凧印とした」
そうそう、秋葉天狗のウチワは八つ手ではなくてモミジなんですよ。秋の葉といえばモミジで、秋葉山にいた蛙の背中にモミジ模様が浮かんでいるのを見付けた行基菩薩が「秋葉山」と名付けた、という伝説がありますから。(八つ手は常緑樹)



もうひとつ「天狗のウチワの凧」(こちらは棕櫚の葉)を揚げている町がありまして、それは上西町。
蒲の冠者の勢力圏の町であります。
「上西町の氏神である冨士神社の御神紋を示し、天狗の追い風に乗り、青空へ舞い揚がるようにとの願いが込められている」
富士宮浅間神社の大宮司・富士氏の家紋の棕櫚団扇は一般には天狗の団扇とは区別されているはずなんですね。でも、富士氏は天狗も信仰してたからこの家紋にしたという邪説もある(知切光歳はほのめかしているのみですが)。


ついでなので、徳川家康由来の凧もいくつか。
家康はドケチで有名で「役に立たぬ華美なもの」が大嫌いだったので浜松城下での凧揚げは禁止したという伝説があります。(次に浜松城主となった堀尾吉晴が凧揚げを奨励した)。意外と、同じようにケチで悪名を馳せた“倹約の権化”水野忠邦は浜松では凧揚げ自体は禁止せずに「凧は大きくしないこと」「色は黒一色にすること」と規定したのみだったといいますので(それでもかなりケチっぽい凧になってしまいますが)、浜松の凧に限定して言うのならば「水野忠邦よりも徳川家康の方がよりどケチ人間だった」と言えそうです。(ただし二男秀康が生まれた年に家臣が凧を揚げたという記述も偽書『浜松城記』にある)



佐鳴台の凧。
なんと、徳川家康の奥さんの築山御前をモチーフにしているのです。
佐鳴台には築山御前が殺害された御前谷があるからでありますが、「無念に死んだ築山殿の怒りを怖い顔で表現したのか!」と思ったらそうではなくて、「佐鳴台地区には、浜松城主徳川家康の正室、築山御前にまつわる大刀洗の池および赤宮神が存在していたなど、双方女性にまつわる史跡から、女性の喜怒哀楽を表現するという般若の面を使用している」と書いてあります。つまり心優しい女性から溢れ出るたおやかな感情の発露の束が、般若然の顔となるのですね。「般若」とはそもそも「智慧」のことであります。築山御前は聡明な(?)方でございました。私は般若湯が大好きです。
別バージョンもありました。さかさまでごめんなさい。大凧はバランスを取る為の棒が下に生えてますので、置くときはさかさまにするんですよ。



なお、佐鳴台はとても広い町で(1~5丁目まである)、佐鳴台1丁目だけは別の凧をあげるそうです。



「佐鳴台一丁目」なのに遠目では「佐二」と書いてあるように見えますが、これは「佐乃一」と書いてあるんですって。
「この地域が古戦場であったことから、佐乃一組が凧揚げ会場に挑む心境を、矢立の中にある一本の矢羽根として町のシンボルにみたて、これを凧印とした」
えっっ、佐鳴台が古戦場!? いつの時代のことだろう



小豆餅。
家康伝説では必ず紹介される「小豆餅婆さまと銭取伝説」の図案です。
「三方原合戦の地に今も残る小豆餅、銭取りの地名から、餅つきの杵を中心にして左右へ一文銭を配し、小豆餅の「小」の字をデザインした」
文字をデザインしながら伝説をもれなく包括するというとてもすばらしいデザイン。浜松には「小」の字の付く町は他にもあるので、これだったら「私の町だ」と一目で分かります。シンプルで居ながらかなり目立つ。小豆のお餅そのものではなく銭を図案にしたというのも秀逸。家康が払ったのは1文ではなくて2文だったんですね。ぷぷぷ。



それに対する「銭取」。(※写真を撮り忘れてしまったので公式サイトから絵を借りました)」。
(「銭取」という地名は泉町にあります)
「泉の周辺が銭取であったことから、昔の銭形である一文銭を凧印にし、町名の「泉」の文字を配した図柄としている」
ね、当の銭取りを擁する泉町が一文だといってるんですから、やっぱり小豆餅の値段は1つ一文で、家康は餅を2個買って食べたのだということがわかりますね。(波模様があるということは家康はもしかして寛永通寶(もしくは文久永寶)の4文銭で支払った? いえいえ、一文銭って書いてあるし、神君時代の浜松では独自の波模様のある一文銭が流通していたに違いありません)



富塚町北。
「武田勢が攻めてきた折、家康は驚き慌てて鯉の片方を食べ、片方の身はそばの池の中に捨てた。片身の鯉は出世して、佐鳴湖の主になったという云われを図案化した」
なんと、浜松の「片身の魚」伝説は秀吉だけじゃなかったのか。
家康凧はこれだけ。

秀吉由来の凧もひとつありました。



頭陀寺(ずだじ)町。
「頭陀寺城の松下加兵衛之綱に仕え、のちの太閤秀吉となる出世話にあやかって、ひょうたん印で初子の将来の幸運と出世を祈り、町民同士の語らいの和の意を込めている」

今川氏真由来の凧もひとつだけあったんですけど、写真が撮れませんでした。
恩地町の凧で「恩」って一文字書いてあるだけなんですけどね、この町の「恩」の相手は今川氏真なんです。

注目すべきなのが、この町の凧。



入野の凧。
書いてある「義廣」ってどちらのお子さんかといいますと引間城主だった飯尾豊前守の初子なんですね。浜松まつり由来の故事を凧由来にしてるんです。『浜松城記』によると飯尾豊前守に「義廣」という名の子供が生まれたのでそれを祝って入野出身の佐橋甚五郎という人が大きな凧を揚げた、というのが伝説上の浜松まつりの由来。でも、飯尾豊前守はふたり(飯尾豊前守乗連と飯尾豊前守連竜)いたんですけどそのどちらにも「義廣」なんて名の子供はいないし、そもそもこの時代に生まれたばかりの子に義廣なんて名を付けるか! ていうのが『浜松城記』がデタラメだと断定された大きな理由なのです。それを分かった上での入野町のこの図案。だって入野在住の佐橋某(この人は実在した)が凧を作ったとしても、凧に「義廣」と書く権利を持ってるのは元目町か元城町じゃないですか。
でも、飯尾豊前守連竜の子、飯尾義廣が「ほんとうにいなかったのか」を証明できないのも歴史の妙なのです。もともと斯波氏の被官だった飯尾氏は斯波氏衰亡後、今川氏にすりよったり謀反の動きを見せたりいろいろしましたので、永禄以前に、ごますりの為に子供の誕生にかこつけて「義」の字をもらう約束を早々にとりつけて(今川は「義」の字は容易に与えないはずなんですけど、飯尾氏は極めて稀な立場にあった)、でもやっぱりその約束を破り捨てた可能性が、そして引間落城後、飯尾の子供の存在が闇へと隠された可能性も(小説の世界では)無いでもないのです。浜松の椿姫は夫が惨死を遂げたのに何のためにあんなに必死に戦って散ったのか。それは幼い息子のため! 連竜自身が幼名義廣だったのかもしれない。そんなこんなを分かった上での入野町のこの図案。(大事なことなので二度言います。入野町は当初、反徳川側でしたからね)
入野町は凧揚げ参加町としては新参の町(昭和51年)で米田一夫氏や神谷昌志氏が著書の中で『浜松城記』を否定したのが昭和62年前後。



浜松生まれのヒーローといったら“蒲(かば)の冠者”源範頼。
井伊直政は引佐生まれ、徳川家康は三河生まれ、結城秀康は雄踏生まれ、豊田佐吉は湖西生まれ、本田宗一郎は天竜生まれ、山葉寅楠は紀州生まれですからね。
真の浜松生まれの英傑は源範頼、徳川秀忠の二人しかいません。
が、範頼関係の凧はひとつもありませんでした。残念・・・
平安後期には「蒲二十四郷」といってとてつもなく広い領域を持った蒲の御厨ですが、その後いろいろあって現在では10ヶ町(神立町・大蒲町・将監町・植松町・宮竹町・西塚町・上西町・丸塚町・上新屋町・子安町)のみを「蒲地区」と称します。その「蒲(かば)」は浜松駅から近いのに独自の気風を保ち、平成になるまで「蒲の神明宮の祭り(10月)の方が大事」として浜松まつりには参加していませんでした。大蒲町の参加は平成7年、神立町の参加は平成19年。だからその凧模様も新しく選びぬかれた最新のデザイン理論でやられているはずなのですけど、そこに蒲公の入り込む余地は全く無かったって事ですね。つくづくも残念。やはり一番優れているデザインとは「蒲」(大蒲町)とか「子」(子安町)とか「丸」(丸塚町)とか、一目でパッと分かるシンプルな一文字デザインなんです。でも上西町(平成4年参加)とか冨士天狗の団扇ですし、植松町(平成2年参加)は将軍義教公が褒めたという松の植木、宮竹町(平成21年参加)は「神なる竹」を模様にしてあしらっています。そして、蒲の大神のおわす町・神立(こうだち)町の模様がこちら。



立ってる! 右三つ巴の紋が蒲の大神の神紋だそうです。

とまあ、凧の模様を眺めているだけで楽しいお祭りでした。
近くに「浜松まつり会館」というのがあって、そこに過去の各町の凧模様の変遷などが展示してあり、見ると意外と試行錯誤が繰り返されてきていることが分かります。



下池川町なんて「イ」と「k」と「川」の字をうまく組み合わせて独自感を醸すためのいろいろの工夫の末に現在は「イ」の一文字となっている。やはり一文字凧が一番優れているのでしょうか。



三組町も最初からもみじのウチワじゃなかったんですよ。
会館にはたくさんの年輩の方々がいて、熱心に説明してくださっていました。この時期だけのボランティアかな。いくつか質問をしますととても楽しそうにお話ししてくださいます。この方々ってきっと若い頃は熱烈な凧戦士だったんでしょうねえ。「凧はどういうきっかけでデザインを変えるのか(頻繁に変えるそうです)」とか「凧の絵の金型は意外と高い」とか「絵の描き方」とか、いろいろ教えていただきました。数年後にまた来たら、多数の町の凧の模様が変わっているのかもしれません。私は初心者ですので今日の風具合は「大凧揚げには足りない頼りない弱風」だと思っていましたが、会館の大先輩のお話だと、「今日はとてもよい風」だとのことでした。上の方にとても良い風が吹いているという。強すぎる風も困りますものね。



風の具合で凧はいろんなところへ飛んでいくものでして、
狭い会場から飛び出して住宅地の方でも凧を揚げている組があります。これは決して好きでそんなところでやっているわけではなく、凧と風の都合に合わせた結果なんですよね。で、住宅地に墜落した凧も。そこに登場するのははしご車。これは電気工事をやってる場面じゃなくて、電線に絡まった糸と凧をほどいてるんですよ。うひー怖い。近辺は停電状態にしてあるんですかね。はしご車は2台出動し、電信柱で大活躍しておりました。


15時頃にシャトルバスに乗ってアクト塔へ。
御殿屋台の行列が始まるのは18時からなので、それまでヒマです。
行列に備えて町の各所で屋台の準備をしてましたので、それを歩いて巡りました。すでにして歩きすぎて脚が痛い。
公式パンフには各町の御殿屋台の説明がちょろっと書いてあるのですが、凧とは違って説明がとても簡素でほとんど詳細が分からないのです。写真も小さすぎて、少なくともこれを見る限り頼政公の鵺退治や天狗様の屋台があるのかないのか全然不明なのです。全部見て回る必要があります。凧と違って屋台の市中練り回しはオマケですから全部の町が参加する必要が無く、屋台の数は89だそうです。



一番個性的なのは元城町の御殿でしたね。ただのお城の模型かと思いきや、随所の意匠も細かくされている。





泉町。弁慶と牛若。上に鞍馬天狗が。



高丘町。恵比須神。



東田町。櫛名田姫と素戔男



和合町。桃太郎の鬼退治。狐っぽい犬。



旅籠町。清正公の虎退治。



佐藤中町。天の岩戸。



亀山町。公式パンフには「乙姫と浦島太郎と亀」と書いてあるんですけど違うと思う。



完全に寛永四文線(十一波銭は1769年以降ですが凧の模様は十一波じゃないですよ)の泉町。源義経公の武勲。



砂山町。蝦蟇仙人と鉄拐仙人。



海老塚町。伊勢海老の町の名の由来は定かではないそうです。(浜松駅の西側、海の無い町)



浅田町。源三位頼政の鵺退治、、、、 じゃないですよね。源頼光と酒呑童子かな。

どれも凄いんですけど、四方に立派すぎる彫り物が縦横無尽に踊っているものですから、説明が無いと(ほとんど無い)なにがなんやらわからなくなってきてしまいました。
結局頼政や五位鵺はいたのかいなかっのたか、わかりませんでしたとさ。

そして、薄暗くなってきますと行列開始。見事でしたけど、私のカメラではもう何も出来ることがございませぬ。

わたくしの最も観たかったのは“天狗連”千歳町の御殿屋台。おお!!





うひょー、凄い! かっこいい!





もう暗くて全然明晰に撮れませんけど、鞍馬天狗と烏天狗たちですってよ。
公式の詳しい説明のあるサイトさんがコチラ



べんがら横丁と般若連。
今日ぐらいは横町も繁盛していて欲しいですね。見に行けなかったですけど。



あんなところに瀬名姫のお顔が。

小腹が空いたんですけど、見回しても遠州焼きとかチュロスとかフランクとか棒パスタとかそんなのばかりで「浜松グルメは先週存分に体験したからな」と思っていましたら、アクト塔の地下広場にこんなコーナーが!!



題して「世界の屋台!!」
そうですよね、鰻とか河豚とか海老とか烏賊とか餃子とかいくら浜松の名物とかほざいていても、「日本の中の真のブラジル」と称えられる浜松市の一面を逃してはいけません。私が高校時代にバイトした浜北のバイク工場で、ペルーやブラジルの方々がぎょうさんいたあの体験を懐かしく思い出します。浜北では美味しい印度カレー店が次々に失われていってる最中ですけど、わたしたちは浜松が誇るエスニック食文化を忘れてはいけない。

なので、広義のブラジル料理をたくさん食してみたいと思いました。今日は電車で来てるしな。



浜松名物シュラスコ、600円。スーパードライと一緒に。
うをーーなんて旨いんだシュラスコ! と思ったのは一瞬だけで、熱々のシュラスコは柔らかく味付けは濃厚で(主に岩塩の味)、それはそれは美味しいんですけど、熱を失うと同時に硬くなり旨さが瞬時に吹き飛んでいきます。でもシュラスコって初めて食べましたけど、浜松にはブラジル料理店がいくつもある。絶対近いうちに再挑戦しますよ、熱々のシュラスコの食べ放題に!



インカ料理店にて、「エンパナダ・デ・ポジョ(インカ肉餃子)」300円、とコロナビール。いろいろ注文しインカビール(?)も注文したけどいろいろあってこの品だけになっちゃった。まあいいか、さっきのシュラスコで満腹だし。インカ餃子、インカ帝国人ってこんな旨いもの食べてたのか!! 皮がサクサクのパイ。他のメニューもいろいろ食べたいと思ったけど、今日の私のお腹にはその余地なし。朝の食事(キムチ鍋)を食い過ぎたか。

となりにエジプト料理店があって、そちらにもとても気を惹かれたんですけど、ずっと行列で、私が入る余地はありませんでした。エジプト焼き鳥、エジプトカレー、食べたかった。



そしてアクト地下の舞台ではスペインのダンスを延々とやってましたとさ。陽気なお祭り。
練りは22時過ぎまでやっているそうですが、かなり疲れが溜まってきたのでわたくしは21時頃に帰りました。楽しかった。
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2 コメント

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Unknown (高城亜樹)
2020-04-17 01:46:07
浜松まつりの参加町の一つ「中澤町」で役員(襷を掛けた人々)をしている者です。

本文中に「凧糸が絡まっている」という光景が出ていましたが、浜松まつりは町毎に凧を揚げ、初子を祝うお祭りですが、その中で、「糸切り合戦」(一般的には「合戦」と呼ぶ)というのも名物の1つです。これは、複数町で凧糸を絡め合い、それを摩擦で切り合うというものです。
絡まってしまったのではなく、絡めているのです。

また、凧には2種類あって、初子の名前の入った祝い凧「初凧」と名無しの「町凧」に別れます。一般的には、初凧のスケジュールが組まれている中で、空いている時間に町凧を揚げる感じです。
合戦は初凧、町凧どちらでもやってます。

また、浜松まつりは5/5(こどもの日)が最終日ですので、5日の午前中は「子ども凧揚げ合戦」が実施されます。まつり参加174町全てが子ども凧揚げ合戦に参加する訳では無いです(中澤町は参加しています)が、こちらも面白いですよ。

そして、浜松まつりは「凧揚げ合戦」「御殿屋台引き回し」「初練り」の3本立てです。凧揚げの後、夜になると、参加各町や浜松駅周辺で屋台と練りを見ることができます。練りは屋台の運行開始前に地理的に近接する複数の町での合同練りというのもありますよ。(中澤町は合同練りには参加していないです)

もし機会があれば、上記の点を踏まえて見ていただけると幸いです。(過去の動画はYouTubeにも出てますよ。)
返信する
信貴山別院。 (麁鹿火)
2020-06-19 14:31:47
高城さん
ありがとうございます!
手持ちの写真を見返しても、中澤町のものがなぜか見あたらない。
中沢町はなかなか豪華だそうですね。
来年の浜松祭りは中澤町と海老塚町の物をメインに見に行きたいと思います。
今年は、(旭町にある私のお店も)とても残念でした。
来年は2年分稼ぎますぞ。
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