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揺るがす者の寺院(続々)。

2014年05月22日 01時19分11秒 | 遠州の歴史

(新光明寺の黄金の大黒真天。昭和6年の光明山の大火災のあと、昭和12年に作り直されたもの)

5/15に行った光明山の天狗探しのつづき。
光明山に登ります(車で)。二俣川沿いに国道362号線を走っていますと、至る所に「光明山遺跡はこちら」の案内板があります。いくら走って行っても看板があるので、「光明山遺跡って何ヶ所もあるの?」と思ってしまうぐらいです。実は、光明山はとても面積の広い山で、本当だったら幾つもの名前に分けても良いぐらいの低い領域が、全部光明山の名前で呼ばれているのですね。で、上り口の案内がたくさんあるので「登山ルートがたくさんあるのか」と思ったら、山東・只来付近の案内板は皆ただ一つの登山口(麓ルート)に案内されている。



光明山の登山については、サイト「よみがえれ秋葉古道」がとても親切です。こういうの非常にありがたいですね。それによりますと光明山の登山道は「麓橋古道」「只来古道」「横川古道」「お目たで池古道」「長沢古道」「秀珍林道経由松間古道」「松間古道」「佐久古道」の8つがあるそうですが、難路が多く、一般的に昔から使われていたのは(丁石があるのは)メインが「横川古道」で従が「麓橋古道」だったそうです。でも、横川古道は車では入れず、今では車で行けるのは「麓橋古道」と「長沢古道」。昔の人の苦を思うと便利な世の中になったものです。


麓橋古道入口付近。ここからは光明山の山頂は見えません。

南北に長い光明山の尾根伝いに南から走る「麓橋古道」は非常に距離が長い。13時半に山道に入り、快調に飛ばして「光明山遺跡」に到着したのは13時50分でした。先程行った新・光明山にもお寺の前に「光明山古墳」があったのでとても紛らわしいんですけど、光明山古墳は古墳時代の遺跡、大酋長のものだったと思われるとても大きな前方後円墳。対して旧・光明山にある「光明山遺跡」とは「旧・光明寺」そのもののことです。昭和6年まで現役のお寺だったところです。



見えないと思いますけど「古井戸」「箱井戸」「五人塚」「方神塚」「奥ノ院跡」「大権現」「鏡石」などの文字がある。



この日は雨が降ったり止んだりで、山頂まで来ると深い霧が立ちこめていました。天狗が出そう。



光明山の一番の見所は、まるで巨大城砦かとみまごうばかりのこの石垣。
そもそも「光明山遺跡」というのは、お寺であり、古城でもあるんですよね。もともとお寺があったのを、今川方の朝比奈時茂がお城にしてしまったのですが、やがて徳川が取り、その後武田が獲り、天正3年6月までは武田氏の城でした。徳川家康は気田川を挟んで犬居城に対しているこの城に目を付けて、本陣としたと伝えられています。この戰さでは家康が負け戦だったことが多かったので伽藍のほとんどが焼失してしまったのですが、戦後、その城構えを元にお寺が再建されて、以前より立派なお寺へと生まれ変わった。ここに来た人は大体言います。「お城みたい」と。
が、戦国時代の遠江にこんなりっぱな石垣があったわけはないので、おそらく江戸後期~明治ぐらいの造営になると思います。
石垣構造で一番立派な部分が、正面の仁王門から本堂に上がる付近のところにある石垣ですよ。(建築物は現存せず)。なお、兵藤庄右衛門は仁王堂の絵を描いておりません。当時は無かったのか?



この石垣も長い歳月の間草に覆われ、ラピュタみたいになっています。杉に覆われたラピュタ遺跡。
これ、見た目は階段なんですけど、すり減っているのか馴れてしまったのか、ほぼ滑り台状になっており雨の日や白い霧の日は危険。





本堂付近。何も無い。





敷地の奥の方に、石垣で盛られた一段高い場所があります。
案内板には「神前」と書かれていますけど、『遠江古蹟圖繪』には「光明山大権現」と書かれてある。つまり天狗の居場所(御真殿)ですね。本尊よりも高い位置。護山というのはそういうものです。
その天狗台にも今は何もありませんけど、すぐ近くに小さな社が。



敷地内にある建造物はこれと下の望遠鏡と江戸や明治の年号を書いた折れた石灯籠だけ。何の社かどこにも書いてないんですけど、天狗様でしょうか。中を覗くとさらに小さな祠とふたつの木像(天狗ではない)があります。



ここからの景色は凄く良いんです。望遠鏡が設置してあって、100円入れる式かと思ったらよく見たら無料式だった。なんて太っ腹なんだ。でも今日の天気だと覗いても白い霧しか見えません。家康にとっても、実は見えて欲しい方角は浜松城の方ではなく、秋葉山の方角だったと思います。





不思議な形の常夜燈。



この案内板、6年前に来たときはちゃんと設置台に掛かって文字も読めた記憶があるのですけど、現在は朽ちて下に落ちてしまっています。
よく見ると、絵の部分にただごとならぬ記載があるぞ。つまり、『圖繪』が「光明山大権現」とした箇所が「本殿」とされており、本堂(三満殿)のあるべき場所が「観音堂」と書かれているのです。そういえば誰も注釈してくれてないですけど、行基菩薩がこの寺を開基したときに彫った三体の仏像のうち、十一面観音の像はどこにいってしまったんだ? 仁王門(楼門)ももう一つの案内板の絵と建っている位置が違う。



下の説明書きも、解読してみますね。
「森林のおいたち学習林
光明山は西暦717年、高僧行基が開創した明鏡山光明寺により発展し、寺院周遊には数百年を経過した見事な森林が広がっておりましたが、昭和6年に発生した火災により、寺院及び森林は灰と化してしまいました。その後寺院は山東へ移転再興致しましたが、石垣を残すのみとなった寺院跡周辺の森林は、地域の人達により分収林(一種の借地造林)が設定されることとなり、そこに杉・檜などの植栽が行われる様になりました。
当時は林道も整備されていないため、下刈り・枝打・間伐などの保育作業は大変でしたが、地域の人達は荒れた山道を徒歩で幾度となく通い、熱心に作業を行い、現在の様な立派な森林が蘇り、古えの光明山美林が再現されたのです。
その後、林道の整備が進められ、また平成三~四年度には、生活環境保全林事業が実施され、森林リクレーションを目的とした遠方からの来訪者で賑わいをみせております」

なんと! 寺院の案内板かと見せかけて、周囲の樹木の繁茂具合を観察しよう、という趣旨の案内版となっているわけですね。山火事があっても人が住まなくなってたった80年で森はこうなるよと。この木の案内板も、あと数年で字が全く読めなくなると思います。20年近く経った物だと思いますけど、残念なことだ。



ありがたい休憩舎があります。こんな天気の日でも入れるようになっており、とても助かる。藤の花が綺麗ですが蜂がたくさんいます。中に、自由に持って行ける山歩きの地図が用意してあり、これがなかったら私はとても困っていたでしょう。(持っていったタブレットは使えなかった)。簡素な小屋ですが、山の写真や山の紹介などもあり、明治41年にブラジルに渡った“移民の父”平野運平(掛川出身)の「平野植民地」(サンパウロ州)に、「平安山光明寺」の額が掛かっていたことを知りました。

さて、そこから奥の院へ行きます。
以前来たときは、奥の院に行かずに帰ってしまったのです。あの日も今日のような天気だったと思う。



休憩舎のところに貼ってあった地図の一部拡大。(この地図はいただけます)
この地図には書いてないんですけど、奥の院のすぐ近くには「鏡石」というものもあるそうです。この鏡石が、この山が「光明山」と呼ばれている名の由来(だと思われる)なのです。これが一番見てみたい。(天狗と関係ないですけど)
地図中の一番太い線が林道(車で通れる道)。これ見ると、奥の院はとても近いんですよね。歩いて行っても容易でしょうが、わざわざ車で近づいていっても良い感じの表記ですので、そうすることにしました。地図を見ながら車を運転し、それっぽい箇所を発見し、藪の中に入り込んで歩き回って探索しました。うーーん、どれだ? 建物等はそこに無いことは知っているので、奥の院っぽいところ、いわくありげな岩っぽいのを捜してみるのですけど、素人にはどうもすべての場所が全部それっぽく見えるのです。わたし眼的に一番神秘を放っていたこの岩を「鏡岩」(磨けば光りそうだよね)と認定し(付近に他に表面が平らな石は無い)、また良さそうな平地や水たまりもあるので「ここが奥の院だ」と決めつけて、帰途に着きました。



ところが車をしばらく走らせると、少し行った所に「この先奥の院」の看板が。・・・なんだ遠いやん。
しかたなく車を停めて、その坂道を登ることにしました。



延々とその坂を登っていきますと、着きました、光明山山頂に。
ってちょっと待ってっ、私は奥之院に行きたいのにどうして山頂に着いてしまっているのっ? しまったこの道はトラップだったか。ここから降りる道が下に続いてましたが、降りるって事は車に戻るには再び登らねばならぬってことなので、私はそこから一旦車に戻ることにしました。うひー。おそらく奥の院はここから凄く近いと思うんですけど。皆さん、奥之院には罠がたくさんありますからね、気をつけて!

車に戻ってもっと奥之院に近い便利な入口を見付けるために車を走らせますと、見つかったのがコチラ。



なんだよー、道じゃないじゃん。さっきからの歩きで私の靴とズボンは水でぐっしょりです。と思ったんですけど、草が繁茂しているのは入口のところだけで、あとは快適な歩道で、すぐに奥之院に到着しました。皆さん、入口のこの見た目はただのトラップですから気をつけて。





ここで撮った写真のほとんどがピントが合ってません。とても疲れてたんだと思います。
一番肝心な、「奥の院が建っていた場所の信じられないくらいの狭さ」が一目で分かるような俯瞰写真を私は一枚も撮っていませんでした。なんてこったい。
すごく大きな岩があり(これが「鏡岩」なんでしょうね。先程私が認定した「鏡のようだと言えなくもないと主張しようとした表面の岩」とは桁違いの大きさだ)、その影に隠すようにしてある小さな平地が奥の院。
ここに来る前に見てきた新・光明寺の奥の院の摩利支真天堂は、もともとここに建っていたんです。
昭和6年の大火事では伽藍は燃え尽きましたが、少し離れた位置にあった奥の院は無事でした。それをそのまま、山東の新・光明寺の上の方に持っていって移したんですって。
こんな暗くてジメジメしたところにあんな立派な建物があったなんて信じられないね。
その当時の写真が「出かけよう!北遠へ」さんにあります。すごいね。

ついでにもう一つ、旧光明寺にあった伽藍を考察するに当たって避けられない資料に、14代将軍家茂の頃に描かれた五雲亭貞秀という人の版画があるんですけど、これも「出かけよう!北遠へ」さんにとても素敵なカラーの写真があります。(奥の院ではなくてさっき行った光明寺遺跡の方の図解です)
が、これを見るとここには60年前に兵藤庄右衛門が描いた天狗台が無く、この広々とした敷地に奥の院にあるはずの「兜入摩利支天」の堂が建っていたことになるので頭を抱えてしまうのです。もちろんこんな所に建物が建っていたなら、昭和6年の大火事で焼け伸びているわけがありません。先に述べたように(←述べてないが)「家康の兜入」摩利支天は盗難に遭って70年が経過しています。本堂も少し手前にありすぎる気がします。

ここに来て分かったこと。
結局の所、「奥の院」と「家康隠れ岩と「大権現」と「鏡岩」は、ひとつのものを指していたのでした。
すごい立派な岩なのですけど、奥の院から見て、この岩は裏側なのです。
「この岩を表側から見なければいけない」と思いました。裏から見てゴツゴツな大岩は表から見たら鏡のようなのかも知れない。
裏から見ても、この岩には不思議な穴がいくつか開いています。



私にはムリでも30代のすごく痩せていた頃の家康ならこの穴に隠れられたのかも知れませんが、表側にはもっと隠れやすそうな穴があるのかも知れない。

少しだけ危険な道を反対側まで降りてみます。





すごい。すごすぎて足場が悪すぎてこの巨大な岩の全体図を写真に撮れない。



赤豆坂合戦で「家康の隠れた岩の穴」とはコレでした。
イヤン、30代の家康様って私が想像していたより痩せていてペラペラだったのね。
私だったらこれを見て「柳生天狗の一刀両断岩」と名付けそうです。

さて、問題となるのは『遠江古蹟圖繪』の記述です。
「光明山となづくる事、この山の山頂に鏡石有りて、朝日出づる時は光明さし光輝き、南海へ光差して漁猟なし。ゆゑに漁人の難儀なりとて、この石を深く埋めて巌窟へ隠すと云ふ。今に奥の院の後の山に鏡石を埋めたる所有りて、後世に残る。また、西の方に天狗塚有り。人行くこと叶わず」
この巨石そのものは「鏡石」じゃないのか? いやいや、この岩のたたずまいから見て、この巨石こそが霊岩のはず。(ごつごつしていて全然鏡面じゃないですけど、クレンザーでごしごし磨けば光り輝くのではないか)。あまりにでかすぎたので行基は「深く埋め」ようとして挫折したんだと思う。
大事なのは、「山頂の少し下に、遠州灘から見えるほどの光り輝く岩があった」ということです。(今は高い杉が生い茂ってここから海を見ることはできませんが)。アルプス山脈の「光岳」と同じ謂われを持っているんですね。そして、「光岳」にも天狗伝承があります。文中にある「西にある天狗塚」とは明星谷の森のどこかだと思います。行基が山頂で祈ったとき7千5百人の天狗が涌いて出た場所。(記されてませんが、行基に寺の今後のことを任されながらいつのまにか逐電し、15年後に天狗となって再出現した僧最伝もその一人だったと思います)

この日はこれで満足して、家に帰ることにしました。
林道を下ると道の駅「いっぷく処横川」のすぐ近くに出ます。
一応覗いていきますと、天狗ソースと一緒に先日買えなかった「天狗煎餅」が売られていました。
やったっ。



喜び勇んで、「天狗山椒煎餅」(155円・税込)と「秋葉山名物火坊巻き」(432円・税込)、「秋葉山名物げんこつ生いもこんにゃく(遠州の小京都森のこんにゃく)」(150円・税込)と、それから「秋葉山天狗サンショウ」(210円・税込)を購入しました。



サンショウは瓶入りの物(280円)と粉のものと粒のものがあったので(山椒は粒で採れるということを知らなかった私は ←葉を粉にして食べるのだと思っていた。家の庭に生えていた木の葉の臭いが凄かったので)、面白そうだから粒の物を買おうとしたところ、念のためにお店のお姉様にこの山椒の粒の使い方を聞いたところ、料理をしない私にはとてもハードルの高い説明をされた。やべー、思わず私には途方に暮れる用途の物を買ってしまうところだったぜ。粉にしてある山椒だったらこんな私でもいろいろ使い途がありますからね。鰻にかけるとか煎餅にまぶすとか。(どなたか山椒の粉の活用方法を教えてください ←賞味期限が短い)









さっそく家に帰って食してみました。



む、醤油があまじょっぱいのに全体的には甘くない。またまた山椒の風味は強くは感じない。(私はいい加減嗅覚がおかしくなっているんじゃないか)。お酒に良く合う煎餅です。(こればっか)。おいしい。また買ってきましょう。

火坊巻は秋葉の門前でよく売ってあるやつですよね。ひっくり返してみてみたら、製造メーカーが春野の会社ではなくて、浜北に隣接する笠井町のメーカーだったので一瞬がっかりしたのですけど、念の為に買ってきました。そういえば先日寄ったいきいき天狗村にも、前に挙げた3店舗以外の「大天狗饅頭」(280円)が売られていたんですけど、これもまた笠井のこのメーカーの物だったので買うのを止めてしまったのでした。でもこれは、笠井に天狗メーカーがあるってこと? ・・・調べてみたら、違いました。まぁいいや。



火坊巻き、中に白いクリームが入っていると思うでしょう? これは硬くて白い飴なのです。天狗の鼻をイメージしているのですね。
こんにゃくはまだ食べていません。賞味期限長いし。


日を改め(5/18)、再び春野町へ向かいました。



気田川は今日も美しい。



今日は秋葉山の奥の院の竜頭山の八尺坊を見に行くつもりだったんですけど、その前に、反対方向なんですが、熊切川をさかのぼってその上流にある村々を見に行くことにしました。
北遠の天野遠景の御子孫の歴史はなかなか変で、そのうち纏めますからね。

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