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ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

フルトヴェングラー

2008年01月08日 | 歴史の革袋
同じ職場にあっても、都会で働く人の、もう一つの日常はさまざまだ。
ポマードの髪にメガネをかけ、学者風にゆっくり話す彼は、あるときはカメラマンらしかった。
いろいろな撮影依頼が舞い込むという、その分野はどのようなものか。
「いやー、怒られました」仕事の休憩時間に、テーブルの向かいで静かに彼は言った。
なに?
「ホテルに案内して、私がカメラを準備したら、何するつもり!と怒るんですが。いけませんでしたか、というか...」
........。
林野庁方面の仕事ばかりではなかったのか。
頼まれると断れない性格のいま、どのような被写体を追いかけているのか、知りたいものである。
1937年のフルトヴェングラーは、大河のように流れる深刻な時代の緊張と熱気をはらんで、五番は音質もまずまずのスタジオ録音だ。


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海から見る陸奥国分寺と多賀城

2007年10月16日 | 歴史の革袋
松島で腹ごしらえもおえ、次にいよいよ隣町千二百年前の遺跡、大伴家持の多賀城跡と陸奥の国分寺跡をめざす。
海から帆船で入港したいところだが、古代の街並はすでにないので、車で中心部に乗り入れる。
多賀城遺跡は小高い丘陵に広がり、当時は海岸線も内陸に入り込んで、いまからは想像も出来ないような絶景が広がっていたようだ。
家持と芭蕉の旅をしのんで、歌枕に一時を過ごした。

☆スケッチは、想像図

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松島や

2007年10月15日 | 歴史の革袋
レコードの『右』回転を決めたのは、右利きの人である。
レコードが左巻きなら、逆に曲がったアームを、左指で盤に乗せることになったかな。
『バッチア・フィレン』を聴いて、秋の始めに旅をする。
船がゴン!ゴン!と唸りをあげ岸壁を離れたとき、後部デッキから海が見えた。
この松島にて、芭蕉も感激のあまり飽和したという未完の一句を、ぜひ、ひねりたいものだが、不穏な天候に大きく揺れるデッキで、小さな子が親にしがみついて泣きだしている。
海鳥の餌にエビ煎を売っていた乗務員が、見かねて飛んできて何か言っている。
もっと、のんびり舟遊びを期待していた当方は、ふと、浮き袋、救命胴衣を付近に捜す気分になったが、100人以上も乗っている客はイザというときどうするのか、発句どころではない。
そんなことはおかまいなしに、ガイド嬢のアナウンスは島々を結んで行く。
「松の1本生えたあの島は、舟遊びした伊達政宗が、庭に運んできた者には銭千貫を与える、と賞賛したセンガンジマ?でございます」
260あるという小島のあいだを縫って、海龍丸は進む。
ところで、歴史館に停めてきた車の駐車料金はどうなるのかな、ひるの弁当は?
「海の青と空の青や、観光客の放った餌に群れて、海鳥はきょうもさまよう」
芭蕉もたぶん、とり混み中につき、歌どころではなかった。

☆駐車場にビフィーターの姿はなかった。これはこれで臨機応変のビフィーター。
☆塩竃寄りの「ガ○ト」は駐車場が空いていた。席もゆったりと、これまでのところ穴場かな。

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無量光院の客

2007年08月18日 | 歴史の革袋
タンノイ・ロイヤルは吼えている。
「これは5拍子でしょうか?」
エルヴィン・ジョーンズの『INDIA』をフットワークでなぞって聴いていた客が言った。
シェリー・マンの演奏を聴いて次にE・ジョーンズを聴くとき、規則正しい心臓弁膜が一瞬、変拍子になって感心する。
この客は、スティックやブラシを持たせたら大変なものである。なぜなら、それでご飯を食べていたことが有るからだ。つまりお仕事で。
その話は置いて、平泉『無量光院』のことを聞いた。
「あの背後の『金鶏山』は、作庭のとき工事人を大動員して土を盛ったと言われていますが、ほんとうにそんなことが可能で...?」
「それはわかりませんが、むかし、人寄せがあってあの路を大勢で歩いていたとき、ちょうど無量光院の正面から見た金鶏山の頂上に夕日は沈んだのです。一年に、その日が二回有ると地元では言われています」
と言って、側の清楚に着席している奥方に、その時の光景を確かめた。
『奥の細道』にあった泉ケ城をめぐる衣川のことを探訪したことがあったが、辿り着けなかったので、気になっていたそこを質問した。
「いま泉ケ城はどうなっているのですか」
「えっ!。子供の頃、あの近くに住んでいたので、あそこで川遊びをしましたが...」
ジャズと芭蕉は変拍子で、話はトントン拍子に進んでいった。

☆10円銅貨の裏にも彫られている平等院を、平泉無量光院は原形とし、いま現地を訪ねると池の中島に礎石が残って、想像をたくましくして古代のエネルギーを感じるよすがとする。復元は近い。
☆院の屋根の南北両端に1対の鳳凰鳥が風を切っていたが、純金の金鶏1対が背後の金鶏山頂に埋蔵されているのは有名な伝承。
誰も掘り出していなければ、あの山に、まだそれは有る。
☆某国の1萬圓札の裏に描かれた鳥は、平等院の鳳凰ではないか、ともっぱらの噂だ。すぐ飛んでいくのであのチョイスは誤りだった。



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荘園遺跡の2

2007年06月22日 | 歴史の革袋
「神代より 斯くにあるらし 古昔も」
と歌われた万葉の風景を、本寺荘園遺跡に訪ねてみることの続きの話。
磐井川の傍らの道を、どこまでも標高を上げて行くので、しだいに空気も景色も澄んでハンドルを忘れる。
このとき難しいのは車のスピードのことである。
この道に許されるスピードは50キロであるが、なんとなく『ルマン24H』のコースをしのばせるところがモノ騒ぎで、ホネデラ24時間レースがいつか開催され世界遺産を横目にスポーツカーが驀進する時が来るのかもしれない。
路の途中で、いくつか立ち寄るべきところのひとつにアイスクリームの店と蕎麦の店がある。
美味しいモノで無口になった人々をそっと見ると、満足げに瞑想し、タンノイを聴いているときと、どこか似ている。
遺跡を俯瞰するには駒形根神社に登るよう教わったが、そこで、不思議なアザミの花を見た。
自生したものか特別に植えられたものか、探索してみたが鳥居の周囲に2株だけ、その色の見事なアザミは大きく育っていた。これまでで最高のアザミの色である。
鳥居の石段の右手に小さな鐘楼がある。
この梵鐘は大きくはないが、形が観世音寺の7世紀の鐘と似ているような気がする。
おそれおおいが、小さく突いてみた。
予想外に良い音であった。
そういえばROYCEにおみえになった人から聞いた話で、ミジンコ博士も最近ここを訪れて「お、いいねー」と申されたと。

スケッチは正確ではない。
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骨寺荘園遺跡

2007年06月01日 | 歴史の革袋
『荘園』という千年もむかしの営農遺跡が磐井川の上流に発見されたと聞いて、或る日、太古の昔を訪ねてみた。
ROYCEの傍の磐井川を10キロ遡るとそこは厳美溪で、KO氏のウエスタンWE-16Aホーンがある。また、空跳ぶダンゴで有名な某居宅には大変な装置が鎮座している噂があるが、当方は依然として拝聴していない。
厳美溪からさらに上流に7キロ遡ったところに山谷仙人がおり、ゴトウホーンやバイタボックスが美麗な音響であたりをはらっている。
山谷からさらに3キロ上流に本寺HONDERAというところがあり古い文献に骨寺と書かれて目的のところである。
『骨寺村荘園遺跡』は、「吾妻鏡」にある中尊寺ゆかりの別当の所有と、古図の分析をした碩学の証明で、川や道、田園が太古の絵図のまま残っている希有の存在であるそうで、いったいそれはどこにあるのだろう。
さんざん車を走らせてのどが渇き、自動販売機のボタンを押したとき、渋いガラス戸をにゅっと開けた男が「駒形根神社に登れば見える」と教えてくださった。
県道を北東に入ると、急に異次元の空間が開けて駒形根神社は有り、石段のそばの明晰な掲示板でこの世界遺産の候補地となった遺跡の概要を知ることが出来た。
神社に詣でてお賽銭をと箱を探したがそれらしいものはなく木戸の隙間に挟んだら、ほかにもいくつかお賽銭がそのままになっていた。
杉の木に絡んだ藤の花がみごとで、ビルの四階ほどの高さまで咲いている。
朽ちかけた鐘楼の傍らから見た、谷あいに広がる田園風景は忘れ難いものである。
現在生活されている人にとって、庭先まで車で踏み込まれるのは迷惑なことで、何台も車が連なるようになるとき、いずれ侵入禁止となるであろう。
山懐に抱かれるように千年ものあいだ変わらず耕作されてきた風景は、見る者に、ふしぎな安らぎと感慨を憶えさせ、倦きることがなかった。

スケッチは記憶によるもので、正確ではない。
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春は、あけぼの。

2007年04月01日 | 歴史の革袋
春は、あけぼの。
ようやく白くなりゆく山ぎわ、少し明りて、紫立ちたる雲の、細くたなびきたる。
山は、小暗山、鹿背山、御笠山。
木の暗山、入立の山。
忘れずの山、末の松山、方去り山こそ、「いかならむ」と、をかしけれ。
五幡山、帰山、後頼の山。
朝倉山、「よそに見る」ぞ、をかしき。
大比礼山も、をかし。
臨時の祭の舞人などの、思ひ出でらるるなるべし。
三輪の山、をかし。
手向山、待兼山、玉坂山。
耳成山。........【枕草子一段、十段】

一関において、名前の通った山といえば、関山中尊寺。
西行が桜の歌を詠んだ束稲山。
芭蕉の句碑のある蘭梅山。
日本昔話に唯一名の載る観音山。
夜桜に顔を染める釣山。
勇壮な山は室根山。
遠景に見える一番高い山は須川山。
その須川山頂から見える一番高い山は鳥海山である。

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海の茶室の対岸

2007年03月06日 | 歴史の革袋
あの要塞の東の湾から、海を隔てた対岸の丘陵にまた一つの要塞がある。
或る空の青さの透明な初夏の休みに、初めてその要塞の離れにある持仏堂を遙拝しようと遠征した。
走ること1時間。背後から猛烈なスピードで追い上げてくる車に辟易して道を譲ると、髪をなびかせた女がすぐ側を疾走して行った。
地図を、縦に見たり横に見て、幾つもの峠をこえ、尾の大きいタヌキのなきがらが道端に倒れているの避けながら、農作業帰りの老夫妻の車に道を尋ねた。
「後を付いてきなさい」歯の隙間を見せて頷く古老を、山を回り込んだグニャグニャの道に追いかけたが、信じられないスピードで彼もまた疾走している。二股の道でついに見失った。
「ああ、その家なら」道端の婦人が、頬被りの手拭いをはずして指さした方向にしばらく走ると、突然木洩れ陽の間から持仏堂の瓦屋根が見えた。
当主は、作業着の上からザァザァ、ホースで水をかぶっていた。
「松林の殺虫液を頭から被ったので、しばらく待っとりやンせ」
食べきれないほどの珍味がテーブルに並んでいたが、やっとサラの半分まで減らしたところでおなかが苦しくなったのである。
当主はさきごろ、勇躍高価なマツタケの菌を買って、生えたのはシイタケ!と痛恨事を言いながら、国定公園の崖に大量に棄てられたゴミが御公儀に露見して、先週村の衆が総出で清掃した事に話題はうつった。
焼酎を愛呑んでいるが、本当は日本酒がいい、ですと申されて立ち上がると、廊下を離れのほうに向かい、文机の書類の山から、当方の喜びそうな書き付けを広げる。
それから庭の芝生を踏んで大きな御堂の前に立つと、そこに静かな時間が閉じ込められていた。
漆黒の仏像を、はじめて遙拝する。
膝に腕を揃えて、当主は言った。
「あの左右の襖絵でスが、模様が狭く感じることは...ありませンか?作り直させたのです」
いえいえ....りっぱなものと思います。
当主はツと立ち上がると、遙拝した由緒ある持仏の傍に回り込んで当方を招き、光背の支柱と仏像の関係が、あのように開き加減でよいのか、どこぞで見たことはないかたずねて真剣である。
先週は、観光バスが門前に停まった、とぽつりと申される。
庭に出て、しばらく考えてみたが、昔訪ねた、湾の対岸の要塞と、この今眼の前にある要塞の構造は、建物のかたちや間取りがそっくりなのは何故だろう。
当主が車で先導し、半島を回り込んで送ってくださったが、やはり、ことのほか猛スピードで、アクセルを踏んでも踏んでも追いつかない。
そこで、奇妙なことに気が付いたのである。この半島にはスピード標識がどこにも無い。
景色を楽しむのはイナカモノのすることか。

☆絵は張択端の清明上河図、部分。

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海の茶室

2007年02月06日 | 歴史の革袋
雛がいよいよ巣立ちをするときになって、列車にゆられて漁村の要塞まで行ったことがある。
はじめて会う当主は、書道の筆を休め、麦わら帽を掴むと縁側から庭に降りた。
瓶の底のようなレンズのメガネが陽にギラと反射した。
しばらくあとを歩いて、峠のけもの道のような笹藪をかきわけたところは、眼下に海の広がる崖の上。
蔦を掴んで足場を探しながら当主は降りていく。
崖の岩場をやっとのことで後を追うと、垂直のように降りる背後に、ドーンと打ち寄せる音が聞こえる。
当主は、紺碧の波のうねりが、すぐ足元に見える岩場に立って海を見ていた。
わずか3畳ほどの岩のくぼみに溜まった絶海の砂場である。
青い波が、眼の前を傍までうねって怖いようだが、崖を背にぐーっとせりあがってくるリアス海岸の大洋を見た気分は、今も言葉がつかない。
「ここは、誰も降りたことがないよ」
独特の濁声で水筒の御茶を注いでくれたから「野点て」だったのか。

四半世紀も過ぎた或る日、要塞の土蔵に秘蔵されている骨董の写真を、遊びに来た叔母が見せてくださったことがある。
そこに写っていた『泪雫』と竹筒に書かれた1本の茶杓だけしばらく憶えていたが、JBL4350を三重のアルミサッシ防音室で鳴らしているというお客の、同伴のご婦人が骨董店に遊んで、遅れてROYCEに入ってこられた。
「それは『なみだ』といって、利休が切腹の時、弟子に与えたもので徳川美術館にあるそうですよ」
怪訝な顔をすると「茶道の弟子たちに残した五本のうちの1本かもしれませんね」
そのとき、タンノイのジャズのかなたにドーンという波の音が、鮮やかに浮かんだ。

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