魔人の鉞

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彦根市 松原北自治会は ワガママ同好会だ

2020-09-07 10:06:45 | 自治会・町内会

近年、町内のゴミ置き場の問題に取り組んでいます。自治会に入らないで自治会管理のゴミステーションを利用しているアパート住民などから利用料を徴収してはどうかという意見があり、それで適法なのかどうか研究すべしとの話になりました。

ネットでゴミ出しの権利、などで検索すると、彦根市松原北自治会のブログが見つかりました。この自治会は分譲型の戸建て団地の中で、当初できた自治会の運営に不満な人が独立して作った自治会だそうです。

要約すると、そこの「ゴミステーションは開発者住宅生協が同社のお金で設置し、土地・ブロック塀・ゴミ檻ともに、市に寄付しました。上記の経緯・事実から言えば、共同ゴミステーションは、R自治会のものではありませんし、R自治会が、管理権限を有しているわけでもありません。

ですから、住宅生協から土地と家を買い、レインボータウン内に入居した彦根市民は誰でも(R自治会・松原北自治会・自治会に属していない住民、関係なく)、使用権限がある、と言えます。」

という事です。この論理には問題ありませんが、それは設置の経緯が開発業者設置型だからです。私の町のゴミステーションは、近年の開発者設置型よりも、旧来の自治会が路上などに設置し管理しているものがずっと多く、問題になるのはこちらです。ここ数年、わが自治会で設計した折り畳み型のものを設置してきていますが、原材料費がかかり、設置作業は役員の手作業で、1カ所に5人程度で数時間かかります。これを非会員がだまってタダで利用する権利がある、というのはおかしいでしょう。松原北自治会の団地のケースは権利があるでしょうが、それを一般論とすることはできません。

そしてこの松原北自治会の会則を読んで、びっくりしました。事業内容は、何もありません。

第7条  事業

本会会員が、行政または本エリアに居住する者から、人権侵害をこうむった時、本会に属する他の会員は当該会員と団結し、当該人権侵害を無くす努力をする。

第8条 その他の事業

前条以外の事業はしない。

そして、行政や近隣自治会とは何の関係も持たないものとするそうです。

基本理念8: 本会は、いかなる個人・団体・行政と、連携や契約をせず、完全独立を保つ。ただし、共同ゴミステーションに関してだけは、同地区にある他自治会や、同地区内の自治会に属さない住民との協議・合意のみ可能とする。

ゴミだけは別として、市の要請や委託契約、他の諸団体との関係はすべて拒絶。会員が学校の役員になるのも不適切であり、拒否または自治会退会とする、という方針です。これははたして自治会でしょうか。運営をガラス張りにする、すべてのことは弁護士に合法性を確認している、と言いますが、どうしても意見が合わい会員は退会して別の自治会を作ればよい、というのですから、これは自治会ではなくワガママ同好会でしょう。防災担当役員を置くらしいですが、何のためにそんな人を置くのですか?  防災活動の規定もないのですから、何の事業も担当しない役員を配置し、どんな意味があるのですか? 会則にわざわざ懇親食事会の年次定例日時・場所まで記載していますが、要するにこれが唯一最大の行事のようですから、まったく同好会です。自治会などと名乗るのは止めたほうがいいです。

自治会は昔の5人組で、庶民監視のためのシステムだ、などとマジメに論じています。 こんなことを言っている人がいるから世の中が住みにくくなるのです。今の自治会は懇親・絆づくりはもちろん災害対応や弱者対応、地域安全など多様な課題に取り組んでいます。松原北自治会の自治会費は何もしないで月額100円だそうです。何に使うのでしょうか? ブログを作っていますが、1か月に1回程度の更新で、近頃は市の要請を拒否した、という記事ばかり。この程度のブログはタダで作れます。私の自治会のホームページは20数ページで随時更新、ブログは年に30回ほどアップして、自治会負担はゼロです。

松原北自治会が何もしない会だということがよく分かります。いま入っている会員さんは、まともな自治会に加入したほうがいいですよ。または自治会を改革しなければいけません。松原北自治会の現状はダメダメです。

コメント (2)
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やはり中身がない、菅義偉の「国の基本」 に卒倒!!

2020-09-03 07:55:47 | 菅政権

配信で、菅官房長官の出馬表明の内容を再確認しました。もう少し何か見どころがあるかと思いましたが、確かに中身のない男でした。

「陣頭指揮を執られていた安倍総理が道半ばで退かれることになりました。総理の無念な思いを推察をいたしております。  しかしこの国難にあって政治の空白は決して許されません。一刻の猶予もありません。」(中略)

「私の原点について少しだけお話をさせていただきたいと思います。雪深い秋田の農家の長男に生まれ、地元で高校まで卒業をいたしました。」(中略)

政策の上で自ら推進したと説明したのは、たった3つです。①ダムの水量調整~ダム管理を国交省に一元した、②携帯電話の料金を下げさせた、③ふるさと納税制度を作った。

(中略)「ポストコロナを見据えた改革を着実に進めていく必要があると思います。その上で少子高齢化問題への対応、戦後外交の総決算をはじめとする外交・安全保障に、その課題、とりわけ拉致問題解決に向けた取り組み、そして憲法改正。まずは目の前にある危機を乗り越えることに全力を挙げつつ、こうした山積する課題にも引き続き挑戦をしていきたいと思います。

私自身、国の基本というのは自助、共助、公助であると思っております。自分でできることはまず自分でやってみる。そして地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する。当然のことながらこのような国の在り方を目指すときには、国民の皆さんから信頼をされ続ける政府でなければならないと思っております。 目の前に続く道は決して平坦ではありません。しかし安倍政権が進めてきた改革の歩みを決して止めるわけにはなりません。」(下略)

 

まず安倍政治の継承ということ。些細なことですが、コロナ対策で安倍は陣頭指揮など取っていません。途中からは逃げまくっていたはず。立場上仕方がないと言えばそれまでだが、安倍のでたらめなやり方を無反省に継承されてはたまりません。当然、いろいろな疑惑は頬かむりですが、それで世間が通ると思っているのでしょうか。また、ふるさと納税の問題、コロナ対策でのいくつもの間違いをごまかすのでは、ダメです。

立身出世の苦労話。それを自分で自慢してどうなるのか。ヒトが言ってくれるから良いのだ。大変なことだとは思うが、だから総理にふさわしいかというと、けっしてそうではありません。

 

「国の基本というのは自助、共助、公助である」というのは、これが総理大臣の心構えでしょうか。自分でできることはまず自分でやってみろ、というお説教でしょうか。これが政治信念でしょうか。情けないほど中身がない。県知事の防災対策の方針なら分からなくありませんが、総理の目指すものがこれだ、と言われても ??? これで日本という国全体のかじ取りをしたり、諸外国と外交ができるのでしょうか。

菅氏の人気が出るとすれば、たたき上げの苦労人、という事でしょう。しかし何度となく派閥をころころと変わったことは信用ならない男というイメージを抱かせます。間違いだらけの安倍政治を継承する、疑惑は終わった、と言われて国民が納得するとは思えません。

しかし理念のないこういう男だから、各派が安心して担ぎ上げるわけです。石破など、何をされるか分からない。それが国にとって良いことだったとしても、やはり怖い。権力の分け前を守り既得権に安住するほうが楽なので、自民党はクズどもの集まりですね。野党にとってはチャンスです。きっと解散がありますから、期待しましょう。

 

 

 

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ずる賢い、菅に総理の資質無し??

2020-09-02 05:16:30 | 菅政権

現代ビジネス 2019年10月18日掲載で、戸坂 弘毅氏が次期首相に最も近い男・菅官房長官、哀しいまでの「中身のなさ」腕力はあるが、志はない』 として菅について書いています。これが昨日今日ではなくもう11か月近くも前の記事だという事で、戸坂氏の慧眼に驚かされます。以下抄録します。(詳しくはリンクから)

『菅の政治家人生を一言で表せば、少なくとも官房長官就任までは、「負け続け」。秋田県の農家の出身である菅は、高校卒業後、働きながら法政大学を卒業した。衆院議員秘書を経て横浜市議会議員に当選し2期務めた後、小選挙区制初の96年衆院選に立候補して、国政選挙に初当選した。

総裁派閥である橋本派でスタートしたが、98年の自民党総裁選では派閥会長の小渕恵三に反旗を翻し敗北。以来菅は派閥を次々と変え、仕える主人を乗り換えてきたことから、いつしか「裏切りの菅」「渡り鳥の男」と陰口を叩かれるようにもなった。安倍周辺からは「菅は自分にとって役に立たないと思えば安倍だって裏切る。経歴をみれば一目瞭然だ」との警戒の声が常に漏れる。

こうした菅に関する数多のマイナスイメージを消し去ったのは、もちろん官房長官としての手腕だ。6年以上の長期にわたり、危機管理と官僚操縦で辣腕を発揮してきた。

政策面に目を移すと、菅は政治家として何を実現させたいと思っているのか、まったく不明だ。

菅自身、親しい永田町関係者に「私には国家観というものがない。しょせん地方議員上がりですから、安倍さんとは違いますよ」と漏らしてきたのだ。

菅が自らの実績として唯一強くアピールしているのが、総務相時代に創設した「ふるさと納税制度」だ。だが、今やこの制度は、返礼品の過当競争や都市部の税収の大幅減など、むしろ弊害が指摘されるようになった。

首相と首相官邸の役割として極めて重要な外交や防衛に関しても、北朝鮮による拉致問題は別として、菅が関心を示してきた形跡はほとんどない。安倍は周囲に「総裁4選を目指す考えはない」と繰り返している。そうなると、菅が総裁選に立候補する決意さえ固めれば、「菅首相」の誕生は現実味を帯びてくる。

表立って菅に盾突く人間は、もはや皆無となった。しかし自らを「国家観がない」と評して恥じない男に、わが国は命運を託すことになるのだろうか。政策や志ではなく、権謀術数と情報操作で霞が関や永田町を操る──その集大成として、首相の座に手をかけようとしている「安倍政権のゲッベルス」の本質を、われわれ国民は改めてじっくりと見極める必要があるだろう。』

 

まったく同感です。総裁選は全党員投票を行わず、石破氏の芽をつぶして、菅を派閥の力学で総裁に選出する。政見も信条も何も分からないうちから、もう決まったも同然というのだから、いかにも自民党らしい。しかし時代遅れ、昭和の自民党です。あるいは自民党の終わりの始まりかもしれない。

ヤッテル感だけの安倍もひどかったが、菅はもっとワルそうだ。加計学園問題で官邸の対応を厳しく批判した前川喜平氏の「出会い系バー」疑惑、甘利明が建設会社から現金受取という週刊誌報道を受けて閣僚辞任に追い込まれたのも、菅のリークといううわさがあるらしい。つい先日まで総裁選には絶対出ない、と言っておいて、真っ先に総裁選を仕切る幹事長・二階に報告して支持を仰ぐ。ずる賢いが、信念はないと見た。無理やり物事を進めるのは意固地であって信念ではない。

011年に旧民主党が党員・サポーターを参加させず、国会議員だけの投票で代表を選出すると決めた際、自らのブログで「与党の代表を選ぶことは、日本の総理大臣を決めること」と指摘。「本来なら候補者が自らの考え、政策を広く国民にも示し、議論を深めるべきものだ」と批判していた。菅氏は31日の会見で、この書き込みについて記者団から「見解はいまも変わらないか」と問われ、「それぞれの政党で決めているルールに基づいて行うべきだろうと思う」と述べるにとどめた。
 
ということです。ソツはないが、まったく何も答えていないも同然。二階に頼んで石破氏が不利になる仕組みにしてもらったのだから、はっきりモノが言えないのは当然でしょう。

経歴を見れば、政党こそ変わっていないが、政界渡り鳥と言われた小池百合子に似ている。あの女にもイライラするが、菅の記者会見の受け答えも通り一遍のニベのないものばかりで、不愉快。上記の総裁選のあり方についても、まったく菅らしい答えです。叩き上げの菅の苦労話などがこれから喧伝されるのだろうが、聞きたくもない。政見や信条、ころころと派閥を変わった理由も追求してほしいものです。

 
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秀吉の 「中国大返し」 は普通のことだった ❣

2020-09-01 09:27:48 | 日本史

猛暑晴読で、「本能寺の変 史実の再検証」 盛本昌広著、東京堂出版、2016年。

このところ室町期から豊臣までいろいろな本を読んでいますが、私の若いころの常識がほとんど否定されてきているようです。講談本や徳川史観、明治ナショナリズムなどでゆがめられた歴史観が修正されてきているのでしょう。

日本史上最大の謎の一つ、本能寺の変について常識を再検証しています。そして秀吉が天下人となる契機となった「中国大返し」について、奇跡的というようなことはないと論証しました。それは秀吉が本能寺の変を計画したわけではないということを意味します。

論証はこうです。(135p)

10月 5日 高松~沼  21.7km

10月 6日 沼~姫路  77.9km

10月 7日 姫路~明石 35.4km

10月 8日 姫路

10月 9日 姫路~明石 35.4km

10月10日 (深夜から出発)

10月11日 明石~尼崎 44.8km

10月12日 尼崎~富田 31.8km (天神馬場で評定)

10月13日 富田~山崎 18km

これは何ら「異常なスピード」ではない。「近世の大名行列は1日30~40km程度進んでいる。また、一般の旅人も同程度である。」とします。

家康が関が原合戦前に江戸から西上するときの進軍速度は、9月1日から順に (137-138p)

27km. 24.1km.  32.8km.  28km (箱根越え).  46.3km. 43.5km. 38.1km. 34km. 43.7km. 32.4km. 13km.

という事で、40km程度は普通である。

武田攻めのさい、松平家忠は天正10年2月17日に 58.4km進んでいる。(139p) その帰路には家忠は、4月13日に 76.9kmも進んでいる。

銚子から魚売りの行商が佐倉まで夜通し歩いてきたという話が尾﨑秀樹氏の「伝記 吉川英治」にあるそうだが、銚子~佐倉は総武線で 65.2km、とあります。(146p) 一般人でもこうです。

「秀吉軍は落伍者が出ても構わないほどの急行軍だった」 と言われていますが、途中で2回休んでいることもあり、実際にはほとんど落伍者はいなかったでしょう。講談本や現代のテレビドラマなどで拡大再生産された、論証抜きの先入観に私たちは毒されていると思われます。

このほかにも盛本昌広氏の本にはいろいろ教えられます。

 

 

 

 

 

 

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