引き続き、イスラム世界について。
再び「失われた歴史」~イスラームの科学・思想・芸術が近代文明を作った~ マイケル・ハミルトン・モーガン著、北沢方邦訳、平凡社 2010年。
「西アジア史」Ⅰ~アラブ 佐藤次高編、山川出版社 2002年。
「アラブの人々の歴史」 アルバート・ホーラーニー著、阿久津正幸編訳、第三書館2003年。
いくらイスラーム史を読んでも、血沸き肉躍るドラマが見られないと感じます。ムハンマドは622年にイスラム教を創始したのち、メッカで一時迫害を受けメディナに聖遷しましたが、それはイエス・キリストのそれとはまるでケタ違いです。メディナに聖遷してわずか8年、630年にメッカを屈服させ、以後は最後の預言者・支配者として君臨します。そのためイスラムは社会全体を支配し、単なる宗教ではなく社会そのものだと言われることになったのです。
支配者ムハンマドは632年に死没し正統カリフ時代になりますが、これが近親者による血で血を洗う権力争い。普通に死んだのは4人のうち1人だけで、3人は反逆や暗殺です。イスラムの教えは何なのか? なぜムスリムが親しいムスリムを殺戮するのか。なぜウラマーなどの指導的ムスリムはこれを疑問に思わないのでしょうか。信仰とは盲目である、ということでしょうか。
ようやくムハンマドの遠い親戚であるウマイヤ朝がイベリアからイランに至る広大なイスラム世界を統一しますが、わずか90年で崩壊。その親類筋でムハンマドの叔父の系統に当たるアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼしたわけですが、イスラム成立の頃からの因縁があったらしく、前王家を皆殺し。天下分け目のザーブ河畔の戦い (750) でウマイヤ軍を破ったアッバース軍はダマスクスに侵攻し、和解の宴と称してウマイヤ家の王宮にウマイヤ王族や宮廷関係者全員を招きます。ところが、集まった和解の希望を持った同じムスリムの一族と宮廷人を全員虐殺してしまいました。(「失われた歴史」72-73p) なんと卑怯卑劣、天人ともに許さないとはこのことです。
イスラム史で唯一ドラマティックな物語は、この大虐殺を逃れた王子アブド・アル・ラーマンがシリアからパレスチナ、マグリブと逃げ、ついにイベリア半島に渡って後ウマイヤ朝 (アンダルシアのウマイヤ朝) を創始した物語しかありません。
アッバース朝はイスラムの歴史で最も華やかな時代、文化の花開いた時代と言われていますが、そのアッバース朝にしてこの所業です。その後イスラムは分裂しますが、再統一したのがオスマン朝でした。イベリア、マグリブを除くイスラム世界をほぼ統一し、ビザンチン帝国を滅ぼしヨーロッパに進出して富強を誇りました。しかしそのオスマン帝国がこれまた非道。スルタン (皇帝にあたる) は、即位すると自分の地位を安定させるため兄弟や近親の皇位継承権者をほとんど皆殺しにする、というのが慣例になったほどです。
まさか兄弟殺しや親族の殺し合いがイスラムの教義ではないはず。 ほとんどのムスリムは、そんなことは信じられないというのではないでしょうか。そうならば、彼らはイスラムの歴史と真実を知らないのです。
クルアーンが絶対で、批判することだけでも死罪ですが、一方で教義の解釈はかなり人それぞれで、学派がいくらでもできる。またちょっと武力を持つと、すぐ俺がカリフだ、スルタンだ、アミールだと言い出す輩がごまんといる。ある意味でまったく人間的ですが、倫理観はどうなっているのでしょう? とても統一することのできる世界ではないと思います。中国で言えば五胡十六国のような、マイナーな権力闘争をいつまでも続けている救いのない世界。ロマンも夢もありません。(偏見ですかね?) アッバース朝時代に花開いた科学も12世紀ころまでに立ち止まってしまい、西洋が受け継いで発展させました。
人はアラーの奴隷で、人ではなくただ神だけが偉大だ (アッラー アクバル!) というのですから、こころ躍る物語が生まれないのも道理です。しかし神の奴隷同士はみな平等、というのではなく、権利や立場に宗教や性別での明確な差別を認めていて、ムスリムならば誰でも死後神の国に入ることができる、というだけです。開創当時は諸民族平等でたいへん進んだ教義でしたが、今日では当たり前となり、女性問題などではむしろたいへん遅れています。
今日ムスリム同士の争いで生まれた大量の難民は、イスラム諸国を選ばず寛容な西欧キリスト教国を目指すというありさまです。イスラムの低迷は、正統カリフ時代やアッバース朝、オスマン朝の悪行の祟りではないでしょうか。
(わが家で 2019年2月7日)
再び「失われた歴史」~イスラームの科学・思想・芸術が近代文明を作った~ マイケル・ハミルトン・モーガン著、北沢方邦訳、平凡社 2010年。
「西アジア史」Ⅰ~アラブ 佐藤次高編、山川出版社 2002年。
「アラブの人々の歴史」 アルバート・ホーラーニー著、阿久津正幸編訳、第三書館2003年。
いくらイスラーム史を読んでも、血沸き肉躍るドラマが見られないと感じます。ムハンマドは622年にイスラム教を創始したのち、メッカで一時迫害を受けメディナに聖遷しましたが、それはイエス・キリストのそれとはまるでケタ違いです。メディナに聖遷してわずか8年、630年にメッカを屈服させ、以後は最後の預言者・支配者として君臨します。そのためイスラムは社会全体を支配し、単なる宗教ではなく社会そのものだと言われることになったのです。
支配者ムハンマドは632年に死没し正統カリフ時代になりますが、これが近親者による血で血を洗う権力争い。普通に死んだのは4人のうち1人だけで、3人は反逆や暗殺です。イスラムの教えは何なのか? なぜムスリムが親しいムスリムを殺戮するのか。なぜウラマーなどの指導的ムスリムはこれを疑問に思わないのでしょうか。信仰とは盲目である、ということでしょうか。
ようやくムハンマドの遠い親戚であるウマイヤ朝がイベリアからイランに至る広大なイスラム世界を統一しますが、わずか90年で崩壊。その親類筋でムハンマドの叔父の系統に当たるアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼしたわけですが、イスラム成立の頃からの因縁があったらしく、前王家を皆殺し。天下分け目のザーブ河畔の戦い (750) でウマイヤ軍を破ったアッバース軍はダマスクスに侵攻し、和解の宴と称してウマイヤ家の王宮にウマイヤ王族や宮廷関係者全員を招きます。ところが、集まった和解の希望を持った同じムスリムの一族と宮廷人を全員虐殺してしまいました。(「失われた歴史」72-73p) なんと卑怯卑劣、天人ともに許さないとはこのことです。
イスラム史で唯一ドラマティックな物語は、この大虐殺を逃れた王子アブド・アル・ラーマンがシリアからパレスチナ、マグリブと逃げ、ついにイベリア半島に渡って後ウマイヤ朝 (アンダルシアのウマイヤ朝) を創始した物語しかありません。
アッバース朝はイスラムの歴史で最も華やかな時代、文化の花開いた時代と言われていますが、そのアッバース朝にしてこの所業です。その後イスラムは分裂しますが、再統一したのがオスマン朝でした。イベリア、マグリブを除くイスラム世界をほぼ統一し、ビザンチン帝国を滅ぼしヨーロッパに進出して富強を誇りました。しかしそのオスマン帝国がこれまた非道。スルタン (皇帝にあたる) は、即位すると自分の地位を安定させるため兄弟や近親の皇位継承権者をほとんど皆殺しにする、というのが慣例になったほどです。
まさか兄弟殺しや親族の殺し合いがイスラムの教義ではないはず。 ほとんどのムスリムは、そんなことは信じられないというのではないでしょうか。そうならば、彼らはイスラムの歴史と真実を知らないのです。
クルアーンが絶対で、批判することだけでも死罪ですが、一方で教義の解釈はかなり人それぞれで、学派がいくらでもできる。またちょっと武力を持つと、すぐ俺がカリフだ、スルタンだ、アミールだと言い出す輩がごまんといる。ある意味でまったく人間的ですが、倫理観はどうなっているのでしょう? とても統一することのできる世界ではないと思います。中国で言えば五胡十六国のような、マイナーな権力闘争をいつまでも続けている救いのない世界。ロマンも夢もありません。(偏見ですかね?) アッバース朝時代に花開いた科学も12世紀ころまでに立ち止まってしまい、西洋が受け継いで発展させました。
人はアラーの奴隷で、人ではなくただ神だけが偉大だ (アッラー アクバル!) というのですから、こころ躍る物語が生まれないのも道理です。しかし神の奴隷同士はみな平等、というのではなく、権利や立場に宗教や性別での明確な差別を認めていて、ムスリムならば誰でも死後神の国に入ることができる、というだけです。開創当時は諸民族平等でたいへん進んだ教義でしたが、今日では当たり前となり、女性問題などではむしろたいへん遅れています。
今日ムスリム同士の争いで生まれた大量の難民は、イスラム諸国を選ばず寛容な西欧キリスト教国を目指すというありさまです。イスラムの低迷は、正統カリフ時代やアッバース朝、オスマン朝の悪行の祟りではないでしょうか。
(わが家で 2019年2月7日)
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