魔人の鉞

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原爆投下の真因を考える

2018-12-24 08:40:11 | 第2次大戦

「日本人の原爆投下論はこのままでよいのか」 ハリー・レイ、杉原誠四郎著、山元礼子訳。日新報道 2015年。

原爆投下の原因についての、日米の識者による対論形式の本です。杉原氏は、日本がポツダム宣言を受諾するのにはヒロシマと、長崎の2発目が重要だったと結論します。そして考えられる中では最も 「早期」 の降伏が、アメリカがソ連による日本本土占領を拒否するという良い結果をもたらしたとします。

私は、3月10日の東京大空襲、4月30日のヒトラー自殺・ドイツ崩壊を考えると、8月15日が早期とはとても思えません。
しかし日本では1945年6月8日に最高戦争指導会議が 「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」 を決定し、翌日天皇が裁可していました。その内容は九州において本土決戦を行うことです。軍人数十万、民間人百万以上の犠牲者を想定しつつ、敵に打撃を与えて国体護持などの講和条件を確保したいということで、この大綱が降伏をしばらく阻止することになったとします。この重要な大綱のことを私はあまり知りませんでしたので、これだけでも読んだ甲斐がありました。毎日空襲があるのに迎撃もろくにできず、ドイツが負けてソ連が大軍を極東に移動しつつあるのが分かっているこの時期に、このようなバカげた方針を天皇以下皆で承認していたというわけです。何が 「早期」 でしょうか。

また氏は、日本には降伏という概念がなかったといいますが、日清日露でもシンガポールでも、敵は降伏しており、その敵兵を皆殺しにしたりしていません。高松城では守将一人が自害して降参しています。日本軍が降伏しなくなったのは東条の戦陣訓をはじめとする戦争指導で降伏を禁止したからだというのは定説です。氏の主張は間違っています。

この杉原氏は教育学者ということで、歴史についてあまり詳しくない、あるいは正確でないようです。ルーズベルト大統領について、「日本を挑発して戦争に持ち込んだことは、その張本人として夢の中でも忘れることはできないはずだ。」「悪辣にも無条件降伏を最大限に拡大して、日本をして最大限に痛めつけようとした正当性はどこにあるのか。」 (p301) と口を極めて非難していますが、あまりに感情的ではないでしょうか。
アメリカは日本と戦争をするほど厳しい対立はなかったのに、ハル・ノートで 「日本を挑発」 したというのですが、その内容がたいへん厳しいものであったとしても、まだ交渉文書です。それに先立つ満州事変、上海事変、南京大虐殺、南部仏印進駐、と続く日本の軍事行動と対日石油禁輸などの経緯を忘れて、たいした対立はなかったなどというのは、不思議な見方です。ハル・ノートより前に開戦を準備していたのであり、ハル・ノートという紙ペラを見て怒り狂い、最終的に開戦を決行したのです。ルーズベルトの真意についても、十分研究されたようには見えません。

そして、アメリカの対日観を決定したパールハーバーの奇襲について、外務省の失態をきびしく追及します (p304~)。それはその通りなのですが、開戦の原因まで外務省にあるかのような口吻はいただけません。また独ソ戦開始 (1941年6月) の時、対ソ参戦の可能性を対米外交カードに使うべきなのに何もしなかったのも失態だ、というのですが、実際には松岡外相は日ソ中立条約 (1941年4月) を結んだばかりなのにソ連への攻撃を主張し、節操がないと却下されました。日中戦争の泥沼にはまった日本は資源のある南方戦略にシフトしており、南部仏印進駐を行います(7月28日)。ソ連がドイツに集中すれば好都合だったはずです。氏は外務省憎しで凝り固まって、目が曇っているように見えます。

原爆投下が日本の降伏決定に大きな意味を持っていたことは詳しく分析していますが、なぜアメリカが九州上陸作戦を計画したか、それがよくわかりません。20万人もの戦死者を推定しながら、なぜそんな無駄な地上戦を考えたのか。それとの比較で戦死者を出さないために原爆を使った、というのは理屈が合わない気がするのです。戦死者を少なくするなら、空爆や艦砲射撃で数か月やれば日本は確実に崩壊していたでしょう。石油もない、船もない、飛行機もない、鉄道もズタズタ。食料も何も配給です。
原爆も通常兵器の延長としか考えていなかった、と著者は言っていますが、ほんとうにそうなのでしょうか。使用に反対したり、警告してからという科学者もいたのですから、どうも詰めの甘さを感じます。

参考にはなるが、信頼しきれない、要注意の一冊です。

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