飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

災害ボランティア5「行為の意味」

2012年04月15日 06時07分47秒 | 教育論

今回のボランティアに参加した方々は、年齢も動機も様々である。
60歳以上の方もいらっしゃれば、学生の方もいる。
自費で参加している方もいれば、会社や組合から補助を受けて参加している方もいる。

どの方も口にしていたのは、
「このような短期間の、なんの技術や力のない自分が参加してなんの意味があるのだろうか」
ということだった。
平成23年3月11日の東日本大震災以来、誰もが「自分にできることを何かしたい」と思った。
そして、多くのボランティアが災害発生して間もない頃から全国から集まった。
そして、小さな善意を積み重ねて、復興を助けてきた。

しかし、それとは逆に、「何かしなければ」という思いや気持ちはあっても、行動に移せなかった方も多かった。
自分もその一人だった。

人の役に立ちたい、何かお手伝いをしたいと考えるのは、人との素直な気持ちだと思う。
人は、何かを得ることによって、生活が成り立っている。
しかし、生活と人生とは違う。
得ることによって人生は豊かにはならない。
むしろその逆である。

人に何かをしたり、与えたりすることによって、人生は豊かになり、幸せな毎日が送れる。
ボランティアの動機も、「人の役に立ちたい」「これまでにお世話になった恩返しをしたい」などいろんなことがある。
自分も、もちろん同じ気持ちだ。
ただ、もう一つ、大きな意味で言えば、日本人だからという漠然とした思いもあるのは確かだ。

こんな小さな行為は、単なる偽善ではないのか。
自己満足に過ぎないのではないか。
そんな思いも交錯する。

しかし、災害ボランティアセンターの方がバスが見えなくなるまで頭を下げて見送っている姿。
活動終わったあと、全員が出てきて、手を振って見送ってくれたこと。
そして、何より短期間ではあったが、ボランティアが終わったあとの、自分自身が得たこと、感じたことを振り返ってみると、偽善や自己満足では得られない、貴重な思いが心に残った。

与えることは、与えられることだと実感する。

ある本の言葉を思い出す。

「あの(阪神・淡路大震災)とき、
 家を放りだされて、避難生活をした人間にとっては、
 偽善かどうかはどうでもいいの。
 『助けてくれた』という事実だけが大切なの。」
    予備校講師 荻野文子

saitani
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