飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

授業のはじめに

2024年08月14日 09時03分10秒 | 教育論
授業開始のチャイムが鳴る。
担任であれば、すぐに授業を始める。
級外の場合は、チャイムと同時に職員室を出る。
よくチャイム以前に教室で待っている級外の先生がいるが、熱心なのはわかるが子どもたちのことや担任のことを考えているだろうかと思う。
休み時間、子どもたちは外へ遊びに行く。
小学生らしくて私は好きだ。
チャイムで急いで帰ってくる。
そして水も飲みたいだろうし、汗を拭いたりもしたいだろう。
そんな余裕は必要だ。
担任だって、休み時間に子供を呼んで話したり、ノートを集めたりしたいだろう。
そんな時に級外の先生が外で待っていたら、「すみません。」といって、職員室へ行かざるをえない。
そのあたりの配慮は必要だと思う。

授業の初めは、すぐに課題を提示したり、スキル学習に入るのが原則だ。
子どもたちが帰ってくるのをまたない。
これがセオリーである。
しかし、年間の授業のうち、数回は話をすることもある。

以下、引用。

先生、授業の入る前に、次のことを言われる。
一、人間の精神力弾力というものは、書物と取り組む力によって鍛えられるものです。
また人間のたしなみというものは、言葉を慎むところから始まるものです。
二、廊下の紙くずというものは、それを見つけた人が拾ってやるまで、いつまでもそこに待っているものです。
もっともこれは、紙くずを拾うように努めている人だけが知っていることなんですがー。
このように世の中には、実践しなければ分からない世界が限りなくあるものです。
と静かに話されて今日の講義に入られた。

引用終わり。

担任は級外の先生では話せないことも子どもたちに伝える。
それは、教育という行為が全人格に関わる営みであるからだ。
ときに教師は子どもたちの心に語りかけることも必要だ。

saitani


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