飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

型の重要性

2020年09月22日 10時45分31秒 | 授業論
型の重要性を軽んじる人がいる。
また、教員の世界ほど、型が蔑ろにされ、上達論が体系化されていない分野はないと思う。
ここの自由と言えば聞こえはいいが、基本となる型を教えられる人は少なく、また、それを指導できる教員も少ない。
せいぜい思いつき程度のその場しのぎの感想程度で指導と呼ばれ、積み重ねがない。
だから、授業の上手い教師は初任者の時からうまく、通常は年齢や経験年数とともに上達していく授業力も何年経っても変わらないことが現実である。
毎年、学級を崩壊させる教師は毎年同じ結果になるし、崩壊させない教師は毎年させない。

先人の知の体系、先人がたどり着いた美意識、先人たちが編み出した型には、そこに至るまでに夥しい数の吟味・工夫・鍛錬があった。
だから、洗練されているのである。

なぜ、型というものが生まれたのか。
それは、才能のある人なら直感的にわかる身体知や、言葉ではうまく伝えられない極意などの暗黙知を教諭するための手段として型というもが生まれたのである。
型とは、才能やセンスのない人でもある程度のところまでは辿り着ける、理に叶った学びのメソッドとも言える。

一般的に、基本の型は、およそ二万回繰り返すことでわざとして身につくと言われている。

スラムダンクの中にも、それを象徴するエピソードがある。
全国大会直前の練習で、主役の桜木花道がs、安西先生にこう尋ねる。
「何をやったらいいだ?」
「シュート二万回です」

上手くなりたいという憧れや意欲があり、そこに型というヒントがあれば、吟味・工夫・鍛錬を行うことにより学びが成立する。
さらには、正しい方向性を示す、ロールモデル、メンターの存在も大きい。

Saitani

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