飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

主体的・対話的ではあるが深い学びではない授業

2020年09月05日 17時53分22秒 | 授業論
授業を参観していると活発ではあるが学びがないと感じる時がある。
要するに、主体的で対話的ではあるが、そこに深い学びのともなわない授業である。

深い学びを定義する

習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見出して解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう学び。

この言葉の中にある深い理解を言い換えると「概念的な知識の獲得」となる。
霞が関には〇〇というビルがある。
これは、単なる事実である。
霞が関には、たくさんのビルがある。
これは、事実に加え霞が関の特徴をいっており、知識になる。
さらに、霞が関は、ほかの地域よりビルが密集している、霞が関は政府機関が集まっているので、官公庁ビルが多い、さらに深まった知識となる。

これは知識には概念化の階層があることを示してる。
概念の抽象化レベルと言ってもいいかもしれない。

この概念は、空間的、時間的、相関的に広がりをみせる。
限定的にとらえていた知識を、大きく広い視野で発展させ、大きな概念を形成していく、それが深い理解となる。
知識を教科の特性にあわせて体系化する、構造化することで学習内容を一般共通化することができる。

知識というものをただ単に子どもたちに身に付けさせる知識と捉えるのではなく、生きて働く知識、子供が後の学習でも使用できる知識にしていく、普遍性のある知識にしていくことが、概念的知識を形成することになる。


saitani


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