三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【発泡断熱材製のドームハウス体験宿泊】

2017年08月11日 05時31分16秒 | Weblog
熊本取材の宿泊地は阿蘇。
さすがに建築関係の団体行動ということで、宿泊も表題のような施設。
以下は若干宣伝臭いけど、概要をHPから抜粋。
〜抜群の断熱性能 ローコスト、短納期も魅力
防火基準や耐久性能もクリア。 ドームハウスの内部は直径7m、天井高約3mで、
広さは約36.3平方メートルになる。構造材である発泡ポリスチレンは、
通常の発泡スチロールの発泡倍率を約1/3に抑えることで、建築構造材として
適応できるように強度を高め、さらに、難燃加工、紫外線からの劣化を防ぐ
UVカット加工を施した。壁の厚さは20cmにもなるため、断熱性に優れ、
冷暖房時の電気代は1/10以下で済むという。
基礎の上に10個程度の部品を組み立てるだけなので、3~4 人で約7日間という
短期間での施工が可能。標準タイプで一棟480万円からという手ごろな価格。〜

ということで、宿泊体験したのですが、
夏場と言うことで、夜間でもずっと冷房を運転していたので、
断熱がどうであるか、というようなことまでは繊細には感受できなかった。
阿蘇という高原地帯とはいえ、夜間の気温低下も北海道ほどではないなかで
熟睡爆睡していたので、断熱の効果はある程度はあるだろうな、という感じ。
ただとくに気がついたのは、音響の特殊な感じ方。
2人で宿泊したのですが、相手の音声がこっちの位置によって若干変わる。
なにか、周波数が変調するというような感覚を受けた。
わたしの体調によるものかもと思ったけれど、
日常生活でそういった変調を感覚したことはこれまではない。
このことはデメリットであるのか、あるいは逆に空間特性として
メリットとも考えられるのかも知れません。
音のデザインは、音楽会場の設計ではいろいろな手法が駆使されるのですが、
こういったドーム型で密閉性の高い空間で、
音がどのように感受されるのか、そういう人間工学的な探究が必要でしょうね。
均一的素材で密閉性の高いドーム空間で、音波の動き方がどうであるか。
この素材のドームハウスというのも、この施設が実験的段階のものですから、
どうせなら、音響メーカーと協同して研究開発するのも面白いのでは。
この外観には子どもたちが手を触れたくなる面白い雰囲気があるし、
SF映画の宇宙ステーション基地的な遊び心を刺激してくれる。

なんですが、リゾートの宿泊施設としてはまぁ許容できるのでしょうが、
一般的宿泊施設としては、中心施設との距離がどんどん離れざるを得ないし、
なによりみんなドーム形状なので、間違えやすい(笑)。
なんどか中心施設との間を往復したけれど、誰かがすぐに迷子になる(笑)。
それもあってか、出発時に忘れ物をしてしまって、引き返しての道が
えらく面倒には感じられた(笑)。ふ〜やれやれ、といったところ。
建築の建物自体としては面白いと思うけれど、
配置計画であるとか動線計画であるとかの「建築」的側面からは
やや否定的にならざるを得ない部分はあるだろうと率直に思いました。
人間の空間認識はやはり直線に基づくグリッド的把握が
より自然に近いのではないかと。
これを住宅として考えたら現状では面積が1つじゃ足りない。
メーカーはこのサイズでの型枠を設備したとされるので、
このサイズを基本とすると2つあれば21坪面積で最小限住宅として考えられる。
ただし敷地は通常四角く、円を四角に入れるのは敷地にムダが多すぎる。
隣家との必要外壁後退も考えると土地利用効率は高くはない。
現状では帯に短しタスキに長し感は否めないものがある。
う〜〜ん、残念かなぁというところ。
でも改善の余地、ツッコミは大いにあり得るアイデアだなぁと思って紹介しました。
誰か一般化に挑戦して欲しいと思っています。
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【薩摩藩武家住宅「入来麓」増田家住宅の雨樋】

2017年08月10日 07時05分13秒 | Weblog



わたしは古民家が大好きであります。
その地方地方で、訪問すると必ず伝統的な住宅のありようを見学する。
博物館などでその地方の概要をアタマに入れて、
一方でこうした古民家を見ることで、立体的な地域の把握ができると思うのです。
あとは、その地方の代表的で伝統的な料理を食べ、地酒を飲む(笑)。
なんとなく、そんなふうに地方性を摂取していく習慣になっている。

今回、それほどは予備知識なく鹿児島県を訪問したのですが、
そういった古民家群として旧薩摩藩の「外城」群中の「入来」と「出水」を見学。
薩摩島津家は、鹿児島市内に「城山」という聖地を持っていましたが、
ほかの藩のようにそこに城を構えることはしなかったとされる。
歴史的にはあったようだけれど、近世大名のように権力を誇示するかのような
威嚇的な城郭建築に興味を持たなかった。
鎌倉幕府初期から、守護地頭であったという自信からのことなのか。
ちょっと不思議な光景だと思っています。
しかし、ほかの近世大名とは違って、多数の「外城」をもっていて、
領国支配のいわば役所機能も持たせつつ、軍事防衛拠点ともしてきた。
そういう外城のいくつかが往時を偲ばせるように保存されている。
薩摩藩独特の「外城」軍事集落という感じですね。
鹿児島から徐々に八代海にむけて北上しつつ、この2つの武家住宅群を見学。
で、この「入来麓」です。入来というのが地名で麓というのは、薩摩藩の独特の言い方。
いざという時にはやや高台になっている外城に集結するけれど、
普段は、その麓で半農的な暮らしをするという意味合いだとか。
写真の増田家住宅は、古格を残した代表的な武家住宅。
いろいろ面白いポイントがあったのですが、
なかでも最大ポイントが見たこともない連棟スタイルを繋ぐ「雨樋」部分。
向かって右側が「おもて」といわれるハレの空間で左側が「なかえ」という常居空間。
そのふたつが、沖縄の家に見られるように南島的な分棟形式ながら
それらが繋げられ、その屋根の「谷」の部分にモウソウ竹を半割しての雨樋。
それがまぁ実に豪快な組み上げ方になっている。
この雨樋が雨水を処理する様子は、大きな技術的見せ場でしょうね。
まぁ写真の通りですが、こうした「伝統建築技術」は万全には再現できなくなっていて、
カタチはなんとか再現したけれど、雨仕舞いがなんとも問題発生して
結局は上面を板金で被覆させている様子がわかります。



こちらが室内の様子。
この渡り廊下のような部分上部にモウソウ竹の組み上げ雨樋がある。
それを荒縄だけで柱・梁に「縛り上げている」状態です。
この「縛り方」が大きなポイントなのでしょうが、その技術が消失している。
本来は水勾配は左右均等に流れさせられていた、とされるのですが、
現代の木造職人さんたちには、そういう復元はできなかったのです。
たぶん、真ん中あたりの縛り方が強く引き絞られていて
他の部分よりも高くなっていたのではないかと推測されますが、再現できない。
ひょっとすると、縄の縛り方にも相当独自の仕掛けがあったのではないか。
現代の復元では雨水が滞留し雨漏りが発生して、床面が腐食してきた。
結局は水勾配を片側だけに流すようにして、その上、上部を板金被覆した。
こういった繊細なディテールでの技術伝承の難しさを深く知らされました。
関係のみなさんの労を多としますが、
先日触れた熊本城修復での「石工」技術の継承問題など、
経済性と伝統的技術存続の両立の困難が、浮き彫りになっていると思いました。

<お盆休暇になるので、気が変わらなければあすからも古民家シリーズの予定。>
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【鹿児島市電の路面緑化、いいね】

2017年08月09日 16時07分20秒 | Weblog
本日2度目の投稿です(笑)。
ちょっと投稿の仕様を試す必要がありまして・・・。
先日の「内地最南端・鹿児島県」訪問時、なにげにクルマを走らせていて
ふと気付いた。電車路面が緑化されている・・・。
これはどう考えても意図的なものとしか考えられませんが、
コロンブスの卵のようでもあって、なにか可笑しい。

この緑化事業の案内HPを見てみると以下のような記述。
〜平成18年度から実施している本市ならではの取組です。
鹿児島中央駅から生まれた約35,000平方メートルの緑のじゅうたんは、
ヒートアイランド現象の緩和や延線騒音の低減をはじめ、都市景観の向上、
うるおいと安らぎの空間の創出に大きく寄与しています。
こうした本市の軌道敷緑化は、市民をはじめ観光客の方々から高い評価をいただき、
本市を象徴する新しい街の風景となっています。また、その取組は、
他都市からも注目されており、都市の緑化において先導的な役割を果たしています。〜
と、自慢げに書かれています(笑)。
いや、わたしも批判げではなく、まことにすばらしいなぁと思います。

いいなぁと思うのですが、北国札幌市電では真似したくてもできないでしょうね。
雪が降ってくると「ラッセル車」という雪かきが出動して路面から雪を排除する。
どうしても路面に対して物理的なダメージを与える。
先日、地元住宅ビルダーの「シンケン」さんのことを書きましたが、
「庭と一体化した暮らし」を提案している。
すばらしいのですが、北国住宅では庭はなかなかに悩ましい。
手を加えて丹精するのはいいけれど、それが鑑賞可能なのは約半年。
積雪条件のなかでは、植物の越冬のためにさまざまな工夫が迫られる。
樹種をよく考えなければならないし、庭の設計自由度は低い。
保守も考えて、芝生庭とシンボルツリーというのがパターンでしょう。
北海道の積雪寒冷条件では、冬場のことを考えての緑の保守管理になるので
その困難は高まらざるを得ない。
北海道の住宅に緑のうるおいが計画しにくいのは、こういう問題もあるのですね。
ただ、そういう条件とは別に、住宅地の「視線の抜け」という意味では
与条件としての自然環境自体は比較的豊かに存在する。
そういうことで、それなりのバランスがとれているともいえる。
こういった条件を踏まえて、住宅の「うるおい」をどう計画していくか、
北国では想像力の一層の発展が必要になってくるのですね。
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【大地震発災直後、地域工務店が直面すること】

2017年08月09日 05時48分02秒 | Weblog


熊本での「震災対応」視察で、大きく気付かされたこと。
それは地域の大手ビルダー・エコワークス小山社長から発せられたコトバ。
「神戸でも東日本大震災でも、地震のときどんなニーズが発生し
地域工務店がどう対応すべきか、がまとめられていなかった」
という深刻な、住宅業界としての問題点でした。
震災被害は不幸なことではあるけれど自然災害であり、避けることはできない。
そうであれば、どう対応するかが問われなければならない。
地震になれば、基本的な人間生存条件としての住宅が危機に瀕する。
その住宅供給を使命とし、同時に地域に密着し、住民に身近な対応事業者である、
地域工務店の立場になって、どう対応すべきかの「マニュアル・方針」がなかった。

確かに、東日本大震災では被災地域が広範すぎて、
それぞれの工務店・地場住宅企業が情報的にも断絶してしまっていた。
とりあえずの応急的対応にだけ振り回されざるを得ず、
一段落して気がついたら、緊急メンテナンスは頼まれたけれど本来の住宅再建では
手際のいい「営業対応マニュアル」を持っている大手ハウスメーカーが仕事を
根こそぎ持って行ったという事例も多かった。
かれらは、営業マニュアルも整備していて震災の近隣地域、全国から
「営業部隊」が該当地域に集中投下されて、住宅再建の仕事にフォーカスした営業を行う。
まことに、「ムダなく」実利に集中した対応を行っていく。
地域工務店という組織は、こうした「情報対応力」に問題があるとされた。
今回の熊本地震では、こういった地域の立場に立ってどう対応すべきかについて
経験知を踏まえた「対応作戦」が、ようやくまとめられたのです。
エコワークス小山社長は本来IT系の勉学をされていた方で、こうした対応力がある。
氏としては、この対応マニュアルを全国の工務店に情報力として
より広範に拡散したいという希望を持っている。
自社サイトからもダウンロード可能なようにもされていますが、
全国で営業対応しているメーカー・LIXILの協力が得られて、
この対応マニュアルに基づいてさらにわかりやすくまとめられた資料が作られたという。
氏のプレゼンで、実際に工務店にどんなニーズが殺到するものか、
具体的なリアリティを持って理解することができました。

図で表現させていただいたのは、氏のまとめたプレゼン資料の一部抜粋。
とくに印象に残った部分を3つ、引用させていただきました。
熊本地震で5兆円、東日本大震災で16兆円の「被害総額」だったものが、
発生が確実とされている首都直下地震や、南海トラフ地震では、
それぞれ被害総額が200兆円、150兆円と推計されている。
過去の歴史的震災と比較しても現代は人口・経済規模に級数的に違い、
この計算には十分な蓋然性を感じさせられます。
日本の国家予算は一般会計と特別会計総額で200兆円前後の現状です。
これと比較してみても対応は国難レベルになることは可能性が高い。
2枚目の図ではどんな状況が地域の事業者に寄せられるかの具体的な規模。
地震直後には電話なども寸断されているけれど、それが回復したらすぐに
既存ユーザーから大量の「ヘルプ」が殺到してくる。
エコワークスとそのグループでは、実に既存顧客の6割から緊急出動要請が来た。
電話総数が3,000件だったということ。
こういったニーズに対応する中で、必要不可欠な対応マニュアルを作っていった。
まことに具体的で生々しい現実を教えていただきました。
最後にこれらに企業としての対応をするに際に企業内での情報共有手段を
緊急対応として絶対整備しておく必要があるとされた。当然ですね。
エコワークスの企業グループでは、震災前から社内情報システムとして
Facebookをインフラとして情報ツールに採用していたとのこと。
さすがにITに強い小山さん、震災時でもこうした情報手段は「パケット通信」で、
携帯電話通話が途絶したとしても、通信可能なツールであるとして採用していた。
まさに実践的で現実的な必要情報だと強く感じさせられました。
小山氏からの希望もあって、このように情報拡散させていただきました。
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【多島海で生きてきたニッポン的感性とは?】

2017年08月08日 05時52分20秒 | Weblog
本日はやや住宅テーマを離れてみたい。
ときどき、住宅ばかりではないことも考えたり想起したくなる。
当たり前でしょうね、人間は「ばっかり」ではいけない。
米ばかり食べていてはバランスが取れない、おかずの多様性が柔軟な健康を生む(笑)。
というこじつけ論であります。

今回の九州ツアーでも、鹿児島県の起伏に富んだ山岳地域を走った後、
九州西部海岸、天草から八代海をクルマで走ったのですが、
予備知識なく、この多島海の景観に遭遇して、
なんともニッポン感に満たされておりました(笑)。
日本は世界第2の「多島海国家社会」だそうです。以下、Wikipedia抜粋。
〜多島海で構成された国としては、インドネシア、日本、フィリピン、ニュージーランド、
イギリスがあげられる。そのうち最大の多島海がインドネシアである。
島嶼部性(海岸線の距離を陸地の面積で割ったもの)観点からは、7000以上の島からなる
フィリピンが島嶼部性1位で、次いで6000以上の島からなる日本が2位である。
日本は6,852の島で構成される島国。日本の領土はすべて島から成っている。〜
そういえば、と気付くのはなぜ松島が日本三景とされるのか、です。
芭蕉さんは松島に来てやや諧謔的表現で日本人の定型心理を表したのでしょうが、
ああいった多島海景観には、きっとこの国土で過ごしてきた民族の
心象世界を支配するなにかの感情が込められているに違いない。
ながく日本人の歴史の中心であった瀬戸内海。
わたし的には、わが家の家系伝承もあって、ふるさとの揺りかごのような、
そういう心理に大きく満たされてしまう部分がある。
ああいった景観が、深く刷り込まれてきているに相違ないと思うのです。
わたしは母親を三十年以前に亡くしていますが、母が死んだときに想起したのは
「海はひろいな、大きいな」という、たぶん、いちばん初めに憶えた旋律。
あるいは浦島太郎のお話は、いかにも多島海での暮らしが身近な人間に
似つかわしい心象世界を垣間見せてくれる。
東南アジア地域の海洋民族の説話にもまったく同様の伝承がある。
まったく整理できないのですが、
こうした心理の根底にあるものは、間違いなく多島海社会でのものでしょう。
こういう多島海の景観にくるまれて暮らすうちに、
人の生き死に、人生の起承転結がその景観に投影される心理構造ができている。
そんな気がしてなりません。みなさんはいかがでしょうか?
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【鹿児島ビルダー「シンケン」モデルハウス見学】

2017年08月07日 07時20分12秒 | Weblog




全国の住宅業界紙などで、よく紹介される鹿児島のシンケンさん訪問です。
っていっても、あんまり予備知識は持たずに行ってきました。
与次郎浜モデルハウスで、築17年ということでした。
よくあるテレビ局の住宅展示場に入っているけれど、
その後、こういった路線ではモデルハウスは建てていないようです。
現在、モデルハウスは博多の森とここだけ。
テレビ局主催の住宅展示場は、テレビ広告主体の大手ハウスメーカー志向であり、
当然大量の営業スタッフを抱えて大量販売型の戦略になる。
そういうなかで17年間も同じモデルハウスで、むしろ素材の古びを見せている。
他の大手ハウスメーカーモデルハウスが、ほぼ横並びの
「街路に対して機能的」に建てられているのに対して、
このモデルハウスは配置計画で角度を振って、エントランスに庭を持ってきている。
当然敷地の大きさも、この展示場でいちばん大きめと思われました。
プランについて伺うと、敷地に対して建物は30度程度振って建てられている。
そうすることで庭が4面確保されて「建物+庭」という価値感への気付きを
来場者に促すような仕掛けになっている。
聞くと、住宅建設だけではなく庭も含めた「暮らし方」を提案する姿勢。
ということで、当然やや高額物件中心の営業戦略になる。
北海道札幌でも高級物件需要に対し地域ビルダー数社がしのぎを削る。
鹿児島の状況がどうであるのかまでは、ヒアリングはできませんでしたが、
最近、福岡にも進出しているということなので、この路線では
ある一定数までは伸ばして行けても、成長限界も見えるのかも知れません。
しかしこういった高級路線は、注文住宅の核のような需要なので、
根強く底堅い需要層を取り込んでいるともいえます。



暖房や設備テクニカルの部分では、OMソーラーが基本。
いまはその進化形のソーラーシステム「そよ風2」を採用。
戦後の住宅生産グループとしては、このOMソーラーは先行的なもの。
東京芸大・奥村昭雄先生の提唱になる「太陽の熱であたたまる」という
理念に共感した全国の工務店・設計者が参集した運動体だった。
その後パテントの期限が切れて、いろいろに工法が分化し、
参加工務店はその設計思想から、自然エネルギーや自然派デザインへと
年々レベルが向上していって、いま、全国でそういった工務店は
他の工務店のベンチマークにまでなって来ている企業が相当数ある。
その運動と比肩する、あるいは性能的インパクトとしてはより巨大であった
「高断熱高気密」の方は、より広範な運動としていま定着してきている。
OMソーラーが北国の方ではそれほど普及せず、
一方の高断熱高気密が、いま全国各地に爆発的に普及しつつあるのは
ソーラーでは冬場の暖房設備が事実上ダブルで必要な問題が大。
「太陽の熱であたたまる」理念はまことに素晴らしいけれど、
日の差さない冬場の日ほど、暖房エネルギーが必要なのが現実。
そうすると、ソーラーシステムとは別に「補助」暖房システムが欠かせない。
このモデルハウスでも薪ストーブが設置されているけれど、
北国の場合には、より万全な「スペア」の暖房システムが必要になる。
やはり常識的に言って、それではコスト的に負担可能な施主は限られてくる。
高断熱高気密の提唱者・鎌田紀彦先生も奥村先生に研究協力したけれど、
有為なほどにはシステムの機能向上は果たせなかったといわれる。
そういった経緯もあるようですね。
しかし工務店経営で考えれば、シンケンさんのような成功例も現れる。
理念と暮らし方デザインイチ押しの営業企業戦略は、
より個性的な注文住宅を頼む層にとって現代の有力選択肢といえるのでしょう。
住宅マーケットの未来も見通して今後をウォッチしていきたいと思います。
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【安藤忠雄/鹿児島大学・稲盛会館】

2017年08月06日 06時40分54秒 | Weblog


さてきのうは熊本を離れて、鹿児島への取材ツアー。
わたしは鹿児島まで足を伸ばすのは今回が初めて。
熊本は3回、宮崎は1回それぞれ来ているのですが、
鹿児島までは縁が遠い状態が続いておりました。
ようやくにして、日本の全県踏破の完成だ、と思っていたら、
ここへ来て大分県がどうも自分でも記憶がないところ。
行っていないかも知れません、麦焼酎・・・う〜む。
でも人間、一気にと欲を起こしてはいけない。ほどほどがいいだろうと(笑)。
で、台風に翻弄されながら、鹿児島県をあちこち行脚しておりました。

まずは敬意を表して、安藤忠雄建築見学であります。
写真は、鹿児島大学稲盛会館という建築で工学部の建物のひとつ。
事前に調べてきのうはイベントもあって、中に潜入できるだろうと思ったのですが、
それが台風のためにキャンセルになったことを玄関に来て
張り紙を見て知った次第(泣)。でもまぁ、ということで謹んで外観撮影。
シャッターを押そうとしたら台風の強風がカラダを揺する。
強風のために周辺には砂埃が舞い上がっている。
鹿児島なのでシラス土壌から白い砂が舞い上がり目を襲ってくる。
そういう瞬間には目を開けていられない。決死の撮影、と言うのは大袈裟か。
この建物の趣旨や設計のポイントなどまったく知識がないのですが、
HPからの情報では以下のようです。
〜会館の概要・利用目的 稲盛会館は、教育及び学術交流の場として、
本学の職員その他関係者の利用に供することにより、本学の教育研究の進展に
資するとともに、学術及び文化の向上に寄与することを目的としています。
会館は本学工学部出身の京セラ(株)名誉会長 稲盛和夫氏から科学技術を
中心とした知的交流を促進するための場として本学に寄贈されたもので、
日本を代表する著名建築家・安藤忠雄氏の設計によるものです。
施設の概要・平成6年10月31日竣工・地下1階~地上3階建
・建物面積810.40平方メートル・延べ面積1,628.85平方メートル〜
ほかからの情報としては以下のよう。
〜卵形のコンクリートが正面から飛び出ているのが特徴的で、内部はホール。
卵の先端から放射状にライトが点く。建物内は、卵の外周に沿ってスロープが設置され、
合わせる形で外壁も弧を描いたガラス張り。1988年の「中之島プロジェクトII」で
提案の卵形が実現し2008年の「東急東横線 渋谷駅」に繋がった。〜という情報。
卵形が内部でどうなっているか、また、卵と窓ガラスの取り合い部分の詳細とか、
見てみたかったのですが、叶いませんでした。残念。
でも、なかなかに心惹かれる造形感覚だと思わせられました。
安藤さんの建築にはほどよく集中したワンテーマが際だっている。
それが今回はまるでゴジラの卵のようなコンクリート塊。
こういう少年っぽい「遊び心」には、共感を覚えさせられる。
いろいろ意見はありますが、わたし基本的には安藤建築は大好きであります(笑)。

せっかく九州・鹿児島まで来た機会、この他地域の有名ビルダー2社、
シンケンと松下孝建設のモデルなどの見学・状況視察が大きな目的でした。
ところが、ご存知の超ゆっくり台風5号が鹿児島県島嶼部に停滞し、
いつなんどき、一気に上陸するかも分からない緊迫の状況。
東北フォーラム・氏家事務局長からもオススメいただいた松下孝建設さんは
きのうはスタッフが手分けして顧客住宅の台風への備え・メンテナンスのために
全員外出でモデルハウス見学はできませんとのこと(泣)。
ですが一方のシンケンさんの方は無事にモデルハウスを見学できました。
こっちはむしろ台風で来場者が少なかったので、
たっぷりスタッフの方からシンケンの家づくりのポリシーその他、
十分にヒアリングできました。別に記事としてまとめましたのでよろしく。
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【熊本城甚大被害。現代ニッポンは復元できるか?】

2017年08月05日 09時02分51秒 | Weblog


今回の視察は、熊本地震による被害状況、それも住宅関係でのものが
中心の視察でしたが、さすがに前・日本建築学会会長、吉野先生の視察ということで、
特別に研究的立場からの熊本城の被害状況視察もご案内いただきました。
取りはからっていただいた熊本市、熊本県のみなさんに感謝いたします。

九州にはなんどか訪れていましたが、この熊本城は一度も訪れたことがなかった。
戦国期に城郭建築の手腕を秀吉から見込まれていたという
加藤清正の縄張りによる天下無双の城郭という常識くらいしかありませんでした。
被災状況視察が、はじめての城郭見学も兼ねた次第。
この城はいろいろな思惑を持って設計・建築されたことは明白。
〜加藤清正は、1591年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に
城郭を築きはじめ関ヶ原の1600年頃には天守が完成、関ヶ原の行賞で
清正は肥後一国52万石の領主に。1606年には城の完成をみた。〜
ちょうど豊臣家存亡が政局の中心的テーマだった時期。
清正としては、豊臣秀頼をこの城郭に招いて保護していこうという
そういった政治目的を持っていたとされている。
近年の研究では本丸に加藤家の城主の居室のさらに奥に
貴賓が常居するような「御殿」が備えられていたという。
徳川家による全国統一は認めつつも、相対的に独立した権威として
旧主・豊臣家の存続を企図した清正の意図がその建築に反映されている。
江戸城や大阪城とも比肩されるような天下の軍をもクギづける大城郭建築。
創建時のこの企図の上、この城は同時に地震や戦争など大変動を刻んできた。
なんども繰り返し城の石垣、建築群が被災し再建されている。
そういった経緯の上にさらに2016年の熊本地震が襲ってきた。
城郭地域全体で20cm以上、地盤面が今回沈下したとされている。
そういった状況の中で、それをどのように「復元」すべきなのか、
直接、復元計画に携わっている濱田副所長、西川建築整備班担当のおふたりの
お話しを聞いていて、気の遠くなる作業の連続と忖度させられました。
地盤面がそこまで沈下を見せれば、復元といっても、
完全な形はありえない。そもそも「完全」という概念も歴史的にいつを指すか、
比較対照とすべき測量データもないということなので、
かろうじて残っている「写真資料」と現状を対比させ、
復元工事の設計を立てていくしかない。
また石垣は国の指定を受けた文化財であるので、崩落して堀に落ちたそれを
もとの位置に「還す」というためには「番付」をして保存していく必要がある。
けれど、その番付にしても写真資料との対比くらいしか方法がない。
さらにそういう文化財を判断する資格を持った人材には当然限りがある。
大きな石垣面で数個の石がかろうじて位置を特定しうるに過ぎない。
そういったことから石垣復元の専用のAIによる画像解析ソフトまで開発されている。
復元のためにその手段から開発せざるを得ない。
その上、それで復元方針ができたとしても、今度はこうした石垣の
修復技術者それ自体もまったく不足している。
ことは城郭石垣専門の職人の育成から手を掛けなければならない。
またたとえそれができたとしても、そういった職人さんたちに長期的な仕事が
はたして確保できるのかどうか、
ことは城郭の復元にとどまらず、現代ニッポン社会がこうした歴史遺産を
はたして再生存続させていけるのかどうかが、試されている。
いやはや、再生ははるかな道程と思えます。
<写真、図は市のパンフレットより抜粋>
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【進化する「木造仮設住宅」熊本ではRC基礎実現】

2017年08月04日 07時07分51秒 | Weblog



きのう、東北フォーラム研修メンバーが熊本で集合。
被災から1年4カ月ほどの震災復興状況を見学・視察しました。
熊本駅にはZEH推進協議会代表もされていて、先週にもお目にかかった
小山貴史氏に出迎えていただきました。
小山氏から今回の熊本震災での住宅被災や復興の概要を聞き、
その後、田邊肇・熊本県建築住宅センター専務理事のご案内で
被災状況や応急仮設住宅の状況を現地視察しながら、ご説明いただきました。

震災の状況については、各種報道などがされていますので、
ここでは、震災の度ごとに建設され続けてきた「応急仮設」についてご紹介。
東日本大震災ではわたしも東北で住宅雑誌を出版するものとして、
その状況を知らせる活動をしてきたのですが、
応急仮設住宅について、福島県ではじめて本格的に地域の作り手による
「木造仮設住宅」が多様に実現しました。
それまでのプレハブ住宅協議会だけでの建設ではなく、
自らも被災者である地域の工務店・大工がネットワークを組んで
被災者のくらしに温もりとやすらぎを得られる木造住宅建設に取り組んだ。
応急仮設は期限も区切られた災害支援活動として取り組まれる施策であり、
その後は撤去されることが法で定められている。
しかし建築として十分に長期に耐えられる建築を作ることはまったく可能。
事実、日本で使われたプレハブの応急仮設住宅が
いったん「廃棄」されたあと、海外に持っていって再活用されたりしている。
むしろその耐久性の高さが大きく評価されたりもしているという。
法の厳密な施行による不合理がある意味まかり通って
国費がムダに浪費されている現実がある。
そうした浪費を前提としたプレハブ仮設に対して、木造仮設は、
その住みごこちや肌合いなどで、より長期的な利用にも耐えうるし、
便法として「払い下げ」という手法も活用すれば、
総体として税の無駄遣いを抑制することも可能な側面がある。
そういった「前進」が東日本大震災では見られたのです。
現実にいまでも仮設住宅に住み続けている被災者は多いし、
木造仮設については、事実上「災害公営住宅」として機能している。
ただし法の壁で、基礎は依然として木杭による「仮設」的建築とされてきた。
しかし今回の熊本震災では、初期段階から発注者である県の側でも、
こうしたムダ排除の認識を持って、政府に対してより長期的存続に耐えうる
RC基礎を要望し、また政府側でもそれを積極的に許容した。
要望にあたって、今次熊本震災が長期にわたって連続的地震が継続したことが
不幸中の幸いとして機能し、それに対しての常識的対応として
RC基礎の頑丈性が被災者の命を守る名分として立ったことが大きかったという。
今回は仮設総数4,303戸中で、このように建てられた木造応急仮設が、
実に683戸を占めるに至ったということ。約15.8%。

いま出来上がった木造応急仮設住宅は、
なおさらに「バリアフリー仕様」までも実現されている。
車椅子での利用などでの面積的ゆとりも実現されていると同時に
温度のバリアフリーとして、従来とは様変わりした断熱気密化も実現されている。
災害が起こることは自然災害大国ニッポンではやむを得ない現実。
それに対しての「備え」として、こと住宅については
社会は確実に前進を見せているのだなと喜ばしい思いを持ちました。
不幸に対してより前向きに対応していくことは可能だと思います。
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【福岡で「地域を知る」石器時代からの歴史入門】

2017年08月03日 07時42分06秒 | Weblog


本日から東北フォーラムの研修会で熊本地震その他の状況視察です。
仮設住宅から復興へと、東北がたどっている道と
熊本もまた同様の過程を経ていこうとしている。
今回のツアーでは、そういった認識から相互の情報共有が主眼。

ということですが、北海道から福岡には直行便は午前着の便がない。
仙台からは7:30で間に合うのだそうですが、札幌はハンディがあるのです。
そういうことで、1日前に福岡に移動しておりました。
ときどき家族旅行などで来ていたのですが、きちんとその地を理解するには
その地域の風土・歴史を情報として把握する必要がある。
そういうことなので、わたしはよくその地の博物館に行くことにしています。
写真は、博物館で許可された写真撮影を行ったもの。
まぁ、今回視察の広義の「取材」のベースにあたると言えますね。
九州は有力な活火山がありますが、そういった火山活動痕跡では、
阿蘇の噴火火砕流が福岡平野にまで流れ込んできた痕跡もあるそうです。
地質年代を通じてカルデラ噴火がこの地では繰り返してきたとされる。
この地に人間の生活痕跡が確認されるのは石器時代の26,000年以上前。
寒冷な気候で海面は現在よりもずっと低く、それが15,000年前頃には
温暖化が進んで現在の海岸線に近づいてきたとされる。
一番上の図を見ると、札幌は1,200-1,300kmくらいの距離。
福岡から見れば、北京とさして変わらない距離にある。
大阪がソウルと同距離で、東京と上海がほぼ同距離。
2番目の図を見れば、釜山、半島南部地域とはごく近しい近縁関係。
石器時代からごく自然に交流はあったということなのでしょうね。
白村江の戦役などの歴史事実を見れば、半島・大陸との交流が
いかに日本社会にとって必要不可欠なものであったのか、
容易に知れるところです。
わたし個人的には、古代朝廷の成立過程での半島への強い思い入れに
よくその心理的動因が飲み込めなかった部分があったのですが、
半島が連続しているようなこの九州北部の歴史地理をおさらいすると、
蓋然性がリアリティを持って入ってくるように思えます。
「倭の奴の国王」という漢から下賜された「金印」、また「印綬」という意味も
ほぼ定説が理解されるところです。
駆け足勉強でしたが、巨視的には把握の筋道がわかりました。

ただ、この福岡市博物館、なんとなく市中心部にあるものと思っていましたが、
中心部からは高速道路を走ってたどりつく場所。
再開発された地域にあるのですね。
そんなことで、道に迷ったりして時間があんまり取れなかった。
閉館を知らせに追い出されるように去らねばならなかったのが残念。
今度、時間を作ってもうちょっとお勉強したいと思います。
ただ、個人的にもっとも知りたかった、玄界灘が広大な陸地であったと
想定される石器時代あたりの考証はまだまだプロセスのようですね。
展示内容では非明示的になんとなくは示されているけれど、図録では
そういったあたりについての記述はまったく見られなかった。
26,000年前ころの「海岸線」や、そこからの海岸線の後退の歴年把握など
大陸・半島との交流と分離、列島社会の形成過程にも関わる部分なので、
より詳細な検証を望みたいと思いました。
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