今回の視察は、熊本地震による被害状況、それも住宅関係でのものが
中心の視察でしたが、さすがに前・日本建築学会会長、吉野先生の視察ということで、
特別に研究的立場からの熊本城の被害状況視察もご案内いただきました。
取りはからっていただいた熊本市、熊本県のみなさんに感謝いたします。
九州にはなんどか訪れていましたが、この熊本城は一度も訪れたことがなかった。
戦国期に城郭建築の手腕を秀吉から見込まれていたという
加藤清正の縄張りによる天下無双の城郭という常識くらいしかありませんでした。
被災状況視察が、はじめての城郭見学も兼ねた次第。
この城はいろいろな思惑を持って設計・建築されたことは明白。
〜加藤清正は、1591年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に
城郭を築きはじめ関ヶ原の1600年頃には天守が完成、関ヶ原の行賞で
清正は肥後一国52万石の領主に。1606年には城の完成をみた。〜
ちょうど豊臣家存亡が政局の中心的テーマだった時期。
清正としては、豊臣秀頼をこの城郭に招いて保護していこうという
そういった政治目的を持っていたとされている。
近年の研究では本丸に加藤家の城主の居室のさらに奥に
貴賓が常居するような「御殿」が備えられていたという。
徳川家による全国統一は認めつつも、相対的に独立した権威として
旧主・豊臣家の存続を企図した清正の意図がその建築に反映されている。
江戸城や大阪城とも比肩されるような天下の軍をもクギづける大城郭建築。
創建時のこの企図の上、この城は同時に地震や戦争など大変動を刻んできた。
なんども繰り返し城の石垣、建築群が被災し再建されている。
そういった経緯の上にさらに2016年の熊本地震が襲ってきた。
城郭地域全体で20cm以上、地盤面が今回沈下したとされている。
そういった状況の中で、それをどのように「復元」すべきなのか、
直接、復元計画に携わっている濱田副所長、西川建築整備班担当のおふたりの
お話しを聞いていて、気の遠くなる作業の連続と忖度させられました。
地盤面がそこまで沈下を見せれば、復元といっても、
完全な形はありえない。そもそも「完全」という概念も歴史的にいつを指すか、
比較対照とすべき測量データもないということなので、
かろうじて残っている「写真資料」と現状を対比させ、
復元工事の設計を立てていくしかない。
また石垣は国の指定を受けた文化財であるので、崩落して堀に落ちたそれを
もとの位置に「還す」というためには「番付」をして保存していく必要がある。
けれど、その番付にしても写真資料との対比くらいしか方法がない。
さらにそういう文化財を判断する資格を持った人材には当然限りがある。
大きな石垣面で数個の石がかろうじて位置を特定しうるに過ぎない。
そういったことから石垣復元の専用のAIによる画像解析ソフトまで開発されている。
復元のためにその手段から開発せざるを得ない。
その上、それで復元方針ができたとしても、今度はこうした石垣の
修復技術者それ自体もまったく不足している。
ことは城郭石垣専門の職人の育成から手を掛けなければならない。
またたとえそれができたとしても、そういった職人さんたちに長期的な仕事が
はたして確保できるのかどうか、
ことは城郭の復元にとどまらず、現代ニッポン社会がこうした歴史遺産を
はたして再生存続させていけるのかどうかが、試されている。
いやはや、再生ははるかな道程と思えます。
<写真、図は市のパンフレットより抜粋>
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