三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【藤森照信「熊本県立農業大学校学生寮」見学】

2017年08月21日 07時05分39秒 | Weblog



藤森照信さんという建築家は、建築探偵団とかユニークな設計作品で
なんとなく惹かれている建築家なのですが、
高断熱高気密とかの建築技術的なことについて関心を持っているのかいないのか、
そういったことについての知識はありません。
氏の建築作品を調べていても、北海道での建築はないとされています。
ということなので、北海道的には縁の遠い建築家というイメージ。
でも、氏が発言されたり作られたりしている建築を雑誌や写真で見ると、
手ざわりのある自然素材に対しての傾斜感がハンパなく感じられ、
そういう意味では現代人のある性向を端的に表している。
高断熱高気密住宅でも、気密化においては石化製品・ビニールであるとか、
断熱では工業製品であるガラスを再利用するガラス繊維や石化製品である
発泡系プラスチック断熱材などが不可欠に利用されているけれど、
人間が感覚可能な部分では自然素材を使いたいと多くの人が自然に考える。
このあたりのことについて、原理主義的に石化素材を拒否するようなひともいる。
で、素材について有機系の断熱材を使いたいとか、
気密化でビニール素材を使わないようにしているとかの傾向も存在する。
それを理解はできるけれど、そのこだわりにどこまで意味があるか、というのが
寒冷地に生きている人間のフツーの実感。
結果として人間を暴力的な気候から守ることが目的であって、
現代世界が生み出す石化製品一般を拒否するのは狭量な原理主義と思える。

こういった点についての、藤森さんの発言は不勉強で知らない。
そこはわからないのですが、社会に発表される建築の志向自体は
北の方から見ていても、興味深く見させていただいている。
先般、九州をあるく機会があったとき、
できれば藤森さんの建築作品を実際に体験してみたいと思ったのです。
とはいえ、予定がどうなるか、まったくわからないし、
時間と予定が許せばということでの探訪でした。
台風の関係で本当は見たかった宇宙開発センター(池辺陽)が不可能になり、
その余波で早めに熊本県に戻ったので見ることができたのが、
熊本県立農業大学校学生寮であります。2000年の日本建築学会賞・作品賞。
外観だけから、気付いた様子を挙げてみます。
この建物へのアプローチには趣向があり、
建物へ向かっていく外周に土盛りの「塀」があります。
この塀の真ん中に植栽が施され、その緑のアーチを抜けると1番上の写真。
で、まっすぐ正面に向かうと、自然木とおぼしき立木状の木が目に付く。
玄関の傾斜屋根を貫いているかのようなのです。
で、近接したら、ディテールは3枚目の写真のようになっていた。
板金で「自然木」との接合部は被覆されて雨対策はされていた。
現在築後17年くらいは経っていての現状の状態がこのようであります。
この「自然木」はギミックとしてあるのか、
いや本当に自然木であるのかは、よくわかりません。
自然木であるとすると、上部では葉っぱや枝がないので破綻しているのかも知れない。
ギミックとしてならば、ある感覚はたしかに想起される。
・・・、っていうように興味はいろいろと持ったのですが、
まぁ今回は、雰囲気としての藤森照信作品という体験させていただいた。
そのうち、もうちょっと密着していきたいと思わされました。
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【突然の「オーロラと雲海が見たい」宣言!】

2017年08月20日 15時13分11秒 | Weblog


全国の円満夫婦のみなさん、お元気でしょうか(笑)。
ご多分に漏れず、わが家ではカミさんの宣言にはすごい決定力がある。
なぜか、きのう突然表題のような宣言が彼女からなされた。
もういやも応もありません。オーロラの方はかなり周到な準備が必要ですが、
雲海の方はと聞くと、どうやら星野リゾート・トマムの「雲海ゴンドラ」に乗っての、
トマム山中腹からのパノラマビューのことのようで、
これなら、お安い御用ということで、
本日朝、といっても夜も明けない午前2時半出発でトマムへ向かった。
情報では夏場の午前5時から午前8時までの間だけ、
ゴンドラリフトを運行して、山頂まで600m付近からの眺望で、
その日、晴天であれば、眼下に「雲海」を見晴るかすことができる。
ということでした。
札幌の自宅からは150km超という道ですが、
「早すぎるんじゃないか」ということで、ややノンビリとクルマを走らせ午前4時半過ぎに
トマムに到着。リフトのターミナルをあちこちと探してようやく発見。
リフトターミナルには4:50ころに到着しましたが、
すでに「乗車までは30分くらいかかります」というアナウンス。



カミさんからは「オーロラと」というコトバだったので、
わたしのイメージとしては、人跡未踏的な地球の鼓動みたいなイメージを
膨らませていたのですが、ごらんのような「雲海」ならぬ「人海」ぶり(笑)。
30分どころではなく、ゆうに1時間くらいはかかったか。
で、到着後、雲海の眺望ポイントを求めて探していたら、
完全武装のアルピニストのような人と遭遇。
なんでもトマム山頂からの眺望がすばらしい、とのお話し。
なんですが、当方の格好をみて、「笹だらけで濡れますよ」という忠告。
しかしせっかく来たし、ということで、リフトターミナルからさらに600mという山頂へ。
ただしカミさんは100mほどの中間地点であえなくリタイヤ。
そこからはわたし一人でのチャレンジになりました。
「でもたしか、この企画はカミさんの発議だったはず・・・」という内語は
その時点ではすっかり消し飛んでしまっている(笑)。
ここまで来たら行くしかないだろう、ということで登頂開始です。
・・・しかし、途中3回ほどは、息が上がってしまって、
これはついに遭難かと覚悟を決めたりした(笑)。
標高差は160mほどで、道のりは500mなのですが、
道も滑りやすく、登山としてはやっぱりかなりの本格派。
疲労困憊しながらなんとか登り切ったのですが、
帰り道、行き会うひとを見ると完全武装の方が多いし、
なにより上るときには気付かなかったのですが、
ちゃんと「登山者名簿」の記載コーナーもあるというコースなのです(!)。
山頂からはトマムリゾート側だけではなく日高山系北方への眺望も見られる。
まさに360度のパノラマビューであります。
日頃ちゃんと散歩で歩いていてなんとか、体力が持ったというところ。
ということで、トマムを踏破した後、支笏湖丸駒温泉に寄って汗を流し、
先ほど1時半ころに無事帰還しました。やれやれであります。
往復で11時間超の電撃日帰りツアーでした。まだまだ体力勝負大丈夫(笑)。
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【熊本の工務店グループ・復興住宅共通モデル】

2017年08月19日 08時03分06秒 | Weblog


応急仮設住宅の建設について、
震災を経験する度に、徐々にその「思想」が変わってきていることは、既報の通り。
と同時に、「復興住宅」ということについての考え方も変化してきている。

地域社会が過疎化し、こうした災害からの復旧にあたっても
資本主義的な論理が貫徹する社会らしく、
決められた条件の中での最適解的な「営業活動」を展開しうる
大手プレハブハウスメーカーが、人材の集中投下によって
被災者からの受注を大きく取り込んでいく構図が出来上がっている。
地域の工務店は、応急的なメンテナンス作業に振り回されている間に、
肝心の復興住宅新築受注活動は手を付けられず、
そのすき間を埋めるような大手メーカーの周到な営業活動が展開されるのだ。
そのような「資本の論理」自体はやむを得ないことでもあると思う。
すべての新築需要に、中小工務店が対応できるわけはない。
「住み分け」ということも市場に置いては当然のことだと思います。
しかし、地域工務店は地域の製造業、ものづくりの中核的な存在であり、
メンテナンス、長期的な保守管理においては、必要不可欠な存在。
そうした存在が存立し得なくなることは,地域社会の損失が大きい。
第一、小なりとはいえ、地域に納税して循環することで経済が回っていく存在。
そうした存在であると思いますが、しかし、
やはり従来は横の情報交換、情報レベルにおいて、大手と比較して
大きく劣っていたことは否めない事実だと思います。
家づくりを考えれば、まずはモデル住宅のような場所で確認して
さまざまな情報に接して、ユーザーが判断できるような体制整備が欠かせない。
この写真のモデルハウスは、熊本県・益城町での地域工務店グループの
共同モデルハウスとして建設された。
阪神淡路、東日本大震災と、災害の経験が知見となって集積して、
このようなカタチのものが出現してきたという進化を喜ばしいと思います。



プランとしては、4間×6間の24坪から、
玄関部分が凹んだカタチでの22坪プランです。
オプションで太陽光発電を載っければ、ZEH基準も満たせるという性能仕様。
さすがに温暖地・熊本、無理のない断熱仕様でOKなのですね。
屋根庇も合理的に考えられていて、デッキなど内外の融通無碍な暮らし方にも
対応できるプランになっていた。
これで1000万円程度で復興住宅が可能とされていました。
工務店グループとしては、ある程度思い切ったプランですが、
まとめ役として地元建材店が介在して、こうした共同モデルハウスが実現した。
それも応急仮設住宅団地の目立つ一角で、集会所である「みんなの家」の目の前。
行政側の後押しも感じられます。
こういった「コンパクトハウス」志向、確実にいまの時流にも存在する。
いろいろと興味深い動きだと思いました。
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【ニッポン人に参加できない? 北海道のさみしい夏】

2017年08月18日 06時43分07秒 | Weblog


沖縄の親戚からマンゴーを送ってもらいました、感謝であります。
なんですが北海道人としては、まずは切り方もよく知らない果実(笑)。
旅行で南の地方に行ってホテルで食べるくらいしか食体験がない。
たぶん、夏が旬のものなんでしょうが、
ほとんど食べる習慣がなく、週末にでも食べるのを楽しみにしてます。
・・・このところなんか涼しい。今朝にかけては札幌、夜間の温度低下が激しく、
わたしは羽毛布団にもう1枚、毛布を掛けて寝ておりました。
つい先日、九州の旅では夜どうやって寝ようか、
しょがない、エアコン使うしかないなと過ごしていたのが、まるでウソのよう。
どうもここのところ、北太平洋の冷気が東北・北海道に影響していて
気温上昇がなかなか見られない状況が続いております。
朝の散歩でも半袖シャツではやや肌寒さを感じながらなのであります。
まぁそれでも、動き回ると多少は汗ばむのですが、
夏らしい暑さは、ここからはあんまり期待できそうもない。
先日14日に行ったゴルフ場では、「いやぁ、秋風だね〜」というのが挨拶。
ことしの北海道、7月はけっこうな暑さで8月もさぞやと身構えていたのですが、
すっかり、肩すかしの状況であります。

北海道生まれの人間は、夏の蒸暑に対しての
「希求」感を根強く持っています。
生きてきた間中、夏に蒸暑感が感じられないと、その年、損した気分になる。
こういう気分は、たぶん北海道人だけのものなのではないでしょうか?
逆の、たとえば沖縄の人が冬の寒さが足りないと嘆くというのは、
あんまり聞いたことがありません(笑)。
ニッポンの夏のあの「高温多湿」を感じられないと、
どうも「ニッポン人に参加していない」ような気分にさいなまれるのです(笑)。
どうもいじけているような書き方かなぁ・・・。
まぁ、ちょっとかわいそうな心情とお笑いください。
仕事として住宅関係のメディアを発行するようになって、
主にこういった気温や湿度といった室内気候に関する人間の感じ方、
「快適域」について、その決定要素としての住宅性能を考えることが
大きな領域ではあるのだけれど、一方でこういう心理も持っている。
夏は涼しく、冬はあたたかくというのが、温度のバリアフリーではあるのだけれど、
それは人為環境のことであって、自然条件としては
ごく自然な夏の暑さであって欲しいと念願する次第であります。
さて、これからの「残暑」はどうなっていくのでしょうか?
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【九州北部と大陸交流史にリスペクト】

2017年08月17日 05時54分28秒 | Weblog


「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」という読み方だとされている。
江戸時代に福岡県・志賀島でたまたま発見された「金印」であります。
これはまごうことなき「国宝」とされております。
福岡市博物館の一番最初の展示室に実物が展示され、そのために1室がある。
以下、博物館のHPより要旨抜粋。
〜印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても
直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付きません。
漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったため。
次の“委奴”は『後漢書』の記述と一致することから
「倭奴」の略字と理解できますが、その解釈は分かれています。
外臣に下賜する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくるので、
「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」と考え、「漢委奴国王」を
「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」とするのが今日の代表的解釈。〜

ハンコなので、印肉があって朱印で押印されるのだと思ったのですが、
そうではなくて、荷物、たぶん漢帝室への貢物などを封印するために、
その閉じ口を粘土などで閉じたあとに、この金印で粘土に刻印したのだと
そういう解説がされていました。
持ち手部分にはヘビの造形が施されている。
実物は、一辺2.3センチ、重さ108グラムの金塊。
なので、こんなに小さいものなんだと、改めてマジマジと凝視させられる。
こういう造作を工芸品として製造する社会システムが大陸にはある。
そういった「政治」の存在、古代国家社会の明瞭な象徴として
列島社会にもたらされたことは、大きな驚きだったでしょう。
今から2000年程度は前の段階でのこと。
書物での確認と実物との両方が残っている列島社会史の嚆矢。
たぶん、当時の列島社会はいまのインドネシアとか、フィリピンと類似した
在地有力者が割拠しているような海洋民族社会。
彼の地とは違って、四季変化が明瞭で、比較的に平野部が多く、
人口が増える蓋然性が高かった社会だったのでしょう。
こういう漢帝室との交流が発生することで、古代社会としての「文明化」が
人々に相当に意識されるようになり、のちの大和朝廷に連なる人々を刺激した。
列島社会側での「政治」の出現はそんな過程だったのでは。
大陸や半島への古代史を通した強烈な志向性とは、
このような初期体験が刷り込まれた結果であるように思います。
で、下の写真は太宰府天満宮ですが、大陸との交流が
「遠のみかど」太宰府で主要に展開されてきたのでしょう。
具体的想像力を豊かに感受することができますね。

歴史好きとはいっても、北海道に在住している人間としては、
こういった北部九州のことはなかなか想像力を持ちにくい。
むしろ、アイヌを通しての北方交流の方がリアリティもあるのですが、
やはり列島社会史としては、率直に北部九州の方がはるかに、
モノと歴史事実の積層感がハンパないのだと、改めて思い知らされます。
今回訪問で、深く認識を持つことができました。
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【隈研吾・太宰府天満宮スタバの木組みデザイン】

2017年08月16日 07時37分51秒 | Weblog


「自然素材による伝統と現代の融合をコンセプトに、入り口から店内にかけて
伝統的な木組み構造を使った。木組みは、1.3~1.4mの杉材4本で組まれ、
使用した杉材2000本。木組みが壁、天井に張り付き建物の構造を支え、
木組みそのものがデザインとしてのインパクトを持つ」
というのが、隈研吾氏の解題<商業施設新聞より>であります。

やっぱりツアーで歩くと、いろいろな建築を見たい。
先般九州を歩くとなって、いくつかの建築を挙げていたのですが、
最後の日、福岡空港までの時間を太宰府天満宮に向かって行く道すがら
やはり有名なこのショップに足を向けておりました。
北海道大樹町にLIXILが入手した元牧場施設「メムメドウズ」があります。
そこで隈研吾が監修し世界の建築の学生たちに習作デザインを競わせている、
LIXIL国際大学建築コンペ。その先生によるモデルとして、隈研吾設計の
「メムメドウズ」がありすでに数回見学。アイヌチセにインスピレーションを得て、
北方民族の原初的住宅を現代素材で作ったもの。
このブログ、バックナンバーでも書いています。
http://www.replan.ne.jp/blog2/?p=6910
この施設が契機になって隈研吾作品に興味を持って見ています。
どうも隈さんは相当たくさん作品を作っているようで、
日本全国、ここにもあそこにもと、見て回る機会が多いです。
いまは国立競技場が建設中で、工事は突貫のようですが、
出来上がるのが楽しみといったところ。
そのコンセプト案でも、木組みがどうやらポイントになっているようで、
北海道のカラマツ材が相当使われるというように聞いていますが、どうなるか。
で、このスタバ太宰府店であります。
商業店舗としては相当成功しているような賑わいぶりで、ご同慶の至り。
太宰府天満宮の表参道目抜き通りの中程に位置していて、
だいたいの観光客は足を止めて、スマホをかざしていく。
メッチャ混んでいて、人並みに押されるウチに中にまで入ってしまった。
ということで、内観まで撮らせていただいた次第。
ただ、店舗のカウンターにも長蛇の列で飲み物の注文は諦めた(笑)。
で、木組みであります。



わたし自宅でも、写真のように26年前に格子天井をやっていまして、
好きなんですが、一方この施工の大変さはよくわかっている(笑)。
わが家の場合、コンクリートスラブの天井から鉄筋を下ろしてきて
それに格子の木組みを緊結させる方法を取った。
大きな木組みを面材にして、くっつけたのですね。
この隈研吾さんの場合には、どんな手法だったのか。
「1.3~1.4mの杉材4本」というワングリッドを多数連結させているようですが、
その木組み方程式というか、順列組み合わせをどのような「指示書」でやったか。
この木組みでは、けっこうランダム風にも見えるのだけれど、
それでは現場が混乱するだろうし、隈さんが立ち会って
「あ、そこはこうやって、こっちはこうさ・・・」みたいに現場で感覚的に仕上げたのか。
出来上がった空間はなんとも、胎内的感覚があって惹き付けられる。
それこそ中国人観光客や欧米系もニッポン人も、みんな一様に吸い寄せられる(笑)。
太宰府天満宮という観光スポットにあるのですが、
本体よりも、勝るとも劣らない「集客力」を見せつけておりました。
う〜〜む。やっぱ、いいねこれ。
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【休日につきMacの改造メンテナンス】

2017年08月15日 08時40分08秒 | Weblog


記憶媒体というヤツ、CDとか、DVDとかブルーレイだとか
いろいろに「進化」してきたとか言われていますが、
しかし、データのやり取りもインターネット経由でできるようになって、
こういう記憶メディアの必要性は薄れてきた。
パソコンではめったにそういう必要性には遭遇しなくなった。
わたしは、内蔵DVDのある2011LateというMacBookProがメインなのですが、
半年に1回くらいしか、DVDは使用しなかった。
一方で、仕事上たくさんのデータを扱うので記憶領域容量は大きく必要。
内蔵のHDDについては、何回も更新してきていて、
いまは、SSD2TBのものに換装して使っています。
しかし、使用領域は400GB程度で余力を持たせるようにしている。
Macのメンテナンス的にそうした方が安全なのと、
いつなんどき本体を最新機種MacBookProに置き換えなければならないかも、
と言う事態への備え。最新機種に変えざるを得なくなったら、
即座に本体だけでは記憶容量不足が懸念されるのです。
最新機種のMacではSSDに変わっているけれど、この容量がまだ小さい(泣)。
Appleの店頭スタッフも大容量データは外付けドライブにしている人が多いと証言する。
そこで仕事上の20年近い蓄積データは別に外付けHDDに入れて使っていた。
そのなかのデータのエイリアスをデスクトップに置いて使っている。
でもこうだと、いつも外付けハードディスクを携行しなければならない。
面倒だしということで、上記の使っていないDVDドライブ⇒HDD換装にチャレンジ。
ちょうどお盆休暇はそういう機会にぴったり。
ただ、実際に最新機種に更新しなければならなくなったら、また外付けドライブ持参生活。
そのあたりは、やっぱ理不尽かなぁと。

で、換装用のDVD⇒HDDのワクを購入してきて、
いつものように内部アクセスしてDVDを外そうとしたのですが、
こういうマニュアルや、解説はなかなかインターネットに出ていない。
いくつかあったのですが、固定しているビスの位置とか
サッパリ正確ではなかった。こういうトライ、あんまりみんなしないのかなぁ?
探し始めて数日、ようやく手順を確認できたのが2枚目の写真です。
固定しているネジとかは6箇所もと、あったけれど、
実際やってみたら、そのうちの2箇所はそもそもネジが固定されていなかった(?)。
なぜか、ネジがなかったのですね。大丈夫かApple(笑)。
ややあっけに取られましたが、自己責任での改造だし旧機種なので不問に。
で、それ以外の箇所を外して、換装用のHDDワクをセット。
1枚目の写真のように、2つめの記憶媒体が「内蔵」表示のアイコンで
認識されています。その下の外部記憶媒体とは違う表示ですね。
ということで、当面は外部記憶メディアを持ち歩く必要がなくなった。
休暇明け以降、軽快に出張できる体制が整いました。
ふ〜。やれやれです。
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【ニッポン人の住意識の基本「家+庭」】

2017年08月14日 05時16分21秒 | Weblog


やはりこういった「たたずまい」が日本人の家の原点になるのだろうか。
高温多湿の気候条件の中で、日本人とその自然環境の中で適合した植物群とは
共生感をもって生き延びてきた。
自然との関係性である「農」の暮らしが基本であるとすれば、
日々の微妙な気候感受に最適化された住居形態が求められる。
こういう写真のようなたたずまいが、そうした暮らしにはフィットする。
季節感のランドマークとして、草花が植栽されて、
その季節変化によって、いま農作業でなにをなすべきかが即座に伝わってくる。
その上、基本的には開放された外部空気との一体感が重視された。
それによって微妙な季節の温湿度への感覚を鋭敏に養わせてきたものか。
基本はこうした開放的な暮らし方であって、
必要な自然や気候条件などへの「対応」は、障子や建具類によってなされた。
農の住宅や都市の邸宅住宅に於いては、基本的ライフスタイルはこうだったのだろう。
どちらも基本は家・建物と自然感受装置としての庭が一体化されていた。
家+庭というワンセットが日本人には似つかわしい。
街並みとしても、緑の環境の中に点在するという程度が
日本人の住宅の原風景としてふさわしいのだろうと思う。
木を利用して家を建てていくことから、水平と垂直の「木組み」がデザインの
基本要素になっていくことは自明だった。

こういった日本住宅の基本に対して、今日建てられている住宅は
基本的には「町家」のスタイルに戸建て住宅の文化が融合された形式だろうと思う。
自然との対話というよりも、都市性との調和ということの方が重要視される。
農の暮らしが自然の変化を感受することを重視するとすれば、
現代住宅は職場・学校との近縁性、「便利さ」の方に重要度を求める。
自然との対話は、都市では週末にレジャーで楽しむモノであり、
普段の暮らしはなによりも利便性の方向に判断基準は向かっていく。
ただし、いま金融の過剰によって生み出されつつある格差社会では
この利便性の上にさらに「上質」であることが希求されつつあるのかも知れない。
その質的な希求要素は、どういった基準になっていくのか、
さまざまな試行が提起されていくだろうけれど、
伝統回帰というようなことも有力な選択肢にはなっていくのではないか。
一方で庶民の暮らしようはどのように変化して行くのか、
よりきめ細やかな「階級格差」的なものになっていくのか、
よりシンプルな、プロトタイプ的なものに向かっていくのか。

要は、庭との関係がどうなっていくのかが、
結構、決定的なのかも知れないと思っています。
日本人の庭へのこだわりは、たとえば盆栽文化というような昇華したものも生んだ。
利便性の方は、方円に従うように選択されていくだろうけれど、
うるおい文化の方は、より多様な発展可能性に満ちていると思われます。
写真のような空間にたたずんで、ふと気付くようなことが、
ニッポン人の多くがいま求めているものであるように思っています。
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【薩摩武家集落に自然な自衛意識伝統をみる】

2017年08月13日 07時09分18秒 | Weblog



写真は鹿児島県出水に残る薩摩藩の出水麓の中心的武家住宅でのもの。
「麓」と呼ばれるのは、緊急時に薩摩防衛の防衛拠点になる「外城」周辺に
配置されていた武家住宅群の名称とされている。
そういうことなので、地域として武道の修練が盛んで
写真のように少年たちも凛々しい姿・表情を見せて美しい。
明治初期の地域での武道修練の様子を撮影した記念写真ということ。
土地・地域を守り、人々を守ろうとする自然な倫理意識が表情を引き締めている。
また、自顕流という薩摩独特の武道精神は隼人の血も感じさせる。
幕末期から明治期の薩摩隼人、おとこたちの息づかいが伝わってくる。

薩摩藩は関ヶ原以来、江戸期日本でもっとも独立性の高い地方武権であり、
幕府の密偵を見つけ次第、容赦なく殺害したとされる雄藩。
江戸期を通じて常在戦場の気風を残し続けた。
徳川政権に対してみごとな外交を展開し、経済的にも琉球を支配下に収め
貿易の利益を得続けてきた。さらに鹿児島には天守などの城郭を築かず、
ひたすら藩経済の充実に努めてきたとされている。
まさに明治期ニッポンの国策になる「富国強兵」路線を江戸期に実践し続けた。
その武の気風が、次の薩長政権ニッポンを生み出した原動力。
幕末日本では対ロシアの国防論議が世論を沸騰させていた。
そのとき、常に問題となったのは蝦夷地だった。
もし蝦夷地がロシア領になったら、という危機意識が明治維新の起爆力となった。
明治ニッポンの国家としての飛躍は、この国防問題と切り離して考えられない。
維新の成就とほぼ同時に、事実上の北海道の開拓使長官に
薩摩中核の黒田清隆が任命され、北海道はまさに薩摩の政治軍事方針通り、
殖産興業と国土防衛の最前線であり続けた。
日本側のそうした国防と一体化した北海道開拓の努力がロシアの方針を転換させ、
北海道への南下活動を停止させ、その矛先を中国北東部から
朝鮮半島へと向かわせたことが、日露戦争への歴史の転換点になった。
平和は絶え間ない防衛努力こそが基本であるのは、歴史であきらかなこと。
北海道を内国化させたことは、薩摩の戦略がその基底にあり、
その結果、北海道はこの時期救われたのだと、
はるか後に北海道に生を受けたものとして、感謝を込めて思っている。

戦後ニッポンは長くアメリカの軍事圏にあって、安全保障を得て
その国力を基本的には経済発展に振り向けてきた。
日米同盟は、第2次世界大戦の多大な国民の犠牲の上にある国家平和戦略。
いま、北東アジアにおいて否応なく緊張が高まってきている。
現代世界における危機とは、このように発現するのかという思いがします。
まさに一昨年の安保法制整備が、こうした事態対応の基本の支えになっている。
冷静にこの事態に対処し、状況を平和的に転換させる必要がある。
しかしそのためには、絶え間ない防衛努力が基本であることはいうまでもない。
明治期ニッポンがロシアに北海道侵略を諦めさせた歴史の事実に学べば、
軍事を含めたパワーを見せない「交渉」などありえない。
けさの毎日新聞の、日本の対ミサイル防衛対応それ自体を「疑問」だとする報道。
「<PAC3配備>「どう対応すれば」地元から不安や疑問の声」と題した記事。
「PAC3を配備すれば、逆に北朝鮮から狙われるのではないか」とまで記載がある。
まさかこういうスタンスを日本のメディアとして取るのか、と驚愕した。
日本の危機とは、むしろこうした「報道」のあり方それ自体にあるのではないか。
明治ニッポンとの落差に暗澹とする思い。
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【地盤が変容する天変地異と耐震努力の臨界点】

2017年08月12日 06時26分48秒 | Weblog



今回の熊本地震は絶え間ない地震動と、大地震が2回という
現代ニッポンが経験しなかったような被災でした。
地震から1年数ヶ月経過したいま行ってみても、
山塊崩壊の様子であるとか、いまでもちょっとした地震が来れば
すぐにでも地盤面が崩落していく状況を目の当たりにした。
3枚目の写真など、現場は立ち入り禁止になっている地域ですが、
建築的調査ということで特別に見学できた地域では、
次回の崩落面が地割れとなって現出していて、
谷側に向かって地面が割れていく様子を、体感することもできました。

日本は火山列島であり、繰り返された火山噴火、地震が地形に作用して、
絶えず国土の風景が変わってきたことが体感できた。
カルデラ級の大火山噴火の痕跡すらも、ここ九州やわたしの住む北海道でも
容易に目にすることができる。阿蘇は9万年前のカルデラ噴火で
その火砕流が福岡県の平野部にまで到達していたという。
今回の視察では、人間ができることとそれをはるかに超えた大地の変容ぶりとの間で
どのあたりをメドとして努力すべきなのか、
ひたすら力尽くで自然の猛威に対して対応することと、
いわゆる「いなす」知恵との間で、人間社会はどう対応すべきなのか、
その臨界点について考えさせられました。
できる努力として、耐震性能を上げることには大きな意味がある。
それによって、たぶん、9割方以上は命と財産を守ることはできる。
しかし、それでもなお及ばない範囲というものは存在する。
通常、住宅を新築するときには地盤調査が当然のように実施される。
しかし、地震が起こった後、その地盤がどのように変異したかについて、
調査を行うということは、大きな被害がない限りはあまり行われない。
今回熊本地震では、とくに写真のような阿蘇地域とか、
熊本城地域での状況を見るに付け、
地盤面自体が大きく変容している様子が目の当たりにできた。
城郭建築は軍事的防御の目的で石垣であるとかの「堅牢性」を高めるけれど、
今回の地震では、その地盤面自体が全体として20cm超のレベルで地盤沈下した。
その地盤内でどのような変異が起こっているか、
あえてコストも掛けて調査するケースはないだろうと思います。
新築時に安定した地盤とされた敷地が、こういう天変地異で変動することもある。
現代の住宅建築があまり想定していなかったことが現実に起こる。
そのような土木建築でのコストパフォーマンスの見えにくい局面で
社会としてどのような対応が、より賢い選択であるのか、
そういったレベルでの知恵が求められてきているように思われました。
どう「いなす」べきなのか、知恵が必要だと。
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