三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

個人主義的住宅の行方~1

2013年09月20日 11時49分11秒 | Weblog



きのうの、「集村・散村・郊外型住宅」の続きです。
現代の日本で一般的に建てられている「郊外型住宅」の行く末はどうなっていくか、
というテーマであります。
昨日は、ある「散村型戸建て農家住宅」のたたずまいを
現代の都市近郊に数多く建設される一般的な戸建て住宅の
ひとつの祖形ではないかと推論したわけですが、
やはり大きな違いは持っているでしょう。
ただ、住まいようとして、自己完結性という部分では、一番似ているように思う。
現代住宅は形としては集住的ではあるけれど、
昔の集住である「集村」で一般的に存在した宗教的一体感演出装置のようなものはない。
したがって、コミュニティというものが、
地域に根ざして存在している、という感覚は
都市、および近郊住宅地の現代人はほぼ持てない。
そういう意味で孤立的であり、他者に対して閉鎖的なライフスタイルが一般的。
都市にそのような歴史経緯があればまだしも、
人口急増した地域では、そういったコミュニティはまず機能していない。

そうだとすると、
なにをよすがや規範にして、現代人は住宅を注文しているのか?
古民家を取材すればすぐにわかるけれど、
伝統的な住宅とは、おおむね規格住宅的であり、
間取りとしては、農家、都市住宅、どちらも、
一定の法則性にしたがって建てられている。
柱や梁の寸法、畳の大きさなど、規格寸法の合理性がすべてに優先している。
日本人が最高に優先してきたのは、合理主義なんだと知れる。
しかし、現代に多く建てられている住宅は、
規格自体、「世界にひとつだけ」の「独自工法」に走ってすらいる。
それはまだ、住宅企業選択のひとつと考えてもいいけれど、
古民家が等しく持っていた、ライフスタイルの共有性は放棄している。
(ように感じられる。)
古民家が、神棚と仏壇という神聖空間を必ず装置していたのに、
現代住宅では、そういった「家」意識は希薄になっている。
このように建てられる住宅に、
時間を超えた「普遍性」は、あるのだろうか?
この疑問から、長い間、解放されたことがないのであります・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集村・散村・郊外型住宅

2013年09月19日 07時16分08秒 | Weblog




今回の東北出張で、ふと見かけた農家とおぼしき住宅風景。
東北では、「散村」よりも「集村」形式の集落が多いと思います。
集村も現代の「郊外型住宅地」に繋がってくるような
そういった部分が感じられてたいへん面白い。
ただ、昔の集村には、必ず神社や祠、寺などの宗教的施設があって、
村落共同体の一体感を機能させる装置が仕掛けられているけれど、
現代の「郊外型住宅地」には、まったくそのような仕掛けがない。
勢い、「集まる」ということに吸引力がなく、
いわば「地域力」とでもいえるようなものが決定的にない。
最近、人口減少期に入っていって、
都市周辺に展開した「郊外型住宅地」が、存続の危機に直面している。
そういった「郊外型住宅地」を抱える自治体などから、
「どうしたらいいか?」というような問いかけもあるけれど、
民俗的視点から言えば、そのような吸引力を持たない、
いわばバーチャルな「地域」には存続していくだけのパワーはないと思う。
というか、そのような「郊外型住宅地」に建てられた住宅は、
本来的な意味合いでは、「散村」型住居に近くて
近隣関係というのをなるべく想定していないのだと思う。
基本的には「世界にひとつだけ」の、その家族の住まいであって
それがどこに立地し、どのような近隣関係を考えていくべきなのか、
そのような想像力を基本的に持っていない。
それらの「街」の基本構想を作った人たち、建築に携わる人を多く知っているけれど、
かれらの実態は、図面上での架空の「街」を創造したのであって、
せいぜいが、欧米型「郊外型住宅地」の祖形をなぞっていたに過ぎない。
そこにこの列島社会で永く存続してきたような
「集村」的な存続の仕掛けなど、皆目なかったのだ。
宗教的な、神社や寺院の共同体意識形成のような目的がまったくない
「集会施設」などをいくら作っても、
それこそ仏を作って魂を入れず、ということに結果してしまう。

その反対に、この写真のような
ある「個」的な主張とか、生き方というような生き様にこそ、
わたしたち現代は、方向性を持ってきたのだと思う。
確かに現代に「文化」はあるけれど、
それは集団的な集中性とは正反対の、個人の内面性に向かってきたのだと思う。
そのような「志向性」に、果たして未来へ残っていくものはあるのか、
論ずべきものは、そのようなことではないのかと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風に振り回されたフェリー移動

2013年09月18日 12時36分40秒 | Weblog



福島県での16日の取材が直前で不可抗力からドタキャンになって、
急にスケジュールが空いたのですが、
しかし、全日15日日曜日は終日、岩手県沿岸地域取材で、雨の一日。
ようやくほうほうの体で、盛岡に宿泊して台風情報に耳をそばだてていましたが、
事態は、どうもどんどん悪い方に転がっていく。
今回の東北取材は、札幌からクルマを走らせてきているので、
帰りも、当然フェリーと言うことになっておりましたが、
台風の進路は、どうも東北太平洋岸を直撃する状況。
それも予定していた「八戸ー苫小牧」ルートは、非常にやばそうな雰囲気。
ということで、状況を見ようと考えていましたが、
決断して、八戸航路を諦めて
青森から函館というように方針転換。
で、16日は盛岡から青森までの高速を走りましたが、
これが「経験したことのないような」土砂降りの中の走行。
フェリーも当然のように欠航であります。
しょがない、ということで、青森のホテルに投宿。
天候の回復を待って、昼前の便に乗船。
無事、17日夕刻に函館に上陸することができました。

16日には、東北の別クルーの取材スタッフは
大雨の中、仙台から山形県酒田市へ移動しての取材。
それこそ、安全第1を再確認しながらの取材でありました。
まぁ、なんとか無事に取材撮影できて、
ほっとひと安心でしたが、
台風には、大いに振り回された次第であります。
帰りの青森から函館のフェリーでも
空は晴れているけれど、台風からの吹き返しの風が強いようで
ときどき、恐ろしげに波が船体にぶつかって、大音響を上げる。
写真のような様子だったのですが、海の色はほぼ「群青」といっていいほど。
久しぶりにこんな色合いの海を見た気がしました。
どうなんでしょうか、この時期には普通にこんな色合いなのか。
でもなんとなく、台風の置き土産のような雰囲気が漂っていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流された仏壇の「再生」

2013年09月17日 09時23分36秒 | Weblog



写真は、きのう取材した岩手県・山田町の「復興住宅」のようす。
こちらのお宅では、震災前の敷地に再建することが出来ました。
地盤面が50cm地盤沈下したという設定に基づいて
さらに地盤面を50cm嵩上げ、現状地面から1m嵩上げして建設されています。
以前の家は津波被害を受けて全壊。仏壇は発見できたそうですが、
その仏壇を飾るには忍びない、ということで、
お焚きあげして、あらたに造作の仏壇を作ることになったのだそうです。
震災復興住宅と一口に言われるけれど、
家を建てると言うことは、こうしたご先祖さまとの共生も
いっしょに再生させるわけで、
心と心の豊かな交流が、依頼者と建築側との間で
ひとつひとつ関係が作られた末に出来上がっていくもの。
あだや、疎かには進められない、
そんなものなのだということを、感じさせられます。
まだ、入居前なのですが、
その建て主さんとの話し合いの過程を聞いていると、
そのご家族が、ご先祖様との関係を、どうしようかと深く思い悩み、
そしてひとつの結論を得て、
こうした建物になったプロセスが伝わってきます。
建て主さんの万感の思いというものが、
この仏壇に込められているのだなと知ると、感慨がある。
そのことを話してくれる作り手さんの表情にも、
影が映ったり、また光が差したりして、
ひとが、ひとのための家を建てている、という実感が伝わってくる。
これから,建てられたこの家が、
ながくこのご家族のあたたかい生き様を
見守っていってくれるようになることを願わざるをえない。

「結局、こうやって一軒一軒、
建て主さんの気持ちを汲んで、丹念に復興住宅を作っていくしかない」
そんな言葉が聞かれましたが、
深く、同意するところだと思います。
まだ、魂は入っていないお仏壇ですが、
心の中で、深く合掌させていただきました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三陸海岸での住宅フェア

2013年09月16日 08時05分30秒 | Weblog



きのうは、岩手県宮古市での住宅フェアを視察。
これは、岩手県の主催で2月に大船渡、その後、釜石でも開かれているもので
今回9月にここ宮古で開催されたと言うことです。
出展者は、ハウスメーカーが多いのですが、
その中に混じって、地域工務店のグループも参加していました。
宮古では、住民5軒以上の発議による国の事業である
防災集団移転事業は結局行われず、
市や、開発業者による分譲敷地開発が行われています。
津波被災地域からの「換地」として、それらの敷地を購入して
あらたな生活拠点の確保を行っていくかたちがとられていくことに。
そういうことで、こうした住宅フェアでは
まずなによりも、「建てる土地がない」「どうにかならないか」
というようなリクエストのみなさんが圧倒的ということ。
そういう意味では、土地の開発・仕入に資金力のある
大手ハウスメーカーが強くなっていく傾向にあるようです。
小さな事業者では、土地の一括仕入などで、
金融機関との考証が難しく、勢い、信用力の高い大手企業の
独壇場になっていくわけですね。

しかし、震災後、2年半以上が経過しているのですが、
土地の手当てというのに、
こうまで知恵が出てこないものか、唖然とします。
高台移転、ということばが一般語にまでなったけれど、
実際にはその「候補地」はほとんどが「私有地」で、
その所有者が明確で、な地域の人であれば、妥結するまでの距離は短い。
しかしその場合でも、国の事業なので、価格にはタガが嵌められ
「公平性」至上命題のために、安い価格に抑えられる。
土地を提供する側は、売らない方がまだ有利だけれど、
「みんなのため」ということだけで、協力するしかない。
多くの善意だけが、「復興の道」ということになる。
それに対して、私有地だけれどその所有者が不明、というケースも多い。
これが困る。
所有者の同意を得る必要があるけれど、
どこに済んでいるか,現住所も不明、生死も不明というケース。
そうなると、場合によっては「相続した人」を探し出さなければならない。
・・・延々と、仕事がループしていくことになる。
そうのような現実の中で、住宅再建は遅々として進まない。

こういう事態は、
誰にでも容易に推定でき、対策も考えられなくないと思うのだけれど、
なかなか解決策が見えてこない・・・。
そんな状況をひしひしと感じさせていただきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かわいい神社

2013年09月15日 07時47分52秒 | Weblog



きのうご紹介した、厨川神社の谷を挟んだ反対側には、
「貞任宗任神社」がありました。
こちらの方には、寄進した人物の名前が記されていました。
近年になって建立されたのではないかと思われるのですが、
なぜか、その社の隣にかわいい、小さな社が建てられていました。
「ん、なんじゃこれ?」っていうところであります。
推定するとすると、どなたかこの神社の「寄進者」のかたの
縁者のこどもさんが幼くして亡くなって、
その「弔い」として建てられたのではないかと、想像させられました。
まさか、平安末期の動乱期の犠牲者である、
安倍氏の貞任のこどもが祀られている、ということもないでしょう。
まったく想像するしかありませんね。
インターネット上で探してみたら、

安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡または嫗戸柵(うばとのさく)跡として、また、中世工藤氏の居城跡として伝えられてきた。
しかし、安倍氏の柵跡については、今のところ不明のままであるが、江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。

文治5年(1189年)源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。
やがて、岩手郡の地頭は北条氏へと代るが、工藤氏は厨川の地に存続した。
室町時代の工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれた。
この城は、天正20年(1592年)に取り壊されるまで、不来方城(後の盛岡城)雫石城とともに岩手郡の拠点的な城の一つであった。

~盛岡市遺跡の学び館刊行 パンフレットより~

っていうような書き込みを発見できました。
遠からずと思える記述ではあるのですが、
学会的に正規の見解だとも思われない。
その消息をつたえる情報のひとつ、というようなことでしょうか。
それにしても、この小さな社のことはまったく記述がない。
謎解きのために、訪ねてみたのですが、
かえってまた、大きな(?)謎かけをされてしまった(笑)。
でも、そのあまりのかわいらしさに、なにか、伝わってくるものがありました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前九年合戦・安倍氏終焉の地

2013年09月14日 09時48分56秒 | Weblog



東北の歴史に強い興味を持つようになって
いちばん不可解だと思っていたので、
東北地元の人たちも、地元勢力の敗北後のことについて
その様子を伝えるよすがを持っていないことでした。
前九年後三年合戦というのは、その後の鎌倉幕府体制という
律令国家体制を関東という、「外部」から破壊させた
「土地私有体制~封建制」への扉を開いた歴史事実だと思われるのですが、
その主役である、安倍氏の貞任~さだとう~が
源頼義に攻め滅ぼされた場所、「厨川の柵」で攻城戦が行われた場所が
まだ、歴史的には特定されていない。
安倍氏というのは、出自自体もまだ、不分明な存在であるのですが、
それにしても、奥州、東北にとっては
敗残したとはいえ、地域勢力が中央権力と戦った英雄。
中央政府側から「反乱者」の烙印を押されるのは仕方ないのですが、
地域には、一定のよすがが存在するのではないかと
期待もしていた次第です。
ただ、「炎立つ」の作者・高橋克彦さんの作品からも特定地域については
触れられてはいませんでした。
そんなことで気になっていたのですが、
きのう、盛岡で取材があったので、ついでに念願を果たしたいと
「安倍館町」という地名の場所を訪れたわけなのです。
やはり、現地に来てみれば、
その蓋然性は、十分に明確になってくる。
この写真は、「厨川神社」という社の様子であります。
で、この神社と谷を挟んで向かい側には「安倍神社」まであった。
この神社の後背は、高い土手になっていて、その下には川が流れている。
普通に考えれば、「厨川柵」というのは、地形的にも
ここであることが明らかではないかと思われます。
前面道路からも斜面を登ってこなければならないことから、
この場所は見晴らしのいい高台なのです。
ということで、遙かな昔を想起して厳かな気分にて参詣。
反乱者の烙印を押されたとはいえ、
かの時代に、勇壮に生きた安倍氏のことを胸に描く時間を過ごしておりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏ばっぱ、カッケー!

2013年09月13日 05時11分43秒 | Weblog


一昨日から仙台に入っています。
雑誌の取材であちこちを飛び回っている次第ですが、
東日本大震災からの復興は、なかなか住宅再建までの状況にほど遠い。
国の大方針について、いまに至るも
政府側の大きなメッセージは結局、なにもないまま、
ということは、現行の法規に則して坦々と、
その法令を「一生懸命に」遵守して、定められたプロセスをたどるという
「復興方針」が現場では貫徹している。
仕事をしていたのだな、という方針段階での痕跡の無さぶりに驚かされる。
あまりの「基本方針」の無さに、あきれるしかない。
これならば、震災時、国家意志決定者・総理大臣などいなくてもよかった。
なぜ、民主党議員たちは、震災時に菅直人を支持し続け、
その後の「民主党代表選挙」でも、かれをそのままにしていたのか?
震災復興・原発事故対応という仕事を、市民運動の口先だけ男に任せ続けた。
その罪はやはり重すぎると思う由縁です。

「おまんま食べさせてもらってきた海が
たった、1回や2回、へそを曲げたからと言って、
あぶないから、海から離れて暮らせ、と言われたって、
そんなことは、できねぇ・・・」

っていう津波に遭遇し体験した立場の人間の重い言葉を、「あまちゃん」で、
宮本信子さん演ずる「夏ばっぱ」が語りました。
これはたしかにドラマであり、フィクションの世界なのですが・・・、
やはりこのドラマは、必然的にこういう問題に突き当たるわけで、
「どんなふうに・・・」とハラハラしていたところだったのです。
わたしは、それなりの説得力を、かれ、クドカンの書いたセリフから
まっすぐに受け止めさせていただきました。
確かに現実よりも、架空の街・北三陸は被害は軽微だったのだけれど・・・。
で、このセリフ以降、宮本信子さんの演技に色気が漂ってきた。
アキちゃんのセリフではないけれど、
まことに「カッケー!」のであります。
この言葉、ずっと震災以降、みんなが内語として持っていた言葉だと思います。
現代の社会の、安全絶対第1主義とでも言えばいいのか、
たしかにその考え方は崇高で気高いものであることは理の当然です。
しかしその人命第1主義だけで、国家運営、基本方針にまでして行っていいのか。
そもそもそのような考え方で、この列島社会で、
あるいは、地球という星の上でひとびとは生き続けてきたのかどうか?
生きられ続けてきているのかどうか、多くの人が内語として
「やっていけるのか」という
大きな疑問を持ち続けてきていると思う。
それは、そうだけれど、だけど・・・、
という現実主義がやはりムクムクと起き上がってこざるを得ない。
歴史も生業も、暮らしも、ずっとそこにあった人々に
安全最優先、ひとりの命は地球よりも重い、という考えを押しつける現代社会。
このズレ行き、この問題が実はいちばん大きいのですね。
「復興」というのは、清濁併せて人間社会を再構築するもの。
人間に対する「哲学」が、やはり問われざるをえない。
生業の再創造、高台移転、地域社会の再構築、豊かな関係性の確保、
いま東北は日々生々しく、いろいろなことに
現実にどうするかというと問題として、直面させられていると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人と社会倫理

2013年09月12日 08時51分46秒 | Weblog



先日見学した飛騨地方「高山陣屋」にて見た記録です。
この高山陣屋というのは、江戸時代の行政区画で直轄地とされた
「天領」の支配のための権力機構建築。
こういう陣屋のような江戸幕府直轄の権力機構を垣間見せる建築遺構は
全国的にもきわめて稀だそうですが、
さもありなんと思わせる気付きがいろいろに得られました。
イラストの写真は、年貢米の収納の様子を描いたものだそうです。
日本の社会では、このコメ生産と収奪というのが
社会の「保守」の核心的な位置にあり続けてきた。
どちらかというと左翼的思想で知られていた網野善彦さんですら、
日本社会では、支配者層によるコメの収奪そのものへの倫理的非難というのは、
江戸期に相次いだ「百姓一揆」にも見られないと、されています。
日本人の「公共」意識というのはきわめて高く、
その公共の支配者のコメ収奪には、基本的には同意を与えていると。
日本の米作は集団的な営農が基本であって、
生産現地での「管理」が不可欠であった。
そのために「自治的」な統治機構が、農民のなかから選抜されて構成されていた。
肝煎りであるとか、庄屋であるとかの「管理者」の存在が大きい。
欧米的価値観では「農奴」という概念が存在するのに、
日本社会では、そういった管理者まであって、自治的ですらある。

たぶん、このような歴史経験が日本人の価値観に与えた影響、
心理の綾のようなものは、かなり「特異」であったに違いないと思う。
日本社会の目的遂行能力の高さ、
公共心のレベルの高さなどには、こういう民族体験の積み重ねが大きい。
まぁ、端的に言って倫理意識の高さとも言えるでしょう。
というような意識を強く持っていたのですが、
どうも最近の若者の一部に見られる、公徳心の欠如ぶりを見ると
やや不安のようにも思われる。
飲食店で、大勢が全裸で食事してそれを面白がって(?)
WEBにアップして喜んでいるのだそうですね。
個人主義概念が、どうもかなりゆがんだ形で日本社会に根付いてきて、
高い公徳心の共有をベースに実現できていたさまざまなことが、
存続に大きな労力が必要になってきたのではないかと思わせられる現実がある。
このような社会病理、しっかり研究を期待したいですね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

けんちん汁にハマる

2013年09月11日 17時25分39秒 | Weblog



日曜日にたまたま、レストランで「けんちん汁」を食べました。
前から、好きではあったのですが、
いま、ダイエット食をあれこれ工夫していて
電撃のように、打たれた次第であります。
「なんじゃ、これが究極的にいいじゃん・・・」
っていうことに気付かされたというワケなのです。

けんちん汁って、
たぶん、根菜類がすこしづつ、たくさん種類残っていて
それをおいしく栄養豊かに食べようと工夫したら、こんなのできました、
っていうそのもののメニューに違いないと確信させられました。
だって主要材料は、大根やサツマイモ、レンコンやニンジン、コンニャクなどなど。
それを食べやすく切って、また各材料からのうまみのハーモニーを
みごとに引き出して、すまし汁で締めるという料理。
たくさんの種類の具材を万遍なく食して、
炭水化物依存を減らしてバランスいい食生活を構築するには
本当に理想的な料理だと深く認識したのです。
で、長距離ドライブの後、材料素材をスーパーで買い求めて
さっそく調理してみました。
一応、鶏肉を油で炒め、出汁も出させまして、
メインはカツオの本だしで煮込みました。
1回作ると、2食分くらいは持つ量が出来上がる。
かなりの根菜類の量なんですが、まさにおいしく食べられて
まったく飽きが来ない。~まぁ、坊主は別にして(笑)~
というようなことと次第で,わが家の超定番メニューに昇格させたいと
思い定めております(笑)。
定番として磨きを掛けながら、同時にいろいろな工夫も重ねていきたいと思います。

ただ、あまりにおいしくて
ついつい2ハイ、3ハイとたくさん食べ過ぎのきらいがある。
本末転倒なので、注意していきたいと思います。
あ~~、おいしかった!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする