きのう、札幌に帰還して原稿を早々にアップ。
年末進行真っ盛りで、取材・制作と進行が押してきております。
というところですが、
かねてから疑問に思っていた「大名庭園」の意味であります。
写真は水戸藩が造営した後楽園の点景。
東京には、こうした江戸期からの庭園が多く点在しています。
逆に言うと、江戸期以前からの名所って言うのは
せいぜい、浅草寺くらいのもの。
それにしたって、江戸の興隆とともに栄えていった庶民信仰というもので、
地方にあれば、目立たない一地方社寺に過ぎないと思われます。
で、そうした地域に全国の武力権威の象徴としての幕府が開かれることになった。
関東での武力権威所在地としては、鎌倉が
歴史的な意味合いでは大きい存在で、
それなりに宗教的施設などが揃っていて、
ひとが集まってくるのに引きつける磁場が存在した。
それに対して、江戸では一面に葦の原が揺れているような状態だったのでしょう。
そういった地域に政治的な中心としての磁場を構築しなければならない。
京都は歴史的な遺産が山ほどあって、
文化の中心としてまことに申し分ないけれど、
それに対抗できるまではないけれど、なんとか、権威の象徴みたいな
そういう存在を作らなければならない。
為政者の側からすると、大名庭園造営の主要な動機というのは
どうもそんなあたりだった気がします。
京都の巨大な蓄積文化とは違う、そういうものを作りたかった。
なので、一種の公共事業として、都市作りの大きな要素として
こういう大名庭園をこしらえていった。
そういう意味では、日光の造営というのもそういう一環だったのかも知れません。
広大な江戸城街区というのも数えられるかも知れない。
権力というのは、そういった装飾性を持ちたがるものなのではないでしょうか。
一時は江戸市街地の相当部分がこういった大名庭園で占められていた、
ということですから、いわば庭園都市、とでもいうような
そういった情緒性を江戸新開発都市に与えたかったのかも知れません。
京都に対する一種の文化的コンプレックスを
そういった形で克服したかった。
そのように思えてくるようになったのですが、さてどうなんでしょうか?
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