人間の一生の意味合いをあらわす価値観として
「一生涯を貫く仕事をもつ」という規範があると思います。
おとといの葬儀に参列して、現役のまま亡くなった若い方の無念の気持ちと
同時に、その仕事に賭けていた生き様を想起するとき、
それもまた、ある潔さを感じていました。
現代社会は、いろいろな決まり事によって運営されている。
いちばんの「決まり事」って、「法による支配」なのでしょう。
「悪法とはいえ、法である」という言葉がありますが、
「法治」ということを良く表現している。
そういう規範、法によって生きていく上で、
わたしたちは大多数が法人企業に属して経済活動を日常行うようになった。
資本主義社会では、そういう「生き方」が一般的な規範になる。
ところが、そこには「定年」と「年金制度」という両輪が存在して
強制的に、年齢という一律条件で労働市場から排除される仕組みになる。
自分自身の生き方として、「一生涯を貫く仕事をもつ」
という選択肢は、その自由度が制限されている。
それを拒む生き方としては、独立自営の困難さを受け入れるしかない。
しかしほんとうにそうか?
「定年」と「年金制度」という「法」が想定していたラインをはるかに超えて
科学医学の進化によって人類の高齢化が起こり、
人間の寿命についての「常識」が大きく変化したのに
法だけが、制度として残っているに過ぎないのではないか。
高齢化を迎えリタイヤせざるを得なくなって、
その後の生き方を考えておけ、というような刷り込みが行われているけれど
おかしいと思っている。
やはり「継続は力」なのだ。
それまでに積み上げてきたこと、経験に無理矢理断絶を強制することは
やはり理にかなってはいないだろう。
東京博物館で、「人間国宝展」を見てきた。
日本民族がこの社会の中で生み出してきた
さまざまなジャンルの中での精華を見続けていて
こうした思いをつくづくと感じていた。
熟練していく手業は、年齢条件とはほとんど関係がない。
人類が高齢化してきたのなら、
その最先端には新たな文化素地が育っていくに違いない。
いわば、「高齢社会文化」というべきものは、日本発の世界文化たる条件が
時間経過とともに高まってきていると思われるのですが、
みなさん、いかがでしょうか?