三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

平安期の北海道の住居

2008年11月05日 06時16分41秒 | Weblog
考古学の資料の楽しみにジオラマがあります。
時代の考証を、研究専門家がさまざまに総合して
時代再現を試みるものですね。
時代小説家が特定の時代を描写するのにも似て、
事実の積み重ねと、一定の想像力で作り出す世界ですね。

写真は北海道埋蔵文化財センターに展示されていた
「檫文」時代の住居復元模型です。
檫文って言うのは、ヤマト政権側でいうと平安から鎌倉にかけての時代。
文字表記による資料はないけれど、
末期古墳が造営されたりしているのです。
千歳空港近くで発掘されているものもそうしたひとつのようですが
ヤマト政権国家と、活発な交易活動などで
相当に深い交流があったと考えられます。
交易が生業化もしていたようで、
生活に欠かすことが出来ない刀子~ナイフのようなもの~など
鉄製品を自分たちでは生産せず、交易に頼っていたと考えられている。
自分たちはアザラシの皮や、クマの皮、熊の胆、鷲の羽などの
狩猟結果品を交易の材料として取り続けていた。
そういう交易品が自然的な再生産力を超えてしまうような事態もあっただろうし、
狩猟の場所などの権利関係を巡っての内部争闘もあったに違いない。
後期になってくると、防御集落的な形態が増えてくるし、
交易入手品に刀などの戦闘用品も増えてくる。
緊張が高まっていった社会だったに違いない。

住居形式としては、土を掘り込んだ竪穴住居で、
柱を立てて、梁を渡し、骨組みを作ってその他の構造造作を作っている。
入り口付近など、木を曲げてアーチ状に造作している。
木と木はシナの木などのやわらかい木や、縄などで結び込まれている。
このような構造に、茅などの素材で表面を覆って仕上げたものと思われます。
檫文の住居はその後のアイヌ文化に重層していて、
それとしての実物は残存していない。
土器による食物調理加工だったので、暖房の囲炉裏のほかに
「かまど」がしつらえられていた。

秋になって大量に獲れるサケが主要な食糧源なので、
だいたいが大きな川の河口や、港状になっている地域に集落が営まれた。
交易のための狩猟採集を基本にしながら、
少量のヒエ・アワといった炭水化物を栽培し、
ヤマト政権側との交易のために水利を利用して、
石狩川水系地域から、遠く青森県や秋田県地域、
場合によっては北上川河口の石巻周辺などにも旅した。
こういった交易民との窓口になったのが、古代蝦夷といわれる
東北古代の人びとだったのだろうと。
そういう風景の中に、ヤマト王朝側の「歴史人物」が複雑に重なってくる・・・。

北海道と日本の関係、
かなりさかのぼって、いろいろ想像力を掻き立ててくれる。
住宅の模型から、しばし、思いが膨らんできます。




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