三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

歴史人口学

2008年05月13日 06時20分10秒 | 歴史探訪

面白い本を発見して見ておりました。
人口から見る日本歴史、ということなのですね。
いまわたしは、どちらかというと平安末期の時期の動乱期の歴史を
いろいろに興味を持って見ているんですが、
こういうのに掛け合わせてみると実に面白い。
日本の戦争、土地争奪の歴史って、
織田信長がはじめて(といわれている)専従の軍事組織を作るまでは
兵農が一体で、分離不可能という状態だったのだろうと推定できる。
古代の頃の戦争にしても、兵は募兵が基本。
ということは普段の仕事は別にある人間が「いくさ稼ぎ」で駆り出されていたのが実態。
そしてその多くは、農民の次男三男ということだったのだろうと推定できる。
そういうひとびとを練兵して、戦場で使ったのでしょう。
平安末期の戦争の兵の実態を調べた本などでもそのあたりが見えてくる。
兵隊の数というのは、どうもいい加減ではあると思うのだけれど、
それにしても、富士川の合戦~関東に武権を樹立した頼朝軍が対峙した
平氏の側の「朝廷軍」が12万人とか書かれている。

それに対して、この人口学の本によると
その当時の日本の人口が全体で680万人ほど、となっている。
実際には現地周辺での募兵が大きかっただろうと思われるので、
東海地域で見てみても、総体で43万人あまり。
女子ども、老齢者もいるわけで、そう考えたら
この当時の「戦争」って、いったいどういうものだったのか、
色々に興味深いものがあるのですね。
確かに政治軍事貴族たちの争乱ではあっただろうけれど、
そういう意味合い以上に兵站や運輸、兵糧の提供などなど、
現地にとっては、たぶん一大ビジネスという側面はあっただろうと思われる。
現地の人間にとっては、どっちが勝つとか負けるとかはあんまり関係なく、
誤解を恐れないで言えば、
いわば公共事業的なものでもあったのかも知れない。
昔は、「家」単位が基本の社会であって、
たとえば戦死しても、家が存続して行くことの方の価値観が大きかった。
個人の死というものの考え方がいまとは違う。
そういう「無常」感に、仏教という宗教も拡大できる素地があったのかも知れない。

というような次第なんですが、
この人口学って言う物差しで、歴史を見ていくって
ものすごく大切な視点を提供してくれるようですね。
考えてみれば、経済が、700万人程度の人口とその程度の生産段階での争いなんですね。
で、一般大衆はたぶん、ほとんどが明日の生活のことしか考えられない社会。
どうも、かなりのリアリズムが見えてくるような気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする