長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

デスマッチの想い出のミラージュ  ~城山羊の会 『仲直りするために果物を』~

2015年06月15日 00時12分34秒 | 日記
 いや~どうもこんばんは! そうだいでございます。
 もうね、最近、忙しいとか言うのもめんどくさくなるくらいに忙しい毎日でございまして……日々これ、勉強でございますなぁ、ほんとに!

 山形に来て5ヶ月になりますか。まぁ~忙しくなる、というか、いろいろやらなきゃいけない、考えなきゃいけないことが増える一方でありまして。それだけ、今までラクしてたんだなぁ~! と痛感するばかりであります。仕事ってもんは大変だ! そして、それだけ奥が深いと。

 そんな中ではあるんですが、というか、そこから一時、全力ダッシュで現実逃避するかのように、週末の6日土曜日に、東京に行ってまいりました。

 前回、4月くらいにも私は千葉と東京に行ってるんですが、その時と同じく、主な目的は演劇鑑賞。そして、移動手段もまた同じく「行きが深夜バスで、帰りが新幹線」という感じ。
 つまりは、前日の金曜日、仕事が終わって帰宅した後の夜中11時くらいに山形を出発するバスに乗って早朝の東京に着き、半日くらいフラフラしてからお芝居の昼の回を観て、夕方の新幹線に乗って山形に帰る、というスケジュールになります。

 自分で好き勝手に計画しといて言うのもナンなんですが、これ、疲れるんだよなぁ! 往復どっちも新幹線にしないのは、言うまでもなくお財布事情をかんがみてのことなんですが、行きの手間賃がだいたい半額になるからといっても、夜中のバスに乗るのは、とにかく翌日の気分をブルーにするものなのです……週末のバスですから、まぁ必ず満員になるでしょ? 満員になったら、自分の座席を思いっきり後ろに倒しきってガーガー寝るわけにもいかないからさぁ! 寝るにしたって自然、無理な姿勢で浅~くまどろみながら、一刻も早く朝になって到着することを祈りながら、ひたすらじ~っとしてるってことになるでございましょ。
 それで着いたら着いたにしても、「午前6時」とかいうどうにもこうにもなんないド早朝だしさぁ。午前中まるまる自由時間になっちゃうわけですよ。眠い目こすって。

 まぁ、もしまた東京に行くことがあったら……往復新幹線にしちゃおっかなぁ。午前中の大都会を所在無く歩き回るっていうのも、そりゃ楽しいには楽しいんですけどね。

 4月に行ったときは、午後のお芝居の時間まで映画を観たり、山手線に乗ってぐ~るぐるぐ~るぐる回りながら寝てたりしてたんですが、今回はお芝居までのあいだに、仕事のための買い物をすることと、もうひとつ、大学時代いらいの友達と久しぶりに会ってランチをするという大事な用事がありました。

 この、友達と会うっていう約束は、ちょうど1週間前くらいにひょんなことから彼女と連絡を取ることがあって、そこで私が近いうちに東京に行くと話したら、そのとき会おうというふうにトントン拍子に決まったことだったのですが。

 いや~、これが緊張した、というか、ドキドキしたんですよね。

 なんでかっていうと、こういうことを言うと彼女に対して大変失礼な話なんですが、彼女とは大学のサークル時代から、直接の親交があるというよりは、必ず2人の間に共通の親友がいて、その輪の中でわいわい会話はするんだけど、たまたまその子がトイレとかに行っていなくなると、なんとな~く「……」という沈黙が生まれちゃって、しばらくしてから、「……最近なんか、おもしろい映画、観た?」みたいなビミョ~な話題になるという距離があった……いや、彼女の心うちはわかりませんが、少なくとも私の方は勝手に、そういう距離感をいだいていたのです。

 いや! 嫌いなわけでは毛頭ないんです!! 嫌いではなくて……美人なんですよねぇ。美人はそりゃ、緊張しますよねぇ。

 実は今回も、できれば他の友達とかも呼んで、という話だったのですが、なんせ1週間前のタイミングになっちゃったから都合がつかず、結局2人っきりということになりまして、よくよく考えてみたら、完全にサシで会うのって、17年間もの面識がありながら、今回が初めてなんじゃねぇかと!

 ……これはある意味、午後の演劇鑑賞よりもハラハラドキドキの時間になるんじゃなかろうか。とまぁ、ヘンな覚悟を決めながら約束の時間に新宿で会ったわけだったのですが。

 いやぁ、その緊張はまったくの取り越し苦労でありました。お話が盛り上がって、2時間なんか、あっという間に過ぎてしまいましたね。

 そう、そう。そうなんだよなぁ。2015年のいま、彼女はもう立派な社会人であり家庭人であり、私もいちおう、ヘロヘロながらも仕事社会の末席にしがみつかせていただいているおっさんなのであります。
 それでだいたい1年ぶりくらいに会うんですから、そりゃ話題がなくなるなんてことはないんですよね。もう、大学時代みたいにわざわざ話すトピックを何個か頭に詰め込んで会うなんて必要、ぜんぜんないんでありますわな。

 特に何を話すってわけでもないんだけど、会えば、お互いの近況を語り合っているうちに、いつのまにか楽しい時間が過ぎていく。今現在、私にはそういう貴重な時間を共有できる友達がいる……こんな幸せなこと、そうそうないですよね。よくわかんないけど、こういうつながりをありがたく感じられるっていうことが、「大人になる」ってこと、なのかなぁ、と、しみじみ思いました。

 おもしろいものであります。ある時期に大の親友だった人と、ふと気づけば疎遠になってしまったなぁ、と思えば、「まさか、あなたとは!」とびっくりするような人と、意外と長くつきあいが続いているという不思議。
 それでも、30代はまだまだ、リアルにつきあいが断たれてしまう「病気」とか「死」とかいう話題とは遠いですから(油断はできませんが)、疎遠な人とも、時間があいたらどんどん連絡とってかなきゃいけませんけどね。

 しっかし、あいかわらず美人だったなぁ……何歳になっても、まったくかないません。


 さてさて、そんなこんなで午後2時ごろに彼女と別れた後、私は予定通りに池袋におもむいて、ここ数ヶ月心待ちにしていたお芝居を観ることとなりました。ほんと、今年の春はこれを観るために生き抜いたって感じ!?

 そして、このお芝居の観劇後、私は、観劇の前に、素敵な友達とあたたかなひとときを過ごしていたことに、はかり知れない感謝の気持ちをいだくのであった……その理由は、このお芝居を観た人にならば、わかってもらえるはず!


城山羊の会プロデュース第17回公演『仲直りするために果物を』(2015年5月29日~6月7日 池袋・東京芸術劇場シアターウエスト)


 おそろしい……なんとおそろしいお芝居なのだ、これは!!

 ほんと、観劇後、新幹線の発車時刻の都合で私はチャッチャと電車に乗って東京をあとにしたんですが、約4時間後に山形に着いて家に帰るまで、だいたい30秒間隔で「こわ~……こわ~……」って独り言つぶやいちゃってましたからね。また、その日の東京のお天気もおあつらえむきに肌寒い曇天で! お芝居が終わった後なんか、ぽつぽつ雨降ってきてたもんね。なんという空気の読みっぷり! お天気がお芝居にあわせてきちゃった!!

 とはいうものの、この『仲直りするために果物を』というお芝居は、決してジメジメした雰囲気の、とおりいっぺんの暗い演劇ではありませんでした。いや、むしろこれは、カラッカラというべきか。なにかが決定的に「干からびきっている」物語なのであります。砂漠のようにわかりやすい形ではなく、目に見えない、中の部分のなにかが干からびている。いや、というか、なにかが確実に「終わっている」……?


 舞台は、とても人が居住しているとは思えない、朽ち果てて半分雨ざらしになっている木造の家屋。その周辺は雑草が目立つ野っぱら。家屋のすぐ背後には、作業用のタラップを使わなければ上にあがれないような3~4メートルほどの高さの、海岸堤防のような巨大な塀がそびえており、上空からは、かなり頻繁に軍事用の航空機が低空で通過飛行する爆音が聞こえてくる。
 家屋には、現在も添島照男(演・遠藤雄弥)とその妹ユリ子(演・吉田彩乃)の若い兄妹が住んでいるのだが、ろくな収入源もなくかなり貧窮した生活を強いられており、ガスの使用も止められ、さらには大家の岡崎(演・岡部たかし)が待ったなしの剣幕で滞納した家賃の取立てに押しかけ、家賃を払えないのならば即刻この家を出て行ってもらう、と迫る。
 進退きわまった兄妹の運命は、ユリ子の「大家さんを殺してしまおう。」という一言から不穏な方向へと舵を切り出すのだが、同時に大家の岡崎もまた、今日中に家賃を徴収できなければ、土地の有力者の丸山真男(演・岩谷健司)に何をされるかわからないという切迫した状態に陥っており、この一触即発の関係がからみ合う中、事態は丸山の愛人のキヨミ(演・東加奈子)や、ただ家屋の近くに散歩に来ただけの大学教員の森元隆樹(演・松井周)とその妻ミドリ(演・石橋けい)をも巻き込み、凄惨なカタストロフィへと、なしくずし的になだれ込んでいくのであった……


 私見によれば、だいたいお話の内容はこういった感じなのですが、この作品を観て、というか観る以前に、会場に入って指定された座席にすわり、さぁ今回はどんな感じかしらと、開演前の誰もいない舞台を眺め回してみた時から、私は、

「これはなんと……城山羊の会さんらしくない作品になりそうな空気なのだ!」

 と、勝手に身を引き締めなおしてしまいました。いや、何度も言いますが、私だって城山羊の会さんの公演を全作観てるわけじゃあないんで、そんなえらそうなことは言えないんですけれども!

 何がらしくないって、少なくとも私が観たこれまでの城山羊の会さんの作品では、舞台設定は非常に一般的か、あるいはより上流そうな生活水準の香り漂う邸宅の一室や庭、もしくは実にまっとうなオフィスらしいオフィスだったり、バーらしいバーだったりと、今現在も「その空間」としてしっかり機能している場なんだな、と即座に観る者に理解させる、非常にわかりやすいシンプルさがあったと思うんですね。
 そして、その簡潔さこそが、作品の中の「まったくシンプルでない人間関係のドロドロ」や、「人間の妄想の常軌を逸した飛翔」といった城山羊の会さん作品の醍醐味を際だたせる、実に効果的な器になっていると感じていたんです。いわば、カッチリした何の変哲もない四角形の枠の中から、突如としてとめどもない曲線の奔流が飛び出してくるびっくり箱、という関係でしょうか。

 ところが、今回はどうも、違うような。

 舞台の上にある家屋は、どう見ても現役で機能しているとは思えない廃屋同然の朽ち果てっぷりで、かつて居間だったと思われる、ちゃぶ台のある畳敷きの部屋は、外側の壁が完全になくなって、縁側どころか玄関さえも兼ねるようなオープンさになっており、兄妹が寝起きしているらしい奥の空間とは、薄汚い布っきれを廊下の鴨居から垂れ下げて仕切っているだけ。外の野っぱらも、雑草やゴミが点々としていて、とても人の手が加えられているようには見えません。
 さらによく見れば、というか、よく見なくとも、背後の堤防のようにそびえる塀も、明らかに高さが斜めに傾いており、今回の舞台設定は、全体的にどこを見ても安心できない、「なんだ、ここは……?」感をかもし出しているのです。

 これは……実に危険ですね。これまでは、開演後、物語が進むにつれて徐々に開かれていくはずだった「狂気の世界へのゲート」が、すでに開演前、開場前、リハーサル前、ついには会場入りして舞台スタッフさんがたがトカトントンと舞台セットを組んだ時点からず~っと開放されていたということになるんじゃあ~りませんか!! 早い、早すぎる! 『地獄の門』のルチオ=フルチ監督もビックリよ。

 今回は、ただ事じゃない! そう鼻息を荒くする私をよそに、公演は満員の大盛況の中、定刻どおりに始まったわけなのですが、満を持して開幕したお話もまた、今までの城山羊の会さんの作風とはまるで違った質感を持つものと見受けました。

 アルバイトをクビになったらしい兄と、生活に困窮するあまりに、どうやら身体を張っていかがわしい商売に手を染めてしまっているらしい妹。2人の親はすでにこの世におらず、妹は母親が存命だった頃の幸せな過去をかえりみてさめざめと泣く。そこへやって来た大家の岡崎は、いかにもチンピラくずれらしいリーゼントに開襟シャツ、だらしないひげに抜けた歯ならびといった定番の取立てルックスで、その岡崎を威圧する丸山もまた、いかにもヤクザな風貌で、いかにもお水なけだるい空気を身にまとった愛人のキヨミを連れているのです。

 ものすんごい「定型」のラッシュなんですよね。のっけから。それこそ、キャスト全員が和服を着て、時代を江戸に変換してもなんら問題のないような、「今日という今日は、耳ィそろえて払ってもらうぜ!」に「どうかごかんべんを……後生でございます!」、そして「おいおい、そこらへんでいいじゃねぇか。金の稼ぎ方はいくらでもあるんだ……おれたちの言うとおりにすればなァ。」という、人情ものお芝居の定型の流れなんですよね。きわめて日本的! そう考えてみれば、半分朽ちた家屋のセットもまた、朽ちているというよりは、舞台セットの定型として、観客にわかりやすく見せるために、あえて壁を取り除いているように見えてくるわけです。それもまた定型であれば、そんなにオープンさになっているのに、ちゃーんと一角のガラス戸を手で叩いて「添島さーん、お邪魔しますよー。」とひと声かける岡崎の律儀さも、吉本新喜劇とかで見られる定型そのものですよね。ちょっと回ったら、中にあがりこめるのに。

 つまり、今回の城山羊の会さんの作品は、「器」と「中身」の質感が、まるで反対になっているところから、物語が開幕しているんですね。
 今までは、定型の「器」から、まったく予想のつかない「中身」が、俳優さんがたの虚実ないまぜになった言葉のおもむくままに漏れ出してくるといった構図だったのですが、今回は、まったく予想のつかない「器」の中で、非常に懐かしく既視感に満ち溢れた定型の「中身」が展開されているようなのです。

 逆だ、構造がまるで逆になっている……私はまず、始まってしばらくしてわかってきたこの事実に、「うわー、この先どうなるんだか、全然わかんない!」という、いわゆる「ざわ……ざわ……感」を禁じえず、手に汗を握りながら、ユリ子が昨日バス停のところで男と一緒にいるのを見かけたと岡崎が語り、それをユリ子が全否定したりするモヤモヤ水かけディスコミュニケーションを見守っていたのでした。

 次に私がビビッときたのは、丸山がけっこう登場したてのシーンから、見た目どおりの定型な「暴力」を、岡崎に対してふるっているという点でした。思うように金を調達してこない岡崎を容赦なく殴り倒し、蹴りつける丸山。

 早い! これも早い。前作『トロワグロ』は、少なくとも「身体の暴力」などはまるで差し入る余地のないような、「オトナのオトナの社交的な戦争」を描く物語だったと記憶しています。そりゃ、登場人物全員、精神状態はグロッキー寸前になるわけですが。
 丸山を演じる岩谷さんは、もう見た目がガッチリしていかついわけですから、そこをあえて暴力的威圧に走らせないという采配が、これまでの作品の多くでは、登場人物たちの勢力バランスを拮抗させる安全弁になっていたかと思われるのですが、今回の岩谷さんは、まさに「一強」の存在になっており、すでに開きっぱなしの作品全体の「狂気の世界」への扉に続けとばかりに、バイオレンスの扉をさっさと開ける役割をになっているのです。

 ここで突然、私事で恐縮なのですが、私の肉体は、目も悪いし耳も聞き間違いが多いポンコツスペックです。ところがなぜか、「嗅覚」に関しては多少は敏感なところがあるらしく、たとえばお芝居を観ていても、少なくとも舞台上の役者さんが飲んでいるお酒が、本物かジュースかくらいの違いは、においでわかるんです。引きますよねェ~! 引いてもいいからまぁ聞いてヨ。
 そして、今回も、舞台奥の塀の上でのやり取りで、岡崎と待ち合わせをしていたらしい丸山が初登場した時点で、どうやら丸山を演じる岩谷さんが着ていたスーツのあたりから、ぬぐいきれない汗のかほりがただよってきているのを感じ取ってしまいました。ほら、私が観た回は、千秋楽前日の、開演9日目でしたからね。簡単に洗濯できないスーツとかは、まぁそうなってきちゃうわけなんでしょう。

 むむっ、今回のお芝居、岩谷さんにはそんなに汗をかくシーンが用意されているということなのか!? そんなもん、今やってる岡崎いたぶりどころの話じゃないぞ!! 血じゃ……このお話、遠からずあたり一面、血の雨が降るであろう!

 そんなことをムンムンに予兆させる丸山のかほりだったわけなのですが(いや、たいていのお客さんは気にもならなかったでしょうけれど)、こののち、この予感はもうテキメンに大当たりになってしまいました。

 「いかがわしいことしてるだろ?」VS「ぜんぜんしてません!」や、「おれを殺そうとしてだだろ?」VS「いえ、2人で心中しようとしてただけです!」といった、解決の糸口がまるで見えない泥仕合ののち、物語の舞台は一転して、兄妹の家の裏手の野っぱらに移り、そこでは、たまたま散歩で訪れた、近所のマンション(ここも丸山が所有している)に住む、結婚したてで一見いかにも幸せそうな森元夫妻が、仲むつまじく将来の家族計画を語り合います。
 ただ、ここでも会話が始まって5分もたたないうちに、主に子作りに対する姿勢で、夫婦間に決定的な方向性の違いがあることが露呈してしまうのが、どうにもこうにも城山羊の会さんです。本能的に「ここは急がねば。」と察知した妻ミドリは、もうここの野っぱらでいいから、ていうかむしろここじゃなきゃイヤ! という勢いで、のらりくらり問題を先送りしようとする夫タカちゃんにまぐわいを迫ります。初婚の夫に対して自分は再婚という過去を意識するあまり、もはや性欲にロマンチックになる余裕もかなぐり捨て生き急ぐ女、ミドリ!

 そして、この森元夫妻の必死すぎるいちゃいちゃをズバッと断ち切るかのように、兄妹の家屋の裏口から、突然の絶叫とともにまろびでた光景……この瞬間から、ついに物語は血を血で洗う無制限デスマッチの様相を呈してくるのでありました。

 恐ろしい。なんと恐ろしい展開なのでしょうか。とにかく、問答無用の速度で、その場にいる人々のほぼ全員がばったばったとひどい目に遭っていくのです。最終的には、「そ、そんなあっさり!?」といった唐突さで命を落とす人さえ出てくる事態にまで。

 その惨劇のほとんどが、その場では証明できようもない「この前、あんたがこの人といっしょにいるのを見た。」とか、「私、この人と肉体関係あります。」といった、形のない言葉から発生しているということも恐ろしいのですが、なにがいちばん恐ろしいって、このお話の流れを観ているお客さんがたの、ほぼ全員がいの一番にツッコミたくなる、


「いいからもう、そんなの相手にしないでどっか行けばいいじゃん!」


 という至極まっとうな言葉がまるで通用しない、一度迷いこんだら二度と出てはこられないような強力な磁場を、この兄妹が棲むあばら家がはなっているという事実が最も恐ろしいですよね。この作品、主人公は明らかに、人間じゃなくて、このあばら家なんですよ。
 一回首をつっこんでしまったら、もう誰も無傷では帰ってこられない……いったんは言葉で応酬して丸くおさめ、塀の上を通ってハイさよなら、というところまでいった森元夫妻も、一見なんの面識もなかったかのようなキヨミから飛び出た言葉によって、こともあろうにみずから塀の下のアリ地獄に舞い戻ってきてしまい、そして……

 言葉、言葉、言葉……全てが、しょせんは信じなければいいだけの形のない存在から始まり、それが形のある暴力を呼び起こし、現実の人間関係に取り返しのつかない末路をもたらしてしまう。

 お客さんはもう、添島兄妹、岡崎、丸山、キヨミ、森元夫妻が組んずほぐれつするデスマッチの行方を唖然としながら見つめるしかなくなってしまうのですが、そこに現出されるバカバカしいまでに醜悪な乱闘劇は、と同時に、どこか確実に「生命の躍動」が欠如したような、時間が経過する中で淡々と血と死体だけが積み重なっていく、カラッカラに乾ききった無常観をたたえているように思えてなりませんでした。どこか虚ろで、どこか現実味に欠けている感じ。

 私はこのありさまを観て、最初は「北野武か!」と感じていたのですが、それしたって異常にドライで間の抜けた命のやり取りの数々に(銃でズドンなんていうカッコイイものなんかありません)、それよりはむしろ1960年代の、ハーシェル=ゴードン=ルイス監督の早すぎるスプラッタ諸作を観るようなチープさを連想するようになりました。どこかうそ臭く、命の重さがふわっふわに宙に舞っている、ゴキゲンに狂った世界!

 それは、生きている俳優さんが演じているのだから、いくらドバドバ流れたって血が偽物なのは当然でしょうし、死んだといっても、よく見れば死体の胸や背中のあたりが上下しているのは当然です。私たちが想像するような、リアルな人の死なんてものはありません。
 ただ、今回の作品は、前作『トロワグロ』であれほどに大切に扱った「死」というものを、うそ臭くなるのは百も承知の上で舞台上に氾濫させた意図があると私は感じました。つまり、徹底的に死を、むなしく、唐突で、生き残った者にとっては理解しがたい「なにか」の作用によって、ごくごくあっさりとピタゴラスイッチ的に引き起こされるものに描きたかったのだと受け取ったのです。
 もはやこれは、ある日あばら家の周辺で発生した異常な連鎖殺人事件といった範疇で処理されるべき死に方ではありません。戦争です。何の因果関係もなく、「ただそこにいたから。」という理由でばたばたと大量の人命が消え去っていく戦争の感覚に近いもののように思えてならないのです。

 中井英夫の『虚無への供物』じゃありませんが、この作品は、「死ぬからには、何か意味のある死に方を……」という生きとし生けるもののはかない願いをプチプチッと踏み潰していってしまう「大きな存在」が、あからさまな戦場だけでなく、町の片隅のこのあばら家にだってわだかまっているかも知れないこと。その恐怖を黙示しているのではないのでしょうか。

 物語の後半、お客さんは、簡単には説明しがたいすったもんだの果てに舞台上に横たわることになってしまったいくつかの死体を眺めてふと、その場に生き残ったある登場人物と同じように、

「あっ、この人がその人を殺されたから、怒ってあの人を殺したってことにしたら、丸くおさまるんじゃね?」

 と思いつくはずです。しかし、先ほど繰り広げられたデスマッチがそんなにわかやすいものでなかったことだってお客さんは実際に目の当たりにしているわけでして、案外、毎日のように新聞の片隅やニュースで処理されているような現実のつまらなそうな事件・事故のたぐいだって、経緯の説明なんてものは、単に生き残った私たちが安心して納得するためだけに「いちばんわかりやすい線」で整理整頓されただけで、真相は人間同士の利害関係なんていうちっぽけなサイズとは比べ物にならないくらいに巨大な「なにかの力」に巻き込まれた結果の、ほんの一部なのかも知れないのです。


 時折、上空を戦闘機らしい爆音が通過するだけの、なんの変哲もない晴天の下で繰り広げられるデスマッチ。そしてそこは次第に、明らかに「退場したはずの人」までもがむっくりと起き上がってずけずけ発言してくるような、生と死や事実と願望とがないまぜになった異空間に変貌していきます。
 それ自体は、「あぁ、城山羊の会さんだなぁ。」ってな感じの待ってました的展開なのですが、今まで横たわって無言だった死体が「ゆらっ。」と起き上がって笑いかけ、客観的事実だと思っていた光景が、もしかしたら、そこにいるある人の「そうであってほしい。」という願望が像を結んだだけの、うたかたのミラージュ(蜃気楼)に過ぎないのかもしれないと、お客さんの認識を「ぐらっ。」と揺さぶる、その不安定感。

 これはね、日本の幽玄能みたいな無常観も生まれようってもんですよ。まさにこれは、廃屋同然のあばら家をシテ、そこに縛られる添島兄妹をワキとした、城山羊の会さん流の『現代能楽集』なのかも知れません! ただ、一連の虚実入り乱れる惨劇は、妹ユリ子の妄言と血によって開幕するわけですから、ユリ子という巫女を媒介として召喚される、もっと原始的で呪術的な「祀り」なのかもしんない。
 これは恐ろしい! 今まで、『オズの魔法使い』だとか『サテュリコン』だとか、さんざんテキトーに古典的作品を当てはめてきた私の解釈も、今回はついにお能とかわけのわかんない原始宗教の世界にまでさかのぼっちゃった!!

 それはともかく、今回の作品世界は、それだけ日本的で、人のこわさでなく、人が集まるところに吹きだまる「地縛霊」みたいな、無視すればいいだけのような形のない存在の、だけども無視できないこわさにスポットライトを当てた、ちょっと夏を先どりした怪談みたいなお話だったのかもしれません。
 当然ですが、ここで私が言いたい「日本的」というのは、現在ある国家としての日本というよりは、2千年くらい人が先祖代々暮らしてきた痕跡の積もり積もった土地としての日本列島っぽい、という意味です。「土着的」っていうのは、あんまり使いたくない言葉なんですよね。使い勝手が良すぎて。

 そして、そういった残留思念、つまりは幽霊みたいな強烈な磁場がなぜかある場所に吹きだまり、凝り固まって、最近ここ数十年くらいの間にふわっとかかってきた現代の常識みたいなものを簡単にねじ曲げちゃって、その結果、「人を殺してもいいからその土地に住み続けたい。」とか、「人を殺したら家賃を払わなくて済む。」とかいう理屈が通るような気がしてしまう。この恐怖ですよ。
 現代の常識では、「血を流して死にかけている人を見かけたら、すぐに救急車と警察に通報する。」という行動は至極まっとうなものとして認識されているわけですが、本作がそれさえ許されない展開におちいっているのは、決してそれを都合が悪いと察知した人物が力ずくでもみ消したからなのではありません。最終的に、通報しないという選択肢にその場の人物全員が納得してしまったからなのです。これはほんとうにこわいことです。

 前半のあたりで、私は今回の作品が、今までの諸作と違って「器」と「中身」のスタイルがまるで逆になっている、と言いました。異常な舞台設定と、定型どおりのキャラクターたちがいならぶ人物設定が、今回の『仲直りするために果物を』の特色だと見たわけです。
 しかし、それはまったく当然のことで、今までの作品で物語を「爆発」させていた動力源が、まさしく「中身」たる人間たちの秘めたる異常性や思いもよらない暴走だったのに対して、今回は明らかに人間をそうさせる「なにか」に焦点を当てたものになっていたからこそ、その何者かがひそむ「器」が、とりわけ異常に設定されていたのではないのでしょうか。

 この作品の中でも特に印象的なセリフとして、森元タカちゃんが絶叫する、

「もうっ!! 今日はヘンな日っ♪」

 という間抜けな断末魔がありますが、これだって、単なる責任転嫁のための茶化しであるわけがなく、誠心誠意、この常軌を逸した暴走を始めているのが自分という人間でなく、目に見えない「なにか」なのだということを訴えたい、タカちゃんなりの切実な叫びだったのではないのでしょうか。ほんとに哀れ、この人。

 そういえば、定番の「添島照男」というネーミングもそうですが、「森元隆樹」という名前も、城山羊の会さんが好きな方ならば必ずピンとくるものがあるはずです。これも、別に実在の森元さんをキャラクターに反映しているようには見受けられないのですが、その中身をともなわなずに名前だけ借りるという虚ろな浮遊感が、登場人物の「あやつり人形」感を暗示しているような気がしてなりません。ともかく今回は、俳優さんはもちろん今までどおりに熱演しているとしても、舞台上に具現化される登場人物たちの「なすすべもなく翻弄されてる」感じがハンパないんですよね! それはもう、ラストのラストのある人物のひと言以外、すべてが目に見えない何かに抑圧され続けている、みたいな徹底ぶり。

 さらにもうひとつ言わせていただければ、この異常すぎる磁場に包まれた作品の中で、ただ一人、ほぼ無傷でこの場を退場しおおせた奇跡の人物がいたわけなのですが、その人は、あんなにきったない、人が住んでいるのかどうかもわからないようなあばら家になんの抵抗感を持たずにあがり込み、あまつさえトイレまでも拝借して、包丁を持っている添島兄妹に平然と「ありがとうございますー(棒)。」なんてのたまう鈍感さを持っていたのです。
 こいつぁ異常だ!! この人が生き残るのもブンブンうなずける話です。つまり、この人は異常なこの場を異常だと感知できない異常さをそなえていたからこそ、アリ地獄を通り過ぎることができたのです。こういう例外的存在がいるいないで、作品の奥行きって全然違ってきちゃうんですよねぇ!!


 ところで、今回の作品が非常に政治的なにおいが濃厚なものである、ということはよく語られていることなのですが、私は城山羊の会さんの作品は、人間と人間の闘争を毎回しっかり描いているという点で、全作が政治的であると考えています。
 要は、今回の物語で描かれている恐怖や不安が、現在の私たちが陰に陽に、目に見えない「世相」という巨大すぎる存在に対していだいている恐怖や不安に非常に近いものだから、ことさらリアルタイムの空気を反映しているように感じられて、「生々しく政治的」なのではないのでしょうか。


 とにかく今回は、大口を開けて爆笑してばかりもいられない、底の見えない深淵をのぞくような不安さにかられる空気に満ち満ちたものがあるわけなのですが、いちばん単純な安心の仕方として、この作品の全てが、ラストシーンに生き残ったある人物の『想い出のミラージュ』(1979年 山口百恵)であったと解釈する、つまんないことこの上ないまとめ方も、あるにはあるでしょう。目の前で起きたすべてのことは、白昼の蜃気楼……


あぁ あぁ 想い出のミラージュ

朝が来ても 夜が来ても

これからあなたに 悩まされるの (作詞・阿木燿子)


 ただし! ちゃーんとそこらへんをわかっているのが城山羊の会さん。その人の「都合のいい死人たち」に囲まれた甘ったる~い現実逃避エンディングをぶちのめすかのように、勢いよくガラガラッと勝手口の戸を開けてあばら家の中から復活し、ビックリするほどに生命力のあるセリフを吐いた「あの人」の仁王立ちを観て、そらも~救いがないにもほどのある終幕であるわけなのですが、それでも、「生き抜くこと」から逃げることだけはしないという、城山羊の会さんの高らかな「進撃継続宣言」を聞いたような気がいたしました。やっぱコレよ! コレがあるから、どんなに語り口が変わっても、城山羊の会さんは城山羊の会さんなんですよね。


 いや~。今回も、よもやこんな変調で攻めてくるとは、と戦慄しまくりの城山羊の会さんの公演だったわけですが、終わってみれば、やっぱりごくごく正統な王道を行く本公演でしたね。これを観て、ただ残酷で救いがないだけのグランギニョルと受け取っては損というものでしょう。決して美化するだけではない、さんざんおとしめた上での人間賛歌。
 今作で、同じように惨劇から生還しおおせた女性2人を比較しても、一貫して他人を醒めた視線で見つめとおして、まったく動じずに自分の車に帰っていった彼女ではなく、心身ともにぐわんぐわんに他人にもみくちゃにされ、血みどろになりながらも、再び大地に立ち上がった彼女のほうが作品の幕を閉じる権利を勝ち取った。そこが作品の全てだと思いました。

 やっぱり、有名な賞を獲得しても、まだまだ上り坂! 城山羊の会さんの最高傑作は、これからくるぞ!!
 12月の次回公演、そしてそのあたりに公開されるであろう、主宰の山内ケンジさんの第2回映画監督作品を、心して待ちたいと思います。

 ……今回のブログ、1万3千文字って……どんだけおもしろいんだ、城山羊の会さんは!? と、おのれの文章構成力のつたなさを盛大に棚にあげてとんずらします。全部読んでくだすったあなたさま、アンタは、エラい!!


 ホントに、この作品を観る用事だけの上京にならなくてよかった……なんとカロリー消費の激しい観劇か! おともだちは大切!!

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