長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

怪獣不在の怪獣映画って、こういうことだろ! ~映画『生きものの記録』~

2024年07月10日 23時08分47秒 | ふつうじゃない映画
 ハイど~もみなさま、こんばんは! そうだいでございまする。
 最近は、山形もやっと梅雨らしくなり雨が降る日も増えてきまして、今日もだいぶ過ごしやすい気温の一日となったのですが、雨が降ればジメジメがすさまじいし、降らなきゃ降らないで気温がガン上がりだしで、なかなかいい感じの日がございません。でも、なんだかんだ言っても私の住む山形市は、朝と夜はちゃんと涼しいし今のところ34℃を超える日もありませんので、このくらいでウダウダ言ってる場合じゃないんですよね……夏本番はこれからだぜ! 熱帯夜やだ~!!

 さてさて今回は、そんなじめっとした季節に観るのにもってこいな名作映画についてのあれこれをば。
 この監督さんの撮る「雨」って、現実の雨以上に重たく見えるんですよね~! 特にモノクロ作品は。墨汁で雨を着色したっていう撮影逸話も有名なんですが、本作でもまた、雨……というか、雨の「気配」が重要なキーワードになっているような気がします。


映画『生きものの記録』(1955年11月公開 103分モノクロ 東宝)

 『生きものの記録』は、アメリカとソ連の核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件(1954年3月1日発生)などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ映画である。原子爆弾の恐怖に取り付かれる60歳の老人を演じた三船敏郎は当時35歳だった。作曲家の早坂文雄の最後の映画音楽作である。
 本作の構想は、前作『七人の侍』(1954年)の撮影中に黒澤明が友人の早坂文雄宅を訪れたときに、ビキニ環礁の水爆実験のニュースを聞いた早坂が「こう生命をおびやかされちゃ、本腰を入れて仕事は出来ないね。」と言い出したことがきっかけとなった。当初は『死の灰』と名付けられたこの企画は小國英雄と橋本忍との共同脚本で、1955年1月に静岡県今井浜の旅館「舞子園」に投宿して執筆作業を開始し、3月初旬に『生きものの記録』と改題した決定稿が完成した。
 1955年の5月中旬に撮影準備に取りかかり、8月1日に東宝撮影所内のセットで撮影開始した。10月11日に台風25号の被害で工場のオープンセットがほぼ壊滅し、作り直すために撮影中断したが、10月31日にクランクアップした。

 本作では、『七人の侍』で採用した複数のカメラで同時に撮影する「マルチカム撮影法」を本格的に導入しており、3台のカメラを別々の角度から同時に撮影することで、カメラを意識しない俳優の自然な演技を引き出している。主人公の放火で焼け落ちた工場のセットは東宝撮影所内の新築されたばかりの第8スタジオの前に組まれ、新築のスタジオの壁面を焼け跡に見立てて塗装したため東宝に怒られたという。また、都電大塚駅のセットは電車の先頭部分を含めて、本物そっくりに作られた。
 音楽は早坂文雄が担当したが、撮影中の10月15日に結核で亡くなった。親友だった黒澤はそのショックで演出に力が出ず、黒澤自身も「力不足だった」と述べている。早坂はタイトル曲などのスケッチを残しており、弟子の佐藤勝がそれを元に全体の音楽をまとめて完成させた。

 本作は興行的に失敗し、黒澤自身も「自身の映画の中で唯一赤字だった」と語っており、その理由について「日本人が現実を直視出来なかったからではないか」と分析している。第29回キネマ旬報ベスト・テンでは4位にランクされ、第9回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に出品された。大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。


あらすじ
 歯科医の原田は、家庭裁判所の調停委員をしている。彼はある日、家族から出された中島喜一への準禁治産者申し立ての裁判を担当することになった。鋳物工場を経営する喜一は、原水爆の恐怖から逃れるためと称してブラジル移住を計画し、そのために全財産を投げ打とうとしていた。家族は、喜一の放射能に対する被害妄想を強く訴え、喜一を準禁治産者にしなければ生活が崩壊すると主張する。しかし、喜一は裁判を無視してブラジル移住を性急に進め、ブラジル移民の老人を連れて来て、家族の前で現地のフィルムを見せて唖然とさせる。

おもなスタッフ
監督 …… 黒澤 明(45歳)
製作 …… 本木 荘二郎(41歳)
脚本 …… 橋本 忍(37歳)、小国 英雄(51歳)、黒澤明
撮影 …… 中井 朝一(54歳)
美術 …… 村木 与四郎(31歳)
録音 …… 矢野口 文雄(38歳)
照明 …… 岸田 九一郎(48歳)
音楽 …… 早坂 文雄(41歳 本作の制作中に死去)、佐藤 勝(27歳)、松井 八郎(36歳)
記録 …… 野上 照代(28歳)
音響効果  …… 三縄 一郎(37歳)
制作・配給 …… 東宝

おもなキャスティング
中島 喜一    …… 三船 敏郎(35歳)
原田       …… 志村 喬(50歳)
原田の息子・進  …… 加藤 和夫(27歳)
中島 とよ    …… 三好 栄子(61歳)
中島 一郎    …… 佐田 豊(44歳)
中島 二郎    …… 千秋 実(38歳)
山崎 隆雄    …… 清水 将夫(47歳)
山崎 よし    …… 東郷 晴子(35歳)
中島 すえ    …… 青山 京子(20歳)
中島 君江    …… 千石 規子(33歳)
須山 良一    …… 太刀川 洋一(24歳)
喜一の愛人・里子 …… 水の也 清美(39歳)
栗林 朝子    …… 根岸 明美(21歳)
朝子の父     …… 上田 吉二郎(51歳)
堀弁護士     …… 小川 虎之助(57歳)
荒木判事     …… 三津田 健(53歳)
ブラジルの老人  …… 東野 英治郎(48歳)
岡本       …… 藤原 釜足(50歳)
石田       …… 渡辺 篤(57歳)
地主       …… 左 卜全(61歳)
鋳造所職長    …… 清水 元(48歳)
留置人A     …… 谷 晃(45歳)
留置人B     …… 大村 千吉(33歳)
精神科医     …… 中村 伸郎(47歳)


 これはもうね、文句なしの歴史的名作でございます。いまさらこんな超零細ブログで語るまでもないことでありますが。

 話は脱線するのですが、昨今、日本の本家東宝でのシリーズ最新作『ゴジラ -1.0』がアメリカのアカデミー賞・視覚効果賞を受賞し、そのアメリカでもハリウッド版ゴジラシリーズ(モンスターヴァース内)が最新作『ゴジラ×コング 新たなる帝国』まで4作も制作されるという活況を呈しており、さらには CGアニメシリーズという形ではあるのですが、あの『ガメラ』も最新作が制作されるなど、令和になって地味~に特撮・怪獣のジャンルが盛り上がってきております。あの~、ちょっと各作品の展開がバラバラなので「ブーム」とまでは言えないかも知れないのですが、円谷プロの「ウルトラシリーズ」もコンスタントに新作が制作される状況が定着していますし、もはや特撮・怪獣の何かしらの新作が常に楽しめる現状は、ブーム以上に喜ぶべきジャンル全体の底上げを意味しているのではないでしょうか。
 うれしいですね……実に嬉しいです。わたくし、生まれも育ちも1980年代の人間ですもので、何年かに一作品がポツ、ポツ……と慈雨のように続くばかりだった特撮冬の時代の厳しさを経験した身としては、今、幼少年期を過ごしている少年たちはもう、心の底からうらやましくてたまりません。『ウルトラマン80』、『ゴジラ1984』、『仮面ライダー BRACK』2部作、『仮面ノリダー』あたりで約10年間枯渇をしのいでいたわけでして、それ以外はもっぱらレンタルビデオで昭和時代の旧作を観て素養をみがいておりました。平成の到来とともに『ゴジラ VS ビオランテ』(1989年)から始まった「 VSシリーズ」、そして「平成ガメラシリーズ」の、なんと神々しかったことか……あと、映画『ウルトラQ 星の伝説』(1990年)もネ。

 そういった感じで、いつでもどこかに「怪獣がいて当たり前」という幸せな時代が只今到来しているわけなのでありますが、このようにポンポンと怪獣が世に出てきますと、そもそも人間の想像上の存在であるはずの「怪獣」って、なんなの?というところに興味がわく話にもなってくるかと思います。

 日本で、そして今や世界で最も有名な怪獣は何かといえば、それはもうほぼ満場一致で「水爆大怪獣ゴジラ」ということになるかと思われるのですが、そのゴジラの解釈も作品ごとに大きな違いがあり、1954年に産声をあげたシリーズ第1作『ゴジラ』や最新作『ゴジラ -1.0』におけるゴジラは、人類文明の身勝手な核開発競争が生んだ異形の被害者にして、核・放射能の恐怖の象徴ですし、ハリウッドのモンスターヴァースシリーズのゴジラは、人類文明の繁栄によって衰亡の危機に瀕しつつある地球を回復させる「バランサー」という、きわめて「神に近い存在」となっているのです。おんなじゴジラでもこんなに違う! 確かによく見りゃハリウッド版のゴジラの表皮には、日本産ゴジラのトレードマークともいえる「ケロイド状のザラザラ」なんてどこにもないんですよね。余談ですが、『ゴジラ -1.0』のゴジラは厳密には時間軸的に水爆大怪獣ではないそうです。

 行き過ぎた人類文明に警鐘を与える「超越者」、人智を超えた力を持つ「自然災害のメタファー」、はたまた、人類が滅ぼしてしまった、もしくはないがしろにしてきた「過去の遺物の怨念」……さまざまな作品に登場する怪獣たちは、各種各様の背景を秘めた存在となっています。もちろん、単純に子どもが大好きになる「強くてカッコいいキャラ」だったり、「宇宙人の差し向けた生物兵器」として暴れまくるだけなのもいいと思います。円谷プロのウルトラ怪獣みたいにデフォルメされて人気を集めるポケモン的な展開もひとつの定番ですよね!

 そして、こんな風に怪獣の出るフィクション作品が量産されてきますと、そういった怪獣ものの逆張りとして、「怪獣が出てこない怪獣映画」というキワモノも出てきます。ほら、サメ映画だって最近、「サメが出てこないサメ映画」が出たっていうじゃないですか。いくとこまでいったな~!!
 でもこれ、かなり重要な話のような気がするんですよね。

 要するに、怪獣のように「巨大で恐ろしい何か」を表現するのに、怪獣そのものが必ずしも登場する必要はないんじゃないかという問題なのです。
 確かにそういわれれば、映像作品の中に怪獣が登場する時、絶対に無くてはならないのは、「怪獣に出くわして恐れおののく人間のリアクション」だと思います。そして、その反応の演技がヘタだったりすると、たちまち出現した怪獣もまた、チープで安っぽい作り物になってしまうのです。
 思い出してみてください、あの『ゴジラ』(1954年)での、大戸島の山上に初めてゴジラが首をもたげた時の村人たちの悲鳴、そして、ゴジラの咆哮を聴いた時のヒロイン・山根恵美子(演・河内桃子)の絶叫! 実のところ、ここで画面に出てくるゴジラそのものはハンドパペット式のギニョール人形なのでやや頭でっかちで、怖いというよりもむしろちょっとかわいいくらいなのですが、それを観た人々の反応があまりにもリアルで恐怖に満ちたものなので、それによってゴジラも実物以上に禍々しくおぞましい存在になりえているのです。
 つまり、ギニョール人形だったり着ぐるみだったり CGだったりして、そもそも作り物である怪獣を「現実にあるもの」に変換するために、周囲の現実にいる人間の反応は必要な儀式装置なのでしょう。怪獣は造形物のみによって命を得るものなのではなく(もちろんパーセンテージは大きいと思いますが)、それに反応し対峙する人間たちのリアクションを含めた作品全体によって完全な姿を得るものなのでしょう。

 だとするのならば、「おそれる人たち」の演技を最高品質のものとすれば、極端な話、怪獣そのものが出てこなくとも怪獣レベルに人類文明をおびやかす脅威の存在を実感させうる作品はできるのではないか?
 この問いに正面から向き合った空前絶後、唯一無二の映画作品こそが、この『生きものの記録』なのではないでしょうか。まさにこれは、「ひたすら恐怖する人」としての「生きもの=中島喜一老人」の記録のみに特化した作品であるわけです。

 私がつらつら思い起こす限り、いわゆる「怪獣の出てこない怪獣映画」は世の中に何作かありますが、それは「予算の都合で怪獣がちょっとの時間しか出てこない」とか「怪獣の死体しか出てこない」とか、結局はひよった中途半端な姿勢に終わってしまうものが多く、だいたい見えない怪獣の存在に命を吹き込めるほどスタッフや演者の皆さんが魂を込めて仕事をしていないので映画としても実につまらない作品になってしまっている、というものがほとんどだと思います。やっぱり、いない怪獣を相手にして90分も2時間も話をもたせるって、それこそ本作レベルにそうとうな覚悟と技量を持って臨まないと、なかなかできることじゃないのよね……ただその点、『ウルトラセブン』(1967~68年放送)での、怪獣や特殊造形の宇宙人がまるっきり出てこない数エピソードとか、その正統な続編である『ウルトラセブンX 』(2007年放送)などのように、20~30分の物語世界で後世に語り継がれるべき傑作が生まれる例は多いような気はします。そこらへんはもう特撮というよりも SFの世界ですからね。実相寺昭雄ワールド~♡ でも、ここにいくとゴダールの『アルファヴィル』(1965年)とか、かの聖タルコフスキー監督の諸作のほうに話がいってしまいますので、脱線はここまでにしておきましょう。

 それでこの『生きものの記録』なのですが、この作品って、明らかに前年に公開された『ゴジラ』(1954年)の精神的な双子みたいな作品だと思うんですよね、同じ現実世界の「第五福竜丸事件」を親とした。
 本作と『ゴジラ』との時間的関係を見てみますと、両者の間には1955年4月に公開された『ゴジラの逆襲』という作品があります。これも私、ゴジラシリーズの中で一、二を争うくらいに大好きな作品!

 言うまでもなく、『ゴジラの逆襲』は前年の『ゴジラ』の正統の続編にして、「ゴジラ対別の怪獣」という王道パターンの開祖となった記念碑的作品です。そして何よりも、出てくるゴジラ(2代目)が怖い、怖い!! 現代定着したポップな怪獣というイメージからは程遠い荒々しさとケダモノっぽさがあって、撮影ミスで新怪獣アンギラスとの戦闘シーンが異様にスピーディになっているのもリアルな猛獣同士の殺し合いという雰囲気が出ているし、牙も犬歯が吸血鬼みたいに長くて真っ直ぐ前をにらんでいる目つきも生々しく、なんか妖怪のような不気味があるんですよね。
 ただし言わずもがな、『ゴジラの逆襲』の世界における日本人は、かつて東京に上陸して大暴れしたゴジラという驚異をすでに「知っている」のです。そのため、そのゴジラの2頭目が今度は大阪に上陸するかも知れないという話になってくると、民間人はそそくさと避難して市街地はほぼ無人となり、撃退するために自衛隊とその最大兵力が待ち構えるだけという万全の対策を迅速にとるわけです。万全っていってもまぁ、てんで役に立たないんですけどね☆

 つまり、怪獣というジャンルを創始した当のゴジラシリーズは、その第2作から早々に「核・放射能の脅威=怪獣」という図式を取っ払ってしまい、「努力次第で人類でもなんとかできてしまう巨大害獣」にスケールダウンさせてしまっているのです。でも、これは起承転結のある娯楽作品としてシリーズ化させるためには仕方のない舵取りでしょう。そんな、毎回毎回オキシジェン・デストロイヤーみたいなデウス・エクス・マキナをひねり出すわけにもいきませんからね。

 その一方で、ゴジラシリーズが、少なくともそれ以降の昭和作品では捨ててしまった「核や放射能の恐ろしさ」をかなり高い純度で継承……というか、初代『ゴジラ』と分かち合った作品こそが、この『生きものの記録』だと思うんですよ。

 映画『生きものの記録』に、当然ながら怪獣そのものはまるっきり登場しません。しかし、それとほぼ同じくらいに正体不明で曖昧模糊とした「いつか来るかもしれない核戦争や放射能汚染の脅威」を本気で感じ取り、恐れおののく人間として登場する中島喜一老人の存在感と振る舞いが十二分すぎる程に切迫感溢れるものとなっているために、画面に全然出てこなくとも、「ひたすら恐ろしい、逃れられないなにか」がひたひたと近づいてくる不安感が迫ってくる作品になり得ているのです。そのために、当時30歳代の三船敏郎をわざわざ老人役にすえなければならないほどのエネルギーを、黒澤監督は求めたのではないでしょうか。
 ただし、若い俳優に老人を演じさせたからと言って、黒澤監督は安易に中島老人にパワフルな演技をさせたり、実際の60歳の人間にはできないような芸当をさせるようなことはしていません。当然、演じているのがあの三船さんなのでどんな狂態も問題なく演じられたはずなのですが、あくまでも「何の変哲もない老人」という範囲の中で、ただひたすらに「おびえ、おそれる」演技を100% 全力で演じることを要求しているだけなのです。
 たとえば、本作のクライマックスで中島老人はついに、自身の家族のブラジル移住を推し進めようと焦った挙句、現在の一家の生活の基盤となっている、自分自身が創業したはずの鋳物工場に放火をして全焼させてしまうという最終手段に出てしまいます。
 ここのくだり、なんせ前作が『七人の侍』(1954年)という全盛期真っ最中の黒澤監督なんですから、炎上する工場のスペクタクルを撮影するなんてお手の物かと思うのですが、本作ではそんな場面はきれいさっぱりはしょられており、いきなり黒焦げの焼け跡となった工場の残骸が映し出される展開となっており、そこから愕然とする一家の混乱の果てに、中島老人の告白がしめやかに語られる展開となっています。
 この、映画としては本作中最も派手な事件といってもよい工場炎上が全く描写されないのは、おそらく、観客が中島老人のおそれる恐怖の正体を工場炎上のスペクタクルと混同したり、もしくはおそれる中島老人自身が結局は周囲の人間にとっての災害(=怪獣)になっちゃいましたとさ、みたいにオチだと解釈したりして、安易に作中に怪獣を顕現されないようにするための予防策だったのではないでしょうか。この作品において、あくまでも怪獣は全く映画に登場しない存在でなくてはならず、いかなエネルギッシュな三船さんであれども、怪獣を想起させかねない方向にいくことは厳に許されないタブーだったのでしょう。

 ここで重要なのが、全く出てこない怪獣(核や放射能)に代わって、作中で中島老人を直接的に恐怖させる存在なのですが、これは具体的には2つありまして、ひとつは「雷鳴と驟雨」で、もうひとつは「中島老人の愛人の一人・朝子の親父(演・上田吉二郎)」です。ヤ~なおとっつぁんなんだ、この朝子のオヤジっていうのが!

 雷鳴と驟雨というのはもうそのまんまで、作中ことあるごとに夕立のような遠雷と風、そしていきなりの大雨がやってくるタイミングがあるのですが、それにいちいち中島老人が過剰に反応しておびえる、という描写があるのです。
 これは、別に中島老人がカミナリ嫌いだというわけではなく、雨雲に乗って太平洋上空に残留する放射能が日本列島に上陸し、あの原子爆弾の炸裂直後に降ったという「黒い雨」がまた降り注ぐのではないかという不安を中島老人が強くいだいているということの暗示に相違ありません。
 こういう放射能と雨との関連づけって、広島・長崎の原子爆弾投下以降、世代が代わるたびにどんどん薄れていくものかと思っていたのですが、まことに不幸なことに、2020年代現在を生きる私達日本人の多くは、2011年3月に「放射能を含んだ雨」の不安を現実にいだく経験をしてしまいました。デマとわかっていながらも、実際にメールで不気味な警告メールを受け取った方も多いのではないでしょうか。それを即座に笑い飛ばせた人は、果たしてどのくらいいたでしょう。

 もうひとつの中島老人をおびえさせた存在として挙げた朝子のおとっつぁんなのですが、この人はもう本当にどうしようもない、自分の娘の愛人(中島老人)の財力に頼らないと何もできないようなダメおやじです。しかしながら自分の感情に素直に生きようとする生命力だけは非常に貪欲で、作中では中島老人の一家と共に自分達父娘をもブラジルに移住させようとする老人の決断に強い反感を抱きながらも、直接老人に反抗するようなそぶりは隠しておいて、素知らぬ顔で娘を通して老人に金をせびりながら、裏で老人の家族にまわってブラジル移住を破談に追い込もうとする包囲網も形成させていくという狡猾さを持った人物なのです。
 ここ! このおとっつぁん(名前すらない!)の、『ゲゲゲの鬼太郎』のねずみ男みたいなトリックスターっぷりが、怪獣もスペクタクルもない本作を非常に起伏豊かなものにしてくれるのです。長期的な人生のプランはないが、ともかく今日を生きたいというエネルギーだけはものすごいんですね。この生き方を笑える人が、果たしてこの世にどのくらいいるでしょうか。

 このおとっつぁんが、作中で一度だけ中島老人に残酷な牙をむくシーンがありまして、それが、夕立ちの降りそうな昼下がりに、縁側で世間話をするかのように老人に「放射能汚染の恐怖」を聞いたふうに吹聴するところです。被爆した人間がどうなるのか、子ども達の世代の未来はどうなってしまうのか、みたいな話を他人事のように話すわけなのですが、それを聞いた中島老人は不安にかられ、憔悴しきった表情になってしまいます。
 ここの局面で、おとっつぁんが中島老人をおびえさせて具体的にどうしたかったのかは、まるでわかりません! 特におとっつぁんにメリットのあることでもないように見えるのですが、彼に何かしらの策があったというよりも、「今まで偉そうにしてた奴がなんか弱ってるから、もっと怖がらせてやれ。」みたいな、なんのひねりもない子どもみたいな感情がふっと湧いてきて話し出したように見えるんですよね。そして、そういったなんでもないようないたずらがめぐりめぐって、中島老人と一家の崩壊を招いてしまうのですから、このおとっつぁんの、ある意味で「邪気の無い」悪意が、この映画でいちばん怖いものだったのではないでしょうか。
 また、この場面での、おとっつぁん役の上田吉二郎さんの語りがめっちゃくちゃ上手いんですよね! ほんと、基本的にだるんだるんのランニング姿でだらしないオヤジなのですが、ここで薄暗い縁側に座って語るときだけ、稲川淳二もビックリな超一流の怪談師みたいなオーラを身にまとうんですよ。やっぱり腕のある俳優さんは違うなぁ!!


 いろいろくっちゃべってまいりましたが、本作『生きものの記録』は、「怖いものを見せずにその恐ろしさを伝える映画」の究極だと思います。その決意のほどは相当なもので、核や放射能に関する情報を映像で見せることは一切なく、ひたすらそれを「怖がる人」しか映し出していない徹底ぶりは空前絶後の完璧さです。
 実は、つい最近にこの『生きものの記録』と精神的にかなり近いと思われるアプローチの映画として、あの魁!!クリストファー=ノーラン番長の『オッペンハイマー』があったわけなのですが、主人公がしっかり「怪獣級の天才」として描かれる部分があり、しかもかなりギリギリまでがんばったものの、ほんの一瞬とは言え直接に原子爆弾の悲惨な事実を(幻影としながらも)描いてしまったという点で、やはり『生きものの記録』のほうが数段、目指す志と完成度が上ではないかと確信しています。原爆の惨禍を全く描かないという選択肢が非常に難しいものであることは、『オッペンハイマー』をめぐる日本公開までの議論をみても明らかでしょう。ノーラン監督はかなりがんばったけど、やっぱり最後に「ある異常天才の半生記」に落ち着けるという安易な手を選んでしまったのです。キビシ~ッ!!

 先ほども申しましたが、本作で主演を務める三船敏郎は、これはもうまごことなき「怪獣レベル」の存在感とスター性を持った名優です。それこそ、ゴジラ級の破壊力と輝きを持った才能! それはもう、黒澤監督の前作『七人の侍』でも証明されていることですし、三船さんも初代ゴジラも対する相手が同じ志村喬さんだという事実もそれを裏付けるものでしょう。
 それなのに、本作で黒澤監督は三船敏郎35歳のエネルギッシュなパワーを炸裂させることは一瞬間も許さず、ただひたすらに彼の演じる中島老人を孤立させ、憔悴させることによって、「経営も発展させて愛人を何人も囲うような大人物が、どうしてそこまで……」と思わせることに成功しているのです。そこまで彼を追い詰める核・放射能とは一体なんなのか? そして、そんな人がいるのに、その一方でどうして同じ日本列島に住む我々日本人は、特に不安に思うこともなくのうのうと暮らし続けていられるのか……

 本作において黒澤監督は、中島老人を徹底的に「孤立した人間」に描いてはいるのですが、結末こそ精神病院送りにはなっているものの、老人を「核・放射能を並外れて怖がる異常な人」だったり、「不安になるあまりに家庭を崩壊させてしまう危険な人物」に見せるような演出はかなり神経質に避けているように思えます。老人も、世間体を考えて怖い怖いと本音を言うことは控える自意識は持っていますし、工場に放火するという非常手段も、結局は繊細な自身の心を壊してしまう諸刃の剣となってしまうのでした。
 よくよく考えてみると、中島老人のブラジル移住計画も、さんざん老人が危険だ危険だと思い込んでいる日本に「喜んで帰国したい」と申し出ているブラジルの農園主(演・東野英治郎)がいるから進んでいる話なので、中島老人の「日本から逃げよう」という主張に賛同している人なんて、作中に一人もいないんですよね。作中唯一の清涼剤ともいえる末娘のすえ(ネーミングセンス……)だって、哀れな父の姿に同情こそすれ、父の恐怖までをも共有しているとは思えません。中島老人の孤立はあくまでも彼自身の「おそれ」に起因するものなのであって、老人のカリスマ性やエネルギーによるものではないのです。

 中島老人を特殊なキャラクターにしないというこの頑なな決意は、すなはち「この物語を特異なケースにさせない」という黒澤監督の思いの表れなのだと思います。怪獣不在の怪獣映画とは、「いつ怪獣が出てくるかわからない」という状態を、この映画を観た後も観客に継続させようとする、一種の「呪い」なのではないでしょうか。
 つまり、映画を観終わった後に「放射能を怖がり過ぎるおじいさんが出てくるヘンな話だったね。」では絶対に済まさず、「放射能が怖いのはよくわかってる。じゃあ、そんな放射能がすぐそばにあるこの世界にいて、なんの不安も抱かない私達は、果たして正常なのかな?」と考えさせることこそが、この映画が生まれた意味なのではないでしょうか。
 怪獣が出てこないことによって、永遠に終わらない映画、そして問題。この『生きものの記録』は、そんなとんでもなくヘビーなテーマを、そのわりには非常に見やすく提示してくれる作品なのです。キャスト表見てみてよ~、もう全盛期の黒澤組ができあがりつつあるよ!!

 あの三船敏郎を擁しといて、こんなに贅沢な使い方を確信的にできる黒澤監督の剛腕もものすごいのですが、文字通りの「大スター怪獣ミフネトシロウ」の大暴れは、この後の黒澤映画諸作でもうイヤンとなるほど楽しめますからね! その振れ幅の大きさもまた、黒澤映画の魅力の一つですよね~。

 それにしても、Wikipedia にあった「この映画撮ったんだから、君いつ死んでもいいよ。」という言葉は、最大限の賞賛であるのはよくわかるのですが……なんかイヤ~!! 言う人も言われる人も、ものすごいよね。
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