長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

土浦の中心で愛を叫びながら日本の食を考える  ~百景社アトリエ公演『近代能楽集』うち4作~

2016年01月25日 01時26分48秒 | 日記
 え~、みなさま、2016年明けまして誠におめでとうございます!! そうだいでございまする。
 いまさら新年のあいさつなんですけれどもね。なんだかんだいって1月ももう終わろうかっていうタイミングでやっと、よ。

 今年に入って最初とそれに続く記事を見ていただいておわかりのように、私は30代なかばにして初めて「職員旅行」という心おどるイベントに参加させていただける栄誉に浴しまして、これまた生まれて初めて九州地方の土を踏む旅に、新年早々行ってまいりました。いい土地でしたね~。福岡は、さすがの大都市でしたねぇ! 飛行機に乗るのも10年以上ぶりだったから楽しかったなぁ。

 そういったイベントも正月明けからドカンとあったわけなのですが、それに加えていつもいつも忙しい忙しいとわめきっぱなしのお仕事も当然さっさか始まりまして、相も変わらず我が『長岡京エイリアン』の更新にとっては実に厳しい日々がスタートしてしまいました。お城のことなんか、いったいいつまとめられるのやら……福岡城での、色があせきってパッサパサになった『軍師官兵衛』の PRのぼりが味わい深かった。あっそうそう、水天宮でおみくじをやったら大吉だったんですよ! ヤッター!! これもひとえに、ずっと平宗盛さまのファンだった御利益かな!? 光栄のゲーム『源平合戦』で平宗盛で天下統一できた時には泣いたね~。まぁ、といっても宗盛は水天宮では祀られてないんですけどね……そんな宗盛だから、大好きなんだー!!

 そんな感じで私の年は明けたんですが、のっけから今年は、去年とはひと味違った忙しさになりそうな予感がムンムンなのでありまして、なんとなく。
 個人的には、同じ忙しいにしてもこっちのほうがいいかな、といった感じの新展開が立て続けにおっぱじまった、という胸騒ぎに包まれております。地に足がついていないような気分なのに時だけがスイスイ進んでいく、このミョ~なスピード感は気をつけなければいけませんね。注意一瞬、事故一生よ!
 事故といえば、なんだかんだいってわたくしのペーパードライバー時代(15年間)を抜きにした実質ドライバー歴も、ようやっと「まる1年」となりおおせました。中古車なんで内部の修理はしょっちゅうなんですが、なんとかかんとかギリッギリ! 外側の修理が必要な事態にはおちいらずに2年目に突入しております。いや、これは山形が初心者ドライバーに非常に優しい交通事情だからなのでありまして……でも、ホンットに雪国は二輪駆動車に厳しいよね! 降雪対策は、より寒い夜になってから「あ、忘れてた。」じゃ済まされませんから。屋根の上の雪もかける長柄のカーブラシ買っとかないとなぁ。


 さてさてそんな中ではありますが、昨日24日日曜日は例によりましてお芝居を観るために遠出してまいりました。といっても、おもむいたのはいつもの大東京ではなく、山形から見ればその手前となる茨城県の土浦市でありました。
 なもんで、今回はいつもよりも新幹線に乗る距離も短くなりそうだし、ちょっとは交通費も浮くんじゃないかとふんでいたのですが、フタを開けてみたら結局、山形から土浦に行くためにはしっかり上野まで新幹線で行ってから常磐線で北上しなけりゃいかんのでした。なんか宇都宮とか大宮から東に行くルートのほうが高くつくんですよね。土浦市に限った話なのかもしれないけど、時間にしても距離にしても、茨城県は山形からは、東京以上に遠かったのだ! どういうことなんだ……バスにしたって、必ず東京か仙台経由になっちゃうしなぁ。

 当初、私は23日の土曜日に自動車で山形から土浦に行って、お芝居を観てからホテルで一泊して翌日に帰るという計画を立ててもいたのですが、土曜日に大事な用事が入ったため、やむなく断念して24日の日曜日じゅうに新幹線で往復するという強行プランとあいなりました。車で山形~土浦っていう片道350キロの旅も魅力的ではあったのですが、今回は見送りということで。長距離ドライブも、またやってみたいね~。
 というわけで、今回は車での旅よりは肉体的にはラクな往復どっちも新幹線というぜいたくな選択になったのでしたが、これはこれで意外と大変というか、時間調整がギリギリなんでした。月曜日は不動のお仕事日なんでねぇ。

 そんなこんなで、今回土浦にて拝見したお芝居は、こちら。


百景社アトリエ祭2016 『近代能楽集』(演出・関美能留、作・三島由紀夫)茨城県土浦市・百景社アトリエ
『卒塔婆小町』
『葵上』
『邯鄲』
『綾の鼓』


 うおお、今年1発目の観劇に、まことにふさわしいこの演目! 短編サイズとはいえ、1日で4本分もの「三島由紀夫型日本語」を摂取するんですぜ!? これは中毒症状を起こすレベルの過剰摂取ですわ!! 『おかんメール』とか伊坂幸太郎を読んで中和しなきゃ。

 今回の公演は、劇団「百景社」が2013年から土浦市にかまえている劇団アトリエで1~2月に開催されている「百景社アトリエ祭2016」の第1弾として1月23日から上演されているもので、三島由紀夫の戯曲集『近代能楽集』に収録されている8作品を全て一挙に披露するというとてつもない企画となっています。8作品を一気にですぜ!? これがまぁ~どんなに大変なプロジェクトなのかは、どれかひとつの作品を観ただけで充分に察せられるはずです。そりゃまぁ短編なので上演時間のボリュームはそんなにあるわけではないんですが、なんにしろ「濃度」がハンパないんですよね! そんじょそこらの2時間くらいのお芝居が飲みやすいジュースだとするのならば、『近代能楽集』はひとつひとつがドロッドロのエスプレッソブラックコーヒー! セリフの重力が、同じ言語であるはずなのにふだんの日常で使われる日本語の倍はあるというか、しゃべってる役者さんの口からセリフごとに「ぼはっ! ぼはっ!」と大輪のバラの花がこぼれ落ちてくるかのような、もう笑うしかない全力勝負、キメ球に次ぐキメ球という異常なペース配分になっているんですね。いちいち口がふさがって息もできやしねぇ!!
 これはねぇ、この大変さは喜劇にするしかありませんわな。そういう意味でも、『近代能楽集』は全編がハイテンションの「お祭り騒ぎ的な笑い」に満ちた作品集になっていると思うんです。ギャグで笑うという性質のものではなく、その登場人物ひとりひとりの全力すぎる生きざま、それらの妥協という文字の存在しないがゆえの目も当てられない正面衝突のもようが、不謹慎ながらも笑ってさしあげるしかない、というか、それしか傍観する客にできることはないという、演劇というものや三島ワールドというものと、私たちの生きる日常世界との決定的な次元の違いを楽しむべき作品集なのです。まさしく、アトリエ祭にこれ以上にふさわしいものもないでしょう。まつりだワッショイ!

 この『近代能楽集』というのはまぁ、かつて役者でありましたわたくしめにとりましても非常に思い出深いタイトルであるのですが……そこらへんのことをぶつくさ語ってもオッサンの昔話にしかならないんでね! そのあたりはきれいにはしょってしまいますけれども。

 いっぽう、百景社さんの土浦のアトリエに関しましては、私はかつて2013年6月に三条会の『ひかりごけ』、2014年2月に関美能留さんとスズキシローさんの二人芝居『太宰治ですみません(仮)』を観劇するために訪れてはいましたが、そこを本来のホームグラウンドとしている百景社の役者さんがたが、フルメンバーで思うさまに暴れまわるアトリエ公演はまだ観たことがなかったのでありまして、演出は三条会の関さんが務めるわけですが、今回初めてそれがかなったのでありました。百景社の役者さんの一人芝居や、三条会の公演への客演は最近も拝見していたのですが、舞台上の百景社のみなさんの勢ぞろいを観るのは……もう何年ぶりになるのでしょうか。失礼ながら、そうとうにご無沙汰しておりました。


 今回、百景社版の『近代能楽集』は、全8作のうちまず4作がこの23・24日に上演され、来月2月に残る4作も上演。なんと2月11日にはそれら8作をまとめて1日かけて上演するというとてつもない企画も予定されているのだそうです。『近代能楽集』が一気にぜんぶ観られる!? 役者さんもお客さんもこりゃ大変だぞ……やっぱり終盤はみんなで黄色いTシャツを着て『サライ』なんだろうか。でも、この一挙上演の日は観に行けそうにないんだよなぁ。非常に残念!
 また、そのうち『卒塔婆小町』と『葵上』の2作は、さらに翌3月、アトリエを飛び出して岡山県岡山市でも上演されるそうです。

 24日の日曜日、午前9時すぎに山形を発った当初は、どうやら関東地方にも相当な寒波が押し寄せてきているらしいという前日からの報道を知って、まさか新幹線が動かないとか、そういうことは……と心配していたのですが、山形も確かに雪は降っているもののそれほど大したものではなく、上野を経由してお昼前に着いた土浦の地も、雪なんぞどこにも見当たらない冬の快晴になっておりました。
 よかった……2年前の2月に土浦に来たときは、そりゃまぁとんでもない大雪の日の翌日で! 前日は真夜中ぶっ通しで新雪の雪道地獄を歩き詰めるわ当日は電車のダイヤが狂いまくるわで、体力的にもスケジュール的にもひどいもんでしたからね! 今となっては、なつかしい思い出です。

 ただ、さすがは寒波の真っただ中と言いますか、強く吹きつける風が冷たいのなんのって! 百景社アトリエは、JR土浦駅の西口から西へ国道125号線をまっすぐ歩いて行って、土浦城のあった亀城公園から右に曲がってまたまっすぐ行けばだいたい近くというわかりやすい道順なのですが、30分という時間が非常に長く感じられる向かい風の容赦ない厳しさよ! これがうわさの「筑波おろし」というやつなのか……山形ではなかなか出くわさない、湿度のまるでない乾燥した寒風が吹きすさびます。やっぱり関東なのねぇ~。

 途中で昼食をとりつつも滞りなく到着した百景社アトリエは、客席満員の状態になっておりました。そうこなくっちゃ!
 私が観た24日の公演は、『卒塔婆小町』+『葵上』を1公演、『邯鄲(かんたん)』+『綾の鼓』を1公演として、午後2時からと4時からの1日2回公演という形式をとっており、上演時間は『卒塔婆小町』+『葵上』で75分、『邯鄲』+『綾の鼓』で100分ということになっていました。
 ちなみに、今回の『近代能楽集』公演は「新潮文庫版の収録順に上演する」ということで、本来ならば『邯鄲』から始まる順番だったのですが、24日は日曜日なので、翌日に仕事があるお客さんも多かろうという配慮から、上演時間の長い『邯鄲』+『綾の鼓』をお芝居の開演時間としては早めの午後4時からの後半戦に持ってくるという、わたくしにとりましてはひじょ~にありがたい措置が取られていました。ほんとにありがたかったです……午後5時以降からの開演になってたら、ちょっと観るのを諦めなきゃいけなかったかも知れない。いつもお世話になってるから文句は言えないんですが、山形新幹線の本数はやっぱ少ねぇよ~。

 三島由紀夫の『近代能楽集』は、各作品の発表年代を見てみると、『邯鄲』が1950年9月(初演は同年12月)、『綾の鼓』が1950年12月(初演は1952年2月)、『卒塔婆小町』が1951年12月(初演は1952年2月)、『葵上』が1953年12月(初演は1955年6月)ということで、この4作品に限って言えばあの『潮騒』も『金閣寺』もまだ書いていなかったピッチピチ20代の三島さんの手によって生み出された作品です。あらためて、ものすごいことです……確かに『邯鄲』は「若い人が書いたんだろうな」という印象が持てる作品ではあるのですが、『綾の鼓』の後半部分の残酷すぎる展開や『葵上』の確立しすぎた言語センス、そして『卒塔婆小町』の幽明相半ば、現実と個人の思い出とがスープのように溶けあった世界の広がりは、少なくともある作家さんのキャリアの最初期のものとはとても信じられない完成度を誇っているのではないのでしょうか。も~んのすんごい!

 そんなわけで私が観た日は『卒塔婆小町』から上演が始まったのですが、のっけから『卒塔婆小町』か! おそらくは『近代能楽集』の中でも最も有名な作品のご登場ときたもんだ!

 この『卒塔婆小町』に限らないのですが、今回の『近代能楽集』の上演はおしなべて、演出の関美能留さんが主宰する三条会のアトリエ公演企画で約8年前に試みていたさまざまな実験を、新たに百景社の役者さんがたを通じて再び舞台化している点を基調としながらも、さらに百景社のアトリエ公演ならではのオリジナリティも加えて発展させたものになっていると感じました。

 「さまざまな実験」なんて他人事みたいな書き方をしていますが、実はかくいうわたくしめも、そのめくるめく日々の末席に加わった者だったのでありまして……
 なつかしいですねぇ、公園のベンチで彼氏がデジタルカメラで彼女を撮っている伏線が、のちのち詩人と小町の世界に同化していく流れ。そして、平井堅の『瞳をとじて』(2004年)の大洪水!

 今回の百景社バージョンを観ても再確認したのですが、『卒塔婆小町』という戯曲は、ふつうにセリフを読んでいくと詩人と老婆の理屈っぽい口論から始まるし、かと思えば中盤から2人のパワーバランスも乱高下するのでなかなか難解な物語のようにも感じられてしまうのですが、つまるところはそのぐっちゃぐちゃ具合を感じて楽しむジェットコースター的アトラクションだと思うんです。
 それはつまり、「どこからどう見ても老婆の走馬燈だったはずなのに、そこに勝手に乱入してきた詩人の走馬燈になっちゃった!」みたいなありえないハプニングが、老婆と詩人のどちらが死にたかったのかとかいう比較からの論理的結果ではなく、単なる詩人の「好きだー!!」という一瞬の感情だけで起きてしまったこととまさに同じで、「考えるな、感じろ」の世界なんですよね。老婆が若返ったとか詩人が深草少将になったとかいう細部を気にしているとあっという間に置いて行かれてしまうスピード感に満ちているわけです。

 しかし、その恐るべき「どっちが死ぬのかチキンレース」の末に、「また生き残ってしまった……」というむなしさと共に物語の序盤と同じ生活を始める老婆の姿による幕引きこそが、この『卒塔婆小町』が『近代能楽集』随一の傑作になり得ている理由なんだと思うんです。死ぬことよりも生きることのほうがずっと苦しいとか、「愛」をめぐる「生」と「死」の表裏一体の関係とか。「私を美しいと云えば、あなたは死ぬ。」って、どんだけ~!?

 そして、これは今回の百景社バージョンで初めて加えられた演出かと思うのですが、詩人の「愛」が、結局はジュージュー焼けたお肉を食べたいと思う感情と同じだという冷徹なオーバーラップが示されていたのにはおそれいりました。「若き日の小町の美貌に身を焦がす鹿鳴館の紳士たち」というモブキャラ陣が、ほんとに鉄板で身を焦がしてる焼肉なんだもんね! これが一流の社交界における恋愛というものなのか……苛烈すぎる。

 やっぱおまえも肉欲かよ! まぁ肉欲だよな! という諦念を込めたまなざしで、詩人の目の前に焼肉をチラつかせる老婆の哀しみ……だからといって、品性も「いっしょにごはんも食べたい、タレもつけたい。」という人としてのグルメ感覚もかなぐり捨ててただひたすらに焼きたての肉だけを食べる詩人の姿を軽蔑しているわけではなく、むしろその後先を考えなさすぎる「若さ」へのあこがれもコミコミの視線であったことは言うまでもないでしょう。
 もうちょっと落ち着いて食べていればベロもやけどせずに済むものを……認めたくないものです、若さゆえのあやまち!!

 そういえば、詩人の語りに添えられる音楽が、過去に使われてきたレッド・ツェッペリンの『天国への階段』(1971年)ではなくキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』(1969年)になっていたことも百景社版の特徴だったのですが、どちらもロマンあふるる世紀の名曲であることはいわずもがななのですが、『クリムゾン・キングの宮殿』が頭の中に流れている詩人のほうが詩人としての未来が開けているような気がしました、なんとなく。『天国への階段』は盛り上がりへの助走が長いし、その助走の哀しさですでにおなかいっぱいになっちゃうという感じがして、老婆を言い負かすというよりも自分の世界にひたりきってしまっているきらいがあるのではなかろうかと。老婆なんか忘れて家に帰っちゃいそうな陶酔感があるんですよね。それよりは外側への力が大きくなっている今回の選曲のほうが、この詩人らしいという気がしました。んまぁ~名曲。

 そんなスピーディな感覚にあふれた『卒塔婆小町』に続くのが『葵上』なのですが、こちらは一転して静かな密室劇のような始まり方をして……やっぱりふたを開けてみれば、あっという間に男と女の回想とも妄想ともつかないイメージの混ざり合った刹那的な燃焼の物語になっています。『卒塔婆小町』もそうなのですが、他人の頭の中にできているはずの情景にいともたやすくダイブしたり、ダイブされた側もそれを当たり前のように受け入れて盛り上がってしまうというノリの良さはものすごいと思います。汗が飛び交うカーニバルのようでもあり、命を賭けた闘いのようでもあり。

 ただ、『葵上』はホントにわかりやすいというか、どう見てもコントにしか映らないバカバカしい展開の末に、とばっちりを食った奥さんが突然死んでしまうというラストを迎えてしまいます。
 この流れは原典となった謡曲の『葵上』とほぼ同じというか、さらにその原点となった『源氏物語』の生霊エピソードそのままなわけですが、愛する人を失ってしまう光源氏の悲劇的な人生を象徴する有名なエピソードであるはずなのに、『近代能楽集』では男の徹底的な無責任さが強調されて、死んだ奥さんも必ずしも愛人の生霊にとり殺されたというよりは、むしろ奥さんのほうから「もうええわ!」ってなもんで去っていったように見えるのが、なんともブラックな笑いに満ちています。ロマンスが有り余るんだかなんだか知りませんが、やっぱりここでも愛の才能のある男はズルい。
 ただ、そのズルい男の役を百景社の村上厚二さんが演じているというのがみそで、軽薄なプレイボーイらしい歯の浮くような言葉をどんなに繰り返しても、果ては病気の妻の寝ているベッドの中で愛人と一緒になるためにパンツいっちょの姿になろうとも、どこか一本通った芯があるというか、ぶれない男らしさがあるんですよね。なんか、「他の男だったら許せないが、彼は何か理由があってそうしてるんだろう。」という免罪符を持っているような気にさせる雰囲気があって、そしてそれこそが何をやっても許されるズルい男の、ルックス以上に重要な必須条件だと思うのです。生きていること自体が罪なプレイボーイを村上さんが演じているというキャスティング、一見サプライズのようにみえて実は至極当然な選択であるのだな、と非常に納得できる作品でした。


 さて、この『卒塔婆小町』と『葵上』は、合わせてひとつの公演と銘打たれてもまったく違和感のないつながりというか、表裏一体性のある物語だったし、どちらでもデジカメと『瞳をとじて』が効果的に使用されている共通点があったのですが、そのいっぽうの、本来この公演の幕開けを飾る2作となっていた『邯鄲』と『綾の鼓』は、どうだったのでしょうか?

 これが、実によかったんだなぁ! 特に『邯鄲』は、『近代能楽集』8作上演企画のオープニングに本当にふさわしい作品になっていたと思います。
 『邯鄲』と『綾の鼓』は、確かにクライマックスで『近代能楽集』ならではのひとひねりが効いてはくるのですが、あの『卒塔婆小町』ほどの急展開もなく、『葵上』ほどの三島ワールド(ヨット! ヨットの帆!!)の奔流もない、非常に単純な構造の物語になっているきらいがあります。
 しかし今回の百景社バージョンは、そのへんの単純さをむしろポジティブにとらえて、『邯鄲』には日本風朝食、『綾の鼓』にはカレーライスという実にわかりやすい比喩を用いて臨んだことが大いに奏功していると感じました。

 そして、これまたなつかしいことに、2008年1月の下北沢ザ・スズナリ上演版の『メディア』(原作・エウリピデス)いらい久々に、関美能留演出に「明確な振り付けのある群舞」が戻ってきた! これにはさすがにビックラこきました。
 でも、これは懐古的な気分になるものではなく、百景社単独公演の演出を初めてするのだからオープニングはやっぱりこれで、という実にまっとうな動機に基づいた、きわめて祝祭的なダンスになっていたことにひどく感動いたしました。『ドリフ大爆笑』のオープニングに匹敵するしっくり感のある、ステキな笑顔のならぶ群舞でしたね。

 それにしても、なにゆえ群舞があの曲になったのでしょうか……しかしよくよく考えてみれば、『邯鄲』の次郎くんが独裁政権を樹立したのならば、絶対に具体的な政治機構そっちのけで全力を傾注してこういう華撃団を作りそうな気はしますね。
 邯鄲の仙人がクライマックスで指摘した次郎くんの「生きながら死んでいるのに死にたくない」という矛盾点も、それは仙人の主観というたったひとつのカメラ目線から見てそう映っただけなのであって、仙人の持っているような既存の価値観を否定することを生き甲斐にしていると考えれば、次郎くんの人生に矛盾などひとつも存在しえないわけです。
 それはたぶん、現代の「なんで恥ずかしげもなくコスプレしてイベントなんかに出るんだろう……」とか、「なんで寝る間も惜しんで同人誌なんか作ってコミケに行くんだ?」とか「恋人も作らずにアイドルに働いたお金をつぎ込むなんて、狂ってる!」という視線や非生産性があるからこそ燃えるという「おたくの道」に通じる方向性を持っているのではないのでしょうか。明確な目的地はないんだけど、とりあえず混沌の大海の上で否定の風を真っ向から受けて満々と帆を張るヨット!
 うむ、これがあの名曲の選曲理由だったということなのか! あの子どもじみた次郎くんも、間違いなく「生きないことが生き甲斐」という『卒塔婆小町』の老婆の分身、すなはち三島由紀夫の描くロマンの化身だったわけであり、彼はすでに60年後の現代の若者を予言していたのだ……ていうか、昔から日本の若者は変わってないのかしら。

 ところで話を戻しまして、食べ物。そうなんです。そろそろいい加減に、今回の公演でいちばん感銘を受けたポイントに触れなければ。

 『邯鄲』は、その物語の進行とともに「卵焼き」「納豆」「焼きのり」「焼きじゃけ」「梅ぼし」「ごはん」「みそしる」が一堂に会するという感動的な日本風朝食の叙事詩ともなっていて、『綾の鼓』もまた、華子の「カレー」と岩吉の「ライス」がエンゲージできるのかできないのか、という駆け引きに後半の展開がオーバーラップされています。

 これがすごいんですよ。『邯鄲』は、まるでブルース=リーの『死亡遊戯』のように次郎が各階層の相手と対峙していくというシーン構成になっているのですが、ふつうにそれをやると、ひとつひとつはおもしろくなっても展開がブツ切りになるので、クライマックスへの高まりという点が弱くなる。そこに「ひとつのメニューの完成」という明確な目標を創出して、さらにはそれを、自由気ままな夢の旅に出かけている次郎を待つお菊の存在をキープさせ続けるキーワードにしているという心尽くしはもう……つまり結論から言うのならば、『邯鄲』は発表から実に66年後の2016年、今回の関演出で初めて完成した、と言えるのではないのでしょうか。

 そしてさらに素晴らしいのが『綾の鼓』とカレーライスとの邂逅で、岩吉の華子に思いの通じない無念さというものが、「カレーをかけてもらえないライス」という悲劇的にもほどのある存在によって、観る者の心にすさまじいリアリティをもって迫ってくるわけなのです。
 できたてあつあつのカレーを目の前にしながらも、ライスだけをかみしめる岩吉のせつなさ……これこそが、自死してもなお己を殺した張本人への未練を捨てきれずにいる彼のせつなさを克明に体現しているのです。

 思えば、今回の4作の上演を通じて、各作品で重要な役を演じた百景社の俳優・国末武さんの胃の中には、

「焼肉だけの約2時間後に焼きじゃけだけ、さらにその約1時間後に白ごはんだけ」

 という、FBIのベテラン検死官でも頭をひねらざるを得ない「すれちがいの悲劇」が生じているわけで、「おれたち、もっと幸せな出逢いができたはずだよな……」というせつなさの嵐が巻き起こっているのです。内臓までせつなさのステージになっているとは……役者さんって、すごい。

 さすが、あの『ひかりごけ』で「詰め襟学生服とマクドナルドハンバーガー」という比喩をもって極限状況での飢餓感を舞台化しきった関演出です。今回は『卒塔婆小町』を「焼肉」、『邯鄲』を「日本風朝食」、『綾の鼓』を「カレーとライス」とドッキングさせるという妙技をほどこし、『近代能楽集』を2016年にアップデートさせることに成功しました。『葵上』は……病院の中だから、食べ物の話はひかえたんでしょう。


 そんなこんなで、私は他の『班女』やら『弱法師』やらを観ずに4作品だけを観たのですが、たぶん後半の4作品もすさまじいことになっているんだろうなぁ。今回コンプリートできないのは実に無念なのですが……生きていれば必ずまた観る機会にはめぐりあえるはず!
 来たる2月11日の「全8作上演マラソン」も頑張ってほしいですねぇ。

 百景社さん、ステキな舞台ほんとうにありがとうございました! これからも日本風朝食みたいな「しっくりきてるけど個性派ばっか」な顔ぶれで走り続けてくださいね!!


 ……それにしても、夜の土浦はタクシーが少ない! 駅まで全力疾走しなかったら新幹線に間に合わなくなるとこだったわ……関東はやっぱ、田舎モンに厳しかとこばい!!

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