長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

緊急事態発生!! 安心して楽しめる感動作のはずが  映画『ツナグ』

2012年10月19日 23時37分48秒 | ふつうじゃない映画
 ぺりどっと~ぺりどっと~。どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今週も一週間お疲れさまでした! 年の瀬もいよいよ近づいてまいりましたなぁ~。

 『ワクテカ Take a chance』、ウィークリーチャート3位ですか。ああそうですか。私としましては文句なしの3ヶ月連続トップ確定なんですけどね。
 でもあれですよ。どうしても「1位じゃなくて残念だ!」っていう気分にはなれないんですよね。だって、1位と2位がアレとアレでしょ? なんか世界が違いすぎるというか、負けた勝ったとかいう話にならないんですよ。
 どこからどう見ても『ワクテカ Take a chance』がいちばんだと思うんだけどなぁ……まぁ、1位はいずれとれるでしょ。ってかもう、あんな有名無実もいいとこなヒットチャート、無視しちゃおっか。

 ところで、これは恨み節じゃなくて本気でふしぎに感じていることなんですが、「歌手の福山雅治さん」って、女性の中のどんな方々が指示してるんですかね。少なくとも断言できるのは、男性で好きな人はゼロに近いってことなんですけど。いや、ラジオパーソナリティとか俳優としての福山さんの人気はまったく別ですよ?
 その男性像は幻想だと思うんだけどなぁ……余計なお世話なんですけど、現状のままでいくと将来、福山さんご本人が唄わなくなった後、福山さんの歌を唄う人は誰もいなくなると思いますよ。福山さんにかぎったことじゃないですけどね! それって、歌にとっては非常にかわいそうなことじゃないでしょうか。「歌」というものが戦う相手は、初リリース時の経済市場じゃなくて「時間」「時代」だと思うんですけどね。その気概がなければ名曲にはならないと思います。なにをいっぱしのつらしてしゃべってんでしょうかねぇ、私!

 え? 『ワクテカ Take a chance』? これは間違いなく名曲ですよ! 1人で唄うのムチャクチャ難しいけど。
 まずとにかく、「年間4シングル」というハードスケジュール、お疲れさまでございました~。来年2013年もよろしくお願いいたしまっす。


 さてさて、お話かわりまして、今回は最近観た映画についての雑感しょうしょうでございます。


映画『ツナグ』(2012年10月公開 監督・平川雄一朗 主演・松坂桃李 129分 東宝)


 きたきたきた~! 観てきましたよ、ついに!

 私の愛する辻村深月先生の原作による初映画化作品。「映像化作品」ということでは、今年2012年の1~3月に NHK総合で放送された『本日は大安なり』(連続ドラマ 全10回)以来2作目になりますね。『本日は大安なり』のドラマは、結局まだ1秒も観られておりません……

 2004年のデビューから現在にいたるまで、けっこうなハイペースで長編小説を中心にパワフルな執筆活動を続けておられる辻村先生なのですが、私としましては、ことここにいたって「やっと」映画化作品が世に出ることになった、という思いがありますね。
 ところで、この映画『ツナグ』はパンフレットによりますと2012年の3~5月に撮影されたとのことでした。つまり、辻村先生に関して世間的には今のところ最もホットなニュースになっている、7月の直木賞受賞よりもだいぶ前に映画化の話はズンズン進んでいたということになるんですね。
 ここですよ……こういう、本人や周囲のみなさんが策を張りめぐらすわけでもなく、ごくごく自然の流れとして直木賞受賞の報がすべり込んできて、映画『ツナグ』にたいする期待のボルテージが上がっていくと! この流れがいいのよねぇ~。まさしく「天運」。きてるきてる、先生きまくってますぞよ~。

 ということで、映画の脚本が仕上がる段階では、「あぁ、あの辻村深月の!」という効果がここまで上昇するとは製作スタッフ陣も予想していなかったのではなかろうかと思うのですが(無論のこと、前からすでに超有名ですけど)、「原作の内容を重視した」この映画のスタイルも、最近の辻村先生の活況に華をそえるものになったのではないでしょうか。

 そうなんです。映画『ツナグ』は、2009年9月~10年6月に連載されて2010年10月に刊行された原作小説『ツナグ』の内容をほぼ忠実に映像化したものとなっています。そういう意味では、原作の味わいをかなり親切にくみとった映画になっているんですね。

 んでまぁ、その「原作の味わい」というのが一体なんなのかといいますと、それはもちろん本を読んだ方それぞれの解釈でとらえていいことだとは思うのですが、私がいちばん感じたのは、「人と人とのつながりの温かみをもう一度たしかめてみよう。」と、こういうメッセージなんじゃなかろうかと、原作を読み終えたときに感じていたんですね。

 『ツナグ』にかぎらず、辻村先生のすべての作品を読んで感じるのは、登場するキャラクターに必ず「読者の記憶の中からなにかを引っぱりだす」キーワードがあるというか、「あれっ、この人、どこかで見たことがある……」と思わせる体温があるということなんですね。それは会社の同僚なのかもしれないし、一緒に住んでいる家族なのかもしれないし、いっしょにバカ笑いをした親友なのかもしれないし、部活であこがれた先輩だったのかもしれないし。
 そんなふうに思い出す「なにか」の中でも、特にドキッとするのが「あ、この人……私だ。」と思わせる描写が差し込まれていたりした時の辻村先生の筆のするどさですね。ことここにいたって、辻村ワールドは並みのホラー映画よりも恐ろしく、並みのエンタテインメント映像よりも心を揺さぶる強烈な語りのパワーを発揮します。そして、それらの効果を映像をいっさい使用しない形で読む人の心に引き起こすというところが、小説家・辻村深月のオンリーワンなところなんじゃないかと思うわけなんです。

 最近の小説家の中では、わかりやすい情景描写やスピーディな登場キャラクターのアクションでスラスラ~ッと読ませ、アッという驚きのどんでん返しで読者の意表をつく、それこそ海外の軽快な娯楽映画をそのまま小説にしたかのような作品がうけているようで、それらは確かに読みやすく、単純にスカッとした気持ちになるので人気が出るのももっともなことだと思います。
 でも、そういうのって、読んだあとに「おもしろかった~」ってことしか頭に残らなくて、私としましてはな~んか、もともと私が好きな三島由紀夫とか太宰治とか中井英夫とかが並んでるマイ本棚におさめるのは躊躇しちゃうんですよね! 「いや、いっしょじゃねぇよな。」みたいな。

 その点、辻村先生は、そりゃあまだ若いし、出版ペースもむちゃくちゃ早いのですが、1作1作、力をぬかないでちゃんと自分の中の血肉を小説の登場人物たちに分け与えて作品を「産みおとしている」エネルギーが感じられるんです。
 そして、当然ですが辻村深月は小説家であるとともに1人の人間であるわけなのですから、そこから誕生する物語もただおもしろいだけではなくて、読む人に人間だからこそ起きるさまざまな感情の揺さぶりをしかけてくるものになるのです。そのために、ある展開では読み進めるのがしんどくなるくらいに気が重くなるイヤ~な空気が充満するし、ある展開では「こいつ……サイテー!」とムカムカッときてしまう人物に遭遇してしまうわけなのです。でも、それが実際に私たちが生きている世界なんですよね。
 脱線しますが、最近第一線で活躍している辻村先生と同年代くらいの作家さんの多くは、なんか「自分の手を汚さずにきれいに完成された小説を提示したい」みたいな気持ち悪いプロ意識って、ありませんかね。いやいやそんなあなた、村上春樹じゃないんですから。もっと身を削れ、削れ~。

 やがて、そういった物語も最後には必ず小説家の手によって、つまりは、そういう苦しみを知っている生身の人間・辻村深月の手によって終焉を迎えることとなります。そこがまぁ、ホントに神様がいるのかどうかが確かめられない現実世界との違いなのですが、辻村ワールドは必ず辻村先生の手によって読者も登場キャラクターも双方が納得する結末をむかえるのです。衝撃と感動とがないまぜになったクライマックスが訪れて物語は去ってゆきます。毎作毎作、辻村先生はここらへんの安心感もものすごいんだよなぁ。だからこそ、また再び厳しい試練の物語が始まるのだとしても、次の作品との出会いが楽しみになるってもんなんです。


 さてさて、そんなもろもろを勝手に考えていた私にとって、今回の「『ツナグ』映画化!」の報は、「うむ、まぁ、そんなとこですか。」といったものでした。映画化というのは確かに素晴らしいニュースですが、意外とフーンってな感じだったんですね。

 なぜならば、原作の『ツナグ』は辻村ワールドの中でも比較的ソフトというか、わかりやすい作中のルールにのっとった「救い」がほどこされる、ファンタジーでエンタテインメントな作品だと感じていたからなのです。

 原作『ツナグ』は、「死者を一晩だけ復活させて、生きている人に会わせることができる」というふしぎな能力を持った仲介人「ツナグ」を名乗る青年を中心に、彼に死者との再会を依頼する4人の男女、そして最後に青年自身を主人公とした物語を用意して構成されている「全5章の連作小説集」という形式をとっています。最終章を別にすると、それまでの各4章の登場人物は、基本的に別の章の登場人物とはまったくかかわりのない独立した短編のようになっています。要するに、「ほぼオムニバス形式」という形態をとっているんですね。

 そして、今回の映画『ツナグ』で映像化されたのは「第2~最終5章」の内容ということになっています。原作の第1章「アイドルの心得」が今回カットされた理由はいろいろあるのでしょうが、私の勝手な解釈では、第1章の登場人物のひとりが実在されていた有名人のイメージを強く呼び起こすものになっていたため、彼女ご本人の記憶が観る側にいまだに色濃く残されている現状で、それを別の俳優が演じるのは得策ではないという判断があったからなのではないでしょうか。なんか、ものまねショーみたいになったら作品全体のスケールも小さくなってしまいますからね。
 今のこの文章で、まだ原作の『ツナグ』を読まれていない方、第1章が読みたくなったんじゃないの~!? ほれほれ、読んでみ読んでみ~♡

 ともあれ、この製作スタッフの判断によって、映画『ツナグ』はそれぞれ文庫本にして100ページ前後の「4つの物語」を映像化するということになったのです。

 こういった作品を忠実に映像化する場合、ふつうはそのまま原作小説の記述の順番に4章をつづっていく「オムニバス映画」の形をとるのではなかろうかと私はふんでいたのですが、平川雄一朗監督はあえて、それぞれのエピソードを同時進行でスタートさせながら映画全体の物語をつむいでいくという手法をとっていました。これによって、最終章の主人公となる青年(演・松坂桃李)とその祖母(演・樹木希林)のキャラクターがより丁寧に観る側に伝わってくるという効果があったかと思います。ただし、ちょっと映画の序盤に一斉スタートする視点の数が多くなって情報がゴチャゴチャしてしまい、特にツナグに出会わない時点から始まっている第4章の主人公(演・佐藤隆太)が、なぜこの映画に出ているのかがちょっとわかりづらい印象になってしまっていたような気もしました。

 余談ですが、原作小説では名前が明確にされていなかった「使者との再会ができる東京・品川の高級ホテル」は、映画の中では「品川ロンドホテル」という名前がついていました。
 「品川なのにロンドン!? 島国根性丸出しでや~ね~!」と感じるのは早計でして、これはおそらく、世界のオムニバス映画の中でも指折りの傑作と言われる1950年のフランス映画『輪舞(りんぶ)』(監督・マックス=オフュルス 出演・ジェラール=フィリップら)を意識した映画製作スタッフのお遊びかと思われます。『輪舞』っていうのは、19世紀末のウィーンの小説家アルトゥール=シュニッツラーの戯曲『ロンド』を映画化したものですね~。
 あと、『有頂天ホテル』もそうでしたけど、「役者がいっぱい出てきていろんなエピソードが同時進行する映画」のことを意味する「グランド・ホテル形式」という用語の語源となった『グランド・ホテル』(1932年)の例をあげるまでもなく、群像映画の舞台に高級ホテルが使用されるのはもう、伝統なんですよねぇ! こちらはおそらく、設定を考えたときの辻村先生の「つながり発想」でしょう。


 さぁ、ここからやっと映画の内容に入っていくのですが、物語は原作の通り、時を経ても変わらない「母と息子」のつながりを描く原作第2章のエピソード「長男の心得」、愛憎半ばする「親友」のつながりを描く第3章「親友の心得」、秘密を抱えて去っていった恋人との再会に苦悩する男を描く第4章「待ち人の心得」、そして、死者と生きる者とのあいだに立つ役割をになう青年と祖母の「家族」のつながりを描き、新しい物語のはじまりを予兆する最終章「使者の心得」。それぞれをしっかりと映像化したものとなっていました。

 最初の、亡くなった母親とすっかり一家の大黒柱となった長男との再会を描いたエピソードは、とにかくまぁ母親を演じた八千草薫さんの「たたずまい」が素晴らしかったですね! もちろん、「死んだはずの母ちゃんが……」という、長男を演じた遠藤憲一さんの、疑いから一転してうれしさで胸がいっぱいになる演技も見事なものではあったのですが、それ以上に、たった一晩とはいえ、「母ちゃんに会いたい」という息子の言葉を受けてこの世に戻ってきた八千草さんの、全身に満ち満ちた「喜び」のエネルギーが素晴らしかったんですね。もちろん、ハイテンションになってきゃっきゃするという単純な演技ではなく、物静かに息子との再会に接しています。しかし静かではあるのですが、間違いなく物語のルールにのっとって「もう二度とできない息子との再会」という貴重な時間をしみじみ楽しんでいるリアリティがそこにはあったんですよね。
 これが大女優というものなのか……「死んだ人」という役柄を、ちまたにあふれる凡庸なイメージではなく、あたかも菩薩様のようなあたたかなオーラで演じきってしまわれた!! 驚くべきナチュラルさ、驚くべき包容力の豊かさ。言うまでもなく私の肉親は八千草さんのような容姿でも世代でもありませんが、そんなことはとっぱらって、観客全員の母親を思い起こさせる「なにか」を八千草さんは実にかろやかに身にまとっていました。エンケンさんは……ちょ~っとああいうキャラクターのおじさんにしてはカッコよすぎるかなぁ!?

 「死んだ人を活き活きと演じる」という逆転にこそ輝く真理。まさしくこれですよ。『バイオハザード』シリーズのゾンビ連中も、ちったぁ八千草薫さんを見ならえ、コノヤロー!!


 さて、こういう感じで1人1人の演技をつづっていってもいいほど、映画『ツナグ』の出演俳優陣は充実しまくっていました。主演格の松坂桃李、樹木希林はもちろんのこと、各エピソードの主人公、脇を固める桐谷美玲、大野いと、仲代達矢、浅田美代子。みなさんかなり気合いの入ったお仕事をしてくださっていたと思います。


 ところが、その緊急事態は映画中盤で発生してしまった。


 今回の映画『ツナグ』の場合、やはり、最終的にいちばん大きな感動はラスト、「ツナグ」という立場を祖母から確かに受け取って歩き出していく青年の成長した姿でなければならなかった。もちろん、そこにいたるまでの「親子」「親友」「恋人」「家族」というそれぞれのキーワードにまつわる感動も用意されているわけなのだが、作品全体としては、それらを見届けた上での青年の決断に最大のクライマックスをもってこなければならなかったのである。

 しかし……中盤、「親友の心得」パートの主人公たる、ある女優の演技がとんでもない異常事態を誘発してしまった!
 その異常事態とはすなはち、「中盤の彼女の演技がもんのスゴすぎてそれ以降のエピソードを喰ってしまい、作品全体のバランスがぶっこわれちゃった」!! とんでもハップン歩いて2分。

 映画の進行としては、その「親友の心得」のあとに佐藤隆太エピソードと松坂&樹木ペアのエピソードが続くという流れだったのだが……そこに行く前に観客の度肝を抜き去っていってしまった恐るべき女優とは、なにやつ!?


その名は、橋本愛。


 いんや~。おらァもう、ビックラこいたずら。熊本県出身の16歳ですか。これが「肥後もっこす」のポテンシャルというものなのか。肥後もっこすって、字ヅラにすると予想以上におもしろいね。

 これ、私だけの偏見じゃありませんよね? 映画を観たみなさんが全員そう感じましたよね!
 そうなんです、他の皆さんの演技も素晴らしかったんですが、この橋本愛さんの演技はそれらをブッコ抜いて冴え渡りまくっていたんです。その冴え、あたかも冬の快晴時における北海道・摩周湖の湖水透明度の如し。わかりづら~!

 問題の橋本さん演じる女子高生の美砂は、同じ演劇部に所属している親友の奈津にオーディションで次回公演の主役の座を奪われてしまったことから彼女に憎しみの感情をいだくようになり、まさに「魔がさした」と言うべきなのか、下手をしたら奈津が怪我をして公演に出演できなってしまうようないたずらを通学路にしかけてしまいます。これまでは唯一無二の親友だと思い込んでいた奈津だっただけに、他ならぬその彼女が、演劇部エースである自分から主役の座をかすめとっていってしまったと受け取った美砂にとっては、「裏切られた」というショックが大きすぎたのです。
 ところが、翌日に登校した美砂は、奈津が通学途中に大事故に巻き込まれて搬送先の病院で死亡してしまったという恐ろしすぎる事実に直面してしまいます。
 「自分が奈津を殺してしまったのか?」受け入れがたい疑惑に美砂は身を焦がし、その上、病院で死を目前にした奈津が美砂の名を口にしていたという話を奈津の母親から聞いてしまいました。
 「自分が殺そうとしていたことを奈津は知っていたのか? それとも、奈津は死ぬ直前まで自分のことを親友だと信じ続けていたのか……」
 なかば錯乱状態におちいってしまっていた美砂は、学校で広まっていた「死者に会わせてくれる使者」の都市伝説を思い出し、死んだ奈津に会ってその真意を聞き出すためにインターネット上に散在する「ツナグ」の情報を調べだし、そしてついに……

 だいたいこんな感じが橋本さんの登場する「親友の心得」パートのおおまかなお話なのですが、わたくしのつたない説明でもおわかりいただけるとおり、橋本さん演じる主人公格の美砂という少女は非常に「むつかしい役柄」です。ヘタな女優が担当してしまえば好感のひとつも喚起しない、自己中心的で単純で猜疑心の強いおろかなキャラクターになりかねないわけなんですから。ただし、逆に言ってしまえば「そういう小人物」が主人公であるという、『ツナグ』全体の流れの中でのワンクッションになってもいいわけなのです。事実、原作『ツナグ』でも美砂はひたすらに思い込みのはげしい高慢チキな印象が強く、その結果としてあまりにも残酷な「あの夜明け」を迎えてしまうわけなのです。

 ところが! 演じた橋本さんは「そのくらいの高校によくいそうな女の子でいいよ~。」という低いハードルを軽く蹴飛ばして、いつもどおりの楽しい学校生活の日々が一転、「親友の奈津が自分と同じ主役のオーディションに立候補した」というほんのささいな出来事から何もかもが信じられなくなるという、「異常すぎるほどに繊細な神経の持ち主・美砂」という部分に精巧なガラス細工を作り上げるような手つきでいどんでいく茨の道をえらんだのです。いや、女優・橋本愛の稀代の感性があえてそういった困難の道を歩ませることになったと言うべきか。

 奈津がオーディションに立候補したという事実を知ったその瞬間から、美砂の目つきは常に引きつってつり上がるようになり、肌は血の気のうせた蒼白に、声は自分で自分を抑え込むような低さになってしまいます。冷たい、キツい、こわい!!
 そのネガティブな態度は、奈津が美砂をおさえて主役になってしまったことでさらに硬化してしまい、そのあまりの恐ろしさに「どうして……?」と思わず涙してしまった奈津にもやわらぐことはありませんでした。
 そして、そんなある日に奈津が突然の死を迎えてしまったという思わぬ悲報から美砂の心境は急転直下、奈津との思い出や他人の非難の視線の幻覚にしじゅうまとわりつかれる狂乱のていにもろくも崩壊していってしまいます。

 ここからの橋本さん演じる美砂の修羅の表情はまさに「鬼気迫る」ものがあり、特に奈津の通夜の席で、彼女の母親から「娘があなたの名前をベッドでつぶやいてたわ。なんでか、知ってる?」という話を耳にした時の美砂は、あたかも壊れた西洋人形でもあるかのように表情が凍りついて視線が泳ぎに泳ぎ、全身をこきざみに震わせながら、

「あば、あばばばばばば。」

 とまでは言わないものの、心中の混乱度は間違いなくそのくらいのレベルで「しし、知りません!」とあえぎあえぎつぶやくのです。失神もしくは失禁の一歩手前という極限状況をここまでの気迫をもって演じられる女優、そうそういませんよ!? 『シャイニング』(1980年)のシェリー=デュヴァル以来じゃないですか? ほめ言葉になってねぇ~!

 これはたぐいまれなる橋本愛さんという逸材の、映画『ツナグ』における奇跡的な演技のほんの一部しか紹介していないわけなのですが、これらのような異常なまでの緊張感をみずからに強いているからこそ、ホテルでの奈津との再会や、その結果として選んでしまった「逃れることのできない罪を背負って明日から生きていく」という残酷すぎる道に慟哭してしまう美砂の姿に、映画を観る人の心ははげしく動かされてしまうわけなのです。
 おろかな小人物というキャラクターは、逆に言えば映画に出てきそうな理想化された登場人物たちよりもよっぽど「生身の人間っぽい」ということになるのではないでしょうか。つまり、『ツナグ』の中で重すぎる十字架を背負ってしまった美砂の姿に、観客は「今となっては謝ることができなくなってしまった、あのときのあのひと」の姿を忘れ去ることができないでいる自分自身の姿を投影してしまうのです。
 人間、長く生きていれば「思い通りにならなかった別れ」というものもあるわけなんですよね……でも、それこそが人を大きく成長させるきっかけになるとも思うんです。

 ところで、原作『ツナグ』でも、美砂は「あの夜明け」を迎えたあとで何度か「ツナグ」の青年と出会っています。そのあたりは映画『ツナグ』でもほぼ同じように映像化されているのですが、実は映画のほうでの美砂と青年とのやりとりでは、最後にたった一ヶ所だけ、原作にはなかった青年の質問と、それに対する美砂の返答が差し込まれています。
 これ自体はまったく作品の出来を損ねるような蛇足ではないのですが、小説という形式が好きな私にとっては、いかにも「言わずもがな」な確認作業以外の何者でもありません。最後のこのやりとりはまったくもって、辻村ワールドの中では「行間で感じ取ればいい」空気の部分であって、美砂という人間をあそこまでに立体化した橋本さんのまなざしがあったら、セリフになる必要はなかったはずなのです。
 でもたぶんね、ここをちゃんとセリフにしてわかりやすい演技のやりとりにしないといけないのが「映画」という形式なんですよね、きっと。思わぬところで、

「肝心なときにこそセリフを使わない辻村ワールド」と「肝心なときをセリフで説明する映画」

 という両者の明白なちがいを見いだした気がしました。
 余談ですが、「両者のちがい」といえば、原作小説で美砂と奈津のいる演劇部が上演することになっていたお芝居は三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年)だったのですが、映画のほうではチェホフの『桜の園』(1903年)に変更されていました。ここらへんも、それぞれの個性をうまく体現していておもしろいですね~! どっちにしても、いい高校だ。


 またしても字数がかさんできましたのでそろそろまとめに入りますが、残念ながらこの橋本愛さんのエピソード以降に用意されている佐藤隆太さんと松坂・樹木ペアのエピソードは、もちろん各自ちゃんと独立した感動が味わえることは確かなのですが、橋本さんの入魂の2~30分間をくぐり抜けた直後では、いささか落ち着いてしまった感があります。特に佐藤隆太さんのやっていた役は、佐藤さんよりももっと「モテない感じ」のあるくたびれたおじさんが演じたほうがもっと味わいがあってよかったんじゃなかろうかと思うんですけどね。

 なにはともあれ、映画『ツナグ』は間違いなく必見の感動作です! 上にあげたような(私としては超うれしい)番狂わせのために、私個人の印象としては、ちょっと全体のバランスが崩れて上映時間を長く感じてしまう作品になりましたが、それだけさまざまなかたちの感動が詰まった充実の1作であったとも言えます。
 ただ、感動させるだけはでなく、世界の大部分が思ったよりも「生きている人間の思い込みや願望」で成り立っていること。そして、ツナグの使命が死者をよみがえらせることではなく「生きる者を救うこと」であるという原作の意図をしっかりとくみ取っている構成にも大きく感じ入りました。勝手に原作ファンを自称している私にとっても、今回の映画化は大いに当たりでしたよ!


 ここまできてしまうとついつい欲ばって想像してしまうのが「次回作」なのよねェ~。
 でもさぁ、辻村ワールドの映像化は、そりゃあもォ~大変ですよ。
 個人的には、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』とか『スロウハイツの神様』とか『太陽の坐る場所』とか~?

 別に、映像化された辻村作品がもっと観たいのではありません。
 そうじゃなくて、「辻村作品の映像化に挑戦するような気骨を持った製作スタッフや俳優たちの仕事が観てみたい」ということなんです。もんのスンゲ~難しいんだぜ~。

 それこそ、今回の橋本愛さんみたいな天賦の才を持った人物でなければいかんわなぁ。
 橋本さんが再び、別の名前をたずさえて辻村ワールドに登場する日を、今から首を長くして待っておりますぞ~。

 まぁまずは、まだ東京でやってる『桐島、部活やめるってよ』、観に行くかぁ~!

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