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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』資料編~

2015年07月24日 21時55分34秒 | ふつうじゃない映画
映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 オーストラリア)

 『ピクニック at ハンギングロック』(原題 Picnic at Hanging Rock)は、1900年にオーストラリアで実際に起こった事件を基にしたとされるジョアン=リンゼイの同名小説(1967年11月発表)の映画化作品。ピーター=ウィアー監督。ただし、この事件に該当する当時の新聞記事、警察の記録、女学校などは現実には一切存在せず、完全なフィクションであることが確定している。
 ちなみに、映画の冒頭で事件は1900年2月14日の土曜日に起きたと説明されるが、実際の1900年2月14日は水曜日である。

オーストラリア出身のウィアー監督が、その名を世界に知らしめた出世作。規律を重んじる名門女子学園で、生徒たちがピクニックに出かける。しかし、行き先の岩山で3人の生徒と引率した教師が姿を消してしまう。当日の出来事と、彼女たちの日常が交錯する、ファンタジーとリアルが同居した不思議な味わいのサスペンス作品。
原作小説と同様に、映画も真相を突き止めないまま完結する。しかし、女子生徒同士の恋愛ともとれる友情関係や、彼女たちの死に対する甘美な憧れ、レイチェル=ロバーツが好演した校長の厳格さと危うさなど、日本の少女マンガのような空気が横溢しており、失踪の原因に対して、観る者の想像力をかき立てることに成功している。フリルの付いた制服や、風になびく金髪をとらえた映像は、徹底的に繊細かつ詩的で、現実から一歩浮き上がった世界観を描いている。


あらすじ
 1900年の2月14日、聖バレンタインデー。翌年の憲法制定にともなう独立直前のイギリス帝国領オーストラリア。国土の南東に位置するヴィクトリア州ウッドエンドにある名門の寄宿制女子学校アップルヤード女学校(カレッジ)の生徒たち18名が、女性教師2名に引率されて、郊外のマセドン山近くの標高約150メートルの岩山ハンギングロックへとピクニックに出かけた。その昼下がり、4名の生徒が火山の隆起でできあがった山頂の探検に登るが、3名の生徒と女性教師1名が忽然と姿を消してしまうのだった。
 およそ一週間後、その中の一人だけが傷だらけの状態で発見されたが、彼女は、他の生徒たちや教師の行方については何ひとつ覚えていなかった……


主なスタッフ
監督 …… ピーター=ウィアー(31歳)
脚本 …… クリフ=グリーン
原作 …… ジョアン=リンゼイ
音楽 …… ブルース=スミートン
撮影 …… ラッセル=ボイド(31歳)

主なキャスティング
生徒ミランダ(美人)   …… アンルイーズ=ランバート(20歳)オーストラリア出身
アップルヤード校長    …… レイチェル=ロバーツ(47歳 1980年没)イギリス出身
大佐の甥マイクル     …… ドミニク=ガード(19歳)イギリス出身
大佐の御者アルバート   …… ジョン=ジャレット(24歳)オーストラリア出身
ポワティエ先生(ほっそり)…… ヘレン=モース(28歳)イギリス出身
生徒サラ(居残り)    …… マーガレット=ネルソン
生徒アルマ(黒髪)    …… カレン=ロブソン(18歳)マレーシア出身
生徒イディス(ふとめ)  …… クリスティーン=シュラー
生徒マリオン(メガネ小) …… ジェーン=ヴァリス
マクロウ先生(数学)   …… ヴィヴィアン=グレイ(51歳)イギリス出身
ベン=ハッシー(御者)  …… マーティン=ヴォーン(44歳)オーストラリア出身
ラムレイ先生(メガネ大) …… カースティ=チャイルド
メイドのミニー      …… ジャッキー=ウィーヴァー(28歳)オーストラリア出身
ミニーの夫トム(用務員) …… トニー=リュウェリンジョーンズ
庭師のホワイトヘッド   …… フランク=ガンネル
バンファー巡査部長    …… ウィン=ロバーツ
バンファーの妻      …… ケイ=テイラー
ジョーンズ巡査      …… ゲイリー=マクドナルド
マッケンジー医師     …… ジャック=フィーガン
フィッツヒューバート大佐 …… ピーター=コリンウッド


 現在リリースされている本作のディレクターズカット版は、最初に公開されたオリジナル版(116分)から多くのシーンを削除し、短くなっている(107分)。
 監督のピーター=ウィアー自身は、本作の最初のオリジナル版に満足しておらず、再編集を望んでいたのだが、まだ駆け出しの若手監督だったウィアーは意見を通すことができず、プロデューサーが再編集を承諾しなかったため、ウィアーが望まない形で公開されることになった。その後、ハリウッドに招かれ世界に認められる監督の一人となったウィアーが、20年以上の年月を経て、改めて彼の望んだ形に編集し直したのが、1998年にリリースされたディレクターズカット版で、これが現在の公式版となっている。
 ところがこのバージョンは、かつてのオリジナル版にあった多くのシーンを削除した編集となっており、熱狂的なファンからは「改悪版」とまで呼ばれるようになる。本作で生徒ミランダを演じたアン=ルイーズランバートもその一人で、「映画は監督一人のものではない。ファンにとって思い入れのあるシーンを、監督の独断でカットすることが正しいとは思わない。」と、かなりきつい口調でこのディレクターズカット版に異を唱えている。

ディレクターズカット版の制作にあたり、ピーター=ウィアー監督がオリジナル版から削除した主な内容
1、バレンタインデーの朝に、ポワティエ先生が自分に届いた手紙を読んでいるところにミランダたち女生徒が現れ、ミランダが深紅の薔薇をポワティエ先生にプレゼントするシーンと、その流れでポワティエ先生と女生徒たちが階段を下りてくるシーン(06分22秒~07分00秒)
3、救助後に快復したアルマが、ポワティエ先生を伴って自分を救助したマイクルとアルバートにお礼を言いに行き、マイクルと親しげに散策するシーン(87分38秒~91分10秒)
4、アルバートの部屋で、マイクルとアルバートがビールを飲みながらアルマについて会話するシーン(91分10秒~92分15秒)
5、アルマとマイクルがボートに乗って会話するシーン(92分15秒~93分48秒)
6、発見されないままの行方不明者3名の追悼式典で、アップルヤード女学校の女生徒たちとウッドエンドの住民が讃美歌を歌うシーン(93分58秒~94分58秒)
7、誰もいない深夜のサラの部屋にアップルヤード校長が忍び入り物色するシーン(103分40秒~104分40秒)

 以上のように、ディレクターズカット版の最大の特徴は、マイクルとアルマの交流がほとんど無かったことにされている点である。

 この他に本作には、オリジナル版の段階でカットされていたアウトテイク集(オリジナル版とディレクターズカット版の両方を収録した3枚組ディスクの特典映像より)も存在している。
1、マイクルが、ボッティチェリのヴィーナスの姿をしたミランダを見るシーン
2、事件後、アップルヤード校長がハンギングロックに登ろうとすると、岩山の上からサラの亡霊が彼女を見下ろしているシーン
3、アップルヤード校長の遺体をマセドン山から男たちが運び出すシーン


原作小説について
 映画の原作は、オーストラリアの女流作家ジョアン=リンゼイが1967年11月に発表した同名の小説である。事実を淡々と述べるドキュメントのような工夫が凝らされているが、本作はあくまで迫真性を狙ったフィクション作品である。
 この小説には、当初執筆されていながらも、出版社側の判断で削られた最終章が存在し、その内容は後の1987年に発表された『ハンギングロックの秘密』という著作の中で初めて明かされている。

出版されなかった最終章の概略(神隠し事件の真相)
・山頂の草原を歩く3人の生徒の前に、遠くで太鼓が鳴るような振動と共に、巨大な卵型の石柱のような物体が出現する。
・生徒マリオンが「あの物体に引き込まれるような気がする。」と語り、それに生徒ミランダも同調するが、生徒アルマは何も感じられなかった。
・やがて石柱は消失するが、その途端に3人は強い眠気に襲われ、その場で眠り込んでしまう。
・何時間後かに3人が目覚めると、空は夕焼けのように赤く染まっていた。そのとき突然草原の地面が割れ、その中から、痩せた赤ら顔で、フリルのついたパンタロンに黒いブーツを履いた道化師のような姿をした女が跳び出してくる。
・道化師のような女は「そこを通して!」と叫ぶが、アルマが「可哀想に、病気みたい、どこからきたのかしら?」と語りかけ、女の衣装を脱がせる。すると、今度は女がその場に眠り込んでしまう。
・マリオンが「なぜ私たちは、みんなこんなばかげた衣装をきているのかしら? 結局、私たちは自分たちをまっすぐに保たされるために、このような物をつけさせられているのだわ。」と語りだし、3人全員が制服を脱いで、コルセットを崖から放り投げる。
・崖から放り投げたはずのコルセットが下に落ちていないことに気づき3人は不思議に思うが、その時、いつの間にか目覚めていた女が「お前たちは落ちたのを見ていないのよ、なぜならそれは本当は落ちなかったんだから。」と、トランペットのようなかん高い声で告げる。
・さらに女は「少女たちよ、後ろを振りかえってご覧。」と言い、3人が崖と反対の方向を見てみると、そこにはコルセットが空中に浮かんで静止していた。
・ミランダが小枝を持ってコルセットをつつきながら「まるで何かから突き出されているみたい。」と語ると、女はさらに「それは『時』から突き出されているのだよ。」と答え、「何事も、それが不可能だと証明されない限り可能だし、たとえ不可能だと証明されたとしても……」と、威厳に満ちた金切り声で叫ぶ。
・マリオンは女に「私たちは、日が暮れないうちにどこに行けばいいのでしょう?」と尋ね、女は「お前はとても賢いよ、でもすぐれた観察者とはいえないね。ほら、ここには影がないだろう。そして光はずっと変わっていないじゃないか。」と答える。
・アルマは不安そうに「私には全く理解できないわ。」と言うが、ミランダは輝きに満ちた表情で「アルマ、わからないの? 私たちは光明の中に着いたのよ。」と語る。しかし、アルマはさらに「着いた? どこに? ミランダ。」と聞く。
・女は立ち上がりながら「ミランダは正しいよ。私にはこの娘の心が見えるんだよ。その心は理解にあふれているよ。全ての創造物は定められたところに行くのだよ。」と告げる。その姿は、3人にはとても美しく見えた。
・女が「まさに、いま私たちは到着するところなのだよ。」と語ると、3人は突然めまいに襲われ、気がつくと彼女たちの目の前には、岩山も地面も消え、何もない空間の中に穴だけが存在していた。その穴は、満月のような大きさで、確かにそこに実在しており、地球のようにしっかりしていながらもシャボン玉のように透明なものだった。そして簡単に入って行けそうで、まったく窪みも無かった。その穴を見つめるだけで、3人は今までの人生の中で抱えてきた疑問が、全て氷解するような気がした。
・女は3人に「私が最初に入っていいかい?」と聞いた。マリオンが「入るんですか?」と尋ねると、女は「簡単なことだよ。マリオン、私が岩を叩いて合図をするから、続いて入るんだよ。 ミランダはその後。わかったね。」と答える。
・3人が返事をしないうちに、女はゆっくりと頭から穴の中に入っていき、女の姿は完全に消えてしまう。
・その後すぐに岩を叩く音が聞こえ、マリオンは「もう待てない。」と言いながら、後ろを振りかえりもせずにすばやく入っていく。
・続いてミランダが、穏やかで美しく、何の恐れもいだいていない表情で「さあ、次は私の番だわ。」と穴のそばにひざまづきながら言うが、アルマは「ミランダ! ミランダ! 行かないで! 怖いわ、家に帰りましょうよ!」と叫ぶ。
・しかしミランダは、星のように輝く目で「家? なんのこと? アルマ、どうして泣いているの?」と答え、もう一度合図があると、「ほら、マリオンが合図したわ。行かなきゃ!」と言い、穴の中に姿を消す。
・いつの間にか、アルマは女が出現する前の、岩山の山頂の乾いた荒野に座っていた。「彼らはどこからきたの? どこにゆくの? みんなどこにゆくの? なぜ? なぜミランダは消えてしまったの?」
 アルマは空を見上げながら、声をあげて泣き続けるのだった。

 この最終章を挿入した途端に、『ピクニック at ハンギングロック』は単なるファンタジー映画と化す。だが本作の成功の要因の一つは、読んだ人に実話だと思わせる迫真性にある。削除を提案した編集者は慧眼であった。


 ……いや~、これはまごうことなき大傑作ですよ。カルトムービーになってるなんて、もったいなさすぎる! まぁ、意図的にオチを無くしてるんだから、ふつうじゃない映画なのは間違いないんですけどね。
 これが DVDで手軽に手に入るなんて、いい時代になったもんだよぉ。あっ、でもこれ、短いディレクターズカット版だよ! どうしよっかなぁ。

 いつになるかはわかりませんが、いつか必ずじっくり語ってみますわよ! お待ちになってね~!!
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生きててよかった日本初 DVD化! でもむっちゃ眠たい!! ~映画『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』~

2014年07月04日 23時20分19秒 | ふつうじゃない映画
『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(1974年9月公開 アメリカ・イギリス合作 83分)

監督    …… ソール=バス(54歳 1996年没)
脚本    …… メイヨ=サイモン
音楽    …… ブライアン=ガスコーン
撮影    …… ディック=ブッシュ
編集    …… ウィリー=ケンプレン
製作・配給 …… パラマウント映画


 『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(原題『 Phase IV』)は、世界的グラフィックデザイナーとして活躍したソール=バスが監督した唯一の長編映画作品である。バスは1968年に、短編映画作品『 Why Man Creates(なぜ人間は創造するのか)』で第41回アカデミー賞・短編ドキュメンタリー映画賞を受賞していたが、その卓越した映像演出とアリたちの不気味な存在感で、自然の脅威について警鐘を鳴らす本作品を生み出した。
 日本では劇場未公開となったが、ビデオソフトが発売され、テレビでも数回放送された。その際のタイトルは『戦慄!昆虫パニック 砂漠の殺人生物大襲来』、『昆虫パニック』、『 SF 超頭脳アリの王国 砂漠の殺人生物』。
 タイトルの「フェイズ(Phase)」は「局面」「段階」の意味で、アリと人類の戦いが「フェイズ1」から「フェイズ4」まで4段階に分けて描かれる。

 作品の最重要ポイントであるアリの撮影については、ハリウッドにおけるマクロ撮影の第一人者ケン=ミドルハムが起用された。ミドルハムは、1971年にドキュメンタリー映画『大自然の闘争 驚異の昆虫世界』で撮影を担当していた。
 ミドルハムは、超クローズアップのレンズや、ハイスピード撮影、遠隔撮影の装置を駆使し、脚本に書かれたドラマをすべて本物のアリを使って撮影している。
 ロケーション撮影はアフリカのケニヤで、スタジオ撮影はイギリス・ロンドンのパインウッド・スタジオでイギリス人スタッフを中心にして行われた。

 完成した作品の、思弁的なストーリーと美しい映像は、単純明快で商業的な動物パニックホラーを望んでいたパラマウント映画の期待とは正反対のもので、特に『2001年宇宙の旅』(1968年)を思わせる「人類進化のヴィジョン」が描かれていたという結末部分にパラマウント側は猛反対した。同社は監督であるはずのバスから作品の編集権を取り上げ、最後のフィルム1巻ぶんをカットして、93分あった作品を83分に短縮。宣伝広告やポスターにもバス自身は関わることができず、先行公開されたヨーロッパではトリエステ国際 SF映画祭でグランプリを受賞したにも関わらず、アメリカではわずかな館数で公開されるのみとなった。
 現在の83分版のエンディングのあとに、人類進化のヴィジョンを示す映像があったという断片は予告編にわずかに残っており、そこには本編で使われていない、顔のない奇怪な人物の映像が一瞬だけ映されている。


あらすじ
 宇宙で突如として発生した不可解な現象を契機に、アメリカ・アリゾナ州の砂漠地帯に奇妙な巨大構造物やミステリーサークルが出現するようになる。
 興味を持った生物学者のチームが研究・対策用の隔離ドームを建造して調査したところ、これらが飛躍的に知性の発達した新種アリの集団によって造られたものであることが判明する。さらに、アリたちは人類と交信することを望んでいた。彼らは人類による数々の実験に対する怒りを示していたのだ……


おもな登場人物
ジェイムズ=レスコー    …… マイケル=マーフィ(36歳)
 暗号・言語解読に精通した生物学者。カリフォルニア州サンディエゴの海軍海底センターに所属している。

アーネスト=ホッブズ博士  …… ナイジェル=ダヴェンポート(46歳 2013年没)
 イギリス人の生物学者。アリの生態系で発生した異常をいち早く察知し、レスコーを助手に選ぶ。

ケンドラ=エルドリッジ   …… リン=フレデリック(20歳 1994年没)
 アリの襲撃から奇跡的に助かり、隔離ドームに避難してきた少女。

エルドリッジ氏       …… アラン=ギフォード
 ケンドラの祖父。農家。

ミルドレッド=エルドリッジ …… ヘレン=ホートン(46歳)
 ケンドラの祖母。

クリート          …… ロバート=ヘンダーソン
 エルドリッジ家の農場で働く男。


《はいはい途中途中》
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自己研鑽のためですが、なにか!?  映画『プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち』 S極

2014年04月18日 09時31分55秒 | ふつうじゃない映画
《前回のあらすじ》
 春の陽気のなせるわざか、はたまた前世よりの因縁か!? 30代なかばにして単身、映画『プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち』鑑賞に挑むことになった男・そうだい!!
 果たして、徒手空拳、ほぼプリキュアお初という無謀な状態の彼の眼前に広がった、めくるめく夢の祭典の精華なるは、いかに!?


 今回、どうせ観るならそこまで楽しみたいんだけど、とひそかに期待していたのが、プリキュア映画といえば……とつとに有名な「劇場の子どもたちがミラクルライトを振って『プリキュアがんばれー!!』と無心に応援する」一大ムーヴメントでした。すでに成人してからも15年ちかい時間が経過し、完全に醒めきった大人になってしまった私からしてみたら、そのエネルギーの純粋さに映画の内容なんかそっちのけで号泣してしまいそうになるズルい演出だと思っていたんですが、幸か不幸か、今回そのへんの熱気を肌で感じることはかないませんでした。

 といいますのも、私が鑑賞したのがすでに映画封切りから1ヶ月ちかく経とうかとしていた4月11日だったため(公開は3月15日から)、ぼちぼち予告編が始まろうかとしているギリギリの時間に駆けつけたはずの私がチケットを購入した際にも、座る場所を選ぶときに画面にうつった座席表はびっくりするほどの「まっちろけっけ」。ど真ん中の席を余裕で独り占めできる状況になっていたのです。しかも、春休みが終わったばっかりの平日まっぴるまでしたからね。そりゃあお客さんも少ないですわ。

 すわ、いつぞや今は亡き映画館「シネマックス千葉」で私が体験した、生涯たった一度の「客オレひとりシアター」の再来か!? と内心ドキドキしながらスクリーンに向かったのですが、いざ入場してみると、実際には座席の最後列に3組くらいの親子連れがいたので、完全に孤独なプリキュア初体験にはならずにすみました。にしても、だいたいキャパ200人くらいの座席の真ん中にすわって、前方にはだぁれもいなかったんでね……随分とぜいたくなホームシアター感覚にさせていただきました。

 予告編では、つい先週に鑑賞した同じ東映系の映画『昭和ライダー対平成ライダー』とほぼいっしょの『クレヨンしんちゃん』や『聖闘士聖矢』といったラインナップが流れましたが、そのあとに、おそらくはこのTジョイ蘇我ならではの宣伝かと思われる、『鳳神ヤツルギ』とかいう千葉県木更津市のご当地ヒーローの映画の予告編があったのが印象的でした。これからプリキュアを観るっていうのに、女児向けの予告編が『アイカツ!』しかないっていうのはどんなもんなのだろうか。それだって正確にはプリキュアの客層とはズレてるしね。そりゃあたしゃ確かにオッサンですけど、全体的にメインのお客さん(未就学女児)のテンションがだだ下がりになっていくことが容易に推察できる約20分間には大いに疑問を感じました。
 でも私自身は、その映画館ならではの近在の結婚式場とか自動車教習所のチープなコマーシャル映像は大好きなんですけどね! なんかいいじゃないですか、ああいうの。TV のコマーシャルに比べてものすごく奥ゆかしいんですよね、その「ちょっとお邪魔して宣伝させていただいております。」感が。


 さて、そうしていよいよ映画『 NS3』本編の開始となったわけなのですが、序盤から驚かされたのが、入場前に子どもたちに配られた小さなペンライト「ミラクルドリームライト」の使用法が、映画の登場キャラクター「妖精学校の先生」によって実にスムースに説明されるくだりから本編が始まっていたことですね。いや、もっと精確に言うのならば、「先生がライトの使用法を、妖精学校の生徒のグレルとエンエンに説明していた」ということに私は驚かされました。

 私がこの特典ペンライト演出について勝手に予想していたのは、まず本編開始前に登場キャラクターが「劇場にいる子どもたち」に直接呼びかけて使用法を説明し、本編のバトルシーンの盛り上がりなどでまたそのキャラクターが出てきて合図をするか、もしくは字幕や点滅サインなどでライト応援のきっかけが指示されるのではないかということでした。そして、ライトがもらえなかった以上、れっきとしたオッサンである私はやや「かやのそと」な感覚をもちながらその演出を眺めるのだろうな、と考えていたのです。

 ところが、ライトが単なる特典グッズではなく、映画本編のキャラクターが持っている完全な「小道具」になっている以上、映画の中でライトが使用されるのはまったく自然なことになり、「映画の世界」のキャラクターが「現実の世界」にいる子どもたちにいろいろな指示を出すという不自然な演出は消滅することになるのです。と同時に、グレルとエンエンのライト使用によってその応援が物語上の必要作業になるため、子どもたちがライトを振る「恥ずかしさ」もだいぶ軽減されるはずなのです。映画の中のキャラクターが先陣きって「プリキュアがんばれー!!」と大声で叫んでくれるわけですからね。しかもご丁寧なことに、実際の応援シーンでは妖精たちに加えて「映画の中に登場する子どもたち」までもが全員、手にライトを持って歓声をあげてくれていました。要はこれにならえばいいってわけ! う~ん、That's いたれりつくせり!

 まさに、劇場特典による演出と本編とが実にたくみに融合した「完成形」。こうなってくると、この『 NS3』にいたるまでに積み重ねられてきたプリキュア映画シリーズの歴代ライト演出の流れも観たくなってきますね。こういうのの源流は、やっぱり『突撃!ヒューマン!!』(1972年)になるんですかね……思えば遠くへ来たもんだ。
 世間じゃあ3Dだなんだとか言ってますけど、それに対して「劇場でみんなでペンライトを振る」という、実にレトロで家族的な演出を遵守し続けているプリキュアシリーズ。なんかいいなぁ。

 まぁ、私が観た回ではほんとに「プリキュアがんばれー!」と声を上げる子どもはひとりもいなかったんですけれどもね……しょうがねぇよ、200人サイズの劇場で3人しかいなかったんですもんね、ライト持ってんの。気持ちはよくわかりますが、そこは子どもならではの無謀なアパッチ魂で奮起していただきたかった。そしたら私もよろこんで加勢したのに! そういうのって、やったら捕まるんですかね。


 さて、妖精学校の先生と生徒のやりとりから、いよいよオールスター映画名物の異様に熱いテーマソング『プリキュア 永遠のともだち』が流れて「うわー始まった!」という気分がノッてきました。とにかくスクリーンで聴くドラムとギターの激しさがハンパありません!!
 だいたい、2012年の「NewStage シリーズ」第1作から唄い継がれてきた主題歌のタイトルがそのままサブタイトルになっているのですから、今回の『 NS3』における「ついに完結!」というテンションの高まりはものすごいものがありますね。
 それにしても、『フレッシュプリキュア!』の4人組は前作オープニングからダンスの稽古ばっかりだな! ぜんぜんフレッシュじゃない練習の積み重ねの上に真のフレッシュがある……パフォーマーの鑑だ、あんたら!!

 主題歌が終わって本編に入ると、物語は悪夢にうなされる少女・奈美と、彼女を夢の世界で救ってくれた妖精の母子マアムとユメタの出会いから始まっていきます。「悪夢を食べてくれる」という伝説の妖怪「獏」の性質を持ち、外見は実在の動物バクをかわいくデフォルメしたような姿の妖精母子なのですが、マアムの表情にはなぜか邪悪な笑みが浮かび、奈美はユメタと楽しく遊ぶ夢の世界にい続けることになります。

 まず、なにはなくともこの冒頭で気になってしまうのは、見た目からして完全に、劇場に来る客層の中でもメインターゲットに照準を合わせたとしか思えない、3~4歳くらいの少女・奈美の声が、やけに低くて大人っぽい違和感に満ちたものになっていることでした。
 これはちょっとミスキャストとかいうレベルの問題ではなくて、そもそもまず声優さんじゃないよね、その声やってる人? と聴きながらいぶかしんでいたのですが、エンディングクレジットで確認するまでもなく、この奈美を担当した方がゴーリキーさんだかゴーゴリさんだかいう、「今いちばん旬だと誰かが言っている」女優さんであることは察することができました。
 うわさにたがわぬゴリ押しだねぇ~……いや、3~4歳の子どもなんか、プロの声優さんだって演じるのは至難の業でしょうよ。そこの枠を、なぜに低音の彼女が担当しなければならなかったのだろうか!?

 別に私自身は、そのソルジェニーツィンあやめさんとかいう女優さんのことは嫌いではありません。嫌いじゃないんですが、そんな私が観ても、今回のこの映画において奈美の役を演じた彼女は邪魔としか思えないのです。その頭身でその「バスよりのアルト声」はないだろう!!
 今回のこの起用を見て、私はかの鎌倉幕府第三代征夷大将軍・源実朝が京の朝廷から受けたという一種の呪法「官打ち」を強く想起しました。
 「官打ち」というのは、ある人物に対して、その家柄に相応する以上の官位をわざと与えて周囲の空気を批判的なものにするという、実にいやらしい出世人事のことで、実際に、武士として史上初めて右大臣(ざっくりたとえれば副総理大臣)に叙任された実朝は、公家・武家の両陣営から身分不相応であると非難される板ばさみの状態に陥り、28歳の若さで暗殺の憂き目を見ています。呪いと言うにはあまりにもリアルな攻撃法だ! まぁパワハラのひとつの形ですよね。

 つまり、彼女にあんな能力不相応な難役を与えて違和感必至、批判必至な状況にした「上の事情」がいけないと思うんです。そんなことしたってプリキュア10周年のお祭ムードに水をさすだけなんですけど。
 別に、彼女が中川翔子さんみたいにプリキュアシリーズに特別な情熱を持っていて、「どんな役でもやるから出させて!」って言ってたわけでもないんでしょう? 中川さんだって地声はなかなかの低音ですが、おそらくこういう役をもらったら3~4歳の女児を演じるための最大限のノド調整をもってのぞむでしょう。でも、私が聴いた限り、あのプーシキンあやめさんはなんの手も打たずに奈美を地声で演じていました。なんなの、その「仕事で呼ばれたから出ました」感!?

 とにかく、物語の大事な大事な導入部分、かつまた「観ている子どもたちと登場人物との一体化」を担うべきだったゲストヒロイン・奈美の声優キャスティングは完全に失敗だと感じたんですよねぇ! のっけけからつまづいちゃった感が満点なんですが、大丈夫か、『 NS3』!?

 ところが、そのへんの不安を一気にどうでもよくしてしまったのが、夢の妖精マアム役への、あの平野文さんの大抜擢だったのでした。

 うをを、平野文、平野文! 「あや」じゃなくて「ふみ」のほう!!

 平野文さんといえば、それはもう言わずと知れた「20世紀最大の押しかけ女房系アニメヒロイン」こと、SF ラブコメマンガ『うる星やつら』(1978~87年 原作・高橋留美子、アニメシリーズは1981~なんと2008年)の鬼型宇宙人女子・ラムちゃんを演じたことで永久的にその名が語り伝えられるべき大女優さんであらせられるわけなのですが(あと『平成教育委員会』のナレーション)、そんな彼女が、今作ではなにやら邪悪な笑みをたたえる夢の妖精を演じるのです。
 ユメタの母親であるという立場を考えるまでもなく、彼女の声はわが子へのちょっと過保護気味な愛情と、わが子のためならば手段を選ばずに現実世界の子どもたちを夢の中に誘拐してしまう冷酷さを使い分ける「おこるとコワ~いお母さん」をとても魅力的に演じていました。ラムちゃんも、なんの無理もなく母親の声ができる時代になったのねぇ。

 ところで、平野文さんが「夢の妖精」を演じるという今回のキャスティングに、「そ~きたのか!」と内心でニヤリとしてしまうお父さんお母さんも(大きなお友だちも)、かなりいらっしゃったのではないのでしょうか。
 そう、夢の妖精と平野さん……というかラムちゃんというのならば、否が応でもすぐに連想してしまうのが、他でもない『うる星やつら』の劇場版第2作、かの押井守監督による大名作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年公開)なのであります。

 この『ビューティフル・ドリーマー』には、寝ている人間に自由自在に夢を見させるという、赤いシルクハットに赤い燕尾服で、常にサングラスをかけている太った中年男性の姿をした妖怪「夢邪鬼(むじゃき)」がゲストキャラクターとして登場し(演・藤岡琢也)、ラムちゃんの理想の夢世界を具現化させようとするがために、その虚構に疑問を抱いた周囲のレギュラーキャラクターたちを次々に抹消させていくという手段をとります。その過程で夢邪鬼は、いつもラムちゃんからの求愛をむげにし続けているツンデレ地球人の鑑・諸星あたるも邪魔な存在として夢の世界から追放しようとしますが、あたるは夢邪鬼の使役する怪獣「バク」を利用して一計を案じ……というのが、映画のだいたいの筋になっていま……すかね!?
 私が『ビューティフル・ドリーマー』をしっかり観たのが大学生時代、今から15年近く前のことですので、この現実と虚構とが実に押井監督っぽくないまぜになった難解な作品は、なかなか説明するのがむずかしいのよね! いつか DVD(Blu-ray じゃないのが哀しい)を買ってしっかり見直したいという気持ちはやまやまなのですが、なにしろたっけぇし……

 ともかく、「夢とは何か」や「理想とは何か」、そして、「人間がつらい現実を生きるのはなんのためなのか」というあたりを強く問う……というか、観ているだけで勝手にそういうあたりに考えがいってしまう『ビューティフル・ドリーマー』と今回の『 NS3』は、計算式に組み込まれる変数こそ違っているものの、「人間」と「夢」が対峙しているという構図自体はまるで兄弟ででもあるかのように似通ったものがあるのです。そして、かつて30年前の作品で人間側の被害者だった(地球人じゃないけど)平野さんが、今回は堂々と夢の世界の加害者になっておられるという、この輪廻!! もうワクワクしますねぇ。

 とはいえ、『ビューティフル・ドリーマー』はあくまでも「大人向け」に作られた、少なくとも監督は子ども向けに作っている気はさらさらなかった(ついでに言えば、『うる星やつら』ファン向けに作っている気もなさそうなもんだから実に押井さんらしい)作品であったがゆえに、観客をブンブン振り落としかねない演出上の実験やなぞかけ、意図的な説明不足や「結局バッドエンド?」とも解釈できるラストなどの要素がふんだんに投下されていました。
 しかし、今回の『 NS3』はリスクをともなう冒険は絶対に許されない商業映画ですし、その中でも最もデリケートな就学前児童向け映画ですし、東映ドル箱シリーズのシメを飾る最終作ですし……こらも~プリキュアはん、えらいところを引き合いに出してきはりましたなぁ!!

 フィクション世界において、麻薬のような魅力を常にはなつ「現実×虚構」をテーマにしてしまった今作。プリキュアオールスターズは、この得体が知れないにもほどのある超難敵を相手にして、どのように「子どもでもわかる」明快無比な解決のみちを切り拓いてくれるというのでしょうか!?

 序盤で、一面の荒野となった悪夢の世界に迷い込んだ奈美を襲う怪物「悪夢獣」は、基本的に明るいグリーンの体色をして赤い蝶ネクタイをしたぬいぐるみのクマのようなポップなデザインをしており、「あ~くぅ~む~!」という鳴き声しか発さないために知性のようなものはあまり感じられませんが、どことなく憎めないかわいらしさがあります。悪夢の世界がただの荒野で、悪夢獣もあえてかわいいというのはプリキュアならではの観客への配慮なのでしょう。ここで無駄に悪夢のディティールに凝って、いたずらにトラウマを増やしても意味はないと! そういうのは『ジョジョの奇妙な冒険』の「デス・サーティーン」にまかせておきましょう。

 あっ! そういえば、最初に言った、私が生涯体験した唯一の「客がおれだけ」映画っていうのも、眠った人間を悪夢の世界にひきずりこんで惨殺する恐怖の殺人鬼フレディが出てくる『エルム街の悪夢 2010年リメイク版』でしたわ! うわ~、内容がつまんなすぎて記憶にぜんぜん残ってないよう!! 84年版はよくおぼえてるのに。

 ところで、この悪夢獣の声が、多少の加工はされているものの、明らかに女性のものであることはよくわかったのですが、「こういう最終作で敵の声をやってるんだから、けっこう有名な方がやってんのかな……」と思って聞き、「あくむ」の繰り返しだけなのに妙に聞き飽きないヴァリエーションの豊富さと、その尋常でないテンションの高さに、「ビッグネームでこんなに元気に声をはりあげられる女性っていうと、もう『あのひと』か田中真弓さんくらいしかいないんじゃないの……」と確信に近い思いをいだくようになり、エンディングクレジットであらためて感嘆してしまいました。

「悪夢獣 野沢雅子」

 やっぱり……もう、本編中でヒント出てたもんね! ユメタとたわむれる楽しい夢の世界で、人間ひとりが乗れるくらいのちっちゃな雲に乗ってた相田マナ(キュアハート)さんとか名もなき男子の乗り方が、直立して利き足を一歩前に出して少しかがむという完全な「きんとうんスタイル」になってたんだもの! プリキュアの作品世界でも『ドラゴンボール』は有名なのだろうか!? アニメの放送局が違うんですけど、ギリギリ裏番組じゃないから、まいっか!


 さて、そんなこんなで始まった『 NS3』本編ですが、悪夢獣に襲われた奈美をマアムとユメタの妖精母子が救出するも、なんともかんともぬぐいきれない自作自演ムード……? というひとこまをはさみつつも、妖精学校のグレルとエンエンが、新たにプリキュア教科書に記載するために「ハピネスチャージプリキュア!」となった2人組を探すために地球を訪れるという流れでストーリーは進んでいきます。
 グレルとエンエンは、先に地球に降り立って「プリキュア付き妖精」の栄誉を勝ち取っていた先輩キャンディに連絡をとって、「ハピネス組」の1コ先輩である「ドキドキ!プリキュア」の5人組とともに「ハピネス組」のいる「ぴかりが丘」(たぶん都内某所)の「ブルースカイ王国大使館」におもむくわけなのですが、そこには原因不明の「覚めない睡眠」状態となって、パートナーである白雪ひめ(キュアプリンセス)に顔面にサインペンで落書きをされるという辱めを受ける愛乃めぐみ(キュアラブリー)の姿が! 銀幕デビューののっけから身体を張るガテン系ピンクの心意気!!

 というわけで、物語の前半は活動不能となっているめぐみを救出する先輩「ドキドキ!組」が主人公となり、めぐみの昏睡が、最近ちまたで頻発しているという幼女の「寝たまま起きない病」と同じ原因であると察知した地球の精霊ブルーさんの超能力によって、めぐみを含めた6名はとっとと夢の世界に潜入することに成功します。
 この急転直下、立て板に水を流すようなストーリーの進みの速さ!! さすがは子ども向け作品。ともかくブルーさんというイケメンの能力の全知全能っぷりがハンパありません。「夢の世界に連れ去られた少女たち」という、『ウルトラQ』に出てきてもおかしくなさそうなどうしようもない異常事態を一瞬にして解決しちゃうんだもんね! ブルーブルー、って、こやつまさか、偉大なるあの未来型ネコ型ロボットではあるまいな!?

 さて、首尾よくユメタと子どもたちがたわむれる夢の世界に入り込み、巨大な浮遊するフグに乗っかって満面の笑みを浮かべるめぐみの姿を発見する6名。現実世界の混乱をよそに、まるで「伝統ある大ヒットアニメシリーズ最新作の主人公」という、想像するだにはだしで逃げ出したくなる超重圧から解放されたかのような幸福な笑顔をたたえるめぐみを、きわめて冷静な表情で見つめる「ドキドキ!組」の姿が非常に印象的です。非情な先輩だと恨むやも知れんが、このまま貴様を降板させるわけにはいかんのだ……観念して現実のハードスケジュールに戻れい!! ここで初めて対面しためぐみと相田マナ(先代主人公)との視線の交錯がとても味わい深いですね。

 と同時に、6名に同行していたグレルとエンエンは、かつて妖精学校に在籍していて、自身の「地球の人々を悪夢から救う立派な妖精になる」という夢を実現させるために自主退学していたユメタに出くわし、なぜユメタが眠り続ける子どもたちといっしょにいるのかと疑問を持ちます。2人(匹)に見つけられて気まずそうな表情を浮かべるユメタ。
 ところが、夢の世界への侵入者を目ざとく発見したマアムは、冒頭では敵だったはずの悪夢獣をみずから召喚して彼女たちを排除しようとします。マアムは、息子ユメタの遊び友だちを集めるために子どもたちを連れ去っていたのだった!

 ここでさっそく、「ドキドキ!組」の5名がオール変身して悪夢獣との総力戦を展開する第1のバトルアクションが始まります。さすがは先代チーム、つい2ヶ月前までバリバリ現役だっただけはある、あぶらののりきった余裕の連携を見せて悪夢獣を殲滅せんと戦います。
 だがしかし、悪夢獣はまるでエヴァンゲリオン量産型ででもあるかのように、やられてもやられてもまた復活して襲いかかってくるばかり! このエンドレスなのれんに腕押し感が、まさしく悪夢ですね。さすがに脳みそとか骨は露出してませんけどね。
 それもそのはず、この夢の世界の主はあくまでマアムなのであり、そのマアムの使役する悪夢獣もまた、決して外部の人間には滅ぼすことのできない不滅の存在なのでした。あえなくめぐみを押しつけられて現実の世界に強制送還されるプリキュアさま御一行。

 ここらへんの「異次元」としての夢の世界と、その主であるマアムの反則な無敵感を見ますと、私としてはどうしても、あの『ウルトラマンA 』(1972~73年)で、「自分たちが住んでいる以外の次元も征服した~い!」という欲ばりにも程のある情熱とねちっこさをもって3次元の地球に殴り込みをかけてきたウルトラシリーズ初の連続悪役キャラ「異次元人ヤプール」を連想してしまいます。なんとも理解しがたい狂気を感じさせる不気味な存在でしたねぇ!
 しかし、ヤプールは今回の『 NS3』におけるブルーさんのような「反則を上回る反則」をもって異次元にやってきたウルトラマンエースによってけっこうあっさりと壊滅させられてしまいました。まぁ、完全に滅んだわけじゃないんですけど……
 たぶんあれは、やりようによっては自分たちの次元のルールでエースをいかようにも料理できたんでしょうけど、わざわざ自分たちのホームまでやって来てくれたエースに最大限の敬意をはらう形で、「巨大ヤプールになって肉弾戦」というハンディキャップマッチにあえて設定してくれたんでしょうね! そうじゃなきゃ、あんなに簡単に負けるわけねぇって!! うん……たぶん。だいたい「知能(悪知恵)」が主要武器なんですからね、ヤプール人は。土壇場で、なれない紳士的対応なんか見せちゃうから大負けしたんでしょう。


 と、まぁ……ね。

 なんでプリキュアからヤプール人に脱線するんだという自戒を込めまして、『 NS3』を観た感想は、次回でいい加減におしまいにしたいと思いますです、はい。

 感想にもなってねぇよ、ただの連想ゲームじゃねぇか~と、ため息つきける春の宵かな~。反省の色なっしんぐ。
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不思議の国はだれのもの? ~城山羊の会『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』~

2013年12月04日 09時44分12秒 | ふつうじゃない映画
 ぺいぺいど~もこんにちは、そうだいでございま~っす。みなさま、ご機嫌ようお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?
 千葉はもう、最近ずっとお天気続きでねぇ。寒いながらも実に気持ちのいい晴天が続いております。なんか、12月らしくない陽気ではあるのですが、こういう空の下、いつもよりもだいぶ遅めに出勤させていただけるのもありがたいことで。今日もこれから、がんばるぞっと。

 さて、今回も前回に引き続きまして、12月のドあたまに観たお芝居2本立ての、後半戦の1本についてでございます。
 いや~、このお芝居は楽しみにしてたのよ、ほんと!


城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第15回公演 『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(作&演出・山内ケンジ 三鷹市芸術文化センター・星のホール 2013年11月29日~12月8日)


 私、城山羊の会さんの作品が好きなんですよねぇ、ほんと!
 と言いつつも、実は前回公演の、6月に池袋で上演された『効率の優先』を完全に見逃してしまったという痛恨の経緯もありまして、今回ばかりはなんとしてでも観なければ年を越せないという思いがあったわけなのでありました。
 そういえば、おととしの年末は城山羊の会主宰の山内ケンジさん監督の映画『ミツコ感覚』を観たし、去年の今ごろも第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(東京・こまばアゴラ劇場)を観ていましたっけ。もうわたくしにとりましては、山内ワールドの拝観は年末の風物詩よ、これ!

 前回の内容の続きになりますが、早くも暗くなった夕方に、調布市は京王線仙川駅近くのせんがわ劇場を出発した私は、だいたい北西に向かうような進路をたどり約6キロ、三鷹市の JR三鷹駅からは南に1キロくらいいったところにある三鷹市芸術文化センターに到着しました。私にしては非常に珍しいことに道に迷うこともなく、だいたい1時間半もしないうちにたどり着いちゃったから、駅前の吉野家とかマックで1時間ちかくヒマをつぶすことになっちった。これがさぁ、バカ正直に電車に乗っちゃうと、最短でも仙川から明治大学前駅まで戻ってから乗り換えなくちゃなんなくなるんでねぇ。ケチケチな私はもう、その日の2本立ての計画を考えた時点で「徒歩!」の一択だったわけでありまして。

 この劇場は、私はかつて4年前にも同じ城山羊の会さんの公演『新しい男』を観たことがあって、すごく印象の強い場所なんですが、すぐ近くに、かの太宰治の墓所のある禅林寺という大きなお寺さまがあるんですよね。実はわたくし、今回の観劇にあたって黒マントを着こんで外出していたのですが、ここ三鷹は、「マント姿の著名人といえば?」というクエスチョンで天本英世さんと並んで連想されるという太宰さんのお膝元ということで、すそをひらめかせる足どりにもついつい力が入ってしまいます。なんの脈絡もない発作的な再確認ですが、我が『長岡京エイリアン』は男性のマント着用の一般ファッション化を全面的に推進いたします。
 そういえば、今回歩いて三鷹に入って、三鷹通りという最後の道を北上していたところ、あきらかにそういう土地柄を意識したと思われる、本棚に囲まれたカフェのような一軒家があって、暖かそうな光のもれる窓ガラスからふと中をのぞいてみたところ、短髪でメガネをかけたセーター姿の若い女性がテーブルに座っており、そのかたわらには『女生徒』の単行本が置かれているという、アホみたいに完成された光景が展開されていたので……さっさと通りすぎました。なんだ、あの店……まぁ、『ドラクエ』のミミックみたいな罠のたぐいだろう。東京はおそろしかとこばい!

 夜7時になり、公演の開場時間になったので劇場に向かったところ、ホールはすでにやや男性多めぎみな人だかりでにぎわっており、私の見間違いでなければ、城山羊の会さんの公演に主演されたこともある俳優の原金太郎さんが芸術文化センターの入口に偶然立っていらっしゃったので、驚いて思わず会釈をしてしまいました。面識はないけど、なんか頭さげちゃったよ……いや、その眼力に思わず、あいさつしないと中に入れないような気がしてさぁ。

 星のホールに入ると、広い空間の中には、今回の公演のために設営されたと思われる、舞台とそれを半円で取り巻く6段ぶんくらいの客席がワンセットで独立してできあがっていました。キャパシティは100~120名ほど?
 私は先ほどにも申したとおりに、それとほぼ同じ客席配置になっていたと記憶する『新しい男』しか観劇していないので、「おぉ、城山羊の会さんの公演だぞ、これは!」くらいにしか感じていなかったのですが、たまたま私の座席の後列にいらっしゃった中年男性のお客さんは、開演前に隣のお連れさんに向かって、「これ、もともとあるホールの座席を全部とっぱらって客席組んでんだよ、この公演のために! こだわりだねぇ。採算は考えてないんだろうなぁ!」とつぶやいてしきりに感心しておられていました。この方、私の見間違いでなければ(2回目)、本広克行監督っぽかったんですが……見間違いでもなんでもいっか。ふくよかな中年男性なんて、東京にゃ星の数ほどいるし。

 さてその舞台なんですが、私がこれまでとびとびで観た城山羊の会さんの公演は、実に5作中4作が、登場人物のうちの誰かの「家の中」が舞台となった一場ものとなっており、なんと今回も、物語の渦中にたたきこまれることになる、つい最近に夫を亡くしたばかりの中年女性ミドリ(演・ご存じ石橋けい)と、その子であるミツヒコ(演・ふじきみつ彦)と妙子(演・岸井ゆきの)の兄妹が3人で暮らす家のキッチンルームになっていました。別に城山羊の会さんも家を舞台にした作品だけを上演しているわけじゃないはずなんですが……なんで私が観る作品は家が多いのだろうか? つけ加えれば、演出の山内ケンジさんが監督した映画『ミツコ感覚』(2011年)でも、ドラマティックな事件はことごとく家の中で発生してましたっけ。

 でも、私はこの偶然、とってもありがたく受けとめているところがあって、私が勝手にそう理解しているだけなんですが、城山羊の会さんの作品の持つ魔力の核心に必ずある、「予期しなかった異物の闖入(ちんにゅう)を、自分でも予期しなかったヘンな姿勢で受け入れてしまう人々のおもしろさと強さ」みたいな部分が、いちばんわかりやすくむき出しになる空間こそが、「家の中」だと思うんですね。家族の誰にとってもプライベートな空間なんだけど、他の家族やお客さんが来た瞬間に、なしくずしでパブリックな空間になっちゃうっていう、そのもろさと緊張感。
 物語が進んでいくと、今回の公演の舞台は中盤で、それ自体は転換することはないものの、別の登場人物たちの「家の中」、つまりはミドリの働くクラブバー(の皮をかぶった性風俗店)のママ(演・原田麻由)とその夫である店長(演・岩谷健司)、そしてその子のテルユキ(演・成瀬正太郎)の生活する、バーの奥にある自宅部分に変わるのですが、そこでも攻守ところをかえた「うち」と「そと」の闘いが展開されることになります。

 私が観た中でいう前回の公演『あの山の稜線が崩れてゆく』は、まぁ私個人の印象をざっくりまとめれば「お父さんは大変なんだゾ。」という涙なみだの闘争の物語であり、ある平凡な家庭に忽然として到来した「顛倒(てんとう)」の嵐、つまりはある人々の周囲を形づくっていたルールや価値観がことごとく180°転換してしまうという災厄の物語だったと思います。
 そして、今回の『身の引きしまる思い』は、その作品のかなりストレートな「続編」なのではなかろうか、と私は感じました。

 とは言いましても、これらの2作品は別に共通した登場人物が出てくるわけでもないし、今回の作品で『あの山の稜線が崩れてゆく』の内容についての言及がある、ということでもありません。

 しかし、『あの山の稜線が崩れてゆく』は、ある「お父さん」のバカバカしくも美しい「旅立ち」によって物語がしめくくられ、今回の『身の引きしまる思い』は、「お父さん」という存在がフッと消失してしまって間もない、残された家族に顛倒の矛先が向けられていく物語なのでした。これが続編でなくて、なにが続編なのかと! どちらの作品も母親を石橋さんが演じていて、娘を岸井さんが演じているという共通項は、今さら申すまでもありませんね(申してるけど)。

 お父さんがいなくなってしまった家、というコンセプトは舞台美術にも如実に反映されており、キッチンルームの奥にはかなり場違いな感じで、お父さんの実ににこやかな表情が写った遺影と位牌が置かれているのはもちろんのこと、おそらくは「おしゃれ」という理由で採用されていたと思われるコンクリートうちっぱなし風の灰色の壁が、いやおうもなく家庭内の「なにかの不在」を知らしめる冷たさをはなっています。
 生前、自分がこんなに早く死ぬとは思いもよらなかったお父さんは、ご自分のはなつ暖かみでいくらでもカバーできると思っていらっしゃったのでしょうが、そんなお父さんがいなくなってしまったコンクリートの壁は、ひたすら暗く3人の体温を吸いとるばかり。いかにも城山羊の会さんらしい顛倒ワールドを招いてしまう素地はすっかりできあがってしまいました。実に恐ろしい! ゾクゾクしますね~☆


 この『身の引きしまる思い』は、非常につまんなくまとめてしまえば、父親の不在によってバラバラになってしまった家族の崩壊、崩壊、ちょい再生してまた崩壊、の物語です。

 でも、そこを単なるサディスティックな不幸博覧会にしないのが城山羊の会さんの城山羊の会さんたるゆえんで、いつもあったはずの周囲の環境のひとつひとつが顛倒していけばいくほど、母と兄妹の3人はどんどんそれに対応して強く「変貌」をとげていき、まぁそれは過去にあった「あたたかい家庭」とはかけ離れた現状を呈してしまうわけなのですが、3人とも、新しい世界をそれぞれなりに生き抜いていくことになるのです。そこらへんの「絶望からの起死回生ジャンプ」の躍動感、そこが私はたまらないんですよね!

 その点、いやおうなく来襲する異常事態の数々に直面する石橋・ふじき・岸井トリオは、基本的にはテンションをガタ落ちにさせていきながらも、その眼光だけは鋭敏にさせていき、ついには世間体だ関係性だというところをガン無視した「じぶん!」をさらけ出していく城山羊の会おなじみのメタモルフォーゼを非常に細密に演じきっていたと思います。
 今回、おそらくは30歳前後と20歳前後の2人の子を持つ、外見の異常に若い母を演じた石橋さんは思ったよりも出ずっぱりではなかったのですが、その、キッチンの奥にあるなんだかよくわかんないスープをひたすらかきまわす後姿は、顔を見せずとも女優・石橋けいとしての充分すぎるほどのお仕事をされていたと感じ入りました。あの、方向性のさだまっていない世間全体へのルサンチマン! 「さわらぬ神にたたりなし」ということわざ、あれは絶対に男が考えついた言葉だわ……そういう意味のない確信をいだかせてくれる名演でした。


 そういった感じでまぁ、家族に黙っていた秘密がバレたり、嫌な感じの交友関係ができたり、恋人ができたり、家族のセックス的なものを見ちゃったり……怒涛のごとき事件の数々を経験していく主人公一家の一大航海記。そういう視点からだけでも、『身の引きしまる思い』は十二分におもしろい、演技合戦と緻密なセリフや空気感が楽しめるわけなのですが、そのいっぽうで、今回の公演は、そういった顛倒を家族におよぼしていくお邪魔虫的な存在の周囲の人々も、これまで以上に磨きのかかった異様さで、活き活きと跳梁跋扈していたと感じました。

 まずはなんといっても、城山羊の会の常連俳優である岡部たかしさん演じる、クラブバーのバーテン! バーテンであるために、出演中ずっとフォーマルな黒ズボンと黒ベスト、白ワイシャツを着ているわけなのですが、バーに勤務しているホステスのみすず(演・島田桃依)とのただれた肉体関係(夫婦だからいいですけど)といい、口をつくたびに宙を舞う「いやぁ~、そりゃ、まぁ……(首をカックンと動かして)ねぇ?」というような、責任放棄もはなはだしい配合意味成分0パーセントのセリフといい、しっかりした外見だからこそ際立つうさんくささが素晴らしいキャラクターになっていたと思いました。物語上はいろんな人たちにヘーコラしているものの、実はいちばん自由で、いちばん高い場所から自分以外の面々を眺めてうすら笑いを浮かべているという、ヨーロッパの歴史的建築物のガーゴイル(怪物像)みたいな存在ですね。体型もエヴァンゲリオン参号機みたいだし!


 さて、今回の『身の引きしまる思い』を観てみたときに、最も印象に残るキャラクターは誰だったのか? ということを考えてみると、それはもう、ある意味では主人公一家の崩壊の最大の元凶となった、よくわからない強大な威圧感と財力をもってすべての登場人物を戦慄させる悪魔のような存在である、クラブバーのお得意さまでパトロンでもある謎の男・赤井(演・KONTA)ということになるでしょう。

 これまでの城山羊の会さんの作品の中でも、生活感のない謎の塊のようなハプニング因子は必ず誰かが演じていたんじゃなかろうかと思えるのですが(『あの山の稜線が崩れてゆく』のうさんくさい弁護士夫妻とか)、今回の赤井ほどに、ミドリと妙子夫妻のどちらにも手を出そうとするわ、反抗するミツヒコには華麗な関節技をお見舞いして泣かせるわという傍若無人な振る舞いを展開する、正真正銘の「悪魔みたいな奴」はいなかったのではないのでしょうか。
 悪魔、つまり、「人らしくない全知全能」という点では、まったく逆の存在である「神」と言い換えても問題のない役柄だと思います。

 繰り返しになりますが、これまでの作品では、いくら顛倒の事象を引き起こしても、周囲の人間が主人公(たち)の、変貌した世界の中での生き方の「最終選択」にまで干渉するという事態はありませんでした。そこは現実世界のような残酷なリアリティで、「そう選択したのはあなた自身ですからね。私たちに責任はありませんからね。」という、いやらしく大人な防衛線を張りめぐらせて、最後の一瞬間はただただ無言で傍観するだけだったキャラクターたちに対して、今回の赤井はあまりにも自由奔放で、前にしゃしゃり出てきて、現実味のまったくない素早さで、あっという間に主人公たちの未来を独占してしまうのです。

 物語のクライマックスは、家族のすべてを手中におさめてしまった赤井が、「古いロシア民謡だ。」とうそぶくバラード『身の引きしまる思い』のフルコーラスをアカペラでやけに堂々と唄いきり、母親を寝取った恨みとばかりに襲いかかる妙子を軽くいなし、そして……という、家族側から見れば惨憺たるバッドエンドと解釈してもいいような終幕となっています。


 はて、どうしてこんな荒削りなキャラクターが城山羊の会さんの緻密な作品に乱入してしまったのでしょうか?


 ここで確認しておかなければならないのは、今回のお芝居のタイトルの『身の引きしまる思い』の「前」に、小さいながらも明確に『ピカレスクロマン』という言葉が挿入されているというところなのではないのでしょうか。

 「ピカレスクロマン」、それはつまり、訳すれば「悪漢小説」ということになり、既存の社会のルールを無視し、さらにそれを破壊する「悪魔のような人でなし」による自伝ふうフィクションということになるでしょう。そういえば、今なにかとホットなニュース満載の東京都知事が太宰治をモデルに書いた妄想本のタイトルも、たしか『ピカレスク』でしたよね。神聖なる城山羊の会さんの作品のお話に、くっだらねぇ三文小説の名前を出してしまい失礼いたしました。


 えっ、っていうことは、つまり……この作品の主人公はあの家族じゃなくて、そこからいちばんかけ離れた存在だった、赤井なの!?


 そうか、そういうことだったのか!
 自分なりに、「あの終わり方」の奇妙な味わいの原因はなんなのだろうか? と考えていて、帰り道に私はハタとひざを打ちました。三鷹駅から中央線経由の総武線で千葉に向かったものですから、だいたい東中野をすぎたあたりで打ちました。

 なんだかんだ「お父さんがいないところから始まる」とか言いましたけど、やっぱり「お父さん」の物語なんじゃないの、これ!!

 整理してみれば、今回の作品において、ミドリの夫であり、ミツヒコ・妙子兄妹の父親である人物を演じたのは、赤井とはまったく別の俳優さんです。いちいちお名前は挙げませんが……俳優でしょ、あんな立派な演技してたら!? 舞台を観ることができなかった第11回公演『探索』の上演台本、読んでてよかった♪

 そのお父さんは、死亡という理由により序盤で早々に退場してしまいます。しかし、そのお父さんの遺影は、常に舞台のど真ん中に確かに存在していました。その遺影自体は単なる写真であるわけなのですが、「それを見る人間(しかも家族)」がいる以上、それは「物とはいいがたいなにか」になって生きている、とは言えないでしょうか?
 そして物語の中盤、舞台が転換してクラブバーの家の中に切り替わると、他人の家になった都合でお父さんの遺影は裏返しになり、ピカソの名作『泣く女』のレプリカっぽい絵の入った額縁になるんですが……

 そのシーンから、例の、動くたんびに「きちきち、きちきち……」という気持ちの悪い音をたてる、ピッチピチのレザージャケットを着込んだ赤井がさっそうと出現するワケよ!!

 これは偶然じゃないだろう。「もしかしたら、ぜんぶお父さんの脳内?」という可能性さえにおわせる結末となった『あの山の稜線が崩れてゆく』とは、一見まったく正反対のシチュエーションのようでありながらも、実は今回の『身の引きしまる思い』もまた、女たちの華麗な競演にいろどられつつ、その中核には「どうしようもない男のつかのまの彷徨」という、はかないにもほどのあるロマンがあったのでした。

 なるほど、だから赤井を演じたのは KONTAさんだったのか。
 物語の後半、どこからともなく登場したお父さんの亡霊と赤井が対峙する象徴的なシーンが出てくるのですが、ここで注目しなければならないのは、「死んでいるお父さん」でもなければ「現実味のない赤井」でもなく、お父さんの横から不実な母親をにらみつける「生きている妙子」であり、そんな娘を赤井にオベロ~ンと寄り添いながら見くだす「生きているミドリ」なのです。
 やはり城山羊の会の世界に生き残るのは、「生きている人間」! そういう意味で、赤井を演じる人物は赤井にリアリティを持たせる俳優では絶対にいけなかったんですな!

 どこまでも、自分でもあきれるほどに作者さんそっちのけで勝手気ままに解釈しているわけなんですが、そういう空想の翼をどこまでも広げさせてくれるキャンバス。これこそが城山羊の会さんの「一見不可解な世界」、その奥の深さと豊潤さだと、私は思うんです。今回もほんとうにごちそうさまでした……


 公演を観るたびに、その作中での精神的な追い込まれ方のハンパなさに、女優であると知りながらも思わず心配してしまう石橋けいさんなのですが、今回は「エロスの本質はその行為の過激さではなく、その行為に対するういういしさである。」という格言(私がテキトーに考えました)を如実に証明する顛倒によって、一気にこの物語における「女王さま」におさまってしまいました。
 そういう意味では、今回の作品は今まで石橋さんが担っていたような「受難ポジション」を、後半からは娘役の岸井さんがかっさらっていくという流れになっており、「母を憎む子」という、コッテコテの神話か『ハムレット』のような相関関係になっていたのがまた興味深かったですね。「母を憎む」のは兄貴のミツヒコも同じなんですが、具体的に行動しようとするぶん、妙子のほうがよっぽど男らしいわけで。

 神話的ね。「夢」というかたちでのちのちに出会う人々や風景を予見してしまったり、父親の亡霊と会話したり、挙句の果てには母を奪った男を殺そうとしたり。ふつうの短大生であるはずの妙子はやたらと古くさい現象に見舞われてしまうのですが、それと同じくらいに古くさいのが、八方ふさがりになったときに死んだ父親に助けを求める「しおらしさ」だったりして……やっぱり、こういったレトロな造形も、しょせんは赤井を創造した「お父さん」だからこそ、なのでしょうか。哀しきロマンよのう!

 余談ですが、私は今回のクライマックスに歌唱されたバラード『身の引きしまる思い』の、身が引きしまらないにもほどのある哀切なサビ部分を聴いてまっさきに、「♪すばらし~い~ あ~のこ~ろ~」でつとに有名な、ペギー葉山さんのあの歌謡曲を連想してしまいました。なんという泣ける独唱か……

 つまるところ、今回のお芝居のタイトルが『身の引きしまる思い』になった、その理由とは、それ自体を舞台上で見せるというものではなく、そんな、かつて「あると信じていた」感覚をなつかしむ望郷じょんからだったのではなかろうか、と。まさしく「ロマン」ですよね。


 シンデレラのような転身をとげて悪漢の妻となる未亡人、それを恨みつつ自分も男を軽く手玉に取る才覚を発揮してしまう少女、すべてを諦めた視線を持ちつつも何かを考えている青年、悪漢にこびへつらう狡猾な女主人と、純粋であると同時に単純でもあるその夫、その下に従いつつも実は最も自由にほうぼうを飛び回っているハゲタカのような子分カップル。

 彼女ら、彼らが織りなす「不思議の国」の主は、いったいどんな感情をもって、その終幕をむかえたのでしょうか。
 そこに浮かぶのは、まるでドロシー一行にその正体を見られたときに「オズの大魔法使い」が見せたような、はにかみと哀愁がただよう表情だったのではなかろうか……と、私は想像します。よくわかんないけど。

 そして、少なくとも私は今回のお芝居の終演直後に感じた不思議な「さみしさ」は、その主の感情にたぶん近いものだったような……そんな気が私はしました。

 山内ケンジさん。ものすごい演出家です。ものすごい作家でもあるし、ものすごい演出家でもある。この事実にあらためて戦慄して千葉に帰った、2013年12月1日だったのでありました。


 こりゃあ、次回作も期待しないわけにはいきませぬ……と思いつつパンフレットの言葉を読んでたらば、え、来年は公演1本しかやんないんすか!? 丸1年後の11~12月にやるだけ?
 なんと残酷な!! 毎年1本くらいのペースでしか観ていなかったわたくしめが悪うございました!

 でも、そうおっしゃるのならばいたし方ありますまい。次回作、1年ぶん首をなが~くしてお待ちしております!
 生きていたらば必ず、またマントを着て観に行かせていただきますよぉ~いっと!!
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冬を感じる異邦人、調布へ  第一回新進芸術家育成公演 『彼女の素肌』

2013年12月03日 23時10分30秒 | ふつうじゃない映画
 どーにもこーにも、年末! こんばんは、そうだいでございます~。みなさん、今日も一日お疲れさまでした。
 っつーことで12月に入ったわけなんですが、お仕事の内容も、いよいよ年末仕様になってまいりました。この大仕事があるってことは、あぁ、今年ももうおしまいなんだなぁ、みたいなことを感じたりするわけで。いい加減に外も寒くなってきましたしねぇ。
 2013年も、いろいろあったはずなんですが……あっという間なんですよね~、もう終わりなんですな。多少の浮き沈みはありましたが、なんとかかんとか「おおむね上向き」の充実度で幕となりそう。というか、そういう方向で逃げ切りをはかりたいところです。

 そういえば、先日、大学時代の友人にご長女が誕生したというお知らせをいただきました。時間は確実に、こうやって進んでいくのよねぇ。人生上、あいかわらず特に大きなイベントも起きていないわたくしなのですが、少なくとも世間様に振り落とされないように必死にしがみついていかなくてはなりませんな! アップデート、アップデート。


 先日、月初めの1日に千葉から遠出して2本のお芝居を観てきました。
 できれば、我が『長岡京エイリアン』も年末にさしかかったということで、「2日連続日本武道館の詳細」だとか「映画『清須会議』のどこがつまんなかったのか」とか、「年に最低1回はやっておきたいアノ企画」だとか、上げたい記事が山積みなので、今回の観劇記もちゃっちゃと1回でまとめたいところだったのですが、実は2本のうちの夜に観た「2本目」がなかなかものすごい作品でしたもので、これはどうしても、いっしょくたじゃなくて独立して記事にしたいと。このお方のお芝居はやっぱり、「期待を裏切らない予想の裏切り」がある!! なに言ってるかわかりますか? サンセイのハンタイなぁのだ~☆

 という事情のあおりをくらいまして! 今回は非常にライトな仕上がりで、お昼に観た1本目のお芝居だけについての雑感をかる~くまとめて終わりにしたいと思います。いや、こっちがつまんなかったってことじゃないんですよ!? 相手が悪すぎたってことなんです。


調布市・第一回新進芸術家育成公演『彼女の素肌』(演出・西川信広 調布市せんがわ劇場 2013年11月29日~12月8日)


 この公演は、調布市が主催する芸術文化振興基金助成事業として、せんがわ劇場が「次世代を担う舞台芸術活動者」を育成するために創設した「新進芸術家育成公演」の第一回として上演されている作品なのだそうです。

 ただ、作品自体のおもしろさはいったん置いといて、ちょっと気になったことだけ言いたいんですが、少なくとも私はこの公演を観て、調布市とせんがわ劇場が具体的に何を育成しているのかは、わかんなかったです。まぁそら、上演する劇場を提供したり予算の手助けはあったのでしょうが、事業のいう「舞台芸術活動者」だとか「新進芸術家」っていう名称がもううさんくさいのなんのって、誰のことなのかがさっぱり見えないんですよね。
 パンフレットにある、この事業の実行委員長の挨拶を読んでみると、今回の『彼女の素肌』に携わった方たちのうち、少なくとも演出家の西川さんと主演俳優の男女ペアは事業がオファーした形になっていて、そのお3方はもう、助成も育成も必要のなさそうな文学座所属の大ベテランでいらっしゃるわけでしょう?
 ということは、事業が育てたいのは、それ以外でこの公演に出演している俳優さんがたなのか? でもみなさん、経歴的にも実力的にもそうとう立派な方々ばっかりよ? 200名ものオーディション参加者の中から選ばれた14名ということで、びっくりするくらいに芸達者なメンツとなったようです。

 要するに、ふつうに文学座あたりを中心に経験豊富な人材が集結した、実にウェルメイドなお芝居、ってだけなんですよね。
 あぁ、調布市はこういうよくできたお芝居をせんがわ劇場に呼んで、お客さんを育成したいのかな? でもそれって芸術家を育成してんのか? この作品を観て感動したわこうどが芸術家を目指すのをねらってるとか? 息の長い育成事業だねぇ、こいつぁ!

 まぁ、これで作品の内容が調布市の歴史とか文化に関係しているものなのだったら納得がいかないでもないのですが、内容は1910年代のイギリスを舞台にしたバリバリのとつくに歴史劇なんだから、たまったもんじゃねぇ! だから調布市はなにがねらいなんだ!? 別になんでもいいけどさ!

 『彼女の素肌』は、ロンドンのロイヤル・ナショナル・シアター(イギリス国立劇場)で上演されたレベッカ=レンカヴィッツの戯曲『Her Naked Skin 』を、今回の上演のために常田景子が翻訳した2時間40分(休憩こみ 正味2時間25分)の大作となっているのですが、内容はそういったものものしさをあまり感じさせない、非常に「せせこましい」物語になっていました。「せせこましい」ってねぇ……みもふたもない言い方なんですけど、ここをもっと、悪印象のない意味合いにする日本語って、なかったっけ? 「ぎょうぎょうしくない」っていうニュアンスで、私は別に悪いとは思ってないんですよ? タイトルの通りに、メインキャストの「肌の温度」が伝わってくるような距離の近さがあったんです。

 時は1913年6月4日。イギリス国内での、女性の政治参加による権利拡大をねらった「婦人参政権運動」は激化の一途をたどり、運動家のエミリー=デヴィソンが、ロンドン近郊のエプソム競馬場で開催された伝統あるダービーステークスの最終コーナーに乱入し、よりにもよって国王ジョージ5世(映画『英国王のスピーチ』のジョージ6世のご尊父)の所有馬に激突して数日後に死亡するという大事件によって、国中の世論を巻き込む大問題に発展していました。

 物語は、その運動に積極的に参加し、投石して商店の窓ガラスを破壊するなどして投獄された小説家の中年女性シーリアが、同じようないきさつで一緒になった娼婦のイヴと「恋」におちてしまうという、きわめて個人的なものになっています。
 次第にシーリアのイヴに対する熱は昂じていき、それまで入れ込んでいた婦人参政権にも、子どももちゃんといた夫ウィリアムとの夫婦生活ともすきまが生じていくようになり、ついには、生活の自由に強く干渉するわりに自分の孤独をまるでわかってくれないと嘆くイヴにも愛想をつかされるようになって……といった流れになっていくわけなのですが、ここで語られるシーリアの「崩壊」が、おどろくほどに丁寧に描かれていくんですね。

 私は別に、「女性だから」「男性だから」という色眼鏡をかけて物事を見たくはないのですが、う~む、シーリアとイヴとの接近の描写のこまやかさといい、別れのシーンのセリフ運びのうまさといい、この作品の作者は明らかに女性だよね!

 序盤のショッキングなエミリーの衝突事故といい、それによる大衆のヒステリー状態に対応するハーバート=アスキス内閣のいかにも政治的な会話といい、なにかとものものしい始まり方をするものの、あくまでも物語の中心にあるのは、強引に恋愛を謳歌しようとする「タチ」と、それについていくことで疲弊していく「ネコ」のよくある関係!
 「婦人参政権運動」に身を投じても救われることのない「幸福」とはなんなんだろうか? 最終的に自殺未遂をして自分のもとを去っていくイヴの後ろ姿を見て、シーリアはむなしくひとり、煙草をくゆらせるのでありました。

 この『彼女の素肌』は、イギリスの婦人参政権運動が徹頭徹尾、物語にかかわってくる歴史劇ではありますが、そこだけの視点から観るほど損な見方はありません。時代がいつでも、主人公カップルの性別がどれとどれでも成立する、「恋愛のどうしようもないわかりあえなさ」を活き活きと作品化した名作だと感じました。シーリアはほんと、どうしようもねぇ甲斐性なしだよ!

 個人的には、イヴから別れ話をもちかけられて自暴自棄になったシーリアが、行きずりのホテルのボーイ(演・長田典之)と交わすダメダメなやりとりがものすごくおもしろかったです。男はほんとに、もう……
 あと、後半でえんえんと描写される、ハンガーストライキを続けるイヴに施術される「強制摂食」シーンに、変態大国イギリスの本気を見た気がしないでもなかったです。やっぱすげぇわ……調布どん引き。


 こんな感じで、およそ「新進芸術家育成公演」と銘打つにはあまりにも老練な俳優・スタッフ陣で上演された『彼女の素肌』ではありましたが、「歴史劇の皮をかぶった、魚喃キリコのマンガみたいな恋愛ドロドロ劇」というところが意外でおもしろかったです。やっぱり、イギリスと日本って、親和性があるんですかね。

 さて、そんな1本目のお芝居が終わったのが夕方5時前で、外はもうすっかり暗くなっていました。もう冬なのね……
 そこから私は徒歩で北へ向かい、2本目のお芝居が上演される三鷹へ! 初めて歩く道を6キロほど行くと、目指す劇場が見えてくるはず。

 みちみちコンビニで買った中華まんや、持ってきたリンゴなどをかじりつつ、知らない町を歩く、この楽しさ! 微妙に「道を間違ってたらどうしよう……」という不安が混じってるのがたまんないんですよねぇ!
 思い起こせば、丸一年前の秋から冬にかけても、私は仕事の都合でよく、川越や所沢の広漠とした武蔵野の大地をあてどもなくさまよっていたものです。なつかしいね、もうすでに……


 さぁ、そんなこんなに思いをはせつつも、意外とすんなり予定通りに到着した三鷹の劇場でなにを観たのかといいますと~、詳しい内容は、また次回のことでありますよ!

 やっぱり、一年のシメはこのお方の作品になってしまうのか……
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