ぺいぺいど~もこんにちは、そうだいでございま~っす。みなさま、ご機嫌ようお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?
千葉はもう、最近ずっとお天気続きでねぇ。寒いながらも実に気持ちのいい晴天が続いております。なんか、12月らしくない陽気ではあるのですが、こういう空の下、いつもよりもだいぶ遅めに出勤させていただけるのもありがたいことで。今日もこれから、がんばるぞっと。
さて、今回も前回に引き続きまして、12月のドあたまに観たお芝居2本立ての、後半戦の1本についてでございます。
いや~、このお芝居は楽しみにしてたのよ、ほんと!
城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第15回公演 『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(作&演出・山内ケンジ 三鷹市芸術文化センター・星のホール 2013年11月29日~12月8日)
私、城山羊の会さんの作品が好きなんですよねぇ、ほんと!
と言いつつも、実は前回公演の、6月に池袋で上演された『効率の優先』を完全に見逃してしまったという痛恨の経緯もありまして、今回ばかりはなんとしてでも観なければ年を越せないという思いがあったわけなのでありました。
そういえば、おととしの年末は城山羊の会主宰の山内ケンジさん監督の映画『ミツコ感覚』を観たし、去年の今ごろも第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(東京・こまばアゴラ劇場)を観ていましたっけ。もうわたくしにとりましては、山内ワールドの拝観は年末の風物詩よ、これ!
前回の内容の続きになりますが、早くも暗くなった夕方に、調布市は京王線仙川駅近くのせんがわ劇場を出発した私は、だいたい北西に向かうような進路をたどり約6キロ、三鷹市の JR三鷹駅からは南に1キロくらいいったところにある三鷹市芸術文化センターに到着しました。私にしては非常に珍しいことに道に迷うこともなく、だいたい1時間半もしないうちにたどり着いちゃったから、駅前の吉野家とかマックで1時間ちかくヒマをつぶすことになっちった。これがさぁ、バカ正直に電車に乗っちゃうと、最短でも仙川から明治大学前駅まで戻ってから乗り換えなくちゃなんなくなるんでねぇ。ケチケチな私はもう、その日の2本立ての計画を考えた時点で「徒歩!」の一択だったわけでありまして。
この劇場は、私はかつて4年前にも同じ城山羊の会さんの公演『新しい男』を観たことがあって、すごく印象の強い場所なんですが、すぐ近くに、かの太宰治の墓所のある禅林寺という大きなお寺さまがあるんですよね。実はわたくし、今回の観劇にあたって黒マントを着こんで外出していたのですが、ここ三鷹は、「マント姿の著名人といえば?」というクエスチョンで天本英世さんと並んで連想されるという太宰さんのお膝元ということで、すそをひらめかせる足どりにもついつい力が入ってしまいます。なんの脈絡もない発作的な再確認ですが、我が『長岡京エイリアン』は男性のマント着用の一般ファッション化を全面的に推進いたします。
そういえば、今回歩いて三鷹に入って、三鷹通りという最後の道を北上していたところ、あきらかにそういう土地柄を意識したと思われる、本棚に囲まれたカフェのような一軒家があって、暖かそうな光のもれる窓ガラスからふと中をのぞいてみたところ、短髪でメガネをかけたセーター姿の若い女性がテーブルに座っており、そのかたわらには『女生徒』の単行本が置かれているという、アホみたいに完成された光景が展開されていたので……さっさと通りすぎました。なんだ、あの店……まぁ、『ドラクエ』のミミックみたいな罠のたぐいだろう。東京はおそろしかとこばい!
夜7時になり、公演の開場時間になったので劇場に向かったところ、ホールはすでにやや男性多めぎみな人だかりでにぎわっており、私の見間違いでなければ、城山羊の会さんの公演に主演されたこともある俳優の原金太郎さんが芸術文化センターの入口に偶然立っていらっしゃったので、驚いて思わず会釈をしてしまいました。面識はないけど、なんか頭さげちゃったよ……いや、その眼力に思わず、あいさつしないと中に入れないような気がしてさぁ。
星のホールに入ると、広い空間の中には、今回の公演のために設営されたと思われる、舞台とそれを半円で取り巻く6段ぶんくらいの客席がワンセットで独立してできあがっていました。キャパシティは100~120名ほど?
私は先ほどにも申したとおりに、それとほぼ同じ客席配置になっていたと記憶する『新しい男』しか観劇していないので、「おぉ、城山羊の会さんの公演だぞ、これは!」くらいにしか感じていなかったのですが、たまたま私の座席の後列にいらっしゃった中年男性のお客さんは、開演前に隣のお連れさんに向かって、「これ、もともとあるホールの座席を全部とっぱらって客席組んでんだよ、この公演のために! こだわりだねぇ。採算は考えてないんだろうなぁ!」とつぶやいてしきりに感心しておられていました。この方、私の見間違いでなければ(2回目)、本広克行監督っぽかったんですが……見間違いでもなんでもいっか。ふくよかな中年男性なんて、東京にゃ星の数ほどいるし。
さてその舞台なんですが、私がこれまでとびとびで観た城山羊の会さんの公演は、実に5作中4作が、登場人物のうちの誰かの「家の中」が舞台となった一場ものとなっており、なんと今回も、物語の渦中にたたきこまれることになる、つい最近に夫を亡くしたばかりの中年女性ミドリ(演・ご存じ石橋けい)と、その子であるミツヒコ(演・ふじきみつ彦)と妙子(演・岸井ゆきの)の兄妹が3人で暮らす家のキッチンルームになっていました。別に城山羊の会さんも家を舞台にした作品だけを上演しているわけじゃないはずなんですが……なんで私が観る作品は家が多いのだろうか? つけ加えれば、演出の山内ケンジさんが監督した映画『ミツコ感覚』(2011年)でも、ドラマティックな事件はことごとく家の中で発生してましたっけ。
でも、私はこの偶然、とってもありがたく受けとめているところがあって、私が勝手にそう理解しているだけなんですが、城山羊の会さんの作品の持つ魔力の核心に必ずある、「予期しなかった異物の闖入(ちんにゅう)を、自分でも予期しなかったヘンな姿勢で受け入れてしまう人々のおもしろさと強さ」みたいな部分が、いちばんわかりやすくむき出しになる空間こそが、「家の中」だと思うんですね。家族の誰にとってもプライベートな空間なんだけど、他の家族やお客さんが来た瞬間に、なしくずしでパブリックな空間になっちゃうっていう、そのもろさと緊張感。
物語が進んでいくと、今回の公演の舞台は中盤で、それ自体は転換することはないものの、別の登場人物たちの「家の中」、つまりはミドリの働くクラブバー(の皮をかぶった性風俗店)のママ(演・原田麻由)とその夫である店長(演・岩谷健司)、そしてその子のテルユキ(演・成瀬正太郎)の生活する、バーの奥にある自宅部分に変わるのですが、そこでも攻守ところをかえた「うち」と「そと」の闘いが展開されることになります。
私が観た中でいう前回の公演『あの山の稜線が崩れてゆく』は、まぁ私個人の印象をざっくりまとめれば「お父さんは大変なんだゾ。」という涙なみだの闘争の物語であり、ある平凡な家庭に忽然として到来した「顛倒(てんとう)」の嵐、つまりはある人々の周囲を形づくっていたルールや価値観がことごとく180°転換してしまうという災厄の物語だったと思います。
そして、今回の『身の引きしまる思い』は、その作品のかなりストレートな「続編」なのではなかろうか、と私は感じました。
とは言いましても、これらの2作品は別に共通した登場人物が出てくるわけでもないし、今回の作品で『あの山の稜線が崩れてゆく』の内容についての言及がある、ということでもありません。
しかし、『あの山の稜線が崩れてゆく』は、ある「お父さん」のバカバカしくも美しい「旅立ち」によって物語がしめくくられ、今回の『身の引きしまる思い』は、「お父さん」という存在がフッと消失してしまって間もない、残された家族に顛倒の矛先が向けられていく物語なのでした。これが続編でなくて、なにが続編なのかと! どちらの作品も母親を石橋さんが演じていて、娘を岸井さんが演じているという共通項は、今さら申すまでもありませんね(申してるけど)。
お父さんがいなくなってしまった家、というコンセプトは舞台美術にも如実に反映されており、キッチンルームの奥にはかなり場違いな感じで、お父さんの実ににこやかな表情が写った遺影と位牌が置かれているのはもちろんのこと、おそらくは「おしゃれ」という理由で採用されていたと思われるコンクリートうちっぱなし風の灰色の壁が、いやおうもなく家庭内の「なにかの不在」を知らしめる冷たさをはなっています。
生前、自分がこんなに早く死ぬとは思いもよらなかったお父さんは、ご自分のはなつ暖かみでいくらでもカバーできると思っていらっしゃったのでしょうが、そんなお父さんがいなくなってしまったコンクリートの壁は、ひたすら暗く3人の体温を吸いとるばかり。いかにも城山羊の会さんらしい顛倒ワールドを招いてしまう素地はすっかりできあがってしまいました。実に恐ろしい! ゾクゾクしますね~☆
この『身の引きしまる思い』は、非常につまんなくまとめてしまえば、父親の不在によってバラバラになってしまった家族の崩壊、崩壊、ちょい再生してまた崩壊、の物語です。
でも、そこを単なるサディスティックな不幸博覧会にしないのが城山羊の会さんの城山羊の会さんたるゆえんで、いつもあったはずの周囲の環境のひとつひとつが顛倒していけばいくほど、母と兄妹の3人はどんどんそれに対応して強く「変貌」をとげていき、まぁそれは過去にあった「あたたかい家庭」とはかけ離れた現状を呈してしまうわけなのですが、3人とも、新しい世界をそれぞれなりに生き抜いていくことになるのです。そこらへんの「絶望からの起死回生ジャンプ」の躍動感、そこが私はたまらないんですよね!
その点、いやおうなく来襲する異常事態の数々に直面する石橋・ふじき・岸井トリオは、基本的にはテンションをガタ落ちにさせていきながらも、その眼光だけは鋭敏にさせていき、ついには世間体だ関係性だというところをガン無視した「じぶん!」をさらけ出していく城山羊の会おなじみのメタモルフォーゼを非常に細密に演じきっていたと思います。
今回、おそらくは30歳前後と20歳前後の2人の子を持つ、外見の異常に若い母を演じた石橋さんは思ったよりも出ずっぱりではなかったのですが、その、キッチンの奥にあるなんだかよくわかんないスープをひたすらかきまわす後姿は、顔を見せずとも女優・石橋けいとしての充分すぎるほどのお仕事をされていたと感じ入りました。あの、方向性のさだまっていない世間全体へのルサンチマン! 「さわらぬ神にたたりなし」ということわざ、あれは絶対に男が考えついた言葉だわ……そういう意味のない確信をいだかせてくれる名演でした。
そういった感じでまぁ、家族に黙っていた秘密がバレたり、嫌な感じの交友関係ができたり、恋人ができたり、家族のセックス的なものを見ちゃったり……怒涛のごとき事件の数々を経験していく主人公一家の一大航海記。そういう視点からだけでも、『身の引きしまる思い』は十二分におもしろい、演技合戦と緻密なセリフや空気感が楽しめるわけなのですが、そのいっぽうで、今回の公演は、そういった顛倒を家族におよぼしていくお邪魔虫的な存在の周囲の人々も、これまで以上に磨きのかかった異様さで、活き活きと跳梁跋扈していたと感じました。
まずはなんといっても、城山羊の会の常連俳優である岡部たかしさん演じる、クラブバーのバーテン! バーテンであるために、出演中ずっとフォーマルな黒ズボンと黒ベスト、白ワイシャツを着ているわけなのですが、バーに勤務しているホステスのみすず(演・島田桃依)とのただれた肉体関係(夫婦だからいいですけど)といい、口をつくたびに宙を舞う「いやぁ~、そりゃ、まぁ……(首をカックンと動かして)ねぇ?」というような、責任放棄もはなはだしい配合意味成分0パーセントのセリフといい、しっかりした外見だからこそ際立つうさんくささが素晴らしいキャラクターになっていたと思いました。物語上はいろんな人たちにヘーコラしているものの、実はいちばん自由で、いちばん高い場所から自分以外の面々を眺めてうすら笑いを浮かべているという、ヨーロッパの歴史的建築物のガーゴイル(怪物像)みたいな存在ですね。体型もエヴァンゲリオン参号機みたいだし!
さて、今回の『身の引きしまる思い』を観てみたときに、最も印象に残るキャラクターは誰だったのか? ということを考えてみると、それはもう、ある意味では主人公一家の崩壊の最大の元凶となった、よくわからない強大な威圧感と財力をもってすべての登場人物を戦慄させる悪魔のような存在である、クラブバーのお得意さまでパトロンでもある謎の男・赤井(演・KONTA)ということになるでしょう。
これまでの城山羊の会さんの作品の中でも、生活感のない謎の塊のようなハプニング因子は必ず誰かが演じていたんじゃなかろうかと思えるのですが(『あの山の稜線が崩れてゆく』のうさんくさい弁護士夫妻とか)、今回の赤井ほどに、ミドリと妙子夫妻のどちらにも手を出そうとするわ、反抗するミツヒコには華麗な関節技をお見舞いして泣かせるわという傍若無人な振る舞いを展開する、正真正銘の「悪魔みたいな奴」はいなかったのではないのでしょうか。
悪魔、つまり、「人らしくない全知全能」という点では、まったく逆の存在である「神」と言い換えても問題のない役柄だと思います。
繰り返しになりますが、これまでの作品では、いくら顛倒の事象を引き起こしても、周囲の人間が主人公(たち)の、変貌した世界の中での生き方の「最終選択」にまで干渉するという事態はありませんでした。そこは現実世界のような残酷なリアリティで、「そう選択したのはあなた自身ですからね。私たちに責任はありませんからね。」という、いやらしく大人な防衛線を張りめぐらせて、最後の一瞬間はただただ無言で傍観するだけだったキャラクターたちに対して、今回の赤井はあまりにも自由奔放で、前にしゃしゃり出てきて、現実味のまったくない素早さで、あっという間に主人公たちの未来を独占してしまうのです。
物語のクライマックスは、家族のすべてを手中におさめてしまった赤井が、「古いロシア民謡だ。」とうそぶくバラード『身の引きしまる思い』のフルコーラスをアカペラでやけに堂々と唄いきり、母親を寝取った恨みとばかりに襲いかかる妙子を軽くいなし、そして……という、家族側から見れば惨憺たるバッドエンドと解釈してもいいような終幕となっています。
はて、どうしてこんな荒削りなキャラクターが城山羊の会さんの緻密な作品に乱入してしまったのでしょうか?
ここで確認しておかなければならないのは、今回のお芝居のタイトルの『身の引きしまる思い』の「前」に、小さいながらも明確に『ピカレスクロマン』という言葉が挿入されているというところなのではないのでしょうか。
「ピカレスクロマン」、それはつまり、訳すれば「悪漢小説」ということになり、既存の社会のルールを無視し、さらにそれを破壊する「悪魔のような人でなし」による自伝ふうフィクションということになるでしょう。そういえば、今なにかとホットなニュース満載の東京都知事が太宰治をモデルに書いた妄想本のタイトルも、たしか『ピカレスク』でしたよね。神聖なる城山羊の会さんの作品のお話に、くっだらねぇ三文小説の名前を出してしまい失礼いたしました。
えっ、っていうことは、つまり……この作品の主人公はあの家族じゃなくて、そこからいちばんかけ離れた存在だった、赤井なの!?
そうか、そういうことだったのか!
自分なりに、「あの終わり方」の奇妙な味わいの原因はなんなのだろうか? と考えていて、帰り道に私はハタとひざを打ちました。三鷹駅から中央線経由の総武線で千葉に向かったものですから、だいたい東中野をすぎたあたりで打ちました。
なんだかんだ「お父さんがいないところから始まる」とか言いましたけど、やっぱり「お父さん」の物語なんじゃないの、これ!!
整理してみれば、今回の作品において、ミドリの夫であり、ミツヒコ・妙子兄妹の父親である人物を演じたのは、赤井とはまったく別の俳優さんです。いちいちお名前は挙げませんが……俳優でしょ、あんな立派な演技してたら!? 舞台を観ることができなかった第11回公演『探索』の上演台本、読んでてよかった♪
そのお父さんは、死亡という理由により序盤で早々に退場してしまいます。しかし、そのお父さんの遺影は、常に舞台のど真ん中に確かに存在していました。その遺影自体は単なる写真であるわけなのですが、「それを見る人間(しかも家族)」がいる以上、それは「物とはいいがたいなにか」になって生きている、とは言えないでしょうか?
そして物語の中盤、舞台が転換してクラブバーの家の中に切り替わると、他人の家になった都合でお父さんの遺影は裏返しになり、ピカソの名作『泣く女』のレプリカっぽい絵の入った額縁になるんですが……
そのシーンから、例の、動くたんびに「きちきち、きちきち……」という気持ちの悪い音をたてる、ピッチピチのレザージャケットを着込んだ赤井がさっそうと出現するワケよ!!
これは偶然じゃないだろう。「もしかしたら、ぜんぶお父さんの脳内?」という可能性さえにおわせる結末となった『あの山の稜線が崩れてゆく』とは、一見まったく正反対のシチュエーションのようでありながらも、実は今回の『身の引きしまる思い』もまた、女たちの華麗な競演にいろどられつつ、その中核には「どうしようもない男のつかのまの彷徨」という、はかないにもほどのあるロマンがあったのでした。
なるほど、だから赤井を演じたのは KONTAさんだったのか。
物語の後半、どこからともなく登場したお父さんの亡霊と赤井が対峙する象徴的なシーンが出てくるのですが、ここで注目しなければならないのは、「死んでいるお父さん」でもなければ「現実味のない赤井」でもなく、お父さんの横から不実な母親をにらみつける「生きている妙子」であり、そんな娘を赤井にオベロ~ンと寄り添いながら見くだす「生きているミドリ」なのです。
やはり城山羊の会の世界に生き残るのは、「生きている人間」! そういう意味で、赤井を演じる人物は赤井にリアリティを持たせる俳優では絶対にいけなかったんですな!
どこまでも、自分でもあきれるほどに作者さんそっちのけで勝手気ままに解釈しているわけなんですが、そういう空想の翼をどこまでも広げさせてくれるキャンバス。これこそが城山羊の会さんの「一見不可解な世界」、その奥の深さと豊潤さだと、私は思うんです。今回もほんとうにごちそうさまでした……
公演を観るたびに、その作中での精神的な追い込まれ方のハンパなさに、女優であると知りながらも思わず心配してしまう石橋けいさんなのですが、今回は「エロスの本質はその行為の過激さではなく、その行為に対するういういしさである。」という格言(私がテキトーに考えました)を如実に証明する顛倒によって、一気にこの物語における「女王さま」におさまってしまいました。
そういう意味では、今回の作品は今まで石橋さんが担っていたような「受難ポジション」を、後半からは娘役の岸井さんがかっさらっていくという流れになっており、「母を憎む子」という、コッテコテの神話か『ハムレット』のような相関関係になっていたのがまた興味深かったですね。「母を憎む」のは兄貴のミツヒコも同じなんですが、具体的に行動しようとするぶん、妙子のほうがよっぽど男らしいわけで。
神話的ね。「夢」というかたちでのちのちに出会う人々や風景を予見してしまったり、父親の亡霊と会話したり、挙句の果てには母を奪った男を殺そうとしたり。ふつうの短大生であるはずの妙子はやたらと古くさい現象に見舞われてしまうのですが、それと同じくらいに古くさいのが、八方ふさがりになったときに死んだ父親に助けを求める「しおらしさ」だったりして……やっぱり、こういったレトロな造形も、しょせんは赤井を創造した「お父さん」だからこそ、なのでしょうか。哀しきロマンよのう!
余談ですが、私は今回のクライマックスに歌唱されたバラード『身の引きしまる思い』の、身が引きしまらないにもほどのある哀切なサビ部分を聴いてまっさきに、「♪すばらし~い~ あ~のこ~ろ~」でつとに有名な、ペギー葉山さんのあの歌謡曲を連想してしまいました。なんという泣ける独唱か……
つまるところ、今回のお芝居のタイトルが『身の引きしまる思い』になった、その理由とは、それ自体を舞台上で見せるというものではなく、そんな、かつて「あると信じていた」感覚をなつかしむ望郷じょんからだったのではなかろうか、と。まさしく「ロマン」ですよね。
シンデレラのような転身をとげて悪漢の妻となる未亡人、それを恨みつつ自分も男を軽く手玉に取る才覚を発揮してしまう少女、すべてを諦めた視線を持ちつつも何かを考えている青年、悪漢にこびへつらう狡猾な女主人と、純粋であると同時に単純でもあるその夫、その下に従いつつも実は最も自由にほうぼうを飛び回っているハゲタカのような子分カップル。
彼女ら、彼らが織りなす「不思議の国」の主は、いったいどんな感情をもって、その終幕をむかえたのでしょうか。
そこに浮かぶのは、まるでドロシー一行にその正体を見られたときに「オズの大魔法使い」が見せたような、はにかみと哀愁がただよう表情だったのではなかろうか……と、私は想像します。よくわかんないけど。
そして、少なくとも私は今回のお芝居の終演直後に感じた不思議な「さみしさ」は、その主の感情にたぶん近いものだったような……そんな気が私はしました。
山内ケンジさん。ものすごい演出家です。ものすごい作家でもあるし、ものすごい演出家でもある。この事実にあらためて戦慄して千葉に帰った、2013年12月1日だったのでありました。
こりゃあ、次回作も期待しないわけにはいきませぬ……と思いつつパンフレットの言葉を読んでたらば、え、来年は公演1本しかやんないんすか!? 丸1年後の11~12月にやるだけ?
なんと残酷な!! 毎年1本くらいのペースでしか観ていなかったわたくしめが悪うございました!
でも、そうおっしゃるのならばいたし方ありますまい。次回作、1年ぶん首をなが~くしてお待ちしております!
生きていたらば必ず、またマントを着て観に行かせていただきますよぉ~いっと!!
千葉はもう、最近ずっとお天気続きでねぇ。寒いながらも実に気持ちのいい晴天が続いております。なんか、12月らしくない陽気ではあるのですが、こういう空の下、いつもよりもだいぶ遅めに出勤させていただけるのもありがたいことで。今日もこれから、がんばるぞっと。
さて、今回も前回に引き続きまして、12月のドあたまに観たお芝居2本立ての、後半戦の1本についてでございます。
いや~、このお芝居は楽しみにしてたのよ、ほんと!
城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第15回公演 『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(作&演出・山内ケンジ 三鷹市芸術文化センター・星のホール 2013年11月29日~12月8日)
私、城山羊の会さんの作品が好きなんですよねぇ、ほんと!
と言いつつも、実は前回公演の、6月に池袋で上演された『効率の優先』を完全に見逃してしまったという痛恨の経緯もありまして、今回ばかりはなんとしてでも観なければ年を越せないという思いがあったわけなのでありました。
そういえば、おととしの年末は城山羊の会主宰の山内ケンジさん監督の映画『ミツコ感覚』を観たし、去年の今ごろも第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(東京・こまばアゴラ劇場)を観ていましたっけ。もうわたくしにとりましては、山内ワールドの拝観は年末の風物詩よ、これ!
前回の内容の続きになりますが、早くも暗くなった夕方に、調布市は京王線仙川駅近くのせんがわ劇場を出発した私は、だいたい北西に向かうような進路をたどり約6キロ、三鷹市の JR三鷹駅からは南に1キロくらいいったところにある三鷹市芸術文化センターに到着しました。私にしては非常に珍しいことに道に迷うこともなく、だいたい1時間半もしないうちにたどり着いちゃったから、駅前の吉野家とかマックで1時間ちかくヒマをつぶすことになっちった。これがさぁ、バカ正直に電車に乗っちゃうと、最短でも仙川から明治大学前駅まで戻ってから乗り換えなくちゃなんなくなるんでねぇ。ケチケチな私はもう、その日の2本立ての計画を考えた時点で「徒歩!」の一択だったわけでありまして。
この劇場は、私はかつて4年前にも同じ城山羊の会さんの公演『新しい男』を観たことがあって、すごく印象の強い場所なんですが、すぐ近くに、かの太宰治の墓所のある禅林寺という大きなお寺さまがあるんですよね。実はわたくし、今回の観劇にあたって黒マントを着こんで外出していたのですが、ここ三鷹は、「マント姿の著名人といえば?」というクエスチョンで天本英世さんと並んで連想されるという太宰さんのお膝元ということで、すそをひらめかせる足どりにもついつい力が入ってしまいます。なんの脈絡もない発作的な再確認ですが、我が『長岡京エイリアン』は男性のマント着用の一般ファッション化を全面的に推進いたします。
そういえば、今回歩いて三鷹に入って、三鷹通りという最後の道を北上していたところ、あきらかにそういう土地柄を意識したと思われる、本棚に囲まれたカフェのような一軒家があって、暖かそうな光のもれる窓ガラスからふと中をのぞいてみたところ、短髪でメガネをかけたセーター姿の若い女性がテーブルに座っており、そのかたわらには『女生徒』の単行本が置かれているという、アホみたいに完成された光景が展開されていたので……さっさと通りすぎました。なんだ、あの店……まぁ、『ドラクエ』のミミックみたいな罠のたぐいだろう。東京はおそろしかとこばい!
夜7時になり、公演の開場時間になったので劇場に向かったところ、ホールはすでにやや男性多めぎみな人だかりでにぎわっており、私の見間違いでなければ、城山羊の会さんの公演に主演されたこともある俳優の原金太郎さんが芸術文化センターの入口に偶然立っていらっしゃったので、驚いて思わず会釈をしてしまいました。面識はないけど、なんか頭さげちゃったよ……いや、その眼力に思わず、あいさつしないと中に入れないような気がしてさぁ。
星のホールに入ると、広い空間の中には、今回の公演のために設営されたと思われる、舞台とそれを半円で取り巻く6段ぶんくらいの客席がワンセットで独立してできあがっていました。キャパシティは100~120名ほど?
私は先ほどにも申したとおりに、それとほぼ同じ客席配置になっていたと記憶する『新しい男』しか観劇していないので、「おぉ、城山羊の会さんの公演だぞ、これは!」くらいにしか感じていなかったのですが、たまたま私の座席の後列にいらっしゃった中年男性のお客さんは、開演前に隣のお連れさんに向かって、「これ、もともとあるホールの座席を全部とっぱらって客席組んでんだよ、この公演のために! こだわりだねぇ。採算は考えてないんだろうなぁ!」とつぶやいてしきりに感心しておられていました。この方、私の見間違いでなければ(2回目)、本広克行監督っぽかったんですが……見間違いでもなんでもいっか。ふくよかな中年男性なんて、東京にゃ星の数ほどいるし。
さてその舞台なんですが、私がこれまでとびとびで観た城山羊の会さんの公演は、実に5作中4作が、登場人物のうちの誰かの「家の中」が舞台となった一場ものとなっており、なんと今回も、物語の渦中にたたきこまれることになる、つい最近に夫を亡くしたばかりの中年女性ミドリ(演・ご存じ石橋けい)と、その子であるミツヒコ(演・ふじきみつ彦)と妙子(演・岸井ゆきの)の兄妹が3人で暮らす家のキッチンルームになっていました。別に城山羊の会さんも家を舞台にした作品だけを上演しているわけじゃないはずなんですが……なんで私が観る作品は家が多いのだろうか? つけ加えれば、演出の山内ケンジさんが監督した映画『ミツコ感覚』(2011年)でも、ドラマティックな事件はことごとく家の中で発生してましたっけ。
でも、私はこの偶然、とってもありがたく受けとめているところがあって、私が勝手にそう理解しているだけなんですが、城山羊の会さんの作品の持つ魔力の核心に必ずある、「予期しなかった異物の闖入(ちんにゅう)を、自分でも予期しなかったヘンな姿勢で受け入れてしまう人々のおもしろさと強さ」みたいな部分が、いちばんわかりやすくむき出しになる空間こそが、「家の中」だと思うんですね。家族の誰にとってもプライベートな空間なんだけど、他の家族やお客さんが来た瞬間に、なしくずしでパブリックな空間になっちゃうっていう、そのもろさと緊張感。
物語が進んでいくと、今回の公演の舞台は中盤で、それ自体は転換することはないものの、別の登場人物たちの「家の中」、つまりはミドリの働くクラブバー(の皮をかぶった性風俗店)のママ(演・原田麻由)とその夫である店長(演・岩谷健司)、そしてその子のテルユキ(演・成瀬正太郎)の生活する、バーの奥にある自宅部分に変わるのですが、そこでも攻守ところをかえた「うち」と「そと」の闘いが展開されることになります。
私が観た中でいう前回の公演『あの山の稜線が崩れてゆく』は、まぁ私個人の印象をざっくりまとめれば「お父さんは大変なんだゾ。」という涙なみだの闘争の物語であり、ある平凡な家庭に忽然として到来した「顛倒(てんとう)」の嵐、つまりはある人々の周囲を形づくっていたルールや価値観がことごとく180°転換してしまうという災厄の物語だったと思います。
そして、今回の『身の引きしまる思い』は、その作品のかなりストレートな「続編」なのではなかろうか、と私は感じました。
とは言いましても、これらの2作品は別に共通した登場人物が出てくるわけでもないし、今回の作品で『あの山の稜線が崩れてゆく』の内容についての言及がある、ということでもありません。
しかし、『あの山の稜線が崩れてゆく』は、ある「お父さん」のバカバカしくも美しい「旅立ち」によって物語がしめくくられ、今回の『身の引きしまる思い』は、「お父さん」という存在がフッと消失してしまって間もない、残された家族に顛倒の矛先が向けられていく物語なのでした。これが続編でなくて、なにが続編なのかと! どちらの作品も母親を石橋さんが演じていて、娘を岸井さんが演じているという共通項は、今さら申すまでもありませんね(申してるけど)。
お父さんがいなくなってしまった家、というコンセプトは舞台美術にも如実に反映されており、キッチンルームの奥にはかなり場違いな感じで、お父さんの実ににこやかな表情が写った遺影と位牌が置かれているのはもちろんのこと、おそらくは「おしゃれ」という理由で採用されていたと思われるコンクリートうちっぱなし風の灰色の壁が、いやおうもなく家庭内の「なにかの不在」を知らしめる冷たさをはなっています。
生前、自分がこんなに早く死ぬとは思いもよらなかったお父さんは、ご自分のはなつ暖かみでいくらでもカバーできると思っていらっしゃったのでしょうが、そんなお父さんがいなくなってしまったコンクリートの壁は、ひたすら暗く3人の体温を吸いとるばかり。いかにも城山羊の会さんらしい顛倒ワールドを招いてしまう素地はすっかりできあがってしまいました。実に恐ろしい! ゾクゾクしますね~☆
この『身の引きしまる思い』は、非常につまんなくまとめてしまえば、父親の不在によってバラバラになってしまった家族の崩壊、崩壊、ちょい再生してまた崩壊、の物語です。
でも、そこを単なるサディスティックな不幸博覧会にしないのが城山羊の会さんの城山羊の会さんたるゆえんで、いつもあったはずの周囲の環境のひとつひとつが顛倒していけばいくほど、母と兄妹の3人はどんどんそれに対応して強く「変貌」をとげていき、まぁそれは過去にあった「あたたかい家庭」とはかけ離れた現状を呈してしまうわけなのですが、3人とも、新しい世界をそれぞれなりに生き抜いていくことになるのです。そこらへんの「絶望からの起死回生ジャンプ」の躍動感、そこが私はたまらないんですよね!
その点、いやおうなく来襲する異常事態の数々に直面する石橋・ふじき・岸井トリオは、基本的にはテンションをガタ落ちにさせていきながらも、その眼光だけは鋭敏にさせていき、ついには世間体だ関係性だというところをガン無視した「じぶん!」をさらけ出していく城山羊の会おなじみのメタモルフォーゼを非常に細密に演じきっていたと思います。
今回、おそらくは30歳前後と20歳前後の2人の子を持つ、外見の異常に若い母を演じた石橋さんは思ったよりも出ずっぱりではなかったのですが、その、キッチンの奥にあるなんだかよくわかんないスープをひたすらかきまわす後姿は、顔を見せずとも女優・石橋けいとしての充分すぎるほどのお仕事をされていたと感じ入りました。あの、方向性のさだまっていない世間全体へのルサンチマン! 「さわらぬ神にたたりなし」ということわざ、あれは絶対に男が考えついた言葉だわ……そういう意味のない確信をいだかせてくれる名演でした。
そういった感じでまぁ、家族に黙っていた秘密がバレたり、嫌な感じの交友関係ができたり、恋人ができたり、家族のセックス的なものを見ちゃったり……怒涛のごとき事件の数々を経験していく主人公一家の一大航海記。そういう視点からだけでも、『身の引きしまる思い』は十二分におもしろい、演技合戦と緻密なセリフや空気感が楽しめるわけなのですが、そのいっぽうで、今回の公演は、そういった顛倒を家族におよぼしていくお邪魔虫的な存在の周囲の人々も、これまで以上に磨きのかかった異様さで、活き活きと跳梁跋扈していたと感じました。
まずはなんといっても、城山羊の会の常連俳優である岡部たかしさん演じる、クラブバーのバーテン! バーテンであるために、出演中ずっとフォーマルな黒ズボンと黒ベスト、白ワイシャツを着ているわけなのですが、バーに勤務しているホステスのみすず(演・島田桃依)とのただれた肉体関係(夫婦だからいいですけど)といい、口をつくたびに宙を舞う「いやぁ~、そりゃ、まぁ……(首をカックンと動かして)ねぇ?」というような、責任放棄もはなはだしい配合意味成分0パーセントのセリフといい、しっかりした外見だからこそ際立つうさんくささが素晴らしいキャラクターになっていたと思いました。物語上はいろんな人たちにヘーコラしているものの、実はいちばん自由で、いちばん高い場所から自分以外の面々を眺めてうすら笑いを浮かべているという、ヨーロッパの歴史的建築物のガーゴイル(怪物像)みたいな存在ですね。体型もエヴァンゲリオン参号機みたいだし!
さて、今回の『身の引きしまる思い』を観てみたときに、最も印象に残るキャラクターは誰だったのか? ということを考えてみると、それはもう、ある意味では主人公一家の崩壊の最大の元凶となった、よくわからない強大な威圧感と財力をもってすべての登場人物を戦慄させる悪魔のような存在である、クラブバーのお得意さまでパトロンでもある謎の男・赤井(演・KONTA)ということになるでしょう。
これまでの城山羊の会さんの作品の中でも、生活感のない謎の塊のようなハプニング因子は必ず誰かが演じていたんじゃなかろうかと思えるのですが(『あの山の稜線が崩れてゆく』のうさんくさい弁護士夫妻とか)、今回の赤井ほどに、ミドリと妙子夫妻のどちらにも手を出そうとするわ、反抗するミツヒコには華麗な関節技をお見舞いして泣かせるわという傍若無人な振る舞いを展開する、正真正銘の「悪魔みたいな奴」はいなかったのではないのでしょうか。
悪魔、つまり、「人らしくない全知全能」という点では、まったく逆の存在である「神」と言い換えても問題のない役柄だと思います。
繰り返しになりますが、これまでの作品では、いくら顛倒の事象を引き起こしても、周囲の人間が主人公(たち)の、変貌した世界の中での生き方の「最終選択」にまで干渉するという事態はありませんでした。そこは現実世界のような残酷なリアリティで、「そう選択したのはあなた自身ですからね。私たちに責任はありませんからね。」という、いやらしく大人な防衛線を張りめぐらせて、最後の一瞬間はただただ無言で傍観するだけだったキャラクターたちに対して、今回の赤井はあまりにも自由奔放で、前にしゃしゃり出てきて、現実味のまったくない素早さで、あっという間に主人公たちの未来を独占してしまうのです。
物語のクライマックスは、家族のすべてを手中におさめてしまった赤井が、「古いロシア民謡だ。」とうそぶくバラード『身の引きしまる思い』のフルコーラスをアカペラでやけに堂々と唄いきり、母親を寝取った恨みとばかりに襲いかかる妙子を軽くいなし、そして……という、家族側から見れば惨憺たるバッドエンドと解釈してもいいような終幕となっています。
はて、どうしてこんな荒削りなキャラクターが城山羊の会さんの緻密な作品に乱入してしまったのでしょうか?
ここで確認しておかなければならないのは、今回のお芝居のタイトルの『身の引きしまる思い』の「前」に、小さいながらも明確に『ピカレスクロマン』という言葉が挿入されているというところなのではないのでしょうか。
「ピカレスクロマン」、それはつまり、訳すれば「悪漢小説」ということになり、既存の社会のルールを無視し、さらにそれを破壊する「悪魔のような人でなし」による自伝ふうフィクションということになるでしょう。そういえば、今なにかとホットなニュース満載の東京都知事が太宰治をモデルに書いた妄想本のタイトルも、たしか『ピカレスク』でしたよね。神聖なる城山羊の会さんの作品のお話に、くっだらねぇ三文小説の名前を出してしまい失礼いたしました。
えっ、っていうことは、つまり……この作品の主人公はあの家族じゃなくて、そこからいちばんかけ離れた存在だった、赤井なの!?
そうか、そういうことだったのか!
自分なりに、「あの終わり方」の奇妙な味わいの原因はなんなのだろうか? と考えていて、帰り道に私はハタとひざを打ちました。三鷹駅から中央線経由の総武線で千葉に向かったものですから、だいたい東中野をすぎたあたりで打ちました。
なんだかんだ「お父さんがいないところから始まる」とか言いましたけど、やっぱり「お父さん」の物語なんじゃないの、これ!!
整理してみれば、今回の作品において、ミドリの夫であり、ミツヒコ・妙子兄妹の父親である人物を演じたのは、赤井とはまったく別の俳優さんです。いちいちお名前は挙げませんが……俳優でしょ、あんな立派な演技してたら!? 舞台を観ることができなかった第11回公演『探索』の上演台本、読んでてよかった♪
そのお父さんは、死亡という理由により序盤で早々に退場してしまいます。しかし、そのお父さんの遺影は、常に舞台のど真ん中に確かに存在していました。その遺影自体は単なる写真であるわけなのですが、「それを見る人間(しかも家族)」がいる以上、それは「物とはいいがたいなにか」になって生きている、とは言えないでしょうか?
そして物語の中盤、舞台が転換してクラブバーの家の中に切り替わると、他人の家になった都合でお父さんの遺影は裏返しになり、ピカソの名作『泣く女』のレプリカっぽい絵の入った額縁になるんですが……
そのシーンから、例の、動くたんびに「きちきち、きちきち……」という気持ちの悪い音をたてる、ピッチピチのレザージャケットを着込んだ赤井がさっそうと出現するワケよ!!
これは偶然じゃないだろう。「もしかしたら、ぜんぶお父さんの脳内?」という可能性さえにおわせる結末となった『あの山の稜線が崩れてゆく』とは、一見まったく正反対のシチュエーションのようでありながらも、実は今回の『身の引きしまる思い』もまた、女たちの華麗な競演にいろどられつつ、その中核には「どうしようもない男のつかのまの彷徨」という、はかないにもほどのあるロマンがあったのでした。
なるほど、だから赤井を演じたのは KONTAさんだったのか。
物語の後半、どこからともなく登場したお父さんの亡霊と赤井が対峙する象徴的なシーンが出てくるのですが、ここで注目しなければならないのは、「死んでいるお父さん」でもなければ「現実味のない赤井」でもなく、お父さんの横から不実な母親をにらみつける「生きている妙子」であり、そんな娘を赤井にオベロ~ンと寄り添いながら見くだす「生きているミドリ」なのです。
やはり城山羊の会の世界に生き残るのは、「生きている人間」! そういう意味で、赤井を演じる人物は赤井にリアリティを持たせる俳優では絶対にいけなかったんですな!
どこまでも、自分でもあきれるほどに作者さんそっちのけで勝手気ままに解釈しているわけなんですが、そういう空想の翼をどこまでも広げさせてくれるキャンバス。これこそが城山羊の会さんの「一見不可解な世界」、その奥の深さと豊潤さだと、私は思うんです。今回もほんとうにごちそうさまでした……
公演を観るたびに、その作中での精神的な追い込まれ方のハンパなさに、女優であると知りながらも思わず心配してしまう石橋けいさんなのですが、今回は「エロスの本質はその行為の過激さではなく、その行為に対するういういしさである。」という格言(私がテキトーに考えました)を如実に証明する顛倒によって、一気にこの物語における「女王さま」におさまってしまいました。
そういう意味では、今回の作品は今まで石橋さんが担っていたような「受難ポジション」を、後半からは娘役の岸井さんがかっさらっていくという流れになっており、「母を憎む子」という、コッテコテの神話か『ハムレット』のような相関関係になっていたのがまた興味深かったですね。「母を憎む」のは兄貴のミツヒコも同じなんですが、具体的に行動しようとするぶん、妙子のほうがよっぽど男らしいわけで。
神話的ね。「夢」というかたちでのちのちに出会う人々や風景を予見してしまったり、父親の亡霊と会話したり、挙句の果てには母を奪った男を殺そうとしたり。ふつうの短大生であるはずの妙子はやたらと古くさい現象に見舞われてしまうのですが、それと同じくらいに古くさいのが、八方ふさがりになったときに死んだ父親に助けを求める「しおらしさ」だったりして……やっぱり、こういったレトロな造形も、しょせんは赤井を創造した「お父さん」だからこそ、なのでしょうか。哀しきロマンよのう!
余談ですが、私は今回のクライマックスに歌唱されたバラード『身の引きしまる思い』の、身が引きしまらないにもほどのある哀切なサビ部分を聴いてまっさきに、「♪すばらし~い~ あ~のこ~ろ~」でつとに有名な、ペギー葉山さんのあの歌謡曲を連想してしまいました。なんという泣ける独唱か……
つまるところ、今回のお芝居のタイトルが『身の引きしまる思い』になった、その理由とは、それ自体を舞台上で見せるというものではなく、そんな、かつて「あると信じていた」感覚をなつかしむ望郷じょんからだったのではなかろうか、と。まさしく「ロマン」ですよね。
シンデレラのような転身をとげて悪漢の妻となる未亡人、それを恨みつつ自分も男を軽く手玉に取る才覚を発揮してしまう少女、すべてを諦めた視線を持ちつつも何かを考えている青年、悪漢にこびへつらう狡猾な女主人と、純粋であると同時に単純でもあるその夫、その下に従いつつも実は最も自由にほうぼうを飛び回っているハゲタカのような子分カップル。
彼女ら、彼らが織りなす「不思議の国」の主は、いったいどんな感情をもって、その終幕をむかえたのでしょうか。
そこに浮かぶのは、まるでドロシー一行にその正体を見られたときに「オズの大魔法使い」が見せたような、はにかみと哀愁がただよう表情だったのではなかろうか……と、私は想像します。よくわかんないけど。
そして、少なくとも私は今回のお芝居の終演直後に感じた不思議な「さみしさ」は、その主の感情にたぶん近いものだったような……そんな気が私はしました。
山内ケンジさん。ものすごい演出家です。ものすごい作家でもあるし、ものすごい演出家でもある。この事実にあらためて戦慄して千葉に帰った、2013年12月1日だったのでありました。
こりゃあ、次回作も期待しないわけにはいきませぬ……と思いつつパンフレットの言葉を読んでたらば、え、来年は公演1本しかやんないんすか!? 丸1年後の11~12月にやるだけ?
なんと残酷な!! 毎年1本くらいのペースでしか観ていなかったわたくしめが悪うございました!
でも、そうおっしゃるのならばいたし方ありますまい。次回作、1年ぶん首をなが~くしてお待ちしております!
生きていたらば必ず、またマントを着て観に行かせていただきますよぉ~いっと!!
あいかわらずの異常なまでの洞察、深い解釈、ほとほと感心いたします。書いている間は思ってもいないのですが、そうとう納得いくことばかり。妙子がドロシーっていうのは、ちょっとイメージしていました。
このレビュー、自分のFBにのっけさせてください。
なな、なぜに私が、最近フェイスブックに入ったかなんかしたのをご存知なんですか!? お付き合い上の連絡手段として加入したんですが、まるで使えておりません。
他ならぬあなたさまのアドバイスでございますから、いなやもおうもありません。さっそく転載させていただきました。
いや~、それにしても、またしても羊腸のごとき長文になってしまい、お忙しいところ本当に申し訳ありませんでした……ご笑覧いただけたら望外の喜びです、はい。
本当は2~3回は拝見したい気分ありありなんですが、1回しか見ないからこそ、私の真空管式のうみそがえっちらおっちら回転するという部分もありまして……観劇という娯楽はほんとうに楽しいものですね。
『オズの魔法使い』、ですよねぇ。含羞が肉汁のようにしたたりおちる素晴らしい舞台。大変お疲れさまでございました。
来年もお忙しいんですか? お身体に気をつけてがんばってくださ~い! 待っております!!
そうだいさんは、FBはなんていう名前で始めてるんですか?「山内ケンジ」で出てるので、よかったら友達リクエストしてください。FBって、初めはキライだったけど、必要な情報源の人だけにしてゆくと、悪くないかも、と。
どうぞどうぞ! いかようなりともご自由にお取扱いください。この記事は1文字たりとも、山内さんの公演なしでは生まれなかったものなんですからね。単なる個人ブログの反古書きですが、より多くの方に読んでもらえる機会をいただけるのはとってもうれしいことです、はい。
FB……どうやって楽しく使うんですかね? これ。
今のところ、宮沢賢治の「下ノ畑ニ居リマス」って書いてある黒板みたいな使い方しか想像がつきまっせ~ん!!