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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

池脇千鶴はやっぱり、いい!!  映画『凶悪』

2013年10月15日 22時04分50秒 | ふつうじゃない映画
 アイヤー! どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした。
 千葉はもう、お昼前後から降りだした雨がどんどん強くなっていく一方でありありまして。台風26号? 怖いね~。明日も電車を使って通勤するつもりなんですが……大丈夫、じゃないよね。

 相変わらず近況は忙しい、忙しいの一辺倒でありまして。ほんでも、稼がなきゃいかんのですから文句は言いませんけど!
 どのくらい忙しいのかっていいますと、2週間前に購入したアルバム『ザ・ベスト! アップデイテッド・モーニング娘。』が、いまっだに聴けていない!!
 1~2時間もあったら聴けるだろうそんなもん、という声もあろうかと思います。でもねェ、あたしゃあきっちり腰をすえて、1曲1秒も聴きもらさずにその新世界を堪能したいわけなんですよ。そしてそのためには、仕事帰りで疲れた身でははなはだ心もとないし、なんといってもモーニング娘。とそのスタッフのみなみなさまに失礼にあたると!!
 そんなわけで、もろもろの喧騒をとっぱらい、沐浴うがいなど精進潔斎した上で再生ボタンを押すつもりなので、まだまだ落ち着ける状態にはありません。さすがに今月中にはなんとかするつもりではありまするが……

 さて、そんな毎日ではあるのですが、先日、予定よりも早くお仕事が終わったので、慌てて家にすっ飛んで帰り、自転車で繰り出して映画館のレイトショー上映を観てきました。
 今年の秋のラインナップの中でも、この映画ばっかりはなんとかして観ておきたかったんですが、上映から1ヶ月近くたって近所での上映スケジュールもレイトショーで1回きりっていう状況になってたんですよね。いや~、私は運がいい!


映画『凶悪』(2013年9月21日公開 128分)

 『凶悪』(きょうあく)は2013年の日本映画。ノンフィクションベストセラー小説『凶悪 ある死刑囚の告発』(『新潮45』編集部・編 新潮社)を原作とする社会派サスペンス映画である。
 原作は、実際に発生した凶悪な殺人事件を基に、獄中の死刑囚が告発した事件の真相を『新潮45』編集部が暴き、首謀者逮捕に至るまでを描いた犯罪ドキュメントであり、2009年の文庫化で10万部を超えるベストセラーとなった。

あらすじ
 スクープ雑誌『明潮24』に、東京拘置所に収監中の死刑囚・須藤から一通の手紙が届く。記者の藤井は、編集長の芝川から須藤に面会して話を聞いて来るように命じられる。藤井が須藤から聞かされたのは、警察も知らない須藤の余罪、3件の殺人事件とその首謀者である「先生」と呼ばれる男・木村の存在だった。木村を追いつめたいので記事にして欲しいと頼み込む須藤の告白に当初は半信半疑だった藤井も、取材を進めるうちに須藤の告発に信憑性があることを知り、やがて取り憑かれたように取材に没頭していく。

主なキャスティング
藤井 修一  …… 山田 孝之(29歳)
 スクープ雑誌『明潮24』の記者。
須藤 純次  …… ピエール瀧(46歳)
 元暴力団組長の死刑囚。
木村 孝雄  …… リリー・フランキー(49歳)
 須藤に「先生」と呼ばれている不動産ブローカー。
藤井 洋子  …… 池脇 千鶴(31歳)
 藤井の妻。認知症の姑の介護に疲れ果てている。
藤井 和子  …… 吉村 実子(70歳)
 藤井の実母。認知症を患っている。
五十嵐 邦之 …… 小林 且弥(31歳)
 須藤の舎弟。須藤に心酔している。
日野 佳政  …… 斉藤 悠(29歳)
 木村から須藤に託された新参の舎弟。
田中 順子  …… 範田 紗々(ささ 28歳)
 日野の交際相手。日野の裏切りを疑って逆上した須藤により惨殺される。
佐々木 賢一 …… 米村 亮太朗(36歳)
 須藤の刑務所時代からの仲間。須藤を裏切って殺される。
新島     …… 粟野 史浩(39歳)
 暴力団・新島組の組長。手下の佐々木の策略に乗った須藤に襲撃される。
遠野 静江  …… 松岡 依都美(いづみ 33歳)
 須藤の内縁の妻。須藤との間に娘の星姫(せいら)がいる。
福森 孝   …… 九十九 一(60歳)
 木村の共犯者。身寄りのない老人を探して木村に紹介していた。
森田 幸司  …… 外波山 文明(66歳)
 森田土建の社長。木村の共犯者。現在は原因不明の事故に遭い植物状態になっている。
森田 道江  …… 竜 のり子(69歳)
 幸司の妻。植物状態になった夫を介護している。
牛場 悟   …… ジジ・ぶぅ(56歳)
 牛場電機設備の社長。借金まみれの呑んだくれ。
牛場 百合枝 …… 白川 和子(66歳)
 牛場悟の妻。夫の殺害を木村たちに依頼する。
牛場 恵美子 …… 原 扶貴子(41歳)
 牛場悟と百合枝の娘。母と共に、実父の殺害を木村たちに依頼する。
牛場 利明  …… 広末 哲万(ひろまさ 35歳)
 恵美子の夫。姑や妻と共に、舅の殺害を木村たちに依頼する。
菅原     …… 伊藤 紘(こう 67歳)
 第一の事件の被害者。借金のトラブルで木村に殺害される。
島神 剛志  …… 五頭 岳夫(ごづ たけお 65歳)
 第二の事件の被害者。福森に紹介されて木村と接触する。
木村 幸恵  …… 山田 彩(17歳)
 木村孝雄の娘。藤井が事件を取材した時点では高校3年生。
遠野 星姫  …… 森田 眞生(まお 16歳)
 須藤と静江の娘。藤井が事件を取材した時点では中学3年生。
芝川 理恵  …… 村岡 希美(43歳)
 『明潮24』編集長、藤井の上司。
池田 太一  …… ウダ タカキ(35歳)
 『明潮24』の記者、藤井の同僚。

主なスタッフ
監督    …… 白石 和彌(39歳)
脚本    …… 高橋 泉(39歳)、白石和彌
原作    …… 『凶悪 ある死刑囚の告発』(月刊『新潮45』編集部編 2007年)
音楽    …… 安川 午朗(48歳)
製作・配給 …… 日活
企画協力  …… 新潮社

原作『凶悪 ある死刑囚の告発』の内容
 雑誌『新潮45』の記者・宮本の元に一通の手紙が送られて来た。送り主は、当時2件の殺人事件で死刑判決を受けていた元暴力団組長の後藤良次という男だった。
 手紙の内容は、自らが関わった新たな3件の殺人事件の告白だった。さらに事件には他に首謀者がおり、その男は今も一般社会で普通に生活しているという。 後藤はその男への復讐のために事件を告白する手紙を送ってきたのだった。
 宮本は面会や手紙のやり取りを重ね、取材を続けた。さらに、後藤が語る事件の首謀者に関しても独自に調査を開始した。その人物は、茨城県で不動産取引をしている地元の名士だった。
 しかし、3件のうち2件は明確な証拠をつかむことはできず、事件を立証できる可能性があるのは残る1件だけだった。その事件は、借金を苦にした自殺と処理されていたが、後藤によると、実はこれが家族も承知した上での保険金殺人だったのだという。後藤は自殺したとされる男性の保険金の金額を記憶しており、それが重要な証拠になった。
 こうして2005年10月、首謀者と目される「先生」が関与したとされる3件の殺人事件の取材記事を載せた雑誌『新潮45』が刊行された。そしてこの記事がきっかけとなり、「先生」や共犯者、殺人を依頼した家族が逮捕された。裁判の結果、2009年1月に「先生」には無期懲役の刑が下り、一方、後藤は控訴が棄却され死刑が確定した。


 いつものように、前情報が長くなってしまい、あいすみません! 私の大大大好物な、実録犯罪もの映画の最新作であります。

 このへんの「実際にあった事件を元にしたサスペンス映画」というジャンルでいいますと、最近の作品で私の頭にパッと浮かぶのはデイヴィッド=フィンチャー監督の『ゾディアック』(2007年)とポン=ジュノ監督の『殺人の追憶』(2003年)、そして、なにはなくとも園子温監督の『冷たい熱帯魚』(2010年)といったあたりですね。

 『冷たい熱帯魚』なんかが極端な例になると思いますが、実録犯罪ものは「実録」といいつつも、フィクション作品になる上で、必ずどこかに実際に発生した事件とは違う設定や展開が入り込んでひとつの作品になるものがほとんどだと思います。それは、実際の事件に関する裁判がまだ途中であるとか事件に関係した人物が存命しているとか、2~3時間という上映時間におさめるために事件の複雑な経緯をショートカットしなければいけなかった、などといった制作上の事情もあるだろうし、事件を観客に近い視点から俯瞰する主人公を作らなければならないとか、展開をもっとドラマティックにしたいという物語上の意図もあったりするわけです。

 そういった中で、今回観た『凶悪』は比較的、原作となったルポ小説に忠実な内容に仕上がっているように前半は見受けられたのですが、物語がどんどん進んでいくうちに、原作を夢中になって読んだ身としては、「あれ……こんな感じだったっけ?」と不思議な違和感にとらわれるようになっていきました。

 例えば、『冷たい熱帯魚』の後半からの「アッと驚く急展開」は、作品が「よくできた実録犯罪もの」から一気に「まごうことなき園子温ワールド」に跳躍していくという、監督の作家性がさらけ出された結果の改変だったと解釈しました。まぁ、個人的には前半のほう(でんでんパート)がむちゃくちゃおもしろかったので、はっきり言っちゃえば監督の個性でも実際の事件における真犯人の狂気にはまるで歯が立たなかった、と私は見たんですけど。

 それとほぼ同じくらいの配分で、実は『凶悪』にも、原作にはなかったオリジナルな部分、つまりは監督・白石和彌の作家性というものがかなり濃厚に混入していたと感じました。『冷たい熱帯魚』ほどわかりやすく熱いスパークはありませんが、よっぽど『凶悪』のほうが巧妙でよくできた「編み込み」だったと私は思ったので、そのチャレンジはすごく良かったですね。


 映画の『凶悪』は、物語が進んでいくうちに、主人公である雑誌記者の藤井が入り込んでいく、死刑囚・須藤と不動産ブローカーの「先生」を中心として黒々と渦巻く殺人の連鎖と並行して、その世界の取材を終えた藤井が帰宅した先、つまりは他ならぬ藤井自身の家庭でリアルタイムに発生している、「認知症の姑の世話にノイローゼ状態に陥っている妻」という大問題もクローズアップされていくようになります。もちろんこの、藤井の個人的な話は原作にはまったくありませんでしたし、映画のパンフレットでも、藤井のモデルとなった原作者自身が「あのくだりは完全に監督のオリジナリティ」と断った上で絶賛しています。

 映画で語られる藤井家の問題は実に深刻なもので、丸一日取材のために家をあけている夫のために妻が姑の面倒を見ているのですが、いよいよ行動がおかしくなってきた姑とのコミュニケーションもまったくとれなくなり、「言うことを聞いてくれない意地悪な女」と認識する姑は妻に手を上げる始末。その一方で、実の母であることもあってか、夫(主人公)は施設に入れるべきだという妻の懇願を、「仕事で疲れてるからまたあとにしてくれ。」と、まったく聞き入れてくれません。孤立無援となり、披露困憊した妻はついに夫婦生活そのものを続けることにも意味を見いだせなくなり……

 こういった非常に重だるい問題が、猟奇的な連続殺人事件の取材と並行して描写されていくわけなのですが、普通ならば「なんでまた、こんな話題をいっしょに織り込んでいくんだ?」と感じてしまうくらいに、いかにもサイズが小さくホームドラマ的なこの問題は、『凶悪』の扱う異常にも程のある大事件とは乖離した距離感があるように思えます。

 でもねぇ、これがまた、終盤に行くにつれて実に効果的に藤井の取材する事件のあらわす「凶悪」の本質にからんできて、作品の奥行きの深さを生み出してくるんですよねぇ!

 まず第一に、藤井家の介護問題と木村&須藤の巻き起こした連続殺人事件は、高齢化して家庭の中心にいられなくなった人物を周囲がどう扱うのか、という問題の結果としてそれぞれの現在がある、という共通項があります。つまり、まだ若く現役バリバリの藤井記者の家庭ではまだ「老いた身内と同居するか、施設に入所させるか?」という選択肢にとどまっていますが、物語の中で木村の哀れな餌食となった牛場家では、「木村に老いた身内の殺害を依頼して保険金をせしめるか、破産するか?」という、どっちに転んでも地獄しか見えない状況になっていました。深刻さの度合いはまるで違いますが、問題の中心に「老いた身内」がいるという点では同じなんですね。

 これらの話題の並立によって、映画『凶悪』は、原作を読んだだけでは「へぇ~、世の中にはそんな悪魔もいるのか。かかわり合いにならないように気をつけないとなぁ。」という程度だった大事件との距離感が、「もしかしたら自分自身がその悪魔になるのかも知れない。」というまでにググッと迫ってくる効果があったと思うんです。

 そして、精力的に取材を進め、木村と須藤という稀代の犯罪者コンビが持つ狂気の深奥を見つめていくにつれて、明らかに眼の光り方が一般人から離れていく藤井記者の異様さのあらわす意味も、山田孝之さんの的確な演技によって非常にわかりやすく提示されていたと思います。
 最初は、いまだに発覚していない卑劣な事件を世に明らかにするという正義から始まったのに、真相に近づけば近づくほど、その正義の執行人が狂気にとらわれていく恐ろしさ……まさにニーチェですねぇ。

 もちろん、原作から垣間見える実際の原作者は映画の藤井よりももっとプロフェッショナルでドライなジャーナリストですし、藤井がこの事件の取材の後に頭がおかしくなって犯罪者になってしまう、という単純な話でもありません。
 しかし、原作になかった「木村との面会シーン」というクライマックスにおいて、「お前も同類なんだよ。」というメッセージを刻み付けられてしまった藤井の顔の怖さといったら、もう……とにかくものすごいラストシーンでしたね。実は、まともに TVも観ない私にとって、山田孝之さんの演技を観るのはほんとに遅ればせながら今回が初めてだったのですが、まだまだ若いのに、危険な味わいをこんなに意識的に演じきることができるお人がいらっしゃったとは。おじさん感心してしまいました。

 山田さんもものすごく良かったのですが、映画『凶悪』はいろんな面でキャスティングが功を奏している部分が大きかったと思います。

 まぁ、何はなくとも事件の真犯人である木村&須藤ペアを演じきったリリー・フランキー&ピエール瀧ペア!! ここが実に良かったですねぇ~。
 名前の字ヅラを改めて見てもおわかりのように、どちらも実にふざけたスタイルで時代の最先端を駆け抜けてきた「おふざけのプロフェッショナル」です。そしてこれはつまり、実際の事件の真犯人である北関東のやくざ崩れと悪質不動産ブローカーの2人組とはまったく異質ながらも、「現代日本の生み出した流浪の民」という点では非常に似通ったところのある浮遊感があったのではないのでしょうか。
 リリーさんもピエールさんも、ちょっとモデルに忠実だとは言えない独自色がありすぎですし、そこをなんとか似せようとする演技的努力もきれいさっぱり捨ててしまっている潔さがあります。それなのに! それぞれの存在感がミョ~に設定にフィットしているんですよね。ムリが生じていないんです。
 そこに関しては、セリフを標準語で統一して、「だっぺ」的な方言を取り入れる再現演出を避けたという監督の選択がうまくいったと思います。なにはなくともリリー&ピエールのナチュラルな「フワフワした」不気味さが生きるようにしたということだったのでしょう。

 特にピエールさんの身体を張った熱演が随所に観られましたが、どこからもにじみ出てしまう須藤というアウトローの「あぶれ者」感。やくざ社会にも居場所のなかった狂犬がたどり着いた最終の地が木村の片腕だったという哀しみがごくごく自然に出ていたと思います。

 あと、上にヅラヅラと20名以上ものキャスト表をならべてしまったのですが、この映画において全員が見逃せない重要人物である、という意味ではありません。中にはまともなセリフさえ無かった人もいますし、1シーンにしか登場しなかった人もいっぱいいます。
 でも、そういう脇役中の脇役の味わいがいいんだ、この映画は! それぞれのキャラクターが、他のキャラクターの隠れた一面を如実にあらわす役割を担ったり、異常な事件の広大なネットワークを構成する欠かせない一角になっているんですね。

 たとえば、満を持して真犯人・木村への直撃取材を敢行した藤井に木村本人は居留守を決めこみますが、彼の代わりに制服姿の娘(演・山田彩)が玄関先に現れて、決然とした表情で藤井に帰れと通告します。娘さんにとっては、藤井は父の名誉と家庭の平穏をおびやかすハイエナ記者にしか見えないんですね。
 このシーンからは、あれほどまでに残忍無比な悪行を繰り返している木村が、その反面で娘をこれほどまでに立派に育て上げ、娘に尊敬される家庭人であった、ということが見て取れます。それ以前にも、他人の血にまみれた大金を得た木村&須藤がそれぞれの家族を集めてクリスマスパーティを盛大に開くという象徴的なシーンがあるのですが、他人の不幸の上に成り立つ自分たちの幸福、そしてその幸福を得るためならば何でもするのが人間、親を見殺しにするのも人間(牛場一家)という世の中の哲理を、この映画『凶悪』はあの手この手を使って描いているんですね。
 そういう意味でも、この映画はどんなに小さな役割のキャラクターにも見逃すことができない人生が込められていると思うんです。個人的には、主要でないキャラクターの中では牛場一家の娘婿役の広末さんの演技が印象的でした。「あ、俺たち、確実にやっちゃいけないことをしてる! もう後戻りできねぇ……」という絶望感がにじみ出るたたずまいが最高でした。そしてその一方で、自分の夫や実父にあたる人物の殺害を依頼する女たちの、悟りきったようなドライな対応も実に良かった。そこらへんの演者のバランスが本当にいいんですよね。

 リリーさんも怖かったねぇ、ほんとに。逮捕されたのちの法廷で、検察側の証人として出廷するピエールさんとにらみ合うときの目つきがサイコーに怖い!! いやいや、法廷でそんな顔したら絶対に不利だからやめてください!! 発言するセリフがいちいち、プロの役者さんにはなかなか出せなさそうな軽さに満ちているのも良かったです。

「とにかく、お酒飲ませて殺しちゃうけど、それはホラ、そちらが頼み込んできたわけだから。」

 という軽い言い方の恐ろしさね。


 『冷たい熱帯魚』にも、映画館中が爆笑に包まれてしまうやりとりがあったわけなのですが、なんのなんの、こちらの『凶悪』も思わず笑い声があがってしまうシーンがいっぱいありました。そこはもう、普段から親交があるというリリー&ピエールペアの独擅場ですよね。
 「あ、これ、先生関係ねぇや。」とか「焼却炉って思ったより浅いんッスね……あっ、これ、いったん置こう!」とか、「純ちゃん、ちょっとそれ、僕にもやらせて。」とか「純ちゃんは黙っててよ、バカなんだから!」とかね。う~ん、さすがは軽さが身上の一流タレント! 役者じゃないところがいいんでしょうね。


 いろいろ言いましたが、その一方で「北関東の自然の寂寥感とか田舎の無人感をもっと深めに撮ってもよかったのでは?」とか、「編集長役の村岡さんの演技がステレオタイプでつまんない」とか、「ジジ・ぶぅさんの起用は良かったと思うが、声質と服を脱いだときの体つきが若々しすぎて残念だった」とか、言いたいことはまだまだあります。特に、原作では須藤と木村の事件解明のための最重要人物だった共犯者(映画版でいう福森)の末路が原作よりもつまらないものに変更されてしまっていたことには大いに不服でした。いくらなんでも、あのくらいの勢いの衝突事故で死ぬことはないと思うんですけど……

 ということで、映画『凶悪』の結論。


池脇千鶴さんはやっぱり、いい!!


 いや~、30すぎたのにぜんぜん変わってないんですよね、容姿も演技も。
 ヘアメイクでどんなに疲れたように見せかけても、まだまだ中学生でもいけるんじゃないかというくらいに、若い……っていうか、幼い! ここまで老けないというのは……実際、女優さんとしてはマイナスよね。

 「犯罪の魅惑から逃れられない犯罪者とジャーナリスト」を描ききった作品とはまったく違う次元で、「老けることができない女優」という恐るべき業病をさらけ出した池脇さんだったのでした……

 設定上は「家庭生活に疲れ切った主婦」という役だったのに、作中に登場した他のどの女優よりもエロいとは……濡れ場を演じた人だっていたのに、だぜ!?

 ……それでも好きだ!!(『ギャグマンガ日和』)
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見わたす限りの美しさ、死臭ふんぷんたる  ~映画『風立ちぬ』~  ようやく本文

2013年09月12日 23時31分52秒 | ふつうじゃない映画
 ヘヘヘイどうもこんばんは、そうだいでございますよ~。みなさま、今日はいったいどんな日になりましたか?
 いや~、ここ数日で、関東はずいぶんと朝夜が涼しくなりました。っていうか、むしろ寒くなっちゃった?
 最近なんだか、毛布1枚で寝ていたら、夜明けに寒さで目覚めるっていうパターンが続いてるんですよね……早起きしなきゃいけないから都合がいいんですが、いつかカゼひいちゃうだろうなぁ。布団を引っぱりだすタイミングも近いですかね。


 さてさて、今回は約1週間前に観た話題の大ヒット映画『風立ちぬ』の感想みたいなもの、でございます。もうさ、観終わって1週間もたっちゃったら、いかな天下のスタジオジブリ作品といへども、じょじょ~に印象も薄れてきちゃうわけですよ……相変わらず忙しいお仕事とか℃-uteの日本武道館コンサートとかで文章にするのがだいぶ遅れてしまいましたが、いい加減にちゃっちゃとまとめてしまいたいと思います。

 と言っても、これほど感想を記すのに気が引ける映画もないんですよね……だって、公開からすでに2ヶ月近くになるんですよ!? もうさんざんっぱら、いろんな方々がレビューをあげてるわけでしょ? もう、「おもしろかったです。」だけでいいんじゃなかろうか、とも思っちゃうんですが……まぁ、どうやら宮崎駿監督にとっての最後の長編作品になるんだそうですし、いちおうながら我が『長岡京エイリアン』でも、礼を尽くして感想を述べさせていただくことにいたしましょ。


 なんといってもこの『風立ちぬ』は、今までの宮崎作品とは違って、明確に「過去に実在した日本のある時代」を舞台にした作品になっています。もちろん『となりのトトロ』(1988年)も『崖の上のポニョ』(2008年)も日本の現実にありそうな、あるいはあったであろう風景を起点にした作品ではあったのでしょうが、具体的に「いつごろのどこ」という部分がクローズアップされることはなく、時代背景のようなものが物語に深くかかわってくるといったことはありませんでした。『もののけ姫』(1997年)もいちおうは中世日本の史劇であるんでしょうが、具体的な固有名称は出ないかオリジナルな仮称に書き換えられていましたからね。「アサノ公方」って、堀越公方とか古河公方あたりがモデルなんでしょうか……劇中に登場してきてほしかったー!!

 それに対して、今回の『風立ちぬ』は関東大震災(1923年)や、直接描写はされていないものの太平洋戦争(1941~45年)にいたるまでの日本の社会情勢といったあたりが陰に陽に主人公の半生に大きな影響を与えています。というか、時代の奔流の中を主人公がどうやって生き抜いていくのか、という固定カメラ視点こそが『風立ちぬ』の主軸になっていました。
 そういう意味では、どの宮崎作品よりも、高畑勲監督の『火垂るの墓』(1988年)がもっとも近いジブリ作品になりそうなんですが、そこはそれ、『風立ちぬ』の主人公は観客も当惑してしまうような頻度で自らの妄想の世界に翼をはばたかせていき、現実の昭和史と、いかにもジブリらしい幻想的な世界とを自由に行き来する作品になっております。

 つまり、『風立ちぬ』は確かに、「現実の時代と主人公のかかわり」といった観点からみれば、宮崎作品で言うのならば、同じ掲載誌で原作が連載されていた20世紀前半のイタリアを舞台とした空賊ロマン『紅の豚』(1992年)に通じるような、史実を重視した路線の最新作ではあったのですが、それと同時に、確実に『千と千尋の神隠し』(2001年)や『ハウルの動く城』(2005年)といった、脚本あってなきがごとしのムチャクチャファンタジーを通過した宮崎監督でなければ創出することのできない、虚実のあわいがわざと曖昧になった最近の路線の延長線上の作品でもあったわけなのです。
 なにを今さらといった感じの後付けになりますが、こう観れば、『風立ちぬ』は宮崎監督のいくつかあった路線が見事に集結した「ラストにふさわしい」作品であった、ということになるんですよね。っていうか、長編映画としてのていをなすか破綻するか、ギリギリ最後の部分で結実した「しぼりにしぼった雑巾のラスト一滴」みたいなものだったのではなかろうかと! ずいぶんときれいな雑巾水なわけなんですが。

 私はね、個人的にいちばん大好きなジブリ作品が『紅の豚』だったんですよ。2番目は『宮崎駿の雑想ノート』(1995~96年 ニッポン放送)ですね。ジブリじゃないけど。

 そんなもんですから、序盤でさっそく怪しいイタリア人が出てきたときから「来るぞ来るぞ~。」という予感がしてたまらなくて、クライマックスで、いずことも知れない草原のかなたに『紅の豚』に直結する「ある光景」が見えた時には、「やっぱり来たー!」と、何度目かの涙を流してしまいました。やっぱり、そういうせつない物語なんですよね。根底にあるのは。


 話は変わりますが、『風立ちぬ』は序盤からラストにいたるまで、ひたすら美しい風景が描き続けられていく物語になっています。今までのように登場人物がありえない筋力アクションを展開させて跳んだりはねたりするというシーンはごくごく最小限に抑えられて、むしろ静かに会話するキャラクターたちの背景や持ち物にこそ、作画の魂が込められているといったふぜいがありました。

 しかし、それら美しい風景、キャラクターたちの美しい立ち姿が隠している、世界のもう一方の顔の血なまぐささといったら、もう……そのことを考えると、恐ろしくて見ていられないやら、哀しくて泣けてくるやら。もうたまらない説得力に満ちているんですね。
 少年時代の二郎の故郷(史実に基づけば群馬県藤岡市)の田園風景、上野から見た関東大震災の惨状、東京帝国大学の学び舎や愛知県名古屋市の三菱航空機(1934年からは三菱重工業)工場での日々、ドイツの厳寒、長野県軽井沢町のさわやかな夏、高地療養施設の荒涼とした風景、二郎の試験機から見わたす桜舞い散る春、そして、果てしない草原と青空が広がる二郎の「夢」の世界。

 美しい。ひたすら美しい映像の連続です。あの10万5千名もの犠牲者を出したという関東大震災までもが、リアルながらも遠めに見た一面の炎を描写するだけにとどめており、それでいながらも、倒壊する神社や不気味に鳴動する大地などといった実に的確な映像センスが冴え渡る演出になっていて、ショッキングさを巧みに取り除きつつ恐怖と不安を確実に伝えるという離れ業を、いとも簡単にやってのけていました。もう、脱帽なんてもんじゃないっすね……

 物語の前半の関東大震災は、青春時代の二郎の「偶然の出逢い」のきっかけとして通過していくのですが、物語後半の悲劇をいろどることとなる軍国主義体制の拡大は、最終的には大日本帝国海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)にいたるまでの数々の名戦闘機を設計したという実績をもって、二郎の生涯に大きな影をおとしていくこととなります。純粋に夢を追い求めることを望み、それを現実の世界に創出することが本当にできた天才がたどり着いた成果が、無数の犠牲者を生み出してしまった大戦争の一翼であったとは……あまりにも哀しすぎる結論ですよね。

 しかし、『風立ちぬ』はそういった二郎の夢の行く末を最後まで語ることはせずに、史実の上では、1935年2月に行われた九試単座戦闘機の試作一号機の飛行試験の成功(二郎、若干31歳!)までで一巻の終わりとしています。
 思えば、2枚の主翼がいったん下に曲がってから上にはね上がっているという、とっても印象的でカッチョいいデザイン「逆ガル翼」は、実はこの一号機のみにしか採用されておらず、同年の6月に初飛行した試作二号機、そしてそれが実戦投入された九六式艦上戦闘機(ゼロ戦の先代機にあたる)では普通のまっすぐな主翼になっていました。
 つまり、飛行機の設計者としての二郎を主眼にとらえながらも、「実戦に投入された戦闘機の設計者」としての二郎の業績とは実に巧妙に距離をおいていた、ということになるわけです。う~ん、うまい!

 そういったわけで、宮崎監督は徹底的に悲惨な時代に悲惨な実績を背負うことになったある天才の半生を、非常に繊細なバランス感覚をもって「ギリギリ美しく」描いていたわけなのでした。
 だからこそ、そういった映像の中で唯一、直接的とも言える描写法で鮮烈にえがかれていたあのシーンでの「鮮血の赤さ」が、もんのすごく強烈なインパクトをもって、観る者の胸に突き刺さってくるんですよね。ホントに、『風立ちぬ』を観ていると、私がいかに宮崎駿という天才のたなごころでいいように転がされている「いいお客さん」なのかが自分でもよくわかってきて、映画はもう文句の言いようもなく最高なんですけど、ものすご~く癪です! キィ~くやしい!!


 ただ、この映画を観ていてちょっと気になってしまうのが、「ヒロインのどこからどこまでが本物で、どこからどこまでが二郎の中のヒロイン」なのか? ってことなんですよね。

 考えてみれば、喀血して倒れるヒロインのあのシーンだって、二郎がその報にふれた瞬間に連想したイメージだとも解釈できるカット構成になっていました。
 もちろん、ラストシーンで満面の笑みをたたえて二郎に手を振っていたヒロインも、ヒロイン本人というよりは、無意識のうちに二郎が「自分に都合のいいように生み出した」彼女だった可能性は濃厚なわけで、どちらかというと、この『風立ちぬ』に登場したヒロインは、実際にそういう人がいたというよりは、二郎という「働きもん」のために神様か宮崎監督がつかわした「理想的な恋人」という印象が強いんですよね。ともかく、都合がいい! 都合がいい上に「美しいままで去ってくれる」というんですから、嫁さんらしい仕事はしていないわけなんですが、永遠のヒロインになりおおせてくれるというわけなんです。


 う~む。そう考えてみると、『風立ちぬ』のこの「里見菜穂子」という人物って……魅力、ある?


 こうなっちゃうと映画『風立ちぬ』というフィクション作品の半分ほどを否定することになっちゃうんですが、立派に伴侶として夫の仕事をサポートして、劇中の頃にはすでにお子さんも産まれていたという、堀越二郎さんの実際の奥様をアニメに登場させたほうがよっぽど魅力的だし、よっぽど「ジブリのヒロイン」っぽいような気がするんですが……

 どうなんでしょうね。無論のこと、『風立ちぬ』は今現在も大絶賛の嵐の中でロングラン上映中なわけなんですが、この原作小説どおりに「古典的な、あまりに古典的な」人間らしくないヒロインって、歓迎されてるんですかね? これはぜひとも、女性に意見を聞いてみたいですよねぇ。私そうだいはまごうことなき男性(おっさん)であるわけなんですが、私は男でも、ヒロインのあの生き方には全然ピンときませんでした。ピンときませんよ、そんなもん。だって、そもそも「生きてない」んですもんね。
 まぁ、別にヒロインの造形だけにぶつくさ言うつもりはないんですが、周囲の女性キャラクターも、他の面では活き活きとしていても、ヒロインに関しては一様に涙を流すだけで個性がなくなっちゃうし。

 古い! 実に古いんですよ。でも、かつて『風の谷のナウシカ』(1982~94年)で徹底的に闘うバトルヒロインを、『もののけ姫』にいたってはヒロインで野獣という究極の女性キャラを存分に動かしまくっていた宮崎監督が、なぜあえてこのヒロインにスポットライトを与えたのでありましょうか。闘わないにしても、これまでのジブリ作品のヒロインにはのきなみ「母性」か「自立性」のどっちかが与えられていたような気がするのですが、菜穂子はおもしろいように全ての要素が欠落していますよね。自分で車を運転して逃走をこころみていただけ、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のクラリス姫のほうがよほど体育会系ですよ。

 わからない……宮崎監督が行き着いた最後の長編作品のヒロインにしては、その存在があまりにも希薄でとっぴょうしもないのです。
 結局、夢を追う男が必要とするものは、そういう「自分を滅してくれる女性」ということなんでしょうか。でも、そんな人、いる? よしんばいるとしても、そんな人、近くにいて楽しいのかしら?
 まぁ、私は恋愛経験が絶無にひとしい、草食系男子にさえも相手にされずに日陰にはり付いて汲々としている「ゼニゴケ男子」なので、男女のあわいのあれこれについてはなんの発言権もないわけなんですが、どんなにおじいちゃんになっても、そういう女性にあこがれちゃうもんなんですかねぇ……男って。

 二郎と菜穂子との、雪がちらほら舞い散る中でひっそりと執り行われる結婚の儀式のはかなさは、もう言いようもなく美しいわけなのですが、その美しさがかえって浮き彫りにしてしまう「近い未来の菜穂子の死」。
 物語中盤のジブリ史上に残る名シーンであるわけなのですが、この「直接えがいていないのに裏で悲劇を色濃く予兆させる」という手法。ラストシーンに登場して、美しく弧を描きながら天空に昇っていくゼロ戦の編隊にも通じる味わいがありましたよね。

 里見菜穂子、死ぬために生き、その死ゆえに美しかった女性。私はちょっと~、好きじゃない。


 またまた、とりとめもなく話題が変わりますが、私は今回の『風立ちぬ』、なにが感動したって、声優陣の熱演の数々に大いに感動いたしました。

 今回わたくし、家に TVがないこともあってなんの前情報もなしに『風立ちぬ』を観に行きまして、パンフレットも買わなかったので、具体的に誰がどの役の声を担当しているのかを全く知らずに本編上映にのぞみました。あ、二郎の声が誰かはさすがにネットニュースで知ってましたね……

 そういう状態で観てみての感想なんですが、二郎役の庵野秀明さん、カプローニ伯爵役の野村萬斎、そして、二郎の信頼できる上司・黒川役を演じた西村雅彦さんの演技に感動しちゃいましたよねぇ、やたらと!!

 まず先に言っておきたいのですが、私自身はスタジオジブリの「声優に俳優を起用」主義はあまり好きではありません。どうやら宮崎監督は、現在活躍している声優さんたちの「存在感のなさ」や「演技の軽さ」を指摘して敬遠しているのだそうですが、そんなことは一般の俳優さんがただって同じことなんじゃないの? と思えて仕方がないからです。
 声優だって俳優だって、誰もが絶賛する飛びぬけた才能もあれば、箸にも棒にもひっかからないカスだってあるんじゃないですか? だとしたら、別にそれを選ぶのに声優だけをつまはじきにする必要なんかないはずだと思うんです。
 でも、これってジブリ作品だけに限らない興行的な問題も大きいんでしょうね……押井守監督の『スカイ・クロラ』(2008年)とか細田守監督の『時をかける少女』(2006年)以降の長編3作も、基本的に重要な役は声優さんじゃなかったし。

 んで、特に『もののけ姫』以降はプロの声優さんが活躍することがほとんどなくなったジブリ作品だったのですが、私にとっては「良くも悪くもない」というか、少なくとも宮崎監督の言うほどの効果を持ったキャスティングは別になかったような気がしていたんです。印象に残ったのは『となりのトトロ』の糸井重里さんと『もののけ姫』とかの美輪明宏さんぐらいかなぁ……あとは基本的に「あ、緊張してるんだなぁ。」って感じの声の硬さしか伝わってこないのがほとんどで。
 今回の『風立ちぬ』だって、はっきり言って菜穂子とか本庄とか菜穂子の親父とか黒川の奥さんといった面々の声は、上手ではあっても記憶に残っておりません。その自然さが監督のねらいなんでしょうかね……そんなんどうでもいいんですけど。

 そんな中での、庵野、野村、西村! このお3方は実に素晴らしかったですね。宮崎監督の言いたかった感じはこんなもんなのかと、やっとわかった気がしました。まさしく、たった一言で十二分に伝わってくる存在感。

 口さがないネット上の評判では、庵野秀明さんの主役起用を「話題づくりだけ」とか「素人まるだしの棒読み地獄」などとガタガタ言っているようなのですが、なんのなんの、あの声をさして素人と評しているあんたの耳が素人なの! もっとよく聴いてごらんなさい。

 庵野秀明という人物の声を宮崎監督が欲した本当の理由とは、その声質などという表層の問題ではなくして、誰だったら『風立ちぬ』における主人公の「夢に鋭敏で、現実に鈍感な天才」という部分に命を与えられるのか。その答えが庵野さんにあったからだと思うんです。
 でも、いくら宮崎監督の知る庵野さんがそうなのだったとしても、そういった監督の意思をちゃんと理解して、その上で演技者としてその要求にこたえられるテクニックを庵野さんが有していなければ元も子もありません。その点、庵野さんは実にうまい俳優でもあったわけなのです。だからこその、この超絶ヒット!

 私が庵野さんの演技について感服した局面はその出演シーンすべてにあったのですが、その中でもしいて挙げたいのは「菜穂子と軽井沢の湧水ポイントでの会話」と、「ラストシーンでのカプローニ伯爵との会話」、この2シーンでの二郎のセリフの絶妙さです。

 湧水ポイントでは、それまでも軽井沢で何度か会っていた菜穂子とあらためて会話をして、かつて自分と菜穂子が関東大震災やらすっ飛んだ帽子やらで面識があったことにやっと気がついた二郎が、

「あぁ~、あのときの!」

 と、やっと気がつく発言があるのですが、そのときの間の抜けた声の絶妙すぎるポンスケ感といったら、もう! ヒョロヒョロした声の割にはけっこう男らしい言動が板についていて、仕事もバリバリこなす二郎だからこそ、このシーンでの鈍感さがいいんですよね。
 私だったら、関東大震災みたいな大災害でご婦人にあんな手助けをしたら末代までの自慢話にしてしまうに違いないのですが、物語の中で二郎の印象に残ったのは、むしろ菜穂子の付き人を務めていたねえやさんの方だったらしく、そういったすれ違いがものすご~く二郎の魅力を高めていますよね。やっぱり、どっかズレてるのね。

 もうひとつのラストシーンでのセリフというのは、夢の世界で怪人カプローニ伯爵に「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね?」とたずねられたときにこたえた、

「はい……終わりはズタズタでしたが。」

 という一言でした。
 このときの、セリフに込められた無念さ、悔しさ、悲しみ!! なんの誇張もなく、これを語った庵野さんのかすれかかった声の演技には度肝を抜かれてしまいました。
 大した役者だ……その一言で、大量の若い血によってあがなわれなければならなかったゼロ戦の呪われた運命を語りつくしている。このセリフがあったからこそ、久石譲のものすごくいいフレーズにのって飛びたっていくゼロ戦の編隊と、手を振る操縦者たちのシルエットが猛烈に涙をさそうわけなのです。
 庵野秀明、恐るべし!
 何年か前に、池袋の新文芸坐のトークイベントで間近に本物の庵野さんを見たことがありましたが、好きなことの話をするときにこれほど明瞭に通る声を持っているなんて、どんだけピュアな人なんだ!? と感じ入っていました。でも、ピュアであると同時に、ほんとにいろんなことを経験したお人でもあるのよねぇ。ごちそうさまでした。

 とまぁ、まず庵野さんの話だけをしましたが、カプローニ伯爵という正体不明のキャラクターを演じた野村萬斎の「うさんくささ」も最高でしたね~。さすがは伝統に裏打ちされたうさんくささを生業とする狂言方能楽師!
 とにもかくにも、その年齢設定のよくわからない若々しく自由奔放なエネルギーがすばらしいのですが(実際の伯爵は二郎より17歳年長です)、適度に知的で適度にテキトーな伯爵をこれ以上ない魅力満載で楽しく演じていたと思います。
 それにしても、よりにもよって4歳のときに初舞台を踏んで半世紀近く芸能人生をあゆんできた萬斎さんに、

「創造的人生の持ち時間は10年だ。」

 というセリフをしゃべらせるって、宮崎監督はいったいなにを考えてるんだろうか。だって、たぶんこれからも死ぬまで狂言やってくんだぜ、この人!?
 まぁ、創造的人生=活動期間とは言ってないので、「さっさと引退したほうがいい」というわけではないのでしょうが、萬斎さんはこのセリフについてどう感じたんでしょうかね。うらやましいかもね、そう断言できる監督の「老い方」が。

 萬斎さんについてはそこまでにしておきまして、実はこの『風立ちぬ』を観たときにいちばん感心したのが、残る西村雅彦さんの演じた黒川というキャラクターの味わい深さでしたよ、ええ。
 最初、西村さんだと知らずに物語を観ていたときには誰が演じているのかわからなかったのですが、

「なんか、ちょうどムスカ大佐をやってたときの寺田農さんにものすごく似ている声なんだけど、さすがに本人じゃないよなぁ、若いし……もしかして、西村雅彦さん? いやいや、まさか……でも、もし西村さんだったら、日本の俳優界の未来も明るいよなぁ。」

 とかなんとか思いながら観ていまして、エンドロールで西村さんの名前を確認してビックリ!
 西村さん、いい年齢の重ね方をしておられますねぇ! 私個人の感想といたしましては、今回の黒川という人物は、実に『風の谷のナウシカ』におけるクロトワ(演・家弓家正)以来に大好きな男性サブキャラクターとして記憶されることとなりました。
 あれは……ツンデレとは言わないんでしょうけど、苛烈に指導しながらも二郎を実に正当に評価し信頼する見事な上司のたたずまいには激しく感動いたしました。ああいうのをカッコイイ大人っていうのよねぇ! 心の底からあこがれます、ああいう人。


 あぁ、また今回もこんくらいの文量になっちまったかい!

 ということで、まず「初回に観た」直後の印象の羅列としてはこのくらいにとどめておきたいのですが、おそらくこの『風立ちぬ』、何度観ても観るたびになんらかの発見ができる深みのある長編作品になっていますし、同時に、それを観る自分の「歳のとり方」にしたがっても、印象が大きく変わってくるものになるはずです。

 私、ジブリ作品のソフト商品を実際に購入したのは『もののけ姫』の VHSビデオだけなんですけど(それも成り行き上の購入で特に好きというわけではありませんでした)、この『風立ちぬ』は家に置いときたくなる一品になるかも知れませんね。なんか、いい! 久石譲のフレーズもよかったし。


 ああっ、音楽! 音楽といえば、エンドロールで流れた荒井由実の『ひこうき雲』!! これのこと言うの忘れてたわ! これについても感じたことがあってね。

 でも……ま、いっか!! もうたいがい長くなったし。やめときましょ。


 もしかしたら、も1回観に行くかも? 『風立ちぬ』、いい映画でしたよ~いっと。
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見わたす限りの美しさ、死臭ふんぷんたる  ~映画『風立ちぬ』~  前置きだけ

2013年09月06日 21時20分45秒 | ふつうじゃない映画
 すんません! 今回の記事で感想までいきたかったんですが、映画に関する情報だけでけっこうな文量になっちまったんで、具体的なことはまた次回に仕切りなおしてやりたいと思います。
 もうちょっとばっかし待っててね!


『風立ちぬ』(2013年7月20日公開 126分)

スタッフ
原作・脚本・監督 …… 宮崎 駿(72歳)
作画監督     …… 高坂 希太郎(51歳)
音楽       …… 久石 譲(62歳)
プロデューサー  …… 鈴木 敏夫(65歳)
主題歌      …… 荒井 由実『ひこうき雲』(1973年11月リリース)
製作       …… スタジオジブリ
配給       …… 東宝

 『風立ちぬ』(かぜたちぬ)は、宮崎駿により月刊誌『モデルグラフィックス』(大日本絵画)において、2009年4月号から2010年1月号まで連載されたマンガ作品(全9話)と、それを原作としたアニメーション映画。

 航空技術者として活躍した堀越二郎(1903~82年)が主人公のモデルとなっている。七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、零式艦上戦闘機の設計などを手掛けた、二郎の生涯が描かれる。東京、名古屋、ドイツなどを舞台に、二郎の10代から30代までを中心に物語が展開される。航空技術者としての活動とともに、オリジナル要素であるヒロインとのロマンスも盛り込まれている。

 宮崎駿が『モデルグラフィックス』に連載したマンガがアニメ化されるのは、1992年の『紅の豚』以来2作目となる。
 実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を描いた作品であるが、堀辰雄(1904~53年)の中編小説『風立ちぬ』(1938年)からの着想も盛り込まれており、実際のエピソードを下敷きにしつつもオリジナル要素を盛り込んだストーリーが展開される。宮崎が監督した作品で、実在の人物を主人公とするものは初めてである。また、主人公のモチーフには、宮崎の父の人生も反映されている。宮崎の父は、幼いころに関東大震災に遭い、その後、零式艦上戦闘機や月光の風防などを製造する会社の経営に携わり、前妻を結核で亡くしている。これらをモチーフとすることで、本作の主人公像が作られていった。

 映画『崖の上のポニョ』(2008年)の製作を終え一段落したことから、宮崎駿は『月刊モデルグラフィックス』(大日本絵画)にマンガを連載することとなった。宮崎は当初は自身の趣味のつもりで描いていたといい、本作を映画化することは全く考えていなかった。その後、鈴木敏夫が映画化を提案したが、宮崎は本作の内容が子供向けでないことを理由に反対していた。宮崎は「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない。」と主張していたが、鈴木は戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対を主張する宮崎の矛盾を指摘し、「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき。」と述べて映画化を促した。映画版の企画書の中で、宮崎は製作意図について、「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。」と述べている。

 2012年12月の記者会見においては、高畑勲が監督したスタジオジブリ制作の『かぐや姫の物語』も、同日公開の予定と発表されていた。宮崎と高畑の映画が同時期に公開されるのは、1988年に『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が2本立て同時上映されて以来だが、今回は同時上映ではなく個別に上映される予定となっていた。しかし、『かぐや姫の物語』は2013年に入っても絵コンテが完成しなかったことから、公開時期を延期し同年秋に公開されることとなった。

 制作中、スタジオジブリの鈴木敏夫に対して、映画監督の庵野秀明が「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしい。」と申し入れていた。しかし宮崎は、作画スタッフとしてではなく本作の主人公として出演するよう、庵野に要請した。庵野は困惑しつつもオーディションを受けたが、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたため、庵野も出演を受諾した。宮崎は主人公役に庵野を選んだ理由として、「いい声だからでなく、存在感で選んだ。」としている。

 堀越二郎の長男は、主人公については「いちずさ、気性、生きざまが美しく、その子供としてすごくうれしかった。」と語っている。さらに「父は必ずしも零戦は好きではなかった。」と指摘し「宮崎監督がすごいのは九試完成までで、零戦を描いていないこと」だと評している。零戦は好きではなかったという理由について堀越の長男は、設計時の要求水準の高さ、テストパイロットの殉職、特別攻撃隊での使用など、二郎にとって零式艦上戦闘機には辛い思い出が多かったことを挙げている。
 また、本作を巡っては軍用機の開発を題材としていることもあり、マスコミなど各所で様々な反応が見られた。

 映画版は全国454スクリーンで公開され、2013年7月20・21日の2日間で興行収入9億6千万円、動員74万人になり映画観客動員ランキングで初登場第1位となった。2013年7月25日、イタリアで開催される第70回ヴェネツィア国際映画祭で、最高賞「金獅子賞」を競うコンペティション部門の上映作品に『風立ちぬ』が選ばれたことが発表された。
 同年9月1日までで累計興行収入88億4千万円、累計動員714万8485人となり6週連続映画観客動員ランキング第1位となった。


おもな登場人物とキャスティング
堀越 二郎 …… 庵野 秀明(53歳)
 本作の主人公。子供のころから飛行機に憧れ、東京帝国大学で航空工学を学んだ。三菱重工業に入社し、ドイツへの留学を経て航空技術者として数々の戦闘機を設計することになる。七試艦上戦闘機の開発では初めて設計主務を任されるが、同機は飛行試験中に墜落した。失意の中、休暇で訪れた長野県北佐久郡軽井沢町で菜穂子に出会う。その後、九試単座戦闘機の試作機に逆ガル翼や沈頭鋲(リベット)を採用するなど、独創的な設計を行い、その非凡な才能を開花させる。のちに零式艦上戦闘機など優れた飛行機を次々と生み出した。

堀越 加代 …… 志田 未来(20歳)
 二郎の妹。医師となり、菜穂子の看病のために黒川邸を訪れる。

二郎の母 …… 竹下 景子(59歳)

里見 菜穂子 …… 瀧本 美織(21歳)
 東京に住む資産家の令嬢。
 本作オリジナルの架空の人物で、名前の由来は堀辰雄の長編小説『菜穂子』(1941年)にちなむ。

菜穂子の父親 …… 風間 杜夫(64歳)

本庄 季郎 …… 西島 秀俊(42歳)
 二郎の三菱重工業での同僚の航空技術者。東京帝国大学時代からの友人。九六式陸上攻撃機の設計主務を務めた。

黒川 …… 西村 雅彦(52歳)
 三菱重工業の二郎の上司。二郎に難易度の高い設計を任せるなど、仕事に対して厳しい一面を見せる。
 同名の「黒川圭介」という登場人物が堀辰雄の小説『菜穂子』にも登場している(菜穂子と結婚する人物)。

黒川の妻 …… 大竹 しのぶ(56歳)

服部 譲次 …… 國村 隼(57歳)
 二郎が所属する三菱重工業設計課の課長。二郎の手腕を買っており、九試単座戦闘機の開発では設計主務として二郎を推薦する。

カストルプ …… スティーブン=アルパート
 軽井沢町に滞在していたドイツ人。たまたま二郎や里見家と同宿だったことから、二郎と菜穂子が交際を始める際に立会人となった。

ジャンニ=カプローニ(1886~1957年)…… 野村 萬斎(47歳)
 世界的に著名な飛行機製作者。夢の中で二郎と邂逅して二郎を激励する。
 宮崎駿は野村萬斎への演技指導において「カプローニは二郎にとってのメフィストフェレスだ。」と説明している。



 すみませんねぇ~、もうちょっと待っててつかぁさい。
 まぁ、大丈夫だろ! 劇場公開もまだまだ続くだろうしねぇ。

 なにを今さらって感じなんですが、ジブリはすごいよねぇ、ほんと……
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しみじみ彷徨! 2013年土浦の旅  ~三条会による百景社アトリエ公演『ひかりごけ』~

2013年06月23日 22時33分15秒 | ふつうじゃない映画
 ぺっへ~い。どうもこんばんは、そうだいでございます。
 夏がもう、そこまで来ております。雨の日がずっと続いていたかと思えば、気がつけば蒼天にはおてんとさま、気温はガン上がり、町の食べ物屋さんには「うな丼はじめました」ののぼりが出るようになりました。ついに今年もやってきましたね~。

 そんなわけで、本日の関東地方も言うに及ばずものすごい暑さだったのですが、私はお休みをいただきまして、なんと行き慣れない異郷の地へ足を踏み入れることとなりました。つっても、まぁ関東ですけど。

茨城県・土浦市。

 茨城県といったら何度か行ったことはあったんですが、土浦市に行くのは今回が初めてでしたねぇ。
 行った目的は例によって例のごとく、劇団三条会の公演の観劇と、それにかこつけての土浦に残る城郭跡の探訪でありました。ほんとにもう、千葉と東京近郊以外に私が出かけるとしたら、必ずこの2大トピックなんだものなぁ~!! 楽しくってしょうがねぇや。

 そんなこんなで、本日はいつもお世話になっている我が携帯電話(ガラケーにきまってる)の便利な鉄道ダイヤ情報アプリを駆使しまして、午前8時に千葉を出発いたしました。も~最近は仕事にきたえられて朝型人間になるなる。8時に出発なんて休日ならではのぜいたく!って感じですよね~。

 目指す先は、JR 総武線→東武鉄道野田線→JR 常磐線と乗り継いで行っての、JR 土浦駅。
 個人的にはずっと、「千葉からふらっと行けるのは茨城なら牛久あたりまでじゃなかろうか。」と勝手に思い込んでいたので、そこよりさらに北に行く今回の土浦行は小旅行をするような気構えでいたのですが、なんのなんの、土浦だって近い近い! 電車移動の時間は2時間弱ですむし切符代もそんなには高くないし、なにより乗り継ぎ回数が少なくて済むのがありがたいですね。私の感覚からすると、乗り継ぎが地味にめんどくさい埼玉の川越とかのほうがよっぽど小旅行です。

 午前10時前に到着した土浦の地は、予想以上の夏日和! これから私はいろいろと歩き回って目的地に向かうつもりだったので、駅舎から出た瞬間に「うわぁ……」と青ざめてしまうような快晴になっていました。でも、雨よりはずっとましですよね。

 初めて見る駅前通りの店々をながめつつ、私はまず一路、駅の西へ向かって歩いていきました。目指す先は、もちのろんで土浦城!
 そういえば、土浦の駅前では、夏の参院選かなにかに向けて運動していたある政党の政策宣伝カーに轢かれそうになった自転車の老人が運転手を思いっきり怒鳴り散らすという一幕がありました。私の見た感じでは明らかに車道を横切ろうとしたじいちゃんが悪いと思うんだけど……まぁ、2013年現在の日本でこの政党に文句を言いたくなる、その気持ちはよくわかる。それにしても、常陸国の住人は21世紀でも血気盛んだ!! 気をつけるとしよう。

 さてその後、駅から1キロ弱の距離にある土浦城の跡地を利用した「亀城公園(きじょうこうえん)」(茨城県土浦市中央1丁目)に到着して恒例の探訪をおこなったわけだったのですが、そのあたりは今回の記事とはまた別に、『全国城めぐり宣言』のひとつとして独立して記したいと思います。やぁあ~っぱり、ここもいいお城だったねぇ!

 そんなこんなで、時刻は正午をすぎて12時30分。そろそろ移動したほうがいい頃合いになったので、私は亀城公園を出て国道125号線を北上。一路、今回の三条会公演の会場となった「百景社アトリエ」へと向かいました。


 おお、百景社アトリエ……よもや2010年代もなかばにさしかかったこの御世にその名を冠した工房に足を踏み入れることになろうとは! しかも、そこで上演されるのは三条会のあの作品。そして、その上演の瞬間に、完全なるいち観客として立ち会っている私がここにいる。


三条会 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演『ひかりごけ』 6月22~23日 場所・百景社アトリエ(茨城県土浦市真鍋)


 上にあるとおり、今回の三条会公演は、茨城県のつくば市を拠点に2000年に立ち上げられた劇団「百景社(ひゃっけいしゃ)」の専用アトリエが今年3月に完成したことにともない、百景社自身の5~6月に上演されたこけら落とし公演『椅子』(作・ウージェーヌ=イヨネスコ)に続く他劇団からの「御祝儀」というかたちで上演されることとなったのだそうです。
 百景社と三条会との交流は、すでに百景社が結成されたその年から始まっていたということで、いまや「13年のつきあい」ということになっています。
 わたくしごとをぬかせば、私が三条会に俳優として参加することになったのは大学在学中の2001年夏のことでしたから、私も入った当初から「つくばにある百景社という若い劇団」の存在はよく聞いていました。そして、その後ほんとうにいろんな局面で百景社のみなさんとは親しく顔をあわせることとなり、2004年の8月には合同公演としてつくば市で、夏目漱石の『夢十夜』の全夜エピソードを上演するという企画もありました。もう10年ちかく昔の夏になるのね……

 それらの歳月を経て、ついに百景社がアトリエを構える運びとなり、そしてそこで最初に上演される外部劇団の公演が三条会の『ひかりごけ』だという事実は、もう、なんというか……作品を観ていない時点ですでに私の胸には迫るものがゴロンゴロンありまくりで、これを見逃してのうのうと生きているのならば、それはすでにわたくしではないという意味不明な決意をもって今日、土浦にやってきたというわけだったのです。

 でも、こんなご大層なことを言ってはいますが、なんともどっちらけなことに私は、肝心かなめの百景社さんの公演は今年の『椅子』はおろか、2006年1月につくば市で上演された『谷底』(作・鈴木泉三郎)以降まったく観ていないという大馬鹿ポンスケ状態でして、内心で「こんな私がアトリエにのこのこ顔を出していいものなのかどうか……」とビクビクしながら訪れたのでした。ホントにいいかげんにしないといけないねコリャ。

 今回上演される『ひかりごけ』(作・武田泰淳)は、三条会と百景社の両者にとって、この作品を上演するきっかけとなった富山県東砺波郡利賀村(現・南砺市)で行われた「利賀演出家コンクール」を介して非常に縁の深い作品になっているのですが、無論申すまでもなく、三条会単体にとっても上演歴の長い特別なタイトルになっています。
 実は、他ならぬ百景社の主宰で演出家の志賀亮史(あきふみ)さんこそが、「三条会の『ひかりごけ』の全ヴァージョンを観ている」というものすご~く貴重な生き証人でいらっしゃるわけなのですが、はばかりながら私もここで、ササッと三条会の『ひかりごけ』にかんする情報をまとめてみたいと思います。個人的には非常に、ひっじょ~に!! みっしりと思い出のつまりまくった年表であります……


2001年
8月 第2回利賀演出家コンクール出場(場所・利賀芸術公園利賀スタジオ)

9月 同コンクール最優秀演出家賞承認審査(場所・同じ)※一般公開上演ではなかった

2002年
3月 千葉県千葉市上演ヴァージョン(場所・千葉市美術館さや堂ホール)

11月 第9回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・中国 北京人民芸術劇院小劇場)

2003年
7月 第3回密陽(ミリャン)夏公演芸術祝祭出品ヴァージョン(場所・韓国 密陽市密陽演劇村ゲリラテント劇場)

12月 台北・牯嶺街(クーリンチェ)小劇場上演ヴァージョン(場所・台湾 台北市牯嶺街小劇場)

2004年
11月 第11回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・東京早稲田 戸山公園特設野外劇場)

2005年
7月 第1回まつしろ現代演劇プロジェクト招待公演ヴァージョン(場所・長野県長野市松代町 旧松代藩文武学校槍術所)

12月 三条会アトリエこけら落とし公演ヴァージョン(場所・千葉県千葉市中央区 三条会アトリエ)

2007年
1月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2008年
5月 なぱふぇす2008出品ヴァージョン(場所・栃木県那須郡 A.C.O.A.アトリエ)

2011年
5~6月 三条会アトリエ公演ヴァージョン A・B(場所・三条会アトリエ)

2012年
5~6月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2013年
6月 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演ヴァージョン
   現代演劇 ON 岡山主催公演ヴァージョン(場所・岡山県岡山市 岡山県天神山文化プラザホール)


 なるほど~、今回の百景社アトリエ公演で「13回目」の上演ということになるんですね。
 特に毎年1ヴァージョンと決まっているわけでもないのに、13年の歴史で13の『ひかりごけ』。まさにさまざまな「物語」がさまざまな国や場所で繰り広げられました。
 上にあるように、さらに1週間後の今月末には2日間、岡山県で「14ヴァージョン目」の『ひかりごけ』が上演される予定なのですが……残念無念! 私はどうしても観に行くことができないのよねェ~!! ほんとに口惜しいです……行けたらついでに天神山城か津山城あたりでも探訪してやろうと目論んでたのにィ!

 私が俳優として出演していたのは2001~08年の10ヴァージョンだったのですが……そうかぁ、5年前の那須が最後でしたか。あの公演も楽しかったですねぇ。

 ことあるごとに我が『長岡京エイリアン』でも語っているのですが、三条会の公演はたとえ同じタイトルでも、前回の公演と同じ内容が別の場所でリピートされるということはありえません。必ずその上演空間や俳優、時代に即した変容が作品ごとのカラーを決定付けているのが三条会の演劇、というか、「演劇のおもしろさを追求した演劇」の魅力なのだ、と私は確信しています。だから会場に行って生のものを目撃するしかないわけなんです。ライヴだってコンサートだって、そういった非効率的でプリミティヴな娯楽が現代に生き残っている理由は、突き詰めればそこですよね。

 そんなわけで各ヴァージョンごとにまったく違う世界を創り上げていた『ひかりごけ』なんですが、全ヴァージョンを客席から観ていたわけではないのでそれほど大したことは言えないものの、私の見立てでいくと、それでも2001~08年の10ヴァージョンとそれ以降の2011~12年の2ヴァージョンとのあいだには、特に大きな「違い」があったような気がします。

 各ヴァージョンによる変容はあったにしても、2001~08年の10ヴァージョンには、その作品の根幹に「男と女の『ひかりごけ』」というぶっとい軸があり、それを包むように「学生服姿の男たちの『飢餓感』」の物語が組み立てられていました。その具体的な現れ方には差があっても、最終的には「何をやってもわかりあえない、でもわかりあおうとあがくしかない男と女の関係」と、武田泰淳の『ひかりごけ』の裁判シーンでの笑うしかない船長と法廷との言葉のすれ違いのイメージとがオーバーラップしたクライマックスによって、作品は締めくくられていたのです。そして、その障壁だらけの物語を、あたかも両輪ともパンクしたママチャリでツール・ド・フランスに参加するかのような強引さで進行させていったその動力源は、『ひかりごけ』の小説世界を実感できない世代が、それでも『ひかりごけ』の世界に体当たりで潜入しようとしていくという、あふれんばかりに汗まみれな「若さ」だったのではないのでしょうか。
 ともあれ、そのころの『ひかりごけ』には総じて、「何も知らない状態から物語の探索を始めていく」という姿勢が共通していたと私は記憶しています。実際、私も若かったし。

 ところが、2011年以降のアトリエとザ・スズナリの2ヴァージョンは、明らかにそれまでの公演とは違う何かを動力源として進行していく物語になっていました。
 はっきりわかるのは、無邪気に性欲につながってもおかしくなかった以前のヴァージョンでの濃密な「男と女」の関係が、きれいさっぱり取り払われていたことです。まず、2011年のアトリエ公演は男優だけのキャスティングで、主演者が違う2パターンが交互に上演されていました。いっぽう、男優も女優もいっしょに出演しているという点では2012年のスズナリ版は今までと変わりがなかったのですが、そちらはそちらで男女の差は極力触れられないか、もしくは同じ世界に住んでいる男女という関係とは解釈しがたい「次元のへだたり」があるように私には思えました。無論、それはこれまでの「いっしょにいるのにわかりあえない」生々しく肉弾的なへだたりとはまるで違うものです。

 そして、そういった質感の大きな違いは男優と女優の関係だけではなく、性別にかかわらない俳優ひとりひとりの他の俳優との距離感や、作品の舞台が観客に与える印象にもおよんでいたため、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、それまでのヴァージョンとはまったく別のものになっていました。
 一言でいうのならば、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、走馬灯のような時間感覚をもって主人公の視点から見つめられていく「主観の物語」、ということになるでしょうか。

 なんの装飾もないまっさらの舞台に7組の机と椅子しかなく、唐突に学校の授業開始のチャイムとおぼしき鐘の音が流れるとともに、昔ながらの真っ黒い詰め襟の学生服を着た俳優たちがぞろぞろと現れてくるという始まり方の旧ヴァージョン『ひかりごけ』(2001~08年)は、俳優の身体が資本といった感じの汗まみれな肉弾戦が繰り広げられていくという、空間が「現にものすごいことになっている」明快で直接的な緊張感もさることながら、観客のほぼ全員が経験していた(いる?)はずの学校生活を自動的に想起させるチャイムで始まることからもわかるように、「現にそこに、観客の体感に近い時間が流れている」という空間を舞台の上に創り上げていました。まさしく「70分間一本勝負」といった感じですね。中身にいく前に、そもそも「外枠」の段階でリアルだったんです。

 ところが、2011~12年の新ヴァージョンはそこらへんが意図的に「ボンヤリ」していたような気がするのです。時間の流れ方、緩急やクローズアップの倍率があえていびつに、アンバランスになっている。これは、物語が旧ヴァージョンよりももっと強く「主人公の主観視点になったから」と言うべきなのでしょうか。
 もっとも、私がこうやっていっしょくたにしている2011年のアトリエ版と12年のザ・スズナリ版では、演出はもちろんのこと、舞台美術からキャスティングまで同じくくりにするのにかなり無理があるほど別の作品になっているのですが、極端に暗い照明の中でうすぼんやりと男たちがうごめく11年版も、物語のクライマックスにいくまでに徹底的に色彩をおさえた黒い空間&黒い衣装の俳優陣で話が進んでいく12年版も、どちらもあえてわかりにくい状況と閉塞した空気感の中で武田泰淳の『ひかりごけ』が舞台化されていたわけだったのでした。
 要するに、主人公という主観(船長=男)にいやおうなしに強力な他者(?=女)がぶつかってくるという旧ヴァージョンに比べて、新ヴァージョンはクライマックスで「すべてが主人公の脳内の物語の再現だった?」とも解釈できる要素が強くなっているような気がするんです。旧ヴァージョンほど強烈な外部要因がない代わりに、主人公の存在が強くなっているんですね。2012年のザ・スズナリ版ではそんな主人公を見つめる「ヴァイオリンを持った女性」という存在もいるのですが、これも他者というよりは……といった感じがします。

 こうなるとなんちゅうか、激辛エスニック料理ふうの旧ヴァージョンと超ビターなエスプレッソコーヒーのような新ヴァージョンというおももちで、同じ物語を舞台化しているはずなのに比較することからしてバカバカしくなってしまうような質感のちがいが生まれているわけなのです。私見をのべれば、内容うんぬんよりも単純に汗を流しながら俳優同士が激突していた旧ヴァージョンのほうが、インパクトに即効性があったぶん上演直後での観客の反応は熱かったような印象はあるのですが、やっぱりどっちが「深い」かというと、新ヴァージョンのような気がするんだよなぁ。若さと即効性の旧ヴァージョンと、深さと遅効性の新ヴァージョンですよ。

 あと、新旧ヴァージョンの比較で私が最も重大な違いだと思っているのは、新ヴァージョンが、武田泰淳による原作『ひかりごけ』(1954年2月)の前半に当たる「エッセイ部分」の最終行を俳優が朗読するところから本章たる「戯曲部分」に入っていることなんですね。
 いちいち挙げませんが、新ヴァージョン冒頭のこの朗読の内容は、小説家の武田泰淳がわざわざ戯曲の形式をとって実在の事件をフィクション化した理由が語られているかなり重要なものです。それと同時に、そこで他ならぬ原作者が「ムリだと思うけどねぇ~!」と皮肉たっぷりに語っているこの戯曲の舞台化に、「やってやろうじゃねぇか、コノヤロー!!」と三条会が宣言してから物語が始まるという、あたかも往年のプロレスの試合前後における、余りにも、余りにもエンタメ的なマイクパフォーマンスを観ているかのような熱さがあるオープニングになっているわけなのです。ラッシャー木村~!!

 ところが、そんな冒頭をもって「上演不可能な戯曲」にいどんだ新ヴァージョンは、その文章の通りに観客の思索にまかせる「余地」をあえて多くもうけたがために、特に前半において、意図的に熱を抑える演出が長く続きすぎた気が、私はしました。つまり、冒頭に出たはずの実に三条会らしい「熱さ」が、武田泰淳原作のアウェールールにのっとりすぎたせいで失われてしまったのではないのかと。
 原作か、劇団か。これはひっじょ~におもしろい問題なのですが、そのへんのバランスのとり方というか攻防戦のもようが本当にわかりやすく現れているのがこの10年以上にもわたる『ひかりごけ』と三条会の闘いの歴史だと思うのです。
 結局、どっちがいいとかいう話じゃないのよね! そりゃあ山盛りのいちごパフェを食べたくなるときもありゃ、激しょっぱでかっちかちのあたりめをチョイとつまみたくなるときもあるのが人間なんだから。どちらもよく練られた傑作であること。ただそれだけです。


 さぁそういうわけで、歴史とか思い出とかでだいぶ前置きが長くなりすぎてしまったのですが、いい加減に問題の2013年土浦版『ひかりごけ』を観た感想に入りたいと思います。ほんとに長くなっちゃってごめーんね!!


おもしろかったです。(小並感)


 いや、ほんとにそういうことだけなんですよね。もうそれ以外になにがいるって感じなんですけども。

 私の印象としましては、今回の最新版『ひかりごけ』は「新ヴァージョンをやった三条会が旧ヴァージョンをやってみた。」という内容になっていたと思いました。完全なハイブリッドではないのですが、とてもいい感じに両者が融合した新たなるアルティメット(究極)ヴァージョンが生まれた! という感じだったんですね。

 今回の『ひかりごけ』は、「詰め襟の学生服の役者陣が学校のような机と椅子に座って戯曲を朗読しあう」という、旧ヴァージョンの前半における演出が実に5年ぶりに復活しました。と同時に、「冒頭のエッセイ文の朗読」や「ヴァイオリンを持った女性」、そして「主人公強調の後半展開」は新ヴァージョンから継続されています。

 これは……理想的だなぁ。要するに、冒頭の「受けて立つ!」熱を有機的に引き継いだ体温やユーモアのある前半部分が生まれたわけだったのです。マクドナルドのハンバーガーが帰ってきたぁ!!

 これは私見なのですが、新ヴァージョンは「もう詰め襟の学生服ってのも……」という、演じる俳優陣の実年齢も考慮された上で、あえて観客に与える情報の少ない不特定多数な黒服になった、という背景もあったのでは? と考えています。もちろん、それだけじゃないでしょうが。

 ところが、この「詰め襟の学生服」っていうのが、本当にものすごい演出なんだな、っていうことを今回の究極ヴァージョンで改めて再認識しちゃいましたね!
 要するに、「学生服を着た人間がマックのハンバーガーにかぶりつく」という行為のヴィジュアルが観る側に与える、「飢餓感の説得力」がハンパないんだ、これが!!
 もうね、痩せた俳優が青白いメイクをして「おおぉ~……」とかってうめきながらワカメの切れっぱしをかじってるような上っつらの演技なんか、お話にもなりゃしませんよ! 学校のチャイムとまったく同じく、男女の性差を乗り越えて思春期を体験した人間ならほぼ全員が体感しているはずの「どっおしっておっなかっが 減っるのっかな♪」な、あの放課後を強烈に思い起こさせるキーワードが、そこにはある!!

 新ヴァージョンはこの「飢餓感」という前半の一大テーマを、そういった旧ヴァージョンのようなわかりやすい比喩にせずに、役者それぞれの「うまくいかないコミュニケーションからくる孤独感」に置換していたと思います。それゆえに、なんとも解決しようのないもやもやを持ったまま後半に向かうという流れがありました。当然、後半に用意された「答え」に納得のいかないお客さんがいたとしたら、そのまま釈然としない印象をかかえて劇場を出ることになってしまったでしょう。
 それはそれで、物思いにふけりながら帰る作品もいいとは思うのですが、究極ヴァージョンはそれとは無縁の、明快な「わけのわからなさ」を提示する前半に立ち返っていたのでした。

 ただし、後半の「主人公の物語」は、観る人によっては混乱しかねない主観の世界になっていたと思います。あの役とこの役を同時に演じる主人公の心象とは……そして、前半と後半とで主人公が違っている理由とは?

 いろんな解釈ができる余地は新ヴァージョンから継続して配置されているわけなのですが、私はここらへんについて、「過去の主人公と現在の主人公との対峙の物語」という、時間の要素が究極ヴァージョンから新たにつけ加えられた、と理解しました。
 つまり、学生服の役者という前半部分によって、飢餓感(もちろん食欲だけの話ではありません)にさいなまれていた過去の若い主人公と、それを冷たく「過去のもの」として客観化しようとする現在の大人な主人公との対決こそが、究極ヴァージョンにおける『ひかりごけ』後半の裁判シーンの真実なのではなかろうか、と。

 まぁ、それが正解かどうか、という問題には言いだしっぺでありながらも私はそんなに興味がないのですが、もしそうだとしたのならば、やっぱり三条会というか、演出の関美能留さんは現代における「尾崎豊継承順位第一位」のお人なのではなかろうか、という思いを新たにしましたね。
 音楽性とか偶像性とかファッションだとか、よく「窓のガラス割るな!」「バイク盗むな!」とイジられる表層の部分ではなくて、その熱すぎて真剣すぎる「過去の見つめ方」がほんとうに似ているような気がするんですが……気のせいですかそうですか。

 他にもたくさん語りたいポイントはあるのですが、何よりも今回は「10年以上の交流のある劇団へ贈る御祝儀」というめでたさが前面に押し出されたスペシャルな公演だったと感じました。会場が客席3~40くらいの規模だったことがちょっともったいないくらいの素敵な作品でした。すぐ後の岡山公演で、さらに多くの人がこの作品に出逢うことを祈りたいです。


 もっと役者さんについても触れたかったのですが……ひとつだけ挙げておきますと、私が観た回はとにもかくにも客演の呉(くれ)キリコさんの存在感がかなり偶発的な方向で炸裂していたものになっていました。
 ちょっと他のお客さんが気づいていたのかどうかはわからないのですが、呉さんの語るセリフで多少のトラブルが発生し、そのために呉さんの演じた『ひかりごけ』の「西川」というキャラクターの尋常でない「地に足のついてなさ」感(だいたい、本来男性である役柄を女性の呉さんが男物の学生服を着て演じている時点でどこかおかしい)にさらにギアがかかってしまい、その結果、非常に生々しい感覚で「この人……なんかおかしい!」という緊張感が共演者の間に満ち満ちていたのです。いちいち細かい台本との齟齬は知らない多くのお客さんにも、この生身の俳優さん同士のあいだに生じている緊急事態な空気だけはビンビン伝わっていたと思います。いいんじゃないでしょうか、『ひかりごけ』ですから。
 そして、そんなやりとりを経た上での、あの虚ろな視線の「歌唱」……戦慄してしまいました。
 こう言ってはなんなんですが、呉さんは最初に三条会の『ひかりごけ』に客演した2012年ヴァージョンとは比較にならないくらいに、今回の公演で持ち味が発揮されていましたね。ともかく「空気感のそぐわない」青年・西川。う~ん、すごい説得力。デンジャラスすぎる。

 こういうハプニングも、ある意味では汗だくの真剣勝負を旨とした旧ヴァージョンではありえなかった方向性なのではないかと思いつつ……
 時代も変わり、集団も変わり。

 究極ヴァージョンと勝手に銘打ちつつも、これを究極と言わずに、さらに新たなる「次元」に挑戦した三条会の『ひかりごけ』をいつか近いうちに拝見したいものだなぁと思いながら、土浦の街をあとにした今回の観劇記だったのでありました~。


 百景社さん、ほんとに近いうちにまた、お芝居を観に行きますからね!!
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呪い、反転、タイムマシン。  三条会 『三人姉妹』 観てちょ~

2013年05月10日 23時46分45秒 | ふつうじゃない映画
 じゃんぐるぽっけ~じゃんぐるぽっけ~、じゃんぐるぽっけ~!! どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした! 東京と千葉は夜になってから雨が降ってきちゃいましたねぇ。この流れで、明日はずっとしとしと天気? ここ連日きびしい日射しが続いていたんで久しぶりのおしめりはうれしいですけど、土日に限っての雨はちょ~っとお断りですね!


 それで今日、下北沢の劇場「ザ・スズナリ」に行って三条会のお芝居を観てきたわけなんですけども。

 なにが「それで」なのかよくわからないかとは思うんですが、そのあたりの経緯を話すヒマもないくらいに声を大にして申し上げたい。
 「これは観たほうがいい!!」と。


三条会公演 『三人姉妹』(演出・関 美能留、作・アントン=チェーホフ)5月9~13日 東京 下北沢ザ・スズナリにて


 今が5月10日も終わろうかという深夜ですからね、あと「3日」の「5回公演」しかないんですよ、このお芝居は! こんなのもう、「目撃」としかいいようのないチャンスの少なさです。可能なお方は是非とも目撃してください! こんな『信長の野望』シリーズでいう「四国一条家」みたいな超零細ブログでワヤワヤわめいてみたところで、いかほどの効果があるのかはまったく心もとないのですが、それでもこう言わずにはいられないわけなのです。目撃してください!!


 ロシア帝国の文豪であり、稀代の名戯曲家でもあったアントン=チェーホフ(1860~1904年)の世界的に有名な「4大悲劇戯曲」の第3作にあたる『三人姉妹』は、1901年1月の初演という、まさに「20世紀文学のトップバッター」ともいうべきプレッシャーバリバリのタイミングで世に出たのですが、その位置にまったく負けていない内容を兼ね備えた名作であると、私は今回の三条会公演を観ながら思いを改めました。
 「思いを改めた」っていうのは、10年以上昔の大学生時代に私もこの『三人姉妹』は新潮文庫のやつを読んだことはあったのですが、そのときは「セリフが長くてなにが起きてるんだかさっぱりわかんない! ひたすら眠いよ~。」という感想しか残らなかったからなんです……青かった。やっぱり戯曲は「台本」なんですから、舞台の上で役者が演じているかたちを楽しむのがいちばんですよね。

 チェーホフの「4大悲劇戯曲」は『かもめ』(1896年初演)、『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、『三人姉妹』、『桜の園』(1904年初演)の4作なのですが、チェーホフは『桜の園』の初演の半年後に結核で亡くなっている(享年44歳)ため、これらは彼の文学のエッセンスが集約されたものになっている……のだそうです。
 「のだそうです。」という腰砕けな言い方になってしまうのは、私も4作すべてを知っているわけではないからでありまして。ましてや、それと比較するべきその他のチェーホフ作品もあんまり読んでません! 『かもめ』と『桜の園』と『タバコの害毒について』(1886年)は好きです。
 あ、そういえば、『桜の園』はたしか、映画『ツナグ』の劇中の高校演劇部で橋本愛さんの主演で上演されていましたね。おい、それいつか、ほんとにどっかでやってくれや! 300%ほめ言葉のつもりで言いますけど、橋本愛さんには謹んで「顔面凶器」というキャッチフレーズを献上したいです。
 さらにそういえば、明日フジテレビの土曜プレミアム枠(21:00~23:10)で放送される『世にも奇妙な物語 2013春の特別編』で、辻村深月先生の短編『踊り場の花子』がドラマ化されるそうですね。私も楽しみです! TVねぇけど。

 いいかげん脱線が過ぎましたので、『ツナグ』の原作版で高校演劇部が上演した舞台が『桜の園』でなくて三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年11月初演)だったという事実を経由して本線の三条会に戻ることにいたしましょう。だから好きなのよねぇ。

 そういった感じで、私はチェーホフ文学の特色がどうとか、そこから見た『三人姉妹』のポジションがどうとかぬかせる人間ではないので、ほんとに単純に今日観た三条会の『三人姉妹』から感じとったことだけを元手にいろんなことを言っていきます。舞台化された『三人姉妹』を観るのも今回が初めてというていたらくなんでありまして……間違った解釈をしていたのだとしても、それは私個人の責任に帰する「真剣な曲解」ですので、ひとつあわれみのまなざしをもって見のがしてください。


 三条会の『三人姉妹』は戯曲の流れどおりに物語が展開していき、おそらく出演者がもともとの「14人」から「9人+α」にしぼられていることにともなって施されたと思われるセリフやシーンのカットはあるものの、発生する出来事はだいたい戯曲に準拠したものとなっています。

 ただし、1954年の訳文だというのにまったく色あせていない名翻訳家・神西清(じんざい きよし 1903~57年)のセリフをほぼ忠実に語る役者陣とはまったく対照的に、舞台上にあるもの全てが「いったん解体されている」のが、やっぱり三条会ならではの真摯な取り組み方であり醍醐味だと思うんですよね。まるで何もないような空間から、役者が「与えられた言葉」で何かを創造していくわけで、そのクリーチャーが果たして、原作と同じ骨格を持っていながらどのくらい原作と違ったものになっているのか? そっくりの双子? よく似た親子? 似ても似つかないきょうだい? オリジナルとリミックス? ゴジラとメカゴジラ?

 今回の『三人姉妹』では、開演時の舞台には13脚の椅子と1脚のキャタツくらいしか物が置かれていない状況で、舞台装置としても、舞台の客席よりの前半分と奥半分とを分ける透明なガラス状の壁しかありません。その透明な壁には木の枠が縦横に走っていて、壁というよりも12枚の大きな窓の集まりのように見えるのですが、それがシーンごとの照明の変化によって、ときに舞台前半分の役者を鏡のように反射する効果を出しているのが妙に印象的でした。

 とにかくシンプル! そんな舞台であるのですが、だからこそ、役者のセリフとその身のこなしからいろんなことを連想し、その連想を DVDのオーディオコメンタリーのように副音声で流しながら観るのが、今のところの私なりの三条会のお芝居の楽しみ方です。こういう「集中」のしかたでもいいじゃないかと。
 そして、そういった「脳内散歩」を楽しむことがそのまんま、その時点での自分の「娯楽のたのしみかた」の根っこみたいな部分をを想像するきっかけになるわけなんですよね。これはそんじょそこらのエンタメじゃあ味わえない域の楽しさですよ……ディズニーランドにはたぶん、ない。

 「鏡」というのならば、この『三人姉妹』の物語やその結末も、観る人によってだいぶその解釈が変わってくるものなんじゃないかと感じましたね。おそらく、ある人が観たら「甘い理想を持ったある名家が現実にまみれて没落していく悲劇」となるでしょうし、その一方で「いろいろな種類の人間のうまくいかない人生を皮肉ったブラックユーモアたっぷりの喜劇」とながめる人もいるでしょう。そしてその結末ののち、三人姉妹のいるプローゾロフ一家がどうなるのか? 物語の大筋どおりのバッドエンドとなるのか、ラストシーンで手に手を取って立ち上がった三人姉妹の決心から人生の一発逆転が生まれるのか? どちらを予想するかで、三人姉妹の長女オーリガ(演・大倉マヤ)が語ったスケールの大きすぎるセリフの味わいもだいぶ変わってくると思うんです。

 原作の筋書きでは、『三人姉妹』のラストシーンは三人の決意のセリフに合わせるかのように、外からは雄々しい軍楽隊の音楽が聞こえてくるという、一家の復活を前向きに鼓舞するかのような原作者なりの演出が加えられています。

 ところが、三条会版のラストシーンは「音楽が流れてきて三人が語る」という点ではまったく同じであるものの、その様相は「ある一家の物語の結末」という枠におさまりきっていない大爆発をとげたものになっている、と私は観ました。これはおそらく、三人、特に長女オーリガのセリフに、ホームドラマの登場人物の言うことにしては異常に距離感のある、どちらかというと「原作者の人生観・世界観」のようなものが配合されていることへの三条会一流の「ストレートな解釈」だったのではないのでしょうか。そしてその結果、三条会版の『三人姉妹』はロシア帝国のいち地方都市の家庭劇を超え、20世紀文学の代表的悲劇を超え、2013年を生きてこの劇場にやってきた会場の人々の目の前に到着するという、当たり前のことながらも他の舞台では滅多に見られない「時をかけるお芝居」になっていたわけなのです。このスケールとスピード感覚は、いいね!!

 とは言いましても、今回の舞台を観ていて、少なくとも私は「速さから来る爽快感」を感じることは特にありませんでした。そういった見ていてわかりやすいおもしろさではなく、全編にわたって役者陣が意図的に「観る者の集中力がギリギリ離れない限度のゆるいスピード」で物語を進めていく一点勝負! その迷いのなさにあたしゃあビックラこいちゃったわけなんです。
 出てくる名前も「トゥーゼンバフ」とか「チェブトイキン」とか耳慣れないものばっかりだし、「火事」とか「戦争」とか「決闘」といった物語中の出来事もスペクタクル映画のように再現されるわけではないので、役者の語りの実力だけが武器になるというこの状況で、あえてじっくり! そして、それに見事にこたえる、役者陣の緊張感に裏打ちされた魅力!!

 このへんは、今年3月に私が岡山市で観た同じ関さん演出のお芝居『月の鏡にうつる聲』とはまったく好対照を成すもので、一般の方々が役者として参加した『月の……』が短距離走のバトンリレーのような疾走感に満ちていたのにたいし、今回の『三人姉妹』はまさに選手全員の能力を知り尽くした監督が采配をとる箱根駅伝のような長距離走をイメージしました。その要求にこたえられるだけの実力を役者が持っているから初めて成立する話であり、そういう意味でも三条会の「ガチンコの本公演」を目の当たりにした思いでしたねぇ。

 みなさんすごいんですが、私は特に、三人姉妹の生活に大きな影響を与えることになる、大都会からやって来たヴェルシーニン中佐役の山本芳郎さん(劇団山の手事情社 客演)の尋常でないセリフの「聞かせ力」に瞠目してしまいました。

 山本芳郎さんの演じるヴェルシーニン中佐という人物は、ロシアの副首都(1712~1918年の首都はサンクトペテルブルク)であり、13世紀以来の長い歴史を持つ人口100万都市でもあったモスクワから三人姉妹のいる地方都市(人口10万ほど)にやってきた、紳士的で知的魅力にあふれたインテリでアーバンでソフィスティケイトされた伊達男であるのですが、そのいっぽうでは、モスクワにそ~と~厄介な家庭のいざこざを置いてきぼりにしながら、三人姉妹の前では理想的な社会論や道徳観を哲学のベースに乗せて語りまくるスーパー口ばっかし人間でもあるという二面性をかかえたものすごいキャラクターになっています。劇中でも、他の登場人物たちにというよりはモロ観客席のほうを向いて、数分にわたるやたら長い語りを投げかけてくる不気味な魅力に満ちた人物でありながらも、言ってることの内容はコンビニとかで1リットル100円という驚きの価格で販売されている乳酸菌飲料「コーラスウォーター」よりもうっすい理想論の繰り返しで、その口から出る「未来の世界のあるべき姿」も、『三人姉妹』の初演から実に110年以上の時が経過している現在の観客の全員から「ねーよ!!」と総ツッコミを浴びてしまいかねない甘ったるいものになっています。

 でも、そんな聞く価値もないような文句の数々も、山本芳郎さんという筋金入りの俳優の身体と声を通せば、あ~ら不思議。なんの打算も悪意もない、本人が心の底からそうだと信じている、というか、もし現実がそうでなかったのだとしてもそうであるようにせねばならないのだと強く信じている何かを胸にいだいた上での「真情あふるる軽薄さ」になってしまうんですから、じっくり最初っから最後まで聞き入っちゃうんですよね! 軽くて重い! 浅くて深い!! まっくらくら~いクラ~イ♪

 このヴェルシーニン中佐の妄言と、それに聞き惚れて自分たちの妄想を広げる三人姉妹との相関関係は、はた目から見れば非常におめでたくて残念なものに見えてしまいます。しかし、その渦中にいる人々にとって、案外それはお互いをだます意図さえも存在していない「真実の思い」同士の真剣勝負なのであり、それは劇中のかなりいいポイントで中盤にタイムリーに流れてくる「ある超有名アーティストの楽曲」ともかなりリンクしたものになっていると感じました。それは非常に甘ったるいささやきに満ちた歌ではあるんですが、何百年たとうが何千年たとうが、おそらく人間誰しもが通過する恋の季節をうたったものであり、歴史や教育の積み重ねで取り払えるわけがない「業」をピンポイントでおさえた名曲です。そして、その業があるから人は人なんだよなぁ……と、しみじみ痛感。

 さて、このヴェルシーニン中佐と三人姉妹にかぎらず、この物語に登場する人物たちのマンツーマンの関係はすべからく「そんなはずじゃなかったのに……」というかおりの強くただようものになっており、例えば第1幕の終盤でめでたく結ばれたプローゾロフ家の若き当主アンドレイ(三人姉妹の男きょうだい 演・榊原毅)とその恋人ナターシャ(演・山本晃子 劇団百景社 客演)は、その直後の第2幕のとっかかりから価値観のどうしようもない違いと倦怠期に見舞われているというミもフタもない時間の経過が提示されてしまっています。つまり、作品の中で見られる世間と個人、家族同士、恋人同士、夫と妻、親友同士、恋がたき同士、そして、「そうだったはずの自分」と「実際の自分」というすべての対比において、観客の苦笑をさそう何らかの皮肉な現実が用意周到に突きつけられているわけで、そういった戯曲が発表から1世紀以上たった今でもこうやって時間と国境を越えて上演されているのですから、この『三人姉妹』には時空を超えた「全人類あるあるネタ」ともいうべき恐るべき「呪い」がかけられている、というより仕方ありません。まさしく、文学の魔術師チェーホフ一世一代のミラクルイリュージョンとしか言いようがありませんね。

 さぁ、そんな強力な呪いのかけられた『三人姉妹』に、果たして三条会はどう挑んでいったのでしょうか?

 私がそれを考える上で最も重大なヒントになると見たのは、今回の公演の「上演時間約2時間」という情報でした。
 ここ最近の三条会の公演の上演時間は「1時間から1時間半」という場合が多かったのですが、それに比べて『三人姉妹』のおよそ2時間はちょっとだけ長くなっています。ただし、これはある程度のカットがあった上での2時間であるわけですから、「この台本をやったら自然にこういう上演時間になった。」というような消極的な成り行きによるものでないことはあきらかで、それはつまり、何らかの思惑があっていつもよりもちょっとボリュームアップな2時間にしたという積極的な「設計」があった、ということになるのです。

 そんなことをモヤモヤ考えながら開演にのぞんだ私だったのですが、内容を最後まで観て、そんな私の疑問はいっぺんに氷解しました。
 あぁ、これ、ひとつの2時間のお芝居なんじゃなくて、1時間半の『三人姉妹』ロケットと30分の「三条会」ロケットとで二段構えになってる公演なんだ!

 つまり、私もケータイや夜光の腕時計を使って上演中に精確にはかったわけではないので体感時間でしか言えないのですが、この三条会版の『三人姉妹』は、舞台上にいる9名の集まりが原作で言うプローゾロフ一家の周辺に起こる出来事をおっていく内容の立体化を1時間半かけて進める大部分から、ある舞台転換をへて大きく「反転」し、あたかも役者陣が『三人姉妹』の世界を跳び越えて現在の劇場へ出てきたかのような無重力感のある残り30分間の最終第4幕をもって完成となるのです。そして、そんな中で流れ出す最後の音楽と、三姉妹の決意をこめたセリフ。

 反転といえば、今回の三条会の『三人姉妹』は反転をもって原作を照射するといったネガポジの効果がいろんなところで見られて、まずなんといっても、タイトルにもなっているプローゾロフ家の三姉妹の存在が、同じきょうだいであるはずなのに男性であるということでそこから除外されている長男アンドレイの視点から強調されていく序盤もそうですし、前半分と奥半分で2つに分割されている舞台で交互に展開していく物語も、もう片面で起きている出来事の反転の繰り返しでできあがっているとも解釈できる部分があります。プローゾロフ家に近い登場人物の服装や舞台全体がのきなみ単調な色彩になっているのに対して、そこに距離感をおいているヴェルシーニン中佐(&彼の登場専用ドア)と長男の嫁ナターシャが極端に色鮮やかな衣装に身を包んでいるのもわかりやすい対比ですし、そんな登場人物全員が、「役者の身体を持っていない」舞台上のチェブトイキン軍医の「声なき声」に常に耳をそばだてているのも、不在が存在に大きな影響を与えている反転の作用だと思います。

 こんな感じで、確かに舞台上に展開される物語は、俳優の声と身体以外には補足がないゆえに一見とっつきにくいものがあるのかもしれませんが、ものを観る視点を固有名詞の多い俳優のセリフの文面ではなく、それぞれの俳優のセリフの言い方や身のこなしにおけば、三条会の『三人姉妹』ほど明確に物語の本筋をおさえた『三人姉妹』はありません。「俳優が何を言っているのか」ではなく、「どんな俳優が言っているのか」に注目すれば、チェーホフ一流の言葉の綾に左右されない、セリフに反転されたキャラクターの「本音」が見えてくるはずなのです。そこが見えたらもうオッケーなの!

 そんなこんなをへてのクライマックス。三条会版ならではの音楽とともに語られた長女オーリガの最後のセリフのあと、無音となった舞台上では「ある登場人物」がひとりだけある動作をおこなって、この『三人姉妹』は幕を閉じます。
 本来の戯曲ではもうちょっと時間がずれていたはずのこの人物の動きが、オーリガの「ホームドラマのキャラクターらしからぬ」超時代的な皮肉、つまりはこの『三人姉妹』におけるチェーホフ最後にして最大の呪いの後に置かれているということは、そのまま、それに対する三条会からの返事ということになるでしょう。それほど突飛なものでもない動作なのですが、それはまさに1世紀モノの呪いを正々堂々と背負った重みのあるものであり、それだけの時間を超えて初演の1901年という過去から現代の下北沢までやってきた三条会製の「タイムマシン」から降り立った乗組員の、未来へ向けての確実な歩みでもあるわけなのです。まさしく「古典から未来の話をする」という今回の公演のコンセプトを体現するエンディングであるわけなのですが、その動きを引き受けた登場人物があの人であるというところに、現在『三人姉妹』の発表時期のチェーホフと同年齢の41歳だという演出家・関美能留の「まなざし」があるような気がいたしました。
 ずいぶんと気が早い話ですが、その人物のおもむいた先にある「次なる物語」をはやく観たいとも思ってしまいました。どんな新世界があるんだろうかねェ~!?

 先人の古典を死なせたままでなく、そこにこめられた呪いを正々堂々と血のかよったものに復活させた上で勝負をいどむ。そんな三条会のしごくまっとうな、それでいてよその演劇では滅多に見られない闘い方をあらためて堪能した、今回の『三人姉妹』だったのでありました。

 これを観て、「あまり大きな起伏がない」とか「セリフが長い」とか「大爆笑できるわかりやすいシーンがない」とかってグチをこぼすようじゃあ、まだまだあまちゃんよね。それはブラックコーヒーを「超にがい!」と批判するようなもんですよ。あったりめぇだっつうの!! 『三人姉妹』をかんたんに観られるものに分解してど~するんだっての。ンなもんなんにも残んないし、それだったら別の人の戯曲をやったほうがよっぽどいいわけですよ。

 いつもどおりの真摯な態度で原作の呪いにいどむ三条会の、超高性能タイムマシンが展開するめくるめく反転の時間旅行を、みなさまもぜひともお楽しみくださ~い! 私はあと最低1回は観に行きますよ~。チャンスは決して多くないぞ!


 他にも言いたいポイントは山ほどあるんですが、こんな長い文章をいったい誰が読むんだということで、涙をのんで今日はここまで!!
 天気はあんまりよろしくないようですが、観てちょ~、観てちょ~☆
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