長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』本文~

2022年02月14日 00時14分37秒 | ふつうじゃない映画
≪資料編は、こちらにあってよ!≫

 はい、ハッピーバレンタイ~ン!!
 というわけで今回の記事は、めでたく2018年に TVドラマリメイク&日本語訳出版もされた、この歴史的傑作だい! ぽっぽぴ~♪

映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 or 107分 オーストラリア) 

 南半球のバレンタインデーなんで思いっきり真夏なんですが、これもれっきとしたバレンタイン・ムービーよね。チョコはぜんぜん出てきませんけど!!

 この映画ねぇ、私ほんっとに大好きなんですよ!
 なにがそんなに好きって、この記事のタイトルにもしているように、「事件の真相とか、そんなのどうでもいいじゃん。」っていうオチの放り投げっぷりが、完全に確信犯的なところ! その、薩摩隼人もビックリな勇敢きわまりない決断力と、オチの欠落を充分すぎる程に埋める繊細なデティールの描写力が、バッチリ同居しているっていうものすごさなんですよね。まさに、画面の中の世界のごとくやたら「ひらひら~♡」としたフリルをまとっているだけのようでありながら、中には鋼のように硬く輝く芸術センスを隠しているって感じ!
 世の中には、お金や時間の都合や作り手の力不足で物語の流れが破綻したり、結末がよくわからない感じになってしまう、いわゆる「怪作」というフィクション作品はいろいろあると思います。それは、作り手の全く意図しないアクシデントによるものなので、プロの作る起承転結のはっきりしたウェルメイドな作品では味わえない不思議な印象を持ってしまい、「たまにはこういうのも、いいよね。」的な B級以下の出来になってしまう場合が多い気がするのですが、この『ピクニック at ハンギングロック』は、そんなほのぼのとしたものではないんです。偶然カメラのピントがズレちゃったんじゃなくて、最初っからモネやルノアールのような焦点のぼやけまくった印象画を描こうとして撮影を始めてるんだもんね! この決意の固さ……まるでこの映画の中のメンヘラ気味少女サラのようではありませんか!? そしてそれは、学校行事の最中に4人も行方不明になったというまごうことなき大不祥事を、まるで認めようとしないアップルヤード校長の頑固さにも通じると言えなくはないわけで、この映画がその2人の死をもって終幕するのもまた、非常に論理的で正しいわけなんです。生徒に優しすぎるがゆえに、ちょっぴりなあなあな関係にもなりがちなポワティエ先生のようにふわふわしたパッケージでありながらも、この映画の本質は鉄面皮な数学のマクロウ先生に近いんですよね。この二面性! それがいいんだよなぁ。

 「結末が語られない」というだけで、フィクション業界の禁じ手をやらかしている異端の作品のように見られがちなこの映画なのですが、作品の画作りからキャラクター配置まで、全てが保守的といってもいいくらいにガッチリ数学的に計算されつくしているのも魅力なんじゃないかと思います。画面の美しさについてはもう、作品を観てもらうより他はないわけなんですが、日本人の感覚で言うと「山」とも言えないような単なる岩ばっかりのロケ地を、あそこまでにミステリアスな異界に描ける想像力と、イモくさい娘ッコたちのフツーの会話をむせかえるような「あやうい」空気が満ちあふれるアップルヤード女学校の世界に変換してしまう妄想力はすばらしい!
 キャラクター配置に関しても、「サラとアップルヤード校長」、「マクロウ先生とポワティエ先生」、「マイクルとアルバート」、「ミランダとアルマ」といったように、非常に分かりやすく対立や協力の関係が構築され、その中の誰かが別のペアにちょっかいを出して波紋が広がる、といった物語の潤滑油が確実に機能しています。
 つまり、映像と物語の両面から「オチ無しでも大丈夫!」という、お客さんを最後まで引っ張っていける万全の体制が整ったうえで、この映画が作り上げられているということ。ここがこの映画『ピクニック at ハンギングロック』の、唯一無二の魅力の源泉なんですね。

 だいたい、この映画の原作小説からして、当時70歳の原作者リンゼイさんがわざわざ用意していた「4人の失踪の真相」を、こともあろうに出版社の編集担当者が「ないほうがいいっすねぇ。」と提案し、リンゼイさんも「うん、そっちのほうがいいかも。」と承諾したというんですから、この物語の面白さがハンギングロック失踪事件とは別のところ、つまりは「ある日突然に日常が崩壊していくさま」の克明な描写にあることは、映画化する以前から明らかだったのです。
 ところで、私はこの記事をつづるにあたって、2018年にやっと出版された日本語訳(井上里・訳 東京創元社創元推理文庫)を読んでみたのですが、2015年に我が『長岡京エイリアン』であげていた≪資料編≫で触れた「当時カットされた最終章」に登場した「道化師のような姿をした女」というのは、ズロース姿になったマクロウ先生のことのようです。マクロウ先生、はっちゃけすぎです!

 ここで、ミランダ、マリオン、マクロウ先生の3人が謎の異空間に引き込まれて失踪し、アルマだけが取り残されたという経緯を最後に持ってくれば、この作品はオーストラリアのアボリジニあたりの信仰する土着の山神様が、よくわかんないけどモスリン地のワンピースにヒール付きブーツという、山をナメにナメきった服装で登ってきた娘さんと、勝手にマセドン山の魅力に憑りつかれた中年女性を、うっかりお供え物と勘違いしてもらっちゃったという、日本昔話のやまんばみたいな怪談になるわけだったのですが、ここからマイクルの若さゆえの暴走捜索作戦とか、不祥事に焦るアップルヤード校長の自滅とか、帰ってきたアルマの哀しい青春の終わりとか、さすがは老練! 70歳の筆の真骨頂が始まるわけなのです。起承転、ときて、「結」だけがもんのすごいふくらんじゃってるよ、おばあちゃーん!! じゃあもう、ハンギングロック失踪事件は「転」じゃなくて「起」でいいじゃん!みたいな、決定的な路線変更があったわけなのです。編集者の方が、「失踪の真相より、女学校の崩壊のほうが百倍おもしろいわ!」と感じたのも、むべなるかな。

 あと、私は創元推理文庫版の原作小説と、カルチュア・パブリッシャーズからリリースされた116分の「映画公開版」、そしてSPOからリリースされたウィアー監督による107分の「ディレクターズカット版」を読んだり鑑賞したりしたわけなんですが、「映画公開版」が非常に原作小説に忠実であることと、「ディレクターズカット版」がマイクルとアルマ、というかマイクル周辺の物語を意図的にカットしている編集になっていることを強く感じました。
 正直、ディレクターズカット版を製作しなければならない程に映画公開版がかったるいとか、話はこびに難があるとは思わないのですが、映画公開版だと、ファーストインプレッションでマイクルが一目ぼれしたのは明らかにミランダなのに、中盤以降にロマンスが生まれるのは生き残ったアルマなので、マイクルなんやねんという腰の軽さ(別にミランダと交際していたわけでもないので浮気でも何でもないのですが)が多少気にかからなくもないのですが、それは原作小説がそういう流れなんでねぇ。それよりも、アルマが本当に自分を救助した張本人として好意の念を寄せたアルバートが、身分の違いを理由にあえて彼女に冷淡な態度をとるという愛情のすれ違いに、原作者リンゼイの筆の真価を観たような気がしました。こういうとこがいいんだよね~!!
 蛇足ですが、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中では、ハンギングロック捜索でアルバートに発見されたマイクルが、記憶喪失に陥るほどの心身衰弱状態に陥っていたという内容の会話も含まれていました。うそ、そんなにマイクルやばかったの? ディレクターズカット版だけ観てると、そこまで命を賭けていた事情が分からなくなってしまうので、ちょっと突然のように無口になって物語からフェイドアウトしていくマイクルの様子が「?」になっちゃうんですよね。いろんな意味で不憫だな、マイクル!

 それから、こうやって何回も、この『ピクニック at ハンギングロック』という迷宮に魅せられて何度もそぞろ歩きをしてみますと、あれっ、この作品、ハンギングロック失踪事件とかよりもおいしい要素を華麗にスルーしてませんか? と気になってしまう部分があるんですよね。

 それが、「サラの死の真相」と、「サラとアルバートの関係」なんですよ。こっちのほうがよっぽど謎だわ!

 サラの死に関しては、アプ女の校舎屋上から投身自殺したような状況がラストで矢継ぎ早に語られるわけなのですが、遺体発見当日の朝に「サラが荷物をまとめて退学して行ったわ。」と校長が語るのみで、実際にそうしているサラを見た人が誰もいないこと。そしてサラの死を知らないはずの校長が、なぜかすでに喪服を着て異様な落ち着きでサラの遺体発見の報にふれるという描写。う~ん、あやしい! 果たしてサラはいつ、どういった経緯を経て、その身を屋上から投じることとなったのか……にわかに自殺とは信じがたいような。
 もっと言うと、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中には、その前日の深夜に、「サラがいない」彼女の部屋を校長が物色するという、意味深にもほどのあるくだりがありました。つまり、ウィアー監督はサラと校長の因縁もそんなに強調したくはないのかな? だいたい、ビックリするほどあっさりとした「ナレ死」でかたづけられる校長の死に際にサラの幻影が現れるというあたりもカットされてるんだもんね。でも、映画後半のサラと校長との魂の対立は、演じた女優さん2名の実力もあいまって、この映画の第二の主軸になっていると思います。サラと校長は、本質的に似ている。だからこそ憎み合うという、このアンビバレンツ!

 そして、サラとアルバートという、映画の中ではついに最後まで一度も会うことのない2人が、それぞれの世界にいながらも、かつて孤児院で一緒に苦労を分かち合った「兄妹」として互いを想っているという、この哀しき運命よ!
 ふつう、映画というフィクションの世界ならば、だいたい2人ともそうとう近い場所で生活してるんだからどこかで偶然に再会したり、うまくいけばサラの死の真相をアルバートが知って校長への復讐を誓うといったあたりの王道の展開に突っ走りそうなものなのですが、特にそういった劇的な展開もなく映画が終わってしまうといったクールさが、ものすご~く意地悪で、ものすご~くおもしろい!! 「うぉお~い、アルバート何もせんで終わんのか~い!!」みたいな、ツッコミ待ちとしか思えない伏線の放り投げっぷりが、たまらなく豪気なんだよな~! オーストラリアだけに!!

 ほんとね~、この映画、大好きなんだよなぁ。別にウィアー監督の作品ぜんぶ好きってわけじゃないんですが、この映画は別格なんですよ。
 だもんで、あっという間に字数もかさんできましたので、これ以外、映画を観て感じた好き好きポイントは以下のように簡単に列記させていただきたいと思います。ほんとに頭っからしっぽの先まで大好きな、たいやきみたいな作品なんです。


・開幕から、字幕という極端に簡素な形式で「女学生たちがピクニック中に失踪しちゃいましたとさ。」と結果を伝え、そこからおもむろにピクニック当日の一日が始まるという、まさに映画の定石をぶっ壊しまくった「ぶっちゃけ戦法」! それもきわめて静かに淡々と進むのが、たまらなくクール!! 最初の6分間で完全に魂を奪われちゃう。当然、ブルース=スミートンによるオカリナみたいな素朴な笛主体の音楽も、作品の独特すぎる雰囲気作りに大いに貢献している。とにかく最高なオープニングなんだよなぁ。
・真夏のバレンタインデーに浮かれまくり、さらには待ちに待ったハンギングロック遠足ときてテンションMAX の女学生たち。ただ、開幕であの字幕を読んでしまった観客は、「ああ、この中の何人かが、これから……」とゾクゾクしてしまうわけで、こうした画面中の楽しい空気と観客の不安感との温度の乖離は、まったくもってウィアー監督の策略通りなのである。物語の内容でなく、作品全体の大枠の演出でサスペンスを生み出すというこの作戦は、もしかしたら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)とか『クローバーフィールド』(2008年)とかいった「モキュメンタリー映画」の系譜に連なるものなのかもしれない。そして、それらのどれよりも洗練されていて、どれよりも美しい!! 山本直樹のマンガ『レッド』(2006~18年)にも通じる超意地悪な、神視点からの演出ですよね。
・正確には制服とは言わないのだろうが、アップルヤード女学校(以下、アプ女と略称)の学生さんは全員、着る物はきつめのコルセットを巻いた上からの真っ白なモスリン地のワンピースに、こじゃれたカンカン帽風ストローハットで統一されているらしい。たぶん、校長が指定している条件に合う衣服を各家庭で用意する形式なのだろう。つまり、かなり似ていながらも、実は一人一人がそれぞれの衣装にキャラクターに沿った微妙なアレンジを加えているというわけで、ここらへんも芸が非常に細かい。昔も今も、ティーンのこだわりは細部よね! それにしても、白いワンピースと真っ黒いストッキングの対比が……露出度が低いのに、なぜこんなにやらしいの!?
・19世紀末のオーストラリアのバレンタインのプレゼント合戦は、チョコレートじゃなくてラブレターなのね! 寄宿制の女子校なので、女性同士の疑似恋愛も当たり前~! 登場して数秒でわかるワケあり生徒サラのメンヘラ気質と、サラに目をつけられた美人生徒ミランダの引きっぷりが実にリアルである。百年以上経っても、青春のドロドロは変わらないのねぇ。
・アプ女の校舎は、いかにもヴィクトリア朝のイギリス建築様式を踏襲した瀟洒な洋館なのだが、乗合馬車で町を出るとすぐに『マッドマックス』みたいな荒涼とした大地になってしまうのが、アプ女の「浮きまくった存在感」と「箱庭のようなリアリティのなさ」を象徴しているようで見事である。ちょっと離れたら毒ヘビ毒アリうようよの危険地帯って、ドラクエか!? オーストラリアあるあるなのかなぁ、これ。
・うら若きアプ女の娘ッコたちがキャーキャー言いながら行く先が、味もそっけもない標高150m そこそこの岩山なのが、なんと言うか隔世の感がある。それだけ娯楽のない時代だったのだろうし、寄宿制学校の締め付けのすさまじさの反動なのだろうが、今どき幼稚園児でも「……何ソレ。」と氷点下のリアクションを返しそうな遠足先である。『ブラタモリ』のコアなファンくらいじゃないの? ハンギングロック見て興奮するの。
・引率のマクロウ先生(数学)による、乗合馬車内でのマセドン山とハンギングロックの由来解説なのだが、数学の先生とはにわかに信じがたい情緒的な表情で語るので、異常に引き込まれる。ただの説明なのに! 演じるヴィヴィアン=グレイの実力がきらめくシーンである。
・マクロウ先生の「百万年前にできたマセドン山」という話を聞いて、「じゃあ、あのお山は百万年も、わたくしたちが来るのを待っていらしたのね~☆」とムチャクチャな論理を展開させる生徒アルマ。なんだ、このナチュラル天動説娘……若いって、こわいね!
・フィッツヒューバート家のおぼっちゃまマイクルと、その家のお抱え御者アルバートとの会話シーンで垣間見える、歴然とした身分の差がわかりやすい。人からもらった飲みかけの酒瓶の口を上着でぬぐうマイケルと、顔にたかるハエをものともせず話し続けるアルバート。対比がうまいね~。
・アップルヤード校長じきじきのマンツーマン圧迫補修授業でも、物怖じもせず自作の詩を朗読しようとするサラ。あっぱれ、中二病の鑑よ!!
・マセドン山へ遠足って、登山せずに麓の広場でバレンタインのケーキを食べてまったりするだけなんかーい!! 最高じゃないか……真夏の午後のけだるい雰囲気が実に克明にフィルムに収められている。
・御者のハッシーと、マクロウ先生の腕時計がどっちも同じ12時で止まっているという符号が、不気味な出来事の始まりを告げている。その辺の空気の持っていき方が、つくづくうまい。
・ただ昼寝をしているから動かないだけのフィッツヒューバート夫妻の脇を、元気ハツラツなアプ女の4人組が走り抜けるというだけのカットが、現世とあの世との時間の流れの違いをあらわしているようで妙にシュール。若者の「動」が向かう先があの世で、老夫妻のいる「止まった世界」が現世なのだという逆転も、面白い。
・マイクル主観の画面になった瞬間に、動きがスローモーションになるミランダ。マイクル露骨だな~! でも、それが青春。
・アプ女の4人組がマセドン山頂のハンギングロックに近づいた時点で、日差しがやや西日になっているのが、観客の不安をいやがおうにもあおる。平和な時間は、もう残り少ない!
・それにしても今さらなのだが、アプ女の指定衣服は登山に100%向かない!! 標高150m とはいえ、山をナメにナメているとしか思えない! 案外、彼女たちのそういった姿が山の神の怒りに触れたから、神隠しに遭ったのかも……日本の山でこんなことしたら、やまんばが黙っちゃいねぇぜ!!
・アプ女の4人組が登山するシーンで、いかにも危険な旅に出るといった感じのかなりドラマティックな音楽が流れるのだが……標高150m じゃん? モスリンのワンピースにヒールブーツで登ってるんじゃん? おおげさすぎでしょ! でも、お嬢様からしたら、確かに真夏の大冒険だよね。ここらへんの、ひたすらミニマムなスケールも面白い。
・他の3人と観客の予想通りに、マセドン山登山に速攻でバテて下山したいと泣き言を漏らすふとっちょ生徒イディス。やっぱり、デb ……ふくよかキャラはそうこなくっちゃ!
・きたきたきたー、黒いストッキングとブーツを脱ぐだけなのに異様にエロいしぐさ!! 4人の中でイディスだけが脱いでいないことからも、明らかにこの行為があの世に行くパスポートになっていることが示唆されている。
・イディスが太っちょキャラとして100点満点の足手まといっぷりを発揮しているのに対し、メガネのマリオンも負けじと、山頂からふもとの生徒や先生たちを見下ろして「なんだかアリみたい……生きる目的もないクセにわらわらと。」と、たいがいメガネキャラっぽい中二病発言を展開させる。こういうキャラクターの色分けの明瞭さも少女マンガっぽいよね。
・たま~に挿入される、ハンギングロックのてっぺんから4人組を見下ろしたようなカメラ視点が非常にこわい。誰? 誰が見てんの!?
・映画が始まって35分で4人が失踪するわけなのだが、ここからがこの映画の真の実力の発揮されるところである。あと3分の2を、オチなしでどうやって進めていくのか!?
・バンファー巡査部長の質問に答えるマイクルの発言が、微妙に事実と異なっているのが非常に興味深い。イディスが3人に遅れて歩いていたのは、マイクルが最初に4人組を目撃した小川の地点よりもずっと上の山頂付近のはずなのだ。ということは……? またマイクルは、なぜミランダを特別視していることをバンファーに隠しているのか……単に恥ずかしいからか? それとも……
・イディスの発言により、「赤い雲」と「ズロース姿で山頂に向かうマクロウ先生」という異常なヒントが! これ、ヒントか? 混乱するだけなんですけど!
・やめとけやめとけと言いながらも、ハンギングロックに探しに行くと言ってきかないマイクルを無下にできず手を貸すアルバート。それでこそ漢だ!! 女子には女子の、男子には男子の友情のかたちがあるんだねい。
・アリ、ハエ、セミ、トカゲ、クモ、ハデな色の鳥ときて、映画が始まって54分10秒後にしてついに、オーストラリアダンジョンの真打「こあら」が満を持して登場!! うをを~、マイクル決死の探索シーンなのに、ぜんぜん緊迫感が生まれないぜ!!
・さらに開始58分55秒後には、あのエリマキトカゲも参戦!! 盛り上がってまいりました!!
・丸2日かけたマイクルの探索も無駄足に終わったかに見えたのだが、その握りしめた拳の中には……という展開が実にうまい。ひっぱるねぇ~!!
・いくら捜索しても見つからなかったのに、失踪して1週間後に1人だけ生還するという異常事態に、ウッドエンドの町民も混乱して暴徒化の一歩手前まで行くという描写が非常にリアル。憔悴するバンファー巡査部長の視点も入れて、アプ女だけの話にしないところがこの映画の上手なところである。『八つ墓村』みたい!
・セリフもないモブなのだが、アップルヤード校長がアルマの保護を伝えた時に、サラの後ろに立っている背の高い生徒さんが非常に美人! なんちゅうもったいないことを!! なんか、なんかしゃべる役、ないの!?
・アルマが生きて帰ったことよりも、学校行事中の失踪が不祥事として取り沙汰されてアプ女の評判がガタ落ちになることを危惧する校長。血も涙もないようには見えるが……経営者はつらいのよ!!
・岩山に1週間もいたはずなのに、脳震盪と爪が全部割れてすり傷だらけの手首以外、アルマに外傷がほとんどないことをいぶかる町医者マッケンジーと、アルマが脱いだはずのストッキングとブーツが発見されていないことが気にかかるバンファー巡査部長。そしてアルマの衣服には、なぜかコルセットだけが無かった……アルマは一体、どこにいたのか? 思わず、矢追純一の UFO特番の時に死ぬほど流れていたジングル音楽(『トワイライトゾーン』のやつ)が欲しくなってしまう展開である。♪ちゃらら~!ちゃらららら~ん!!どんどん!!
・事件解決の糸口が全く見えないこの非常事態の最中に、学費を滞納しているサラを退学処分にすると言い出す校長。一見、言うことを聞かない問題児のサラに対する大人げない八つ当たりのようでもあるが、サラの分の毎日の給食も惜しくなる苦境にあるのではなかろうか。校長、大変!!
・ベッドに横たわりながら、自分のつらい身の上話をしておいて、同情するメイドのミニーの手を振り払うサラ。これだ! このめんどくささこそが青春なのだ!! サラ役のマーガレット=ネルソンさんも、うまいな~。
・数秒間のイメージショットなのだが、マイクルの寝室になぜか生きた白鳥がいるというシチュエーションが、現実なのかマイクルの夢なのかがさっぱりわからず印象に残る。マイクル「なんでいんの……?」白鳥「さぁ……?」みたいな視線のぶつかり合いが妙におかしい。
・アルマの救出後、捜索隊やら新聞記者やらカメラマンやらガキンチョやらおばちゃんやら売店やらで、事件現場なんだか観光名所なんだかさっぱりわからなくなるマセドン山の変貌っぷりが、バンファー巡査部長の苦虫を噛んだような表情と相まって、非常に生々しい残酷さに満ちている。う~ん、19世紀末にもマスゴミはいたのか!
・せっかくアルマが復帰したというのに、集団ヒステリーにおちいり1人だけ生き残った彼女を責め立てるアプ女のモブ生徒たち! しかし、激高するポワティエ先生に平手打ちされるのがふとっちょイディスだけという、この不公平な世の中よ!! イディス「やっぱ私こんな高木ブーポジション!?」
・サラに対して異常な虐待をしていたラムレイ先生といい、徐々に酒と狂気の世界に溺れていくアップルヤード校長といい、2月14日の事件を契機に日常が崩れていくさまがものすご~く怖い……神隠しに遭った4人のように、きれいに消え去れない大人たちのけがれた末路のほうが、ずっとずっと怖い。
・終盤の校長とサラの確執と、それぞれの末路。こここそが物語の核心であり、唯一の「事件」だったのかもしれない。ハンギングロックで起こったのは、あくまでも「なるべくしてなった自然の事象」であり、単なるきっかけに過ぎなかったったのかも。プライベートでもアルコール依存に悩んでいたというレイチェル=ロバーツの演技がすさまじい。


 以上、泣く泣くダイジェストでまとめさせていただきました~。ともかく、数学のように論理的に、少女マンガのようにわかりやすく「幽冥あいまいな世界」を描いているという、それこそ北半球の人間からしたら「真夏にバレンタイン!?」みたいに両極端な要素のケミストリーがすばらしいんだよなぁ。ちょっと、山岸涼子さんの世界に通じるものがあると思います。きわめて単純な描線でドロッドロの情念をえがくような。

 ところで余談ですが、私がこの作品の存在を初めて知ったのはなぜか、我が『長岡京エイリアン』ではことあるごとにその名が登場する、イギリスの伝説の TVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズからなのでありました。グラナダ! グラナダ!!
 なんでかっつうと、このシリーズの VHSビデオシリーズを買い集めていた時に(1巻2話収録で4千円くらい、日本語吹替えなし……)、第15話『修道院屋敷』にゲスト出演していたアンルイーズ=ランバートさんの経歴紹介で『ピクニックat ハンギングロック』のタイトルが出ていたんですよ。

「なんだ、この題名は……『首つり岩』でピクニック? 気になる~!」

 当時、中学生かそこらだった私は、このタイトルが妙に引っかかっていたのです。あと、アンルイーズさんがどえらい美人だったことも、なんとしてもこの作品を観てみたいという執心のきっかけになったかも……すいません、90%アンルイーズさんがべっぴんさんだからでした!
 作中ではその名の由来はいっさい語られなかったのですが、「ハンギングロック」という名前は、いやがおうにも大英帝国に排斥された先住民族アボリジニの悲運を暗示させるナイスネーミングですよね。そこにいかにも軽率な「ピクニック」を添えるバランス感覚が、たまらなく不穏な空気を醸し出していて最高なんですよ。

 ところでどうでもいいのですが、この作品は日本でのタイトル表記が異様にバラッバラで、創元推理文庫の原作小説とカルチュア・パブリッシャーズの映画公開版DVD が『ピクニック・アット・ハンギングロック』で、SPO のディレクターズカット版DVD と2018年の TVドラマリメイク版が『ピクニック at ハンギングロック』、Wikipedia の記事は『ピクニック at ハンギング・ロック』となっております。個人的には『ピクニック at ハンギングロック』がいちばん好きですね。ほんとにどうでもいい……

 最後に、アンルイーズさんをはじめとして非常に美しく演技力のある俳優さんがたが大挙して参加しているこの作品なのですが、やっぱりこの作品の伝説化に最も寄与しているのは誰かといえば、そりゃやっぱり、アップルヤード校長役のレイチェル=ロバーツさんなのではないでしょうか。この作品の前年の『オリエント急行殺人事件』(1974年)でもいい味出してましたが、こっちでは見違えるようなプライド激高のヴィクトリア朝貴婦人になりきっていますね!

 自分の理想の結晶ともいえるアップルヤード女学校を創立し、厳しい教育を通して一流の英国淑女を生産して世に送り出すことにより、オーストラリアという(英国人から見たら)文明未開の大地を順風満帆に「開拓」している気になっていた校長。しかし彼女が人生を賭けて築き上げてきた「箱庭」は、ハンギングロックという得体の知れない自然の「ちょっとした気まぐれ」によって、もろくも崩れ去ってしまうのであった……彼女の人生とは、いったいなんだったのか。

 そういった校長の理想とその末路を考えると、酒に溺れ精神が崩壊していくその姿を真摯に演じるレイチェルの姿は、決して子どもに厳しく当たるだけのヒステリー教育者にバチが当たったというだけでは語れない悲哀に満ちていると思います。そして、この醜い最期があるからこそ、ラストのラストでポワティエ先生が思い出す、「すぐ帰ってきますわ~。」と輝く金髪をなびかせて振り向くミランダの美しさが、ひときわ観る者の心に迫ってくるのでしょう。ホントに計算され尽くしてるんだよなぁ、最後の1カットまで!

 人類が文明という武器を持って自然に立ち向かい、そしてその力の限界をまざまざと思い知らされる物語。それこそが、『ピクニック at ハンギングロック』の本質なのではないのでしょうか。だとすれば、この作品が日本にも受け入れられるのも全く無理はないのです。芥川龍之介の『神神の微笑』とか柳田国男の『遠野物語』、石原慎太郎の『秘祭』などに通じる「大いなる存在」が、そこには潜んでいるんですよね。そしてその上、ヒラヒラフリッフリのワンピースを着た美少女たちが画面狭しとはしゃぎまわるんですから、鬼にグレネードランチャーでしょ、こんなもん!

 『ピクニック at ハンギングロック』のアップルヤード校長と、『北の国から』シリーズの黒板五郎さんとの違いを考えてみるのも、また一興なのではないでしょうか。人間、謙虚さは大事だなぁ。る~るるるるる~!!

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