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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

帰ってきた「うわ~、くだらない!」系バットマンワールド  ~映画『スーサイド・スクワッド』~

2016年09月18日 17時22分29秒 | ふつうじゃない映画
 いやいやどうも、そうだいでございます~。
 最近はもう、仕事で筋肉痛にはなるわ声はかれるわで、てんてこまいでございます。まぁ、まったく想定内の忙しさなので文句の言いようもないわけなのですが……30代なかばの全速力ダッシュは、いろいろ身にしみるよねぇ~。

 先日、ありがたいことにかなり珍しく祝日でもないド平日に連休をいただくこととなりまして、これ幸いにと、去年初めに山形暮らしに戻って以来の「どうでもいいんだけど、ちょっと気になるかな。」レベルの懸案事項となっていた、「千葉時代にお世話になった金融機関の口座を解約する」プロジェクトを決行してまいりました。ほんとにどうでもいい~! 引っ越した時期は、まだ公共料金の引き落としが残ってたから解約できなかったんですよね。
 それでまぁ、トータル千円弱の残金をいただくために、1日かけて新幹線で山形~千葉を往復してきたわけです。これを馬鹿と言わずに何と言えましょう。預金通帳なくしてたから支店から支店へとはしごするわ時間はかかるわ!
 でもまぁ、おかげさまをもちまして、今回の旅でわたくしと千葉県千葉市さまとの形式上のゆかりは、きれいさっぱり全て消え去りました。

 思い出深い土地です。恩をたっぷりいただいた土地です。それなのに……
 日を追う毎に総武線に乗るのがおっくうになる、この身のドライさ加減よ!! え、津田沼ってこんなに遠かったの!? 船橋でさえあんま行きたくねぇ!!

 もうね、いったん生活の場が変わると、電車の待ち時間ってものがこんなにも長いものに感じられてしまうのかと。車社会っていろいろ大変ですけど、自分の車があったら、出発するときに待たされるとか、乗り遅れるとかっていうことはあんまりないんですよね。
 よもや、電車生活がこれほどに遠い存在になってしまうとは……人間にとって、今に慣れるっていうか、昔を忘れる能力っていうのは本当にすさまじいものなんですね。っていうか、そんなに過去に薄情なのは私だけですか! ガハハ!!


 そんなこんなで引き続き山形ライフを謳歌しているわけなのですが、車検も無事に済んだまなぐるまを駆りまして、先日こんな映画を観てまいりました。



映画『スーサイド・スクワッド』(2016年8月公開 123分 ワーナー・ブラザース)

 映画『スーサイド・スクワッド(Suicide Squad)』は、アメリカの DCコミックスが刊行する同名のコミックシリーズの実写映画化作品で、様々な DCコミックスの映画作品を、同一の世界を舞台にした作品群として扱う『DCエクステンデッド・ユニバース』シリーズとしては、スーパーマンが主人公となる『マン・オブ・スティール』(2013年)から数えて第3作となる。
 DCコミックスが刊行する『バットマン』などのヒーローコミックの、複数の敵キャラクター(ヴィラン)を主役に据えた作品である。

 スーサイド・スクワッドがコミックの世界で初登場したのは、1959年刊行のコミック雑誌『ブレイヴ&ボールド』の第25巻である。創刊当時の『ブレイヴ&ボールド』はロビン・フッドなどを主人公に昔の冒険活劇を描いた内容だったが、後に方針転換によって新しく創作したキャラクターの物語を描くこととなり、「自殺部隊」、「決死部隊」という意味の「スーサイド・スクワッド」が登場した。最初のメンバーは特殊能力を持たない普通の人間で、政府に属しながら恐竜や1つ目の巨人などの怪物らと戦う4人組であり、リーダーは軍人のリック=フラッグだった。しかし、物語が3巻続いたところでバットマンなどのスーパーヒーローたちの集団「ジャスティスリーグ・オブ・アメリカ」が登場したため、初代スーサイド・スクワッドはその活躍を終えた。
 それから時は過ぎて1986年。アメリカ政府機関所属のアマンダ=ウォラーにより、ヴィランたちに減刑を交換条件に危険な作戦をこなしてもらうという特殊部隊「タスク・フォースX」が創設され、現在の直接の原型となる2代目スーサイド・スクワッドが登場する。ここでもリックがリーダー役として返り咲き、彼らを導く存在となった。
 この時のメンバーは暗殺者デッドショット、『ザ・フラッシュ』シリーズの宿敵キャプテン・ブーメラン、多重人格で魔女のエンチャントレス、怪力のブロックバスター、格闘家にしてリック同様ヴィランのお目付け役として参加したブロンズ・タイガーだった。
 2代目スーサイド・スクワッドの任務はその名の通り死ぬほど過酷なもので、ブロックバスターが敵に殺されたり、今回の映画版にも登場するスリップノットなどのヴィランたちは逃げ出そうとして身体に装着した逃亡防止デバイスが爆発して死亡したりと、何人ものヴィランが命を落とした。それでも、それぞれの恩赦を目指す2代目スーサイド・スクワッドは、1992年まで66巻にも及ぶ活躍を見せた。
 その頃には50名を超えるキャラクターが登場し、かつてはバットガールだったバーバラ=ゴードンが車椅子に乗るコンピューターの達人「オラクル」として描かれたり、さらにはデッドショットなど何名かのヴィランたちはソロのスピンオフ作品が展開された。
 アクの強い悪人たちがひしめき合うチームとあって、個々の性格がぶつかり合ったり、愛憎劇がありつつも、表舞台のヒーローたちがこなせない裏の仕事を遂行してきた2代目スーサイド・スクワッドは、シリーズが終了しても他の DCコミックス作品にゲスト出演したり、第2シリーズや番外編が描かれたことで、その知名度を保ったまま活躍した。
 そして2011年。DCユニバースが再編された「THE NEW 52」シリーズにて、スーサイド・スクワッドが現代版として生まれ変わり、ここにハーレイ・クインが加わり3代目スーサイド・スクワッドの中心人物となった。他のメンバーはデッドショットにキャプテン・ブーメラン、キング・シャーク、エル・ディアブロ、ブラック・スパイダーなど。
 それ以降はアニメ化されたり、ドラマ『ヤング・スーパーマン』(2001~11年)や『アロー』(2012年~)にもゲスト出演している。特にデッドショットは、日本のアニメーションスタジオが製作した、映画『バットマン・ビギンズ』(2005年)と『ダークナイト』(2008年)の間の物語を描いている OVA作品『バットマン ゴッサムナイト』(2008年)にも登場している。


あらすじ
 スーパーマンが死去してからしばらく経った後、アメリカ政府の高官アマンダ=ウォラーはスーパーマンの後継者として、死刑や終身刑となって服役していた悪党たちを減刑と引き換えに率いる特殊部隊タスクフォースX、通称「スーサイド・スクワッド」を結成する。


主なキャスティング
フロイド=ロートン / デッドショット …… ウィル=スミス(47歳)
 百発百中のスナイパー。離婚した妻との間にゾーイという娘がいる。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるデッドショットがコミックに初登場したのは1950年であり、実写版としてはスミスが演じたデッドショットは3代目、映画初登場となる。

ハーリーン=クインゼル博士 / ハーレイ・クイン …… マーゴット=ロビー(26歳)
 ゴッサムシティの精神病院アーカム・アサイラムに勤める精神科医で穏やかな性格だったが、ジョーカーによって精神を歪められてサディスティック・殺人的・幼児的なサイコパスになり目的達成のためには手段を選ばない犯罪者となった。
 プロデューサーのリチャード=サックルは彼女のキャラクターについて、「楽しい人気者で、狂っている。彼女がしでかす様々なことを説明するのには形容詞が足りなくなる。」と述べた。演じたロビーは、ジョーカーとの関係については「恐ろしく機能不全な状態。文字通り、彼に関して狂っている。彼女は狂っていて彼のことを愛してる。本当に不健康で壊れた関係であるが、夢中になれる。」と語っている。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるハーレイ・クインが初登場したのは1992年放送のアニメ版であり、実写版としてはロビーが演じたハーレイは2代目、映画初登場となる。

ジョーカー …… ジャレッド=レト(44歳)
 『バットマン』シリーズのヴィラン。
 演じたレトは、キャラクターについて「シェイクスピアに近い」や「美しい災厄」と述べている。ジョーカーを演じることについて「深くのめりこんだ。他にないような機会だった。このような心理的なゲームをやるのは楽しかった一方、大きな苦痛も伴った。」と述べている。また監督のエアーはジョーカーの外見について、メキシコの麻薬カルテルのボスと、アレハンドロ=ホドロフスキー監督の作品から影響を受けている。身体に入っているタトゥーの数々は、監督の「ジョーカーに現代的なギャングスターのような外見を合わせる」という意図により加えられたものである。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるジョーカーが初登場したのは1940年であり、実写版としてはレトが演じたジョーカーは5代目(?)、映画版は4人目となる。

リチャード=フラッグ / リック=フラッグ大佐 …… ジョエル=キナマン(36歳)
 スーサイド・スクワッドを指揮する軍人。当初はトム=ハーディがキャスティングされていたが、スケジュールが合わずに降板している。
 フラッグ大佐は初代『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1959年から登場している。実写版としてはキナマンが演じたフラッグ大佐は2代目で、映画版初登場。

アマンダ=ウォラー …… ヴィオラ=デイヴィス(51歳)
 アメリカ政府の秘密組織 A.R.G.U.S.(アーガス)のトップで、「DCエクステンデッド・ユニバース」シリーズの前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)に登場したレックス=ルーサーJr.とは面識がある。
 エアー監督は彼女のキャラクターに満足しており、精神面と強靭さに関して「力強い黒人女性で丈夫、その気になれば即座に銃を手に取って人を撃つ」、「悪に対しては情け容赦ない。彼女の強みはその知性と罪悪感の欠落」と述べた。
 ウォラーは2代目『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1986年から登場している。実写版としてはデイヴィスが演じたウォラーは3代目、映画初登場となる。

ディガー=ハークネス / キャプテン・ブーメラン …… ジェイ=コートニー(30歳)
 ブーメランを扱う犯罪者。強盗に及んでいたところをフラッシュに阻止され投獄された。演じたコートニーは、彼について「真にだらしない人間」と述べている。
 『ザ・フラッシュ』のヴィランであるキャプテン・ブーメランが初登場したのは1960年であり、実写版としてはコートニーが演じたブーメランは2代目で映画初登場となる。

チャト=サンタナ / エル・ディアブロ …… ジェイ=ヘルナンデス(38歳)
 ロサンゼルスギャングの元構成員。掌から炎を出す。妻と子供を失い、警察に自首した。
 演じたヘルナンデスは彼のキャラクターを他のメンバーとは違うようにしており、「他のメンバーが獄中から外へ出て殺しを楽しむ一方、彼は戦いから身を置いている。」と述べた。
 チャト=サンタナはコミック『エル・ディアブロ』シリーズ(1970年~)の主人公としては3代目(2008年~)であり、初のヴィラン的ヒーロー。実写版初登場である。

ウェイロン=ジョーンズ / キラー・クロック …… アドウェール=アキノエアグバエ(49歳)
 爬虫類のような肉体をしている犯罪者。演じたアキノエアグバエは彼について、「怒りに燃える人喰い人種」と述べた。
 『バットマン』のヴィランであるクロックが初登場したのは1983年であり、実写版初登場。ちなみに今作の公開までキラー・クロックがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ジューン=ムーン博士 / エンチャントレス …… カーラ=デルヴィーニュ(24歳)
 長い間封印されていた古代の強力な魔女。探検家のジューン=ムーン博士によって偶然解放されてしまう。エンチャントレスは今作の設定ではスーサイド・スクワッドの正式メンバーには加入していなかったが、その強力な力がアマンダ=ウォラーの目を引いた。デルヴィーニュは彼女について「野性的」と述べた。
 1966年に連載開始された『エンチャントレス』シリーズの主人公であり、実写版初登場。コミック版『スーサイド・スクワッド』ではデッドショットらと同じく2代目スーサイド・スクワッド以来の古参メンバーとなっている。

クリストファー=ワイス / スリップノット …… アダム=ビーチ(44歳)
 縄を使う犯罪者。使っている縄はとても頑丈で、自らが開発した新素材のものである。また銛を付けた縄を発射する銃も持ち、それを利用して建物を上ることもできる。
 『ファイアストーム』のヴィランであるスリップノットが初登場したのは1984年であり、実写版初登場。

タツ・ヤマシロ / カタナ …… 福原 かれん(24歳)
 日本人の暗殺者で、カタナはコードネーム。師匠に剣術と格闘術を幼い時から習い、古代の流派において高い次元に達している。リック=フラッグのボディガードとしてスーサイド・スクワッドの中で唯一、志願して参加したメンバーである。
 『バットマン』のヴィランであるカタナが初登場したのは1983年であり、実写版としては福原が演じたカタナは2代目、映画初登場となる。ちなみに今作の公開までカタナがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ブルース=ウェイン / バットマン …… ベン=アフレック(44歳)
 前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』までの20年間、相棒のロビンと共にゴッサムシティで自警活動を行っていたが、2005年にジョーカーにロビンを殺されている。
 1939年に連載開始された『バットマン』シリーズの主人公であり、実写版としてはアフレックが演じたバットマンは6代目(ウェインが幼い『ゴッサム』シリーズを除く)となる。

ジョニー=フロスト …… ジム=パラック(35歳)
 ジョーカーの腹心。
 コミック版のフロストは、『バットマン』シリーズからのスピンオフ作品『ジョーカー』(2008年)の主人公で、やはりジョーカーの手下である。

ゾーイ …… シェイリン=ピエールディクソン(13歳)
 デッドショットの娘。11歳。

グリッグス …… アイク=バリンホルツ(39歳)
 ベルレーヴ刑務所の看守長。

インキュバス …… アラン=シャノワーヌ(?歳)
 エンチャントレスの弟。姉と同様に封印されていた。
 コミック版ではエンチャントレスに弟はいないが、コミック版『スーサイド・スクワッド』にヴィランとして登場した悪魔インキュバスが今作でエンチャントレスの弟という設定で登場している。実写版初登場。


主なスタッフ
監督・脚本 …… デイヴィッド=エアー(48歳)
音楽    …… スティーヴン=プライス(39歳)
撮影    …… ローマン=ヴァシャノフ(35歳)



 観てきてしまいましたね~。わたくし仕事ではちょっと気が抜けない状況が今月いっぱい続くっていうのに、こんな思いっきり肩の力の抜けきった映画を観ちゃったよ! この前に観た映画が『シン・ゴジラ』なもんですから、落差ものすごいです。いや、どっちもエンタテインメントなんですからいいんですが。

 最初に言うと、私は市井のしがないジョーカーファン兼ハーレイ・クインファンであります。つまりは、あさ~いバットマンファンということになるわけですが、口が裂けても「DCユニバースファン」とまで言いきる自信はございません。
 なもんですから、1989年の『バットマン』以来「ノーラン3部作」まで映画はいちおう観てきましたが(もちろん1966年版もです)、今年の『バットマン vs スーパーマン』は観ておりません。『スーサイド・スクワッド』と直結してる前作なのに! それだけバットマン以外の DC系には興味がないということなんですな。だから多分、『スーサイド・スクワッド』の次にあるっていってた『ワンダーウーマン』なんか観るはずもないだろうし、来年の『ジャスティス・リーグ』もどうだか、みたいな。

 つまるところ、今回そんな私が『スーサイド・スクワッド』を観に行く気になった原動力は、ひとえに新キャスティングのジョーカーと悲願の映画初登場のハーレイ・クイン! このお2人でしかなかったということなのです。

 それで観てみたんだけど……まぁ~くだらない、くだらない! 強いて良く言えば「荒唐無稽」だけど! ばかばかしいったらありゃしない内容でした。

 だって、物語の中で発生した大事件っていうのが完全に、スカウトしたヴィランを管理しきれませんでしたっていうだけの政府の自爆なんだもの。さすがのデッドショットでも、そんな他人の尻拭いなんかやってらんねぇっつうの!
 頑張って倒れた人の人工呼吸をしただけなのにあっという間に殺されちゃった、あの地下鉄のお医者さんも浮かばれませんよ……

 人工呼吸といえば、なんだあの、アフレックバットマンの思わせぶりなハーレイとの接吻は!? 人工呼吸はちゃんとあごをクイッと上にあげて気道確保してからやれや!!


 話をジョーカーとハーレイだけに限定しちゃいますけど、まぁね、ハーレイが出てきたらジョーカーの質感が軽薄になるのは、それは当然の作用だと思います。それはもう、ロビンのいるのといないのとでバットマンの感じが変わるのと全く表裏一体、おんなじことでしょう。
 ところが、これは私の個人的な見解なんですが、「ジョーカーとハーレイの恋愛関係」というのは、あくまでもジョーカーが周到にハーレイに刷り込んだ幻影なのであって、ハーレイがそれをどこまで信じようが入れ上げようが、ジョーカー本人の真意はまったく不明、どっちかっていうとおもしろい手駒くらいにしか考えてないんじゃなかろうかと。おもしろくなくなったらいつでもポイできるっていうスタンスが最高だと思うんですよね。それでこそジョーカーっていうか。
 だから、今回あそこまでハーレイ奪還にこだわったのも「ヒマだったから。」ってくらいの動機で充分で、ハーレイがいなくて自室で悶々としてるジョーカーというシーンは全くいらないと強く思いました。
 ましてや、ジョーカーの部屋に何着かベビー服が置いてあるだなんて! それはねぇだろう!! ジョーカーに後継者はいらん。ジョーカーは何が嫌いって、自分の異形の孤独を慰め合うために同類と徒党を組むのがいちばん嫌いなのではないのでしょうか。だからこそロビンを殺しちゃってるわけで。まぁ、おもしろいからって理由で他のヴィランと一時的に手を組むことはあるにしても。

 なので、私はジョーカーとハーレイが共同でロビンを殺害したっていう今作の設定もどうかと思うんです。そこは「とっておきのお楽しみ」だったでしょうから、きっとジョーカー1人でやってたでしょう。
 だいたい、バットマンが1人なのに対してジョーカーとハーレイで2人っていうのも、な~んかアンバランスすぎるような。ロビン殺害っていうどうしようもない要因でダークになっているバットマンと闘うのが、まるでジョエル=シュマッカー監督の世界から飛び出してきたみたいな趣味の悪い原色やらヘビ皮パープルやらタトゥーだらけやらの能天気ヴィランカップルなんだもの。ロビンも草葉の陰で泣いてますよ!

 私は別に、ジョーカーがチャラかろうがタトゥーだらけだろうが特にかまいません。かまわないんですが、行動があんまりおもしろくないジョーカーっていうのは、どうかね……レト版ジョーカーって、今までの実写版ジョーカーの中でいちばん笑い方が乾いてるっていうか、「ハ、ハ、ハ、ハ。」っていう作り笑いが多いですよね。なんか、笑いについてのこだわりが歴代の中でいちばん薄そう。ヒース=レジャーのジョーカーも笑いは少なかったんですが、笑うときはここぞとばかりに心底大爆笑してたでしょ。それがないだけに、解釈のしようによってはレト版がいちばん「心の闇が深いジョーカー」ってことにもなるのかもしれませんが、なんかつまんないですよね。

 レトさんは、あの神がかり的な大傑作コミック『バットマン アーカム・アサイラム』(1989年)のジョーカーからインスピレーションを得て演じたっておっしゃられてるそうなんですけど、『アーカム・アサイラム』のジョーカーは最高におもしろいからなぁ。ちょっと、足元にも及ばない格の違いはあると感じました。だいたい、『アーカム・アサイラム』のジョーカーはハーレイ・クインなんていらないでしょ。バットマンにしか興味がないんだから。

 あと、レトさんは口が小さい! 笑わなくなると一瞬でハンサムなお兄ちゃんの素顔が透けて見えてしまうという気がしました。
 ジョーカーという大役を担う以上、それは尋常でない努力があったことはわかるのですが……そこに「怪物的な狂気」はなかったと思いました。ハーレイという「おもし」があるんだから、それは仕方ないことなんだけれど。結局、レトさんの真剣さと真面目さしか伝わってこなかったような。ジョーカーは本当に難しい~!

 あ、あと、この1点だけは、ジョーカーファンとしてとうてい見過ごせなかった!
 乗っ取った軍用ヘリで、ビルの屋上に出たスーサイド・スクワッドに強襲を仕掛けたシーンで、なんでタキシードに身を固めたジョーカーの前にミニガンをぶっぱなす腹心のジョニーが先に映るんだよう!! そこは最初にジョーカーが見えて一同ビックリが先だろう!

 これはわかってない。ジョーカー心をまるでわかってない見せ方だ! こんなこと、もしニコルソン版ジョーカーでやったらジョニーは即ズドンですよ。カーツだこりゃ!!

 でも、コミック版『ジョーカー』での苦労を振り返れば、あと今作での涙ぐましいまでに献身的な裏方っぷりをかんがみれば、これくらいの華舞台はジョニーに与えられても当然だったのかも……よかったね、ジョニー。ジョニー=フロストって、ほんとに平本アキラさんが好きそうな味わいのキャラクターですよね。


 この映画の構造的欠陥として、映画いちばんの呼び物となっている「新ジョーカー」が物語の本筋にあんまりからんでこないという点がよく言われるのですが、私は映画を観ていて、バトルが盛り上がるにつれてそれ以上に「ハーレイって……なんでスーサイド・スクワッドに呼ばれたんだろう?」というほうが気になって仕方ありませんでした。
 だって、いくら身体能力が優れてるっていっても所詮は若い女性だし、特殊能力もなければ特別頭がいいってわけでもないし、武器は木のバットだし……

 でも、ハーレイが出なきゃスーサイド・スクワッドも映画化されなかったんだろうし……人気って、なんなんでしょうね。その点について、古参メンバーのデッドショットさんやキャプテン・ブーメランさんのご意見をぜひとも伺いたいところです。エンチャントレスがあんなになっちゃったのって、完全にハーレイに立ち位置を取られてスネたからですよね。「ピンクあたしだったのに!」みたいな。

 あと、今作はスーサイド・スクワッドの義賊っぷりしか押し出されなくて「どこが悪役やねん」な感じが強かったわけですが、それはハーレイも同じことで、彼女が具体的にどんな悪人なのかがまるで語られないんですよね。ハーレイになった経緯とか収監中の奇行はひととおり描かれるんだけど、どんなことをしてバットマンにつけねらわれてるのかがさっぱりわかりませんでした。好きなひととデートしてるのがそんなに悪いんですか!? みたいなカーチェイスでしたよね。


 いろいろ言いましたけど、たぶんこの『スーサイド・スクワッド』って、『バットマン vs スーパーマン』と『ジャスティス・リーグ』との間の箸休めみたいなエピソードなんでしょ? だったら、このくらいの軽さでもいいんじゃないかなぁ。
 ともかく、私としてはハーレイ・クインのお姿が銀幕で拝めたからそれでひとまず満足なわけですが、うん、やっぱりできれば、1992年初登場時の全身道化師タイツの姿で活躍してほしかった! 私は今回のパンキッシュよりも「THE NEW52!」版のボンデージよりもゲーム版のゴスロリメイドよりも、やっぱり原点の道化師スタイルが一番好きなのです。実写化するにあたって布地の質感とかを失敗すると安っぽくなりかねないタイツであるわけですが、それこそシュマッカー風のラメラメの赤黒できめてほしかったなぁ。


 おもしろいジョーカーが、また観たいなぁ。キャメロン=モナハン君、映画でジョーカーやってくれ~!!

 ……それにしても、レトさんが44歳っていうのは、たまげました……ヒース版ジョーカーより一干支以上年上じゃねぇか! 若々しいっていうか、幼いっていうか……年齢不詳っていうのも、考えもんですね。
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ね、ねみー!! 不眠症にこの一作  ~映画『あさき夢みし』~

2016年03月26日 22時12分20秒 | ふつうじゃない映画
映画『あさき夢みし』(1974年10月公開 日本アート・シアター・ギルド 120分)

あらすじ
 時は鎌倉時代中期、文永十一(1274)年。
 由緒ある貴族の家に生まれた四条は、2歳の時に母・大納言典侍(だいなごんのすけ)を亡くすが、その母を乳母とし、かつ想いを寄せる「新枕のひと」とした上皇のもとで4歳の時から育てられ、美しい女性に成長した。
 14歳のとき、四条は他に想い人「霧の暁(西園寺)」がいるにもかかわらず、上皇の寵愛を受ける。院の子である皇子を産み、女房として院に仕え続けるが、霧の暁との関係も続く。ついに霧の暁との間に女児を産むが、上皇との子であるが死産したといつわり女児は西園寺家に引き取られる。ほぼ同じ頃、皇子が夭逝してしまう。
 その後も宮廷での愛欲や男たちに翻弄され続ける四条は、次第にその生き方にむなしさを覚え、諸行無常の心に傾斜していき、幼い頃よりあこがれていた西行法師のように生きたいと出家し、諸国を放浪する……


主なスタッフ
監督   …… 実相寺 昭雄(37歳)
原作   …… 久我 二条『とはずがたり』(14世紀前半成立)
脚本   …… 大岡 信(43歳)
撮影   …… 中堀 正夫(31歳)
美術   …… 池谷 仙克(34歳)
音楽   …… 広瀬 量平(34歳)
照明   …… 牛場 賢二(?歳)
舞踊振付 …… 西田 尭(49歳)
今様朗詠 …… 赤尾 三千子(25歳)

主なキャスティング
四条(原作の久我二条)   …… ジャネット 八田(21歳)
上皇(原作の後深草院)   …… 花ノ本 寿(35歳)
西園寺 実兼(霧の暁)   …… 寺田 農(31歳)
阿闍梨(原作の性助法親王) …… 岸田 森(35歳)
近衛の大殿(原作の鷹司兼平)…… 東野 孝彦(32歳)
上皇の母(原作の姞子皇太后)…… 丹阿弥 谷津子(50歳)
前斎宮(上皇の異母妹)   …… 三条 泰子(23歳)
厳島の遊女         …… 殿岡 ハツエ(36歳)
四条の侍女めい       …… 原 知佐子(38歳)
地方の豪族         …… 渡辺 文雄(45歳)
善正寺の大納言(四条の伯父)…… 小松 方正(48歳)
庶民の男          …… 篠田 三郎(25歳)
三条坊門の殿        …… 奥村 公延(44歳)
騎馬の武士         …… 平泉 成(30歳)
院御所の武士        …… 柴 俊夫(27歳)
平 二郎左衛門       …… 毒蝮 三太夫(38歳)
厳島の武士         …… 観世 栄夫(47歳)
藤原 為家         …… 三代目 古今亭 志ん朝(36歳)
語り            …… 清水 紘治(30歳)




《本文は……当分ない。》
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そんな姿勢の悪さで世界征服ができると思ってるのか!! ~映画『007 スペクター』~

2015年12月30日 23時07分56秒 | ふつうじゃない映画
 年の瀬だよ!! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます~。大掃除、無事に済みましたか?
 もう大みそかも目前なんですけれどもね、あったかいんですよ~山形市は。ぜんぜん雪が積もる様子もないんですよねぇ。ちらっちら降ってはいるんですけれども。まわりの人たちは雪かきの必要もないし寒くもないんでありがたいとか言ってるんですが、これじゃ気分がねぇ~。いまいち年末年始っていう感じがしないんだよなぁ。このまんま、三が日もサーっと過ぎてふつうの日々が始まるんでしょうか。楽しい連休は、ほんとにあっという間ですよね~。スムーズにお仕事モードに戻れるかな!? まぁ、大好きな温泉につかっていい感じにリフレッシュしていきましょう。


 さてさて、わたくしごとながら、自分としては今年2015年の映画の見納めは先日の『友だちのパパが好き』で決まり! という気分だったのですが、せっかくのお休みなんだし……ということで、パパッと車に乗って、山形市内の映画館でかねてから気になっていた1本を観ることにいたしました。なにげなく新聞に載ってたタイムスケジュールを見てみたらけっこう上映回が少なくなってたので、1月もたぶん正月明けから仕事で忙しくなるだろうし、今のうちにちゃっちゃと観てしまおう、ということで。

 そんなわけで、観てきたのはこちら。周辺もろもろの情報も併せてどうぞ。



映画『007 スペクター』(2015年12月日本公開 148分)

 『007 スペクター』は、イオン・プロダクション製作によるスパイ映画『007』シリーズの第24作。ジェイムズ=ボンド役は4度目の登板となるダニエル=クレイグ。
 制作費は2億4500万~3億ドルで、『007』シリーズでは史上最高となった。また148分という上映時間もシリーズ史上最長となった。

 『007』シリーズの映画化に当たり、「スペクター」という世界的犯罪組織の名称とそれに関係する登場キャラクターの使用権をめぐり、原作者のイアン=フレミング(1964年没)とプロデューサーで「スペクター」の原案者となったケヴィン=マクローリー(2006年没)との間で訴訟が発生した。それ以来、スペクターの使用権は007シリーズにおける懸案となる。この訴訟が原因で、シリーズ第7作『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)以降、スペクターはシリーズに登場しなくなっていた。ただし、明言はされなかったもののスペクター首領とおぼしきキャラクターが冒頭のアクションシーンに登場したシリーズ第12作『ユア・アイズ・オンリー』(1981年)や、ワーナーブラザーズで製作された番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983年)の中でスペクターや関係キャラクターは登場している。
 2013年11月、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)およびイオン・プロダクションはマクローリーの遺族と和解し、スペクターとそれに関連する登場キャラクターの使用権を購入した。

 シリーズ恒例のガンバレル・シークエンスが、シリーズ第20作『ダイ・アナザー・デイ』(2002年)以来13年ぶり、ダニエル=クレイグがボンドを演じてからは初めて冒頭に登場する(シークエンス自体はクレイグ版ではオープニングテーマ直前のアクションやエンディングで登場していた)。
 本作の中盤のクライマックスであるスペクターの秘密基地の爆破シーンには大量の燃料と火薬が用いられ、「映画史上最大の爆破シーン」としてギネス世界記録に認定された。

 ダニエル=クレイグがボンドを演じたシリーズ第21作『カジノ・ロワイヤル』(2006年)、第22作『慰めの報酬』(2008年)、第23作『スカイフォール』(2012年)の全てが密接にリンクしたストーリーとなっており、オープニング映像にもそれまでの悪役たちや重要なボンドガールだったヴェスバー=リンド(演・エヴァ=グリーン)、前任のM(演・ジュディ=デンチ)が登場している。
 中盤での爆発シーン以降のオーベルハウザーの右目の傷は、シリーズ第5作『007は二度死ぬ』(1967年)で初めて顔出しで登場したスペクター首領ブロフェルド(演・ドナルド=プレザンス)の顔の傷跡を意識したものと思われる。


主なスタッフ
監督 …… サム=メンデス(50歳)
脚本 …… ジョン=ローガン(54歳)、ニール=パーヴィス(54歳)、ロバート=ウェイド(53歳)、ジェズ=バターワース(46歳)
製作 …… バーバラ=ブロッコリ(55歳)、マイケル=G=ウィルソン(73歳)
音楽 …… トーマス=ニューマン(60歳)
撮影 …… ホイテ=ヴァン=ホイテマ(44歳)
製作 …… イオン・プロダクション

主なキャスティング
ジェイムズ=ボンド     …… ダニエル=クレイグ(47歳)
フランツ=オーベルハウザー …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)
マドレーヌ=スワン     …… レア=セドゥ(30歳)
M             …… レイフ=ファインズ(53歳)
ルチア=スキアラ      …… モニカ=ベルッチ(51歳)
Q             …… ベン=ウィショー(35歳)
Ms.マネーペニー      …… ナオミ=ハリス(39歳)
Mr.ヒンクス        …… デイヴィッド=バウティスタ(46歳)
マックス=デンビー     …… アンドリュー=スコット(39歳)
ビル=タナー        …… ロリー=キニア(37歳)
Mr.ホワイト        …… イェスパー=クリステンセン(67歳)


《歳末特別ふろく》悪の華!! 歴代ブロフェルド俳優一覧
ほんとの初代 …… アンソニー=ドーソン(当時47~49歳 1992年没)シリーズ第2・4作に登場
 ※ただし顔はまったく映されず、声も別の俳優があてていた
顔出し初代  …… ドナルド=プレザンス(当時47歳 1995年没)シリーズ第5作に登場
2代目    …… テリー=サヴァラス(当時47歳 1994年没)シリーズ第6作に登場
3代目    …… チャールズ=グレイ(当時43歳 2000年没)シリーズ第7作に登場 キャ~、マイクロフト!!
4代目    …… ジョン=ホリス(?歳)シリーズ第12作に登場
 ※ただし容姿が酷似しているだけで、この人物がブロフェルドだと明言はされておらず、声も別の俳優があてている
5代目    …… マックス=フォン=シドー(当時54歳)番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に登場
6代目    …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)シリーズ第24作に登場

ついでなんでこっちも
Dr.イーヴル …… マイク=マイヤーズ(当時34~39歳)『オースティン・パワーズ』シリーズ3作に登場
ハリウッドで Dr.イーヴルを演じてた俳優さん …… ケヴィン=スペイシー(当時43歳)シリーズ第3作に特別出演



 はい、なにはなくとも007ですね~! これはやっぱり、スクリーンで観ておかなきゃならなかった。
 もう1本、今は『スター・ウォーズ』シリーズの最新作というどでかい大作も公開されているんですが、こっちはまぁもうしばらくは上映してるだろうし、私たしかに『スター・ウォーズ』も大好きなんですけど、いちばん好きなキャラクターがグランドモフ・ターキン(エピソード4でご殉職)というていたらくなので、いまひとつ観に行こうという気にならないんですよね。観ればおもしろいだろうってことはわかってるんですが、最後の一歩が出ないんだよなぁ。

 それに対して、なんてったってあなた、今回の007は『スペクター』ですよ、『スペクター』!! 007シリーズ最大の巨悪組織が、公式シリーズとしては約半世紀の時を経て大復活ときたもんだ! これは見逃すわけにはいきませんよねぇ。
 3年前に公開された前作『スカイフォール』を観た際にも、私は次回作でスペクターが復活したらいいのになぁ、なんてことをつぶやいていたのですが、それがほんとに実現するなんて! 今年の初めくらいに映画館で「スペクター」っていうサブタイトルがでかでかと掲げられたポスターを見たときはもう、うれしくてうれしくて。大傑作『スカイフォール』の高みに達したクレイグ・ボンドが、リニューアルされた21世紀版スペクターといったいどのような因縁の激闘を繰り広げるのか、楽しみで楽しみで仕方なかったわけなのです。
 そりゃもう、『仮面ライダー』シリーズの悪の世界的秘密組織ショッカーの先輩にあたるスペクターさまなんですから、興奮するなというほうが無理な話なのでありまして! ワクワクしますね~。

 ただ、東西冷戦もすでになく、前世紀ほどに大国が大国らしい隆盛を誇っているわけでもない、国と国との個々の権謀術数がうずまくシビアな21世紀、「世界で起きる大犯罪のほとんどを陰で操る謎の組織」というはったり設定に果たしていかほどの説得力があるのか……それはやっぱり、007シリーズが荒唐無稽な娯楽映画だったコネリー~ムーア・ボンド時代にこそ活きていた過去の遺物なのではないか? それをどうしてまた、よりにもよって「ボンドらしからぬ硬派さを魅力とする」クレイグ・ボンドで復活させるのか!? そこらへんの不安はぬぐえなくもないわけですよね。

 ムチャクチャな例えであることを承知の上で言わせていただきますと、私はこの「007シリーズにおけるスペクター」という存在は、「ゴジラシリーズにおけるミニラとかベビーゴジラ」なんじゃないかと思うんですね。
 つまり、スペクターは確かに黄金期の007シリーズを語るうえで欠かせない要素であることは間違いないんですが、決して007シリーズのファン全員がスペクターの復活を望んでいるわけではないと思うんです。むしろ、スペクターのいかにもなウソくささが嫌いというファンの方も多いでしょうし、そもそもスペクターなんかまったく出てこない007シリーズばかりを観て育ったファンのほうが多いかもしれないわけで。作品ごとにボンドガールと並ぶ話題になるゲストラスボスだって、そりゃまぁリアリティを重視しすぎてキャラクターとしてのスケールまでもが小さくなってしまうのは問題外でしょうが、それこそ『スカイフォール』のハビエル=バルデムさんみたいに、ピンでも光っていれば十二分におもしろいわけなのです。いまさら、それに加えて「すべての糸を裏から引いていた真のラスボス」が出てきたってなぁ……という「およびじゃない感」はあるのではないのでしょうか。

 ましてや、繰り返しになりますがボンドがクレイグさんなんですから! なんか、ブロスナン・ボンド時代だったらいいけどみたいな感じ、しません!? しつこくゴジラシリーズに例えるならば、『大怪獣総攻撃』(2001年)の白目ゴジラにミニラがついてくるようなもんでしょ! 大丈夫かな~って気にもなりますよね。おもしろそうだけど。

 ただ、ブロスナン・ボンドのように過去のほとんどの設定をそっくり「もうあるもの」として引き継いだのではなく、そもそもジェイムズ=ボンドという男がスパイ007号となるいきさつから丹精込めて語り直し、「M」「Q」「Ms.マネーペニー」といったレギュラーキャラクターさえもいちからリブートして築き上げてきたクレイグ・ボンドシリーズとしては、やっぱりスペクターに挑戦しないわけにはいかなかったという、「今やらずにいつやる!?」という機運はあったのではないでしょうか。だからこその、満を持しての権利購入だったのだろうし。その覚悟は買わなくてはなりません。


 さぁ、ほんでもってドキドキしながら拝見した今作だったのですが、その出来栄えはというと?

 文句なくおもしろかった!! しかし、どうしてもそのアタマに「ふつうに」という文句がついてしまう……


 ふつうにおもしろかったです。いや、それでいいと言ってしまえばそこまでなんですが、哀しいかなあの『スカイフォール』の次という順番になってしまうと、そこはかとなくただよってしまう「あぁ、まぁがんばったよね。」な空気! これだから大傑作のあとの作品はつらいですよねぇ。『ダークナイト・ライゼズ』と同じ道をあゆんでしまった感がハンパありません。

 いや、でもおもしろさは請け合いだったわけですよ! むしろ今までのどのクレイグ・ボンド作品よりも、開き直ったような大胆さで007シリーズとしての「王道」回帰を果たしたぶん、肩ひじ張らずにのんびり楽しむ娯楽映画としてのサービス感は上がっていたと感じました。
 さむ~いオーストリアからあつ~いモロッコまで、世界を股にかける007の大活躍! といっても、そう考えてみると今回はけっこう狭めな範囲のご旅行でアジアにはいっさい用がなかったわけなんですが、それでも一面の銀世界から熱風うずまく砂漠地帯へという色彩のリズムは、まさにスパイ大作映画の醍醐味を存分に味わえましたね。
 そして、なんといってもボンドカーをはじめとする数多くの秘密兵器の活躍、Qやマネーペニーとのコミカルなかけ合い、気合の入りまくった冒頭のヘリアクション、スペクターのはなったスゴ腕の殺し屋ヒンクスの猛追、おしゃれな豪華客車の中での死闘、そして敵の秘密基地のギネス級の大爆発といった見せ場の連続は、いよいよ本格的にクレイグ・ボンドが007らしくなってきたという高揚感があって、「いいぞ~、もっとやれ!」と拍手したくなるテンションの高さに満ちていたわけです。

 ただ! まぁ~、その。

 そういった「観て損はしないよ!」という大前提を置いたうえで言わせていただくのですが、決して「こまやかに作り込まれた作品」ではないと思うのね。

 だって、もはや「ツッコミ待ちなの?」としか思えないストーリー上のヘンなポイント、そこかしこにあったでしょ?

1、ボンドさん、なぜ爆薬が入っているに決まっているアタッシュケースを撃つ!?
2、前任のMさん、なぜ「殺し屋スキアラを殺して葬儀に行け」と言う!? 「スキアラに吐かせろ」じゃダメなの!?
3、スキアラの未亡人ルチアさん、そこでフェイドアウト!? ふつうに助かったの!?
4、ボンドさん、なぜ監視カメラのある場所で堂々と Mr.ホワイトと会話する!? とりあえずその家から出たら!?
5、スペクター、なぜ構成員の指輪ふぜいに組織の超重要機密をインプットさせる!? 本人認証だけでいいだろ!
6、モロッコの豪華客車、なぜあれほどハデに車内がぶっこわれたのに平常運行でボンドたちを駅に降ろす!? 終点駅で「あの人たち降ろしちゃいました~。」じゃ済まねぇだろ! バイトか!?
7、首領、Mr.ホワイトに住所特定されたに決まってるモロッコの秘密基地になぜ住み続ける!? 引っ越せ!
8、ボンドさん、炎上してる秘密基地からいかにも意味ありげな黒塗りの車が脱出してるよ!! それほっといてイギリスに帰国してませんか!?
9、ボンドさん、ルチアさんはさっさとよそに保護させてマドレーヌはずっと自分に同行させるって、扱いの差が露骨すぎやしませんか!? マドレーヌ、オーストリアで別れてもよかったよね!?

 私は別に、ツッコミどころを目を皿のようにして探しながら観てたわけではないんですよ。それなのに、1回サーっと観ただけでこんなに挙がるわけなのよ! こりゃもう確信犯だろ。確信犯的に、行きあたりばったりで荒唐無稽なジェットコースタームービーに仕上げているわけなんですな。もう、理屈はとりあえず後にして、展開が盛り上がるから爆薬が爆発して、画的にいいから美女がボンドについていくという感じなんですよね。
 まぁ、ポイント9のおかげでボンドが助かったとか、ポイント5がなけりゃ話が先に進まないということでもあるんですが、なんか、それまでのクレイグ・ボンドシリーズとは人が違ったかのような雑さですよね。と同時に、ポイント3のミョ~な甘さがやけに気になります。ルチアさん、『スカイフォール』だったら絶対に死んでたでしょ!? なんであんなワンポイントリリーフだったんだろ。やっぱおばちゃんじゃダメなのか!?

 あと、どうでもいいんだけどマドレーヌさん、あのタイミングで「あぶなっかしくてしょうがないから、帰る……」って言う!? なぜいまさら!? AB型か、あんた!?

 ただ、そりゃ勧善懲悪でハッピーエンドの約束された娯楽映画なんですから、主人公に都合のいいように展開しなければ仕方ないのであります。つまり、枝葉は多少アレだったのだとしても、作品の根幹である「ボンドと巨悪との対決」! そこの「巨悪」という部分に十分な恐ろしさというか、正義のスーパーヒーローに伍する悪の魅力がきいていたら、すべてはオーライになるのだ!! さぁどうだ、新しいスペクター首領はどうなんだ!?

 う~ん……ダメなんじゃない!?


 国際的犯罪組織スペクターと、その首領の恐ろしさというところが、今作ではあんまりわかんなかったです。

 つまるところ、あれだけ不死身でパワフルなボンドの宿敵たるスペクター首領の「恐ろしさ」というのは、首領の腕っぷしじゃないですよね。あれだけの世界的組織を統帥する知力と財力と人心掌握術であるわけです。
 ということは、なんだかわかんない私怨にとり憑かれてボンドの前に生身の自分をさらした時点で、首領はもうかなりのご乱心ですよね。周囲の部下にしたら、「そんなお遊びはやめてさっさと殺しちゃってくださいよ、危ないから!」というアドバンテージに次ぐアドバンテージをボンドに譲った末に、余裕しゃくしゃくでボンドに会ってやってるわけですよね。殺そうと思ったらローマの秘密会議の席で殺せたはずなのに、なぜかあえて自分の顔を見せた上で逃しちゃう。

 ここまで首領がボンドにこだわる理由って、かつての20世紀シリーズでは、まぁそれは原作小説と映画化作品との製作上の複雑な事情があったにしても第1・2・4作で自分の考えた大犯罪や有能な部下たちが次々とボンドの手にかかってしまったから、という贅沢すぎる助走があったわけです。つまり、満を持して第5作でついに首領おんみずからが! という積年の恨みを込めての真打登場感があったのでしょう。
 その点に関しては『スペクター』も、『カジノ・ロワイヤル』~『スカイフォール』の裏にはスペクターが! という事実を明らかにしてはいるのですが、「スペクター」っていう名前が出てくるのは今作からだもんねぇ。後付けですよね。

 組織の存在が明らかになるやいなやのラスボス登場だもんなぁ。なんかもったいないというか、まだまだ組織も余力がいっぱいあるはずなのに、なんでそんなに首領が危ない橋を渡り続けるの? みたいなわけのわからない焦燥感があるんですよね。
 誰か、スペクターの中であの首領の暴走を止めようとする忠義の臣はいなかったのだろうか……モロッコの秘密基地とかで首領のそばに仕えていたメガネくんは完全にイエスマンですよね。たぶん、本人も「こいつ大丈夫か……」とため息まじりで付き合っていたのでしょう。それで最期はああだもんなぁ。悪の組織づとめは、今も昔もむくわれねぇよなぁ。

 もちろん、そこらへんの「ボンドと首領の因縁」という部分を強化するために、今作オリジナルの「若き日のボンドと首領」といった関係がほのめかされるわけなのですが、なんか、それにこだわってるのは首領だけで、ボンドは「いや、忘れてたわ。」みたいな距離感があんのよね! 「死んだの、おまえの親父だし。」というボンドの冷めきったまなざし! もしかしたら、首領はモロッコの秘密基地でボンドに会ってしばらく話してるうちに「あれ……そんなテンションの低さ?」と思ってたのかも。とっておきの土産話を持ったつもりで友だちと久しぶりに会ったときに、よくある風景ですよね!

 あと、マドレーヌにわざと父である Mr.ホワイトの死の映像を見せるときも、ぬるいよなぁ~!!

 あれ、天下のスペクターの首領さまなんだから、なんで映像をいじくって途中から「ボンドが Mr.ホワイトを射殺するウソウソ映像」に差し替えなかったの!? そんな、悪の組織の首領としてなら初歩の初歩の心理攻撃もしないんだもんなぁ~! 甘いっていうか、あんた悪人としての自覚に欠けてるよ!! 『ウルトラマンA』の異次元人ヤプールのうすぎたなさをみならってほしいよねぇ! まぁ、ヤプールもなぜか土壇場になってウルトラマンエースを自分の家に招いて取っ組み合いのけんかで勝敗を決めるというスポーツマンシップを見せたおかげで大負けしたんですけど。


 とまぁつらつら言いましたけど、まとめると私はこの『007 スペクター』も十二分に楽しめましたし、首領を演じたヴァルツさんも、俳優さんとしては別になんの文句もありません。

 ただ! この作品で首領があそこまでひどい目に遭うのは、いかにも時期尚早ですよ。せっかく数十年ぶりに復活させたスペクターなんですから、ここは大事に扱って、せいぜい首領はローマの秘密会議での登場どまりにしといて、直接対決は次回作以降という腰の据え方にしといたほうが断然よかったと思うんだよなぁ。それこそ、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』くらいの出番の少なさでいいじゃないかと!

 なんか、クレイグ・ボンドはこれがラストかも、なんていううわさもあるんですが、また改めてスペクターと再戦してほしいなぁ。いい味だしてた殺し屋ヒンクスも直接死んだという描写はなかったし。
 ほんと、「あのダメダメ首領は替え玉でした!」っていう仕切り直しで、次回を期待したいです。クレイグさんもやっと47歳。57歳までボンドやってた先輩もいるんだもの、もちっとがんばっていただきたいです!


 ほんと、悪の組織の首領は、座ってるだけでいいのよ……現場にしゃしゃり出ちゃダメ! スペクターには、『オースティン・パワーズ』のナンバー2のような誠意ある人材が必要だ!!
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まさに究極……なにも起きない「生きてることが SF」映画!!  ~タルコフスキー監督『ストーカー』~

2015年10月03日 23時04分32秒 | ふつうじゃない映画
映画『ストーカー』(1979年8月公開 164分 ソヴィエト連邦)


 映画『ストーカー(原題・Сталкер)』は、アルカジイ&ボリス=ストルガツキー兄弟による長編 SF小説『路傍のピクニック』(1972年)を原作とし、アンドレイ=タルコフスキーが監督した作品である。
 人間の本性と欲望、信仰や愛を通じての魂の救済を描く。タルコフスキー監督作品としては『惑星ソラリス』(1972年 スタニスワフ=レム監督)に続く SF映画であるが、未来的な描写や派手な演出は全くと言っていいほどない。実際、この映画において SF的設定と言えるのは、冒頭の短い字幕解説だけである。これは、タルコフスキーが原作小説に注目して、他の映画監督のために脚本化したいと考えた1973年初めから、彼自身が「最も調和のとれた形式をとりうる」構成を練り始め、「合法的に超越的なものに触れる可能性」を見出した74年末から75年初め、そして2度の撮影を経て最終的な完成ヴァージョンに至るまでの約4年の間に、タルコフスキー自身の構想が大きく変わった結果である。『ストーカー』の撮影はタルコフスキーの全作品中、最も準備不足な状態で始まり、スタッフとの軋轢や脚本の全面的な書き換えもあってトラブル続きであったという。

 内容は2部構成になっており、物語が展開する時間は明示されていないが一昼夜であると思われる。タルコフスキーのこれまでの作品と比べても長回しが多く、現実的な時間の持続を強調している。タルコフスキーの他の作品と同様に、「水」が重要なモチーフとして登場するが、それまでの作品とは異なり、水面には油が浮いていたり文明の遺物が底に沈んでいたりして、美しく描かれてはいない。場面ごとに微妙に変化する色調や冒頭でストーカーが登場するシーンのカメラワークに、中世ロシアのイコン様式の影響があるという研究もある。後半には特有の難解なセリフ回しが見られる。
 後に犯罪の種類のひとつを意味する「ストーカー」という言葉が日本語に定着するはるか以前の映画作品であり、ロシア語の原題も英語の「Stalker」をそのまま使っていて、作中では「密かに獲物を追うハンター」という意味で使われている。


あらすじ
 ある地域で「何か」が起こって住民が多数犠牲になり(隕石が墜落したとも言われる)、政府はそこを「ゾーン」と呼んで立ち入り禁止にした。しかし、ゾーンには何でも願いが叶う「部屋」があると噂され、政府の厳重な警備をかいくぐって希望者を「ゾーン」に案内する「ストーカー」と呼ばれる人々が存在していた。
 ある日、ストーカーの元に「科学者」と「作家」と名乗る2人の男性が現れ、その「部屋」に連れて行ってくれと依頼する。だが、命がけで「ゾーン」に入った後も、予想のつかない謎の現象(「乾燥室」や「肉挽き機」などと呼ばれる)で命を落とす危険が待っている。その道行きの中、「ゾーン」とは何か、「部屋」とは何か、信仰とは何かを3人は論じ合う。


主なスタッフ
監督    …… アンドレイ=タルコフスキー(47歳)
原作・脚本 …… アルカジイ&ボリス=ストルガツキー兄弟
音楽    …… エドゥアルド=アルテミエフ(41歳)

主なキャスティング
ストーカー   …… アレクサンドル=カイダノフスキー
ストーカーの妻 …… アリーサ=フレインドリフ(44歳)
作家      …… アナトリー=ソロニーツィン(45歳)
科学者     …… ニコライ=グリニコ
ストーカーの娘 …… ナターシャ=アブラモヴァ




《ほんと、仕事のこと考えずにゆっくり『ストーカー』観た~い。本文マダヨです》
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楽しいリベンジ!  ~タルコフスキーの『鏡』を、寝ないでちゃんと観よう~

2015年09月18日 23時49分46秒 | ふつうじゃない映画
 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございますよ~っと。
 いや~、山形の夏も暑いやねぇ。9月もなかばになっているわけなんですが、まだ秋の訪れを実感できない残暑が続いております。千葉の暑さともまた違ったものがあるんですが、さすがに朝晩になると気温も落ち着いてくれるのが救いでしょうか。私にとっては実に18年ぶりの山形の夏になるんですが、こんなもんだったような、昔はもう少しお手柔らかだったような……高校時代は、もっぱら自転車たち漕ぎで汗だくになりながら市内を駆けずり回っていましたからねぇ。自動車って偉大……今さらながら!

 さてさて今回のお題は、私にとりまして長年の懸案となっておりました、ある映画についてのあれこれでございます。
 さっそくまいりましょう、こちら!


映画『鏡』(1975年3月公開 108分 ソヴィエト連邦)
 映画『鏡(原題・ЗЕРКАЛО)』は、アンドレイ=タルコフスキーによる自伝的要素の強い映画である。同時に、ロシアの現代史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーのキャリアにおいて、その中心をなす代表作である。
 タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
 『鏡』のなかで、タルコフスキーは父アルセニーの詩を繰り返し朗読するが、父と主人公アレクセイは鏡を通じて互いに写り合う像となっている。アレクセイの母マリアとアレクセイの妻ナタリアも鏡像関係にあり(同じ女優が演じている)、更にアレクセイ自身とその息子イグナートも互いに鏡像となる(少年時代のアレクセイとイグナートは同じ子役俳優である)。
 タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、そもそも彼の映画の思想そのものが魔術的だとも言える。


あらすじ
序章
 ユーリという青年が吃音の矯正訓練を受けている TV画面の情景から始まる。女医が話しかけるが、青年はうまく話せない。女医は青年を緊張させ暗示を与えつつ、解放した瞬間に「ぼくは話せます。」と言うようにと指示する。女医の言葉に合わせて青年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことができるようになる。

第1章 記憶
 物語は過去にフラッシュバックし、アレクセイの幼年時代に戻る。まだ若かった母マリアが農場の柵に腰かけていると、医者と自称する見知らぬ男が現れ、母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その後、タルコフスキー監督自身が、父である詩人アルセニー=タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。
 物語は、成人したアレクセイの日常を描く現代へと進む。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行くアレクセイだが、ふとした言葉や出来事が、彼を過去の記憶の情景へと引き込んで行き、現在は過去の記憶に浸食される。
 過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶と共に、ロシア(当時はソヴィエト連邦)の歴史、過去の政治体制などが描き出されている。祖父の別荘で納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族を去ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人の生命にも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

第2章 歴史
 現在のアレクセイの部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。記録映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。
 ある日、部屋にいた老婦人の要望に応え、アレクセイの息子イグナートはプーシキンの書簡を朗読する。それは、モンゴル帝国の圧倒的な破壊と暴力に対する防波堤となったロシア地方の、ヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。老婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻ると老婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた湯気の痕跡があり、それも見る見るうちに消えて行く。

第3章 交錯
 アレクセイは息子イグナートとの会話を通して、少年時代に雪の積もる冬、射撃場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び第二次世界大戦中の記録映像に映る、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落と軍人の遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件(1969年)の情景。そして再びアレクセイの少年時代へと時間は戻り、軍服を着た父が唐突に帰ってきてアレクセイをを胸に抱く。さらに時間は現在へと戻り、成人したアレクセイは息子イグナートに、父である自分と母ナタリアのどちらを取るか迫る。
 アレクセイはナタリアとの対話を経て、夢に見た少年時代へと思いを巡らせる。母と共にモスクワから疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、アレクセイ少年を伴って交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年が垣間見た、豊かで暖かい家庭。宝石を売りに訪れた家でランプの明りに照らされたアレクセイは鏡を見つめながら、家財を手放そうとする母を許す。しかしそれは彼が許しているというより、鏡に映った自己の姿の深奥を観照するなかに、彼ら母子の営みを見守る神の赦しが顕現しているようである。

終章
 まだ若い母マリアと父が、夏の白夜の夕暮れの中、田園の草の中で寝そべり、これから産まれる子は男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年のアレクセイと妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子らを逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、勘の鋭い若い母マリアもその後を予感し涙する。 十字架の前に赦しを請い、赤の他人である通りすがりの医師に心を動かす多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母を捨てて、もはや性の対象ではない老母と幼年時代の美しい記憶に回帰するというエディプス・コンプレックス的解釈もされている。このような、時空の秩序を越えた情景のなかで物語はクライマックスを迎える。
 かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸の枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出逢い、別れ、そして新しい未来へと進んで行く。


主なスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… アンドレイ=タルコフスキー(42歳)
脚本 …… アンドレイ=タルコフスキー、アレクサンドル=ミシャーリン
撮影 …… ゲオルギー=レルベルグ
音楽 …… エドゥアルド=アルテミエフ(37歳)
主題曲
ヨハン・ゼバスティアン=バッハ『オルガン小曲集』より『古き年は過ぎ去りぬ』(1713~16年)
挿入音楽
ジョヴァンニ・バティスタ=ペルゴレージ『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』より『我が肉体死すとき』(1736年)
ヘンリー=パーセルの歌劇『インドの女王』第4幕より『 They Tell Us That Your Mighty Powers』(1695年 歌唱なし)
バッハ『ヨハネ受難曲』より合唱『主、我らを統べ治め』(1724年)

主なキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
少年時代のアレクセイ/アレクセイの息子イグナート …… イグナート=ダニルツェフ(13歳)
母マリア/妻ナタリア               …… マルガリータ=テレホワ(32歳)
幼年時代のアレクセイ               …… フィリップ=ヤンコフスキー(6歳)
父                        …… オレーグ=ヤンコフスキー(31歳)
通りすがりの医者の男               …… アナトリー=ソロニーツィン(40歳)
リーザ=パーブロブナ               …… アーラ=デミドワ(?歳)
印刷工場の上司                  …… ニコライ=グリニコ(?歳)
マリアが訪問した家の主婦ナデージダ        …… ラリッサ=タルコフスキー(36歳 タルコフスキー監督夫人)
成人したアレクセイの声              …… イノケンティ=スモクトゥノフスキー(50歳)
詩の朗読                     …… アンドレイ=タルコフスキー


 出た~! 世界映画史上にその名を残す、ものすんごい映像詩の巨人・タルコフスキー監督の第5作となる映画作品です。
 アンドレイ=タルコフスキー。私にとっては、千葉の一人暮らし時代に出逢った様々な刺激の中でもトップクラスに衝撃的で、映画というジャンルの無限の可能性を教えてくれた才能でございます。大好き!
 とは言いましても、実にお恥ずかしいことに現時点で私が観たことのあるタルコフスキー作品は、SF映画に分類される『惑星ソラリス』(1972年)と『ストーカー』(1979年)の2作と、この『鏡』のたった3作だけなのです。情けなや!!
 それで、よくよく調べてみたらタルコフスキー監督の遺した映画は全部で「8作」ということでしたので、ここは山形での生活もなんとなく落ち着いてきたことですし、一念発起して全作の DVDソフトを購入してコンプリートしようじゃないかという流れに、今になってやっとたどり着いた次第なのでありました。ええ、遅いですよ!? でもやらないよりゃましでしょ! ということで。

 私にとっての初タルコフスキー体験となった、学生時代に大森の映画館の特集上映で観た『惑星ソラリス』についてのあれこれは、ずいぶん前に我が『長岡京エイリアン』でもすでに触れました。いや~、あれは本当に最高な出逢いでしたね。関東地方での一人暮らしを始めてみたばっかりで右も左もわからず、どこを見回しても山が存在せず(山形盆地の民にとってはとんでもねぇカルチャーショックだず!!)、しじゅう血のような潮のかほりが吹きすさぶ千葉市に恐れおののいていた私に、ものすごい郷愁を呼び覚ましてくれたと共に、「東京はこんな作品も娯楽にしてるのか!!」と、世界に冠たる1千万都市、メガロポリスTOKYO の格の違いを見せつけてくれた衝撃体験でした。しかもさぁ、『惑星ソラリス』に加えて、あの伝説の SFアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』(1973年 フランス)の2本立てだったもんですから、もう帰り道フラッフラでしたよ! 東京は恐ろしかとこばい!!
 当然ながら、「世界には『惑星ソラリス』という、とんでもない SF映画がある」といううわさだけは聞いていたのですが、まさかこれほどまでにものすごい作品だったとは……学生時代の私にとっては、この『惑星ソラリス』と、テアトロ新宿で観た実相寺昭雄監督の『 D坂の殺人事件』(1998年)、そしてなにげなく深夜に TVをつけた時にやっていたアニメ『 lain』が、「私的3大『都会の洗礼』作品」となります。あと、中野かどっかの劇場で観劇したナイロン100℃の『Φ(ファイ)』も、まず山形では観られない類のトンガリ具合があって衝撃的でしたね~。

 その後、『ストーカー』はでっかい2本組の VHSビデオを新宿で買って自宅で視聴したのですが、これもうわさにたがわぬ『惑星ソラリス』以上の「何も起きないがゆえに、何が起きてもおかしくない緊張感」みなぎる大傑作でした。とてつもない思想、技術、そして映像美……
 そして、これまた本ブログで触れた通り、さらにのちに私は2010年になって、池袋の新文芸坐で親友と連れ立って『惑星ソラリス』、『ストーカー』、そして『鏡』の3本立てになるタルコフスキー・オールナイト上映会にいそいそと出かけたのですが、そこで唯一、初めて観る作品だったはずの『鏡』のほぼほぼ全編でグースカ寝るという痛恨の事態を招いてしまったのでした……痴れ者が! でも、2時間半の映画を2本観た後に夜明け近くの『鏡』なんで……カンベンしてつかぁさい!! はっと気がついた時には映画はあらかた終わっていて、呆然としながら新文芸坐から出た時の、池袋の朝の光のまぶしさよ。

 それ以来、自分の心の中でかなりの遺恨となっていた『鏡』を、あらためて購入する DVDの1本目に選んだのは自明の理というものでしょう。今回はちゃんと睡眠をとって、自宅で腰を据えて堪能させていただきますぞ! 5年ぶりのリベンジに、思わず鼻息も荒くなります。


~108分後~


 いやはや……ものすんごい体験をしてしまつた……

 なんと言い表せばよいものなのか。映像を詩的とか魔術的とか、通りいっぺんの言い方にしても、結局先人の方々のリフレインになっちゃいますしねぇ。
 観た後の感覚を率直に言うのならば、「一向に出発しないのにぐわんぐわん横揺れだけするジェットコースター」という感じになります……わかる!?
 ただ横揺れするだけの遊具じゃないんですよね。ちゃんと目の前には何百メートルという高さまで登るレールがあって、それがうねうねと周囲を回って、自分たちが今座っている乗り物の後ろまでつながっているのです。それなのに、全っ然スタートしない! スタートしないのに、なぜか乗り物は激しく横にぐわらぐわら揺れる!! なぜ!?
 それは、自分が身体を強く横にゆすっていたからなのであつた。

 そうなんです、まさしくこの映画『鏡』は、観る者一人一人の心の遍歴を写す鏡。鏡はそこにあるだけで、自分からは別に何もしません。もしそれを見て激しく心を動かすものがあったとしたのならば、それは観る人が自分で自分の像に、心を動かす「何か」を見いだしているだけのことなのです。

 なるほどね~。ということは、5年前の私は、まだまだ自分の半生を振り返っても、特になんの感慨もわいてこずに退屈して眠くなってしまうようなお子ちゃまだったということだったのかしら。何かものすごく納得できるような気がする……
 かと言って、たかだか30代そこそこの自分が観た今回の『鏡』が最高に面白いってわけでもないはずなんですよ。だいたい家庭も子供も持ってないしね! もしも家庭を持ってから観たら、また違う味わいになるんでしょうねぇ。

 わかりやすく例えると、『惑星ソラリス』は『スター・ウォーズ』の真逆の SF映画ですし、『ストーカー』は『エイリアン』あたりの真逆になるでようか。とすれば、今回の『鏡』の正反対に位置するのは何かと思いを巡らせれば、「主人公が半生を振り返る」という文法にこだわるのならば、それはやっぱり時代はだいぶズレますが『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)になるのではないでしょうか。
 かの作品と比べれば一目瞭然かと思われるのですが、ふつう過去と現在を行き来するドラマを作るのならば、過去編と現在編を誰が見ても違いが分かるようにきっちり区別するのが定石であるはずです。『鏡』も、序盤こそおとなしくモノクロとカラーでシーン分けをしたりして一見時間の区分を観やすくしているように見えるのですが……「あれ、この子アレクセイ? イグナート?」というひっかかりが出てきたかと思うと、一瞬にして常識的な構造など存在しない異次元世界に突入してしまうのです。こわ~!!

 今作『鏡』は、半分以上タルコフスキー監督の自伝的作品といった感じなのですが、監督の半生を編年体で描くような大河ドラマ的なベタな作りであるはずがなく、かといって監督の視点から彼自身が体験した印象的なエピソードをピックアップしてつづるような紀伝体の形式も取っていないのです。
 じゃあ一体全体どんな構造なのかと言いますと、まさしくタルコフスキーお得意の表現パターンともいえる「水」のごとく、自分自身が変幻自在に姿を変え時空を超え、時には自分以外の母マリアや息子イグナートの肉体や脳をも取り込んで主観視点を変えていくという、『ターミネーター2』の T-1000か、虫好きの子ども達にとっては衝撃のトラウマ生物であるハリガネムシのごとき融通無碍な、もはや構造とも言えない超構造になっているのです。例えがひどい! 閲覧注意!!

 アレクセイでもあり、母でもあり、息子でもあるというこの主格のメタモルフォーゼは、確かに見る人によっては非常に混乱する横揺れ感がありますし、よくよく観てみると、タルコフスキー監督はかなり巧妙に物語の中に徐々に「破綻」を混入させており、最終的には画面に映っている情景の時間軸がいつなのかが全くわからない、過去と未来、別の時代の同じ人格がいたるところに混在するカオス状態となって完結します。でも、これは当然ながら監督の腕が足りないとか、時間や予算などでの制作上の制約があったからとかいう破綻ではもちろんなく、タルコフスキー監督が「人間の記憶なんか混在して当たり前でしょ。」という確信をもって映像化した、非常に理路整然とした混沌であるわけなのです。混沌を創造するもの、これすなはち神! 映画の神に敢然と挑まんとする者、タルコフスキー!!

 要するに、数百数千年、へたしたら数億年の時を経て地上に流れ出してきた水の流れが、その土地に住むさまざまな人々の生き様や喜怒哀楽を通り抜け、次第にその色や粘性を変えていくさまを108分で描き切った作品こそが、この『鏡』なのでありましょう。
 なので、この大河を楽しむためには、いちいち赤が混ざっちゃったとかにごってきたゾとか細かいことなんぞ気にせずに、尽きることのない奔流の、一瞬として同じ表情を見せることのない無常の美を見つめることが一番なのではないでしょうか。すごい! タルコフスキー meets 鴨長明!!

 いや~、やっぱりタルコフスキー監督の水好きには意味があったのだなぁ。自分でもあり、他人でもある! タルコフスキー監督は『新世紀エヴァンゲリオン』をさかのぼること20年以上前、すでに人類補完計画のありようを世に問うていたのだ。ま、提唱したところで所詮、世界人類には早すぎたわけなのですが……

 他の作品を観ていないので確たることは言えないのですが、本作は、少なくとも『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べると外的、政治的味わいが強いといいますか、わりと唐突に昔の歴史的な記録映像が流れだしてきます。そしてそれ以上に、バッハをはじめとするバロック音楽がふんだんに使用されていることからもわかる通り、キリスト教のかおりが非常に強いのも、今作の特徴なのではないのでしょうか。

 でも、いや、だからこそと言うべきなのか、本作はキリスト教の教えに沿わないような、どっちかというとロシア土着のやおよろずの神、みたいな自然の不思議な力がやたらと雄弁に前に出てくるような気がするんですよね。
 それに、「きれいごとだけで世の中生きてられっかよ!」みたいな、常にふてくされた表情でロシアの大地をつかつか闊歩する母マリアの姿も、宗教音楽で語られるような聖母マリアとはまるで違った女性像を提示しているような気がするのです。だいたい、消えたダンナに多少の未練は残してるとしても、アレクセイたちを育てるためにさっさと独立していきますもんね。

 でも、最後の最後のカットで老母マリアの歩く草原のはるか向こうに意味ありげに十字架をかたどった電柱がつっ立つカットの、その傍らにポツンとたたずむ若い母マリアの人影が、なんか猫背ぎみに腕を組んでタバコをスパーと吸ってるように見えたのは印象的でしたね。あれは、上の Wikipedia記事に挙げたような「十字架の前に赦しを請」うている態度にはじぇんじぇん見えないのですが……どっちかというと、「罪を背負って生きてくか~、めんどくせぇけど。」みたいなたくましさが、あんなに遠目でもビンッビンに伝わってくる雄姿でしたね。母は強し!!

 くだくだ申しましたが、タルコフスキー監督は、その身に深くしみ込んだキリスト教の思想を受け入れ、ダ・ヴィンチの画集に象徴されるようなヨーロッパ文化にあこがれを抱きつつも、最後にはそれを捨てて、ロシアの広大な大地に根ざす原始的な信仰に回帰していくかのような物語を描いているような気がします。ただ、最後の最後まで成人した現在のアレクセイが顔を出して主体的に動き出さないのは、やはりキリストの犠牲なくして現代文明の誕生なし、その長い長い不在を舞台設定に置きたかったからなのでしょうか。それとも、いずれ自分も父親のような「ダメおやじ」に堕してしまう、実際になりつつある、という宿命をかみしめ、また恐れているからなのかも知れませんね。そういったあたりに正面から挑んでいったのが、次作『ストーカー』での主人公のダメダメっぷりなのかも!? 自分がライオス王になってしまったとしみじみ自覚しているタルコフスキー監督にとって、自身がオイディプスに還ることができる場は映画の世界だけだった、ということなのでしょうか。

 でも、日本でタルコフスキー監督が人気なのも、わかったような気がしましたね。バッハだバロックだとヨーロッパ宗教的な味付けも多い作風なのですが、その本質にはきわめてアジア的なアニミズムが根ざしていることが、『鏡』ではっきりしたからです。理性と本能、静と動、理論と感情。その2大勢力の葛藤こそが、タルコフスキー作品の魅力の源なのですね~。タルコフスキー監督がもし芥川龍之介のキリシタンものを映画化していたら、どんなに美しい作品になったことか! 『奉教人の死』とかねぇ。遠藤周作の『沈黙』は、まんますぎて逆にだめですか。

 だいたい、日本の宗教でのイコンは仏像だとか神像だとかもあるにはありますが、神社の中のご神体の多くは「鏡」ですもんね! 製作技術的にどうしても写る像が歪んでしまうとかかすんでしまうとかいう事情もあるのでしょうが、昔の鏡は観る者をそのまんまはっきり写せない物がほとんどでしたし、鏡に写るものに神を見いだす文化は、日本でもふつうだったのでしょうなぁ。それじゃ相性もいいはずですよ!

 それにしても、しっかりした筋立てを持つ原作小説のある『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べて1時間前後短いとはいえ、今回の『鏡』はシーンごとの時空がピョンピョン飛び跳ねてしまうのでなかなか集中力のいる視聴になりました。あらためて振り返ってみると、池袋・新文芸坐さんの3本だてオールナイトの並び順、けっこう鬼だぞ! 集中力がいちばん途切れがちになる夜明け前に『鏡』て!! そういう苛烈な責め方が、いかにも東京らしいよなぁ。

 ただそれでも、タルコフスキー作品名物の「起きそでなんにも起きない」と「水ぜめ、水ぜめ、また水ぜめ!」の演出は健在すぎるほどに健在で、射撃場での子どものいたずらで投げられた手榴弾が爆発しないとか、母マリアが大雨の外から印刷工場に入って出勤のタイムカードを切ったのに、また外に出てずぶぬれになりながら自分の部署にダッシュするといったひとこまは、もはや笑わせにきているとしか思えない監督の心づくしを感じました。あれだけあおっておいて爆弾の一つも炸裂しないとは……「舞台に拳銃があったら、それは必ず発射されなければならない。」という名言を残したチェーホフと同じ国に生まれた映画監督とは思えない、ケンカを売るかのような演出! そういえば作中でもチェーホフの戯曲の登場人物が茶化されていたけど、監督はチェーホフ的な演劇論がお嫌いなのかな? そうだろうなぁ。
 ほんと監督は、水が好きだよねぇ。でも、本作はまるで透明の怪獣が森や草原を通り過ぎていくかのように、生い茂る草木がざわざわとなびいていく風の動きをカメラに収める演出も特徴的でしたよね。序盤の通りすがりの医者のシーンなんか、どこからどう見ても不審者にしか見えない自称医者の男が、去り際の草原の動きでいっきに「まれびと神」にまで持ち上がってっちゃったもんね! 結局なんだったんだ、あのオヤジは!? 農場の柵、ちゃんと直してから行けや!!

 ま、そんなこんなで数年来の遺恨だった『鏡』をやっと最後まで観たわけだったのですが、やはりタルコフスキー監督の代表作と言われてもおかしくない濃度の作品だったかと思います。でも、難解だと思いだしたら果てしなく難解になる不思議な一作でした。まさに、考えるな、感じろ!!
 「自伝」と言って、これほどまでに正直に時空が混在した感覚を映像化するのは、やっぱり天才の仕事ですよね。実際、過去が現在の生き方を激しく揺り動かすのはよくあることだと思いますし、現在が過去の出来事を都合のいいようにゆがめるのも日常茶飯事ですよね。結局は、どちらも独立しては成りたたないものなのです。

 でも、タルコフスキー作品に登場する俳優さんがたはほんとに魅力的ですよね。前作『惑星ソラリス』で観た顔がちょいちょい出てくるのもうれしかったのですが、ほぼ主演格で出ずっぱりだった母マリア役のテレホワさんもさることながら、少年時代のアレクセイが好きだったという赤毛で唇の切れた少女もかわいかったなぁ。あの酷寒のロシアの地で、さすがに生足ではないにしても短めスカート絶対領域ファッションを断行するとは……根性ありますね!

 今作でも、女性のたくましさと男性のダメダメさを痛感したタルコフスキーワールドなのでありました。おやじぃ~!

 父ちゃんはな、父ちゃんはな……父ちゃんなんだぞ!!(『正調 おそ松節』より)
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