「政治の衰弱は、すなわち経済や社会のシステムに人間が埋もれることを意味しておろう」と会話の中で言わせていますが、「人間の衰弱が、すなわち経済や社会のシステムに政治を埋もれさせる」と試しに自分で(なんのために?)書きかえてみてもどっちもどっち。地方政治のこともあって無理して読んできましたが、膨大な情報の字面だけを追い終えたあとは、何やら「昏い」「隠微な」「頭が」「薄ぼんやりした」「ざわざわ」「アハハ」。……ヤンキーになるかニートになるか勉強するか云々……。
幾つかの素人レビューで「膨大な個性」という言葉が目につきました。
言葉(弁)に躓く私には舞踏集団の感もあり、これじゃまるでシェイクスピアじゃないの(読んでないけど)ああそれで描かれる世代の関係性を絡めてリア王なのかなと思おうとしました。
人物がこぞって村弁を操りながら粒立ったキャラ──個性なのか意識的な類型なのか──を浮き立たせる手腕は見事、ということなのかもしれません。
村薫の小説はかなり日本人的であり、非常におんならしいといった気がします。それはより引き込ませる他の作品で展開が佳境に入っても文体が私に感じさせます。
イメージ1:おとこのすなる緻密な描写と少し違うように感じるのは、もしかしたら言いたいことを言い出したらとことん言わないと気が済まないという、どこかでよく言われる話ではないかなどと思うことがあります。
イメージ2:おんなを描かないのは描かないのではなく(主観的な意味で)描けないのではないか。そうであればまた、描けないという意味がおとこのそれと違う感じがします。どちらも、私がおとこでないという生理的なイメージにすぎず、ひいては、読者に女性が多いことから、おんながおんなを描く生々しさを避けているのかという想像もします。
いずれもフマンタレブーな勝手なイメージでしょう。
頭の回転の速い人にとっては村の文体は小気味よく思えるものですか。小説に限らず言葉は媒介であって文法など要らぬ話と言ってみるときと、情景描写に詩を絡ませておいてそれはないだろうと言いたいときとは、どちらもそう愉しい読書とは言えません。
それが魅力的なことももちろんあります。起承転結理路整然を希むではありません。ただ、論理的に盛り上げた挙げ句に情緒的に放擲する。順々に諄々と辿ってみたらもぬけの殻だった、あるいはあちらを主語にすれば正しいのだが、こちらが主語でないと文章がおさまらない気がするというような蹴躓きに当たったことが、少なくとも私は一度ではありません。以前、Uターン翻訳したらどうかと書いたのはそういうことです。
著者から感謝されてる校正者がついてるしね、わからないのはバカだけで、モンク垂れるならバカに垂れろ、ですね。はいまあそういうことなのだろうと思いますが。
以前からこのひとからというかその周辺イメージに同年代の才女漫画家たちを些かオーバーラップさせていました。村薫のコミュニティに入るときにたまたま目に入った「薫サマ」の文字にたじろいで、幽霊会員?のまま退会しました。鋭いレビューも書かれているのでしょうに。
晴子情歌から続く第3部としての次回作を楽しみにしているかもしれません。
言葉が完全に記号化しつつある現代にペンを向けるそうで、「ついて行けないかもしれません、私。こういう古い頭ではね(笑)」と著者は言ったそうですが、だからこそ堅固なターニングポイントのひとつでしょう。
(ⅠⅡⅢⅣはいずこに?)