履歴広告ではない。見抜き広告か。

2022-04-27 14:32:57 | memo。



きょねん腕時計をネット購入した。
購入決定までにそりゃ検索するさ。
もう買わないのに腕時計広告続く。。。。


数週前お店で見た帽子を比較検索。
購入は試着できるお店で済ませた。
もう買わないのに帽子帽子又帽子。。。。



検索すれば出る広告はもう慣れた。
ところがどっこい本当に吃驚した。
みずいろのミニチュアソファーだ!


数十年前に人からもらったウサギ
据わりが悪いミニチュアうさぎで
ミニチュア家具ガチャ500円に
行こう買おうと数年前思い立った。
思い立ちなら何度もすれど行かず。



さくじつのことであった。えー?
みずいろもミニチュアソファーも
検索なんぞしていないのに、出た!
えー?えー?えー?えー?なんで?





購入決定です。さっき支払い完了。



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筆洗(給付金 4,630万円振込)。

2022-04-24 07:39:43 | ・本・記事。


阿武町のコロナ給付金 4,630万円振込の報を見て、(現みずほの一前身)第一勧業銀行から私の口座に100万円(ジャストでした)が振り込まれていたことがあったのを思い出した。

正直に電話したら、ああそうですかといった対応で、あとで記帳しに行ったらその 100万円はきれいになくなっていてオシマイ。かんぺきおしまい。 なんか損した気分まで思い出したくはなかったが、筆洗曰く「正直に届け出ないと不幸を招く」だそーなんで、よかったよかった?

阿武町の住民さんはしかし我欲を周知されて告訴されていい迷惑だよね、とは思ってしまう亜経験者。


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みずいろの羽村 ~ アキラくんと。。。

2022-04-19 14:16:57 | ■おもに建物。


羽村は歩道橋からして違う、なんて思った。



視界の端にみずいろが入った。歩道橋を渡って写真を撮りに向かう。




塀もみずいろSさん邸。


Uターンしてまた歩道橋を渡って堰へ向かう。

川辺に着いて歩き出すと、猫を首もしくは肩に巻いて走るサイクリスト。
クビマキネコを撮りたくて追いかけて追いつきかけたら、はや玉川兄弟の像にネコ先生を預けちゃっていた。

8歳男子アキラくんと聞く。




アキラくんアキラくんと呼びかけながらゾウモリネコを撮る。
視線逸れる。ブスなばばあに名前教えんなよと。だよねー。







みずいろ放射台。

ちがいますね。水門の上。




すっかり葉桜になった堤を歩く。目につくのはサイクリストやハイキングのグループ、老夫婦。



歌手の卵だった時代の話が尽きない年配者のグループが集う東屋の外側にぐるりとベンチがついている。多摩川に向くほうに座り、やっと常温になってきた塊を取り出す。
脱電子レンジの一歩、冷凍おにぎりをチンしないで持ってきてみた。炊き込みご飯なのでベータ化が少しはごまかせるかと。


脱レンジはケワシイっ!
   と思う。一個がんばって食べきりました。これからは冷凍前提のおにぎりはつくりません。。。。 ううううううんんん






きのう出てきた切り抜き ↓ おにぎり食べたベンチに広げて撮りました拡大すれば読めると思いますがこの画面では拡大できませんねすみません。

東京新聞2021/08/22





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イコンアイコンの内奥。

2022-04-10 17:43:06 | memo。



 田中泯 …… 一番大切なのは、競争のためにそれをやっちゃあいけない。踊りのためにやらなくちゃいけない。そこが一つの一番重要なところだと思うんですね。
競争をすると多分自意識はさらに高まっていきます。そうすると、見たくない人が絶対増えていきます。要するに見る人って、動いてる人踊ってる人の体の中に入りたくなるんです。(橋本「なります。」)なりますよね。そこが、踊りなんです。
 橋本愛 だから今日、なんか最後、あんな動き絶対できないはずなのに一緒に踊ってる気持ちになって、それがすごい楽しくて、あ、ずっと見て──見ていたいというか、そういう言い方すると、もうずっと一緒に踊っていたいみたいな、そういう気持ちになって、泯さんの中の私っていうものが限りなくいなくなってて、でも、私よりも私になってるみたいな、自意識がほぼほぼ完全に排された、ただそのままの状態みたいな。
なんかそれでずうっとい続けるってものすごいことだと思いますし、でもなんかそうじゃないと、踊りになら(ここから田中↓がかぶる)ないのかな ……
 田中 そういう状態に自分がなれて、それで動き──動くことができると、す(ーん)ごくうれしいんです。それで、それができて(る)自分というものを、ここだけの話なんつったってテレビに映るわけだからあれだけど、あのね、ふだんより……





NHKあまちゃんで存在を知った橋本愛というひとは私には10年たってもアイコン(イコン)だ、私に影響のないそれね。上記はそのひとと田中泯とのSWITCH発言の一部。

私がこの録画を見た前後あたりで美智子妃の過去の講演録が東京新聞に連載されていた。紙面は美智子さまと書いている。検索斜め読みでは、妃は皇后よりも下位の格式とかなんとか、それじゃ上皇后ならなおのこと妃はアウトか、書きやすいのにな。さま(口ではわりと軽く言える)はやや抵抗がある。
雲上イコン(アイコン)。
連載6回目あたりで記事を初めて読んで ヒトの生(なま)の感覚、叡智のようなものが響く。それまでは見出しだけでスルーしていたらしい。
前後の連載を探し、モンダイなら一挙に削除できるよう、以下に全回分をキーボード打鍵(久々の指の運動)した。見つからない部分は欠落している。←と書いてから、打鍵を終えるまで一挙アップは無理かもしれない(テキスト量)と思っていた。すごいなgooブログ???



─────

子供の本と平和 ── 美智子さま講演録


〔1998年9月、インド・ニューデリーでの国際児童図書評議会(IBBY)世界大会に寄せられたビデオメッセージ〕

0402
 私の子供の時代は、戦争による疎開生活をはさみながらも、年長者の手に護られた、比較的平穏なものであったと思います。そのような中でも、度重なる生活環境の変化は、子供には負担であり、私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に、疲れてしまったりしていたことを覚えています。
 そのようなとき、何冊かの本が身近にあったことが、どんなに自分を楽しませ、励まし、個々の問題を解かないまでも、自分を歩き続けさせてくれたか。私の限られた経験が、果たして何かのお役に立つものかと心配ですが、思い出すままにお話をしてみたいと思います。


 まだ小さな子供であったときに、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新実南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯詰まっている、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返って来る答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終っています。


 あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれたのは、私が小学校の二年くらいまででしたから、四歳から七歳くらいまでの間であったと思います。その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単にああよかった、と思いました。それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
 しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻み込まれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああ、よかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。



0403
 私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和十六年(一九四一年)のことです。四学年に進級する頃には戦況が悪くなり、生徒達はそれぞれに縁故を求め、又は学校集団として、田舎に疎開していきました。私の家では父と兄が東京に残り、私は妹と弟と共に、母に連れられて海辺に、山に、住居を移し、三度目の疎開先で終戦を迎えました。
 度重なる移居と転校は子供には負担であり、異なる風土、習慣、方言の中での生活には、戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが、田舎での生活は、時に病気がちだった私をすっかり健康にし、私は蚕を飼ったり、草刈りをしたり、時にはゲンノショーコとカラマツ草を、それぞれ干して四キロずつ供出するという、宿題のノルマにも挑戦しました。八キロの干し草は手では持ち切れず、母が背中に負わせてくれ、学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり、母は幼い弟のために山羊を飼い、その世話と乳しぼりを私にまかせてくれました。


 教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に、たまに父が東京から持ってきてくれる本は、どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので、惜しみ惜しみ読みました。そのような中の一冊に、今、題を覚えていないのですが、子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は、どちらも八世紀に記された二冊の本、古事記と日本書紀に記されていますから、恐らくはそうした本から、子供向けに再話されたものだったのでしょう。
 父がどのような気持ちからその本を選んだのか、寡黙な父から、その時も、その後もきいたことはありません。しかしこれは、今考えると、本当によい贈り物であったと思います。なぜなら、それから間もなく戦争が終わり、米軍の占領下に置かれた日本では、教育の方針が大巾に変わり、その後は歴史教育の中から、神話や伝説は全く削除されてしまったからです。


 私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。
 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは、時に子供に安定の根を与え、時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。もっとも、この時の根っこは、かすかに自分の帰属を知ったという程のもので、それ以後、これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の、ほんの第一段階にすぎないものではあったのですが。


0404
 又、これはずっと後になって認識したことなのですが、この本は、日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみを持つ上で、これは大層楽しい入口ではないかと思っています。


 二、三十年程前から、「国際化」「地球化」という言葉をよくききようになりました。しかしこうしたことは、ごく初歩的な形で、もう何十年─もしかしたら百年以上も前から─子供の世界では本を通じ、ゆるやかに始まっていたといえないでしょうか。一九九六年の「子供の本の日」のためにIBBYが作ったポスターには、世界の家々を象徴する沢山の屋根を見おろす上空に、ぷっかりと浮かんで、楽しげに本をよんでいる一人の少年が描かれていました。遠く離れた世界のあちこちの国で、子供たちはもう何年も何年も前から、同じ物語を共有し、同じ物語の主人公に親しんで来たのです。
 父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。


 年代の確定出来ない、六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた妃、弟橘比売命は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしいと云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
 さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも
 このしばらく前、建と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀に会って草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ」という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。


0405
 悲しい「いけにえ」の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかし、この物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌は─私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが─あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 この物語は、その美しさの故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。


 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。
 まだ、子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよく分からない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて来て、しばらくの間、私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています。


 疎開中に父が持って来てくれた本の中で、あと三冊、私の思い出に残っている本があります。これは兄の持っていた本で、いつか読みたいと思っていたものを、父に頼んで借りてきてもらったものでした。三冊共「日本少国民文庫」というシリーズに含まれていました。「少国民文庫」は全部で十五、六冊あり、「人間はどれだけの事をして来たか」「人類の進歩につくした人々」「発明物語 科学手工」「スポーツと冒険物語」などという題で一冊ごとがまとめられています。父はこの時、その中の「日本名作選」一冊と、「世界名作選」二冊を選んで持って来てくれました。
 この文庫が始めて刊行されたのは昭和十一年(一九三六年)、兄は五つで、私はまだ二つの頃です。その後戦争中の昭和十七年(一九四二年)に改訂版が出されており、母が兄のために買ったのは、兄の年令から見てもこれであったと思います、今私の手許にあるものは、今から十数年前に入手した、昭和十一年(一九三六年)版のうちの数冊ですが、「名作選」の内容は記憶のものとほぼ一致しますので、戦前も戦中も、あまり変化はなかったものと思われます。


0406
 今この三冊の本のうち、「世界名作選」二巻を開いてみると、キップリングのジャングル・ブックの中の「リッキ・ティキ・タヴィー物語」や、ワイルドの「幸福の王子」、カレル・チャペックの「郵便配達の話」、トルストイの「人は何によって生きるか」、シャルル・フィリップやチェーホフの手紙、アン・モロー・リンドバーグの「日本紀行」等が並んでいます。ケストナーやマーク・トウェイン、ロマン・ロラン、ヘンリー・ヴァンダイク、ラスキン等の名も見えます。必ずしも全部を熟読していない証拠に、内容の記憶がかすかなものもあります。
 子供にも理解出来るような、いくつかの詩もありました。
 カルル・ブッセ、フランシス・ジャム、ウィリアム・ブレイク、ロバート・フロスト…。私が、印度の詩人タゴールの名を知ったのも、この本の中ででした。「花の学校」という詩が選ばれていました。後年、「新月」という詩集の中に、この詩を再び見出した時、どんなに嬉しかったことか。「花の学校」は、私をすぐに同じ詩人による「あかんぼの道」や「審く人」、「チャンパの花」へと導いていきました。


 ケストナーの「絶望」は、非常にかなしい詩でした。小さな男の子が、汗ばんだ手に一マルクを握って、パンとベーコンを買いに小走りに走っています。ふと気づくと、手のなかのお金がありません。街のショー・ウィンドーの灯はだんだんと消え、方々の店の戸が締まり始めます。少年の両親は、一日の仕事の疲れの中で、子供の帰りを待っています。その子が家の前まで来て、壁に顔を向け、じっと立っているのを知らずに。心配になった母親が捜しに出て、子供を見つけます。いったいどこにいたの、と尋ねられ、子供は激しく泣き出します。「彼の苦しみは、母の愛より大きかった/二人はしょんぼりと家に入っていった」という言葉で終わっています。


 この世界名作選には、この「絶望」の他にも、ロシアのソログーブという作家の「身体検査」という悲しい物語が入っています。貧しい家の子供が、学校で盗みの疑いをかけられ、ポケットや靴下、服の中まで調べられている最中に、別の所から盗難品が出てきて疑いが晴れるという物語で、この日帰宅した子供から一部始終をきいた母親が、「何もいえないんだからね。大きくなったら、こんなことどころじゃない。この世にはいろんな事があるからね」と歎く言葉がつけ加えられています。
 思い出すと、戦争中にはとにかく人々の志気を高めようと、勇ましい話が多かったように思うのですが、そうした中でこの文庫の編集者が、「絶望」やこの「身体検査」のような話を、何故ここに選んで載せたのか興味深いことです。
 生きている限り、避けることの出来ない多くの悲しみに対し、ある時期から子供に備えさせなければいけない、という思いがあったのでしょうか。そしてお話の中のでんでん虫のように、悲しみは誰もが背負っているのだということを、子供達に知ってほしいという思いがあったのでしょうか。


0407
 私は、この文庫の編集企画をした山本有三につき、二、三の小説や戯曲による以外詳しくは知らないのですが、「日本名作選」及び「世界名作選」を編集するにあたっては、子供に喜びも悲しみも、深くこれを味わってほしいという、有三と、その協力者達の強い願いがあったのではないかと感じられてなりません。
 本から得た「喜び」についても、ここで是非お話をさせて頂きたいと思います。確かに、世の中にさまざまな悲しみのあることを知ることは、時に私の心を重くし、暗く沈ませました。しかし子供は不思議なバランスのとり方をするもので、こうして少しずつ、本の中で世の中の悲しみにふれていったと同じ頃、私は同じく本の中に、大きな喜びも見出していっていたのです。この喜びは、こころがいきいきと躍動し、生きていることへの感謝が湧き上がって来るような、快い感覚とでも表現したらよいでしょうか。


 初めてこの意識を持ったのは、東京から来た父のカバンに入っていた小型の本の中に、一首の歌を見つけた時でした。それは春の到来を告げる美しい歌で、日本の五七五七七の定型で書かれていました。その一首をくり返し心の中で誦していると、古来から日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われました。詩が人の心に与える喜びと高揚を、私はこの時始めて知ったのです。先に私は、本から与えられた「根っこ」のことをお話いたしましたが、今ここで述べた「喜び」は、これから先に触れる「想像力」と共に、私には自分の心を高みに飛ばす、強い「翼」のように感じられました。


 「世界名作選」の編集者は、悲しく心の沈む「絶望」の詩と共に、こうした心の踊る喜びの歌を、その選に入れるのを忘れてはいませんでした。ロバート・フロストの「牧場」という詩は、私にそうした喜びを与えてくれた詩の一つでした。短い詩なので読んでみます。
 「牧 場」(まきば)
 牧場の泉を掃除しに行ってくるよ。
 ちょっと落葉をかきのけるだけだ。
 (でも水が澄むまで見てるかも知れない)
 すぐ帰ってくるんだから─君も来たまへ
 小牛をつかまえに行ってくるよ。
 母牛(おや)のそばに立ってるんだがまだ赤ん坊で
 母牛が舌でなめるとよろけるんだよ。
 すぐ帰ってくるんだから─君も来たまへ
 この詩のどこに、喜びの源があるのか、私に十分説明することは出来ません。勿論その詩の内容が、とても感じのよいものなのですが、この詩の用語の中にも、幾つかの秘密が隠れているようです。どれも快い想像をおこさせる「牧場」、「泉」、「落葉」、「水が澄む」等の言葉、そして「すぐ帰ってくるんだから─君も来たまへ」という、一節ごとのくり返し。


0408
 この詩を読んでから七、八年後、私はこの詩に、大学の図書館でもう一度巡り合うことになります。米詩の詩歌集(アンソロジー)の中にでもあったのでしょうか。この度は原語の英語によるものでした。この詩を、どこかで読んだことがある、と思った時、二つの節の最終行のくり返しが、記憶の中の日本語の詩と、ぴったりと重なったのです。「すぐ帰ってくるんだから─君も来たまえ。」この時始めて名前を知ったバーモントの詩人が、頁の中から呼びかけてきているようでした。
 英語で読むと、更に掃除(クリーン)、落葉(リーヴス)、澄(クリアー)む、なめる(リック)、小牛(リトルカーフ)等、L音の重なりが快く思われました。しかし、こうしたことはともかくとして、この原文を読んで私が心から感服したのは、私がかつて読んだ阿部知二の日本語訳の見事さ、美しさでした。

 この世界名作選を編集する時、作品を選ぶ苦心と共に、日本語の訳の苦心があった、と山本有三はその序文に記しています。既刊の翻訳に全て目を通し、カルル・ブッセの「山のあなた」の詩をのぞく、全ての作品は、悉く新たな訳者に依頼して新訳を得、又、同じ訳者の場合にも、更に良い訳を得るために加筆を求めたといいます。
 私がこの本を読んだ頃、日本はすでに英語を敵国語とし、その教育を禁止していました。戦場におもむく学徒の携帯する本にも,さまざまな制約があったと後に聞きました。子供の私自身、英米は敵だとはっきりと思っておりました。フロストやブレイクの詩も、もしこうした国の詩人の詩だと意識していたら、何らかの偏見を持って読んでいたかも知れません。
 世界情勢の不安定であった一九三〇年代、四〇年代に、子供達のために、広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは、当時これらの本を手にすることの出来た日本の子供達にとり、幸いなことでした。この本を作った人々は、子供達が、まず美しいものにふれ、又、人間の悲しみ喜びに深く触れつつ、さまざまに物を思って過ごしてほしいと願ってくれたのでしょう。因みにこの名作選の最初の数頁には、日本や世界の絵画、彫刻の写真が、黒白ではありますが載っていました。


 当時私はまだ幼く、こうした編集者の願いを、どれだけ十分に受けとめていたかは分かりません。しかし、少なくとも、国が戦っていたあの暗い日々のさ中に、これらの本は国境による区別なく、人々の生きる姿そのものを私にかいま見させ、自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。数冊の本と、本を私に手渡してくれた父の愛情のおかげで、私も又、世界の屋根の上にぷっかりと浮き、楽しく本を読むあのIBBYのポスターの少年の分身でいられたのです。


0409 
 戦争は一九四五年の八月に終わりました。私達家族は、その後しばらく田舎にとどまり、戦災をまぬがれた東京の家に戻りました。もう小学校の最終学年になっていました。
 この辺で、これまでここでとり上げてきた本の殆どが、疎開生活という、やや特殊な環境下で、私の読んだ本であったということにつき、少しふれたいと思います。
 この時期、私は本当に僅かしか本を持ちませんでした。それは、数少ない本─それも、大人の手を通って来た、ある意味ではかなり教育的な本─を、普段よりもずっと集中して読んでいた、一つの特殊な期間でした。


 疎開生活に入る以前、私の生活に読書がもった比重は、それ程大きなものではありません。自分の本はあまり持たず、三つ年上の兄のかなり充実した本棚に行っては、気楽で面白そうな本を選び出して読んでいました。私の読書力は、主に少年むきに書かれた剣豪ものや探偵小説、日本で当時ユーモア小説といわれていた、実に楽しく愉快な本の読書により得られたものです。漫画は今と違い、種類が少なかったのですが、新しいものが出ると、待ちかねて読みました。今回とり上げた「少国民文庫」にも、武井武雄という人の描いた、赤ノッポ青ノッポという、二匹の鬼を主人公とする漫画がどの巻にも入っており、私はくり返しくり返しこれらを楽しみ、かなり乱暴な「鬼語」に熟達しました。
 子供はまず、「読みたい」という気持から読書を始めます。ロッテンマイアーさんの指導下で少しも字を覚えなかったハイジが、クララのおばあ様から頂いた一冊の本を読みたさに、そしてそこに、ペーターの盲目のおばあ様のために本を読んであげたい、というもう一つの動機が加わって、どんどん本が読めるようになったように。幼少時に活字に親しむことが、何より大切だと思います。ある程度の読書量に耐える力がついていなかったら、そして、急に身のまわりから消えてしまった本や活字への郷愁がなかったら、私は父が持って来てくれた数冊の本を、あれほど熱心に読むことはなかったし、一年半余におよぶ私の疎開生活に、読書の思い出をつけ加えることは出来ませんでした。


 今振り返って、私にとり、子供時代の読書とは何だったのでしょう。
 何よりも、それは私に楽しみを与えてくれました。そして、その後に来る、青年期の読書のための基礎を作ってくれました。
 それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。


0410
 読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深く物を感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。
 自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。私が、自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、他者への思いを深めますが、本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、悲しみに耐える心が養われると共に、喜びを敏感に感じとる心、又、喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。
 そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。





─────

変換、送り仮名、句読点などの表記は原文どおりのつもりです。

(まさに蛇足ですが、読みたくても読めなかった母を思いました。何も語らなかった「母」。)
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ざんねん(検索と感想)。

2022-04-10 08:26:40 | ■だらだら。

画像は2005年にかいてここのフォルダに入れたもの。
────





気を失いそうには一度もならなかった。少し前の雑誌の映画評なんかを見て、いかなくちゃってってみにいった映画ベルファスト、つまらなかった。つまらないのは私だけかしらんとおもってついベルファストつまらないで検索しちゃった。

けっこう前の書評欄を見ていまいちきぶんで予約していた本クララとお日さま、いまいちきぶんをおしてよみすすめるうちに哀しみを思わない哀しみとゆたかな情景に包まれるこれは映画にしようなんておもわないでほしいミステリー。ながらしかしあのねえまいった、軟らかい肌の少女レプリカントを描こうと努めるもどうしてもC-3POのイメージが最後までふりはらえませんでして。




────
09:43 追記。ここみちゃったひとへ念のため。上映中何度も洟かみましたよ涙もふきましたし演者その他もよろしくてよ。
追記-2。後段。ミステリーというよりサスペンスな。



( ↑ 4/19に追加した2015年の写真)

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あうと。(似てるシリーズ?)

2022-04-03 06:38:10 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。

(今朝↑の東京新聞)

録画アウトデラックスで元木大介で郷ひろみを思い出したが郷ひろみを見て元木大介は思わない。中居正広のスポーツ企画番組で元木大介を見てまた同じ現象。だからなんなんだだけど郷ひろみだって番組企画対象でしょーなんてやってるときりがなくて企画があいまいになっちゃうおそれがあったのかまったく違うかアウトデラックスが終わったのは残念だ。

というほど見てはいないが見ている範囲では情けないひとが一人もいなくてすごいなあえらいなあと思っていた。
きのう少し古い週刊新潮をめくっていた。鮮明な画像見たことない小室佳代氏の写真でフジコ・ヘミング氏が浮かんだ。






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