似てるシリーズ。

2018-03-30 22:33:30 | ・おもに音楽。



似てるシリーズったって、もとはタイトルに入れるどころか、書いた気になっててシリーズもなんもなかったりするんですけど。


今回のは、たったいま  さっきだね、J-waveに出てた久保田利伸さんの声。
似てるというか、 あ、いや、顔じゃなくてね、


スガシカオちゃんと郷ひろみ御大と久保田利伸さんが一緒にしゃべってる あてっこあてれこふう会話的音楽が聴いてみたい。



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NNNドキュメント'17 「記憶の澱」(山口放送)途中から

2018-03-22 11:02:53 | ■だらだら。




小6のとき惹かれていた男子は12歳以降会ったことがなくまた10歳以前の彼は思い出せないが夢の中では幼児であり何かと私に纏わりついてくる。このごろ寝覚めが悪い。夢の記憶が以前のように絵巻物のごとくとならないだけではなく、断片小片をまぶした、まさに澱のようなしかし抉るような印象を、からだにとかすようなのだ。


今朝は父の印象がどんよりと残り、やはり具体は思い出せない。かわりに自分が10代のときの記憶が零れてくる。父より年嵩の叔父は毎年戦友会に出かけ、楽し気に語った。一度見合い話を持ち掛けられた相手は戦友の長男で一度会ったがあまりに実直な右翼系で機嫌をとっても断られる容姿の私だが筋として断られるよう大いに振る舞った。
すぐ話が逸れるな。
俺は幹部候補生だったんだとジマンゲにエガオで言った父は決して戦友会などというものに出なかった。酒の中で生きていた。女遊びも尋常ではなかったらしい。あるいは、戦友は、いなかったのか。6歳上の姉が後年言うには、さる一般社団法人の会に入れ揚げたのは断酒のためでもあったという。かなりの年数をかけてそれを断った。ある夜、自分の夜具の上で掛け布団をめくって「〇〇〇(ramen)、ここに寝てくれないか。何もしないから」  なに? なにもしないからってそれなに?   一瞬両手をついてまでさらに言う。涙声に近かった。   リアルには思い出せないが、私は数十秒 そこに横たわった。横たわっていた。どのようにふとんから出たのかもわからない。


母の不幸は父のせいだと思っていた。父の不幸は母のせいだと思っていた。
それぞれにおのれのせいではあったと今なら思いながらもどちらにせよ不毛思考指向は変わりようがないのか。会話のないうちだった。知らなすぎた。





これで終わり。と何度も思いながら、不毛なブログをどれだけかいてきたかと思うと、ここでまたこれで終わりだからとはなりっこない。去年の05/20分に著作権がどうのとくどくど加筆したのもつい最近なのだが。
 十代の私に祖母は「〇〇(父の名前)ちゃんはいっぱい優等賞をとってるんだよ」と賞状を見せてくれた。田舎の優等生〇〇ちゃんの記憶と、この記憶の澱は近いところにあるような気がするのだ。




(語り:樹木希林、テロップには「山口県柳井市」)

語り:国民一人一人はさきの大戦の 被害者なのか加害者なのか。
 戦場でのみずからの行為を加害と考える元日本兵がいます。坂本武人さん、98歳。(テロップ「第39師団231連隊所属」)今も後悔しています。生身の中国人捕虜をその手で突き殺したことを。

坂本さん:初年兵の度胸試しっつってね、皆、こう、やらせよったんですよ中隊で。そりゃあ言われやせんでしたね。みんなやらしよったんです。うちの中隊でも(中国人を)連れてきてからね、刺突(しとつ)をやったんです。私も、それ、やったんですよ。

語り:坂本さんは中国北部の湖北省を侵攻する最前線の部隊で5年間戦いました。
 軍人勅諭に戦陣訓。軍国主義の思想を徹底的に叩き込まれました。
 初年兵訓練では、生きた人間を突き刺す刺突訓練が多くの部隊で行われていたと記憶しています。
(坂本さん19歳当時の写真)
 入隊当時、坂本さんも上官の命令で刺突を経験。今も感覚はその手に残っています。

聞き手:感覚は覚えてます?
坂本さん:何?
聞き手:刺突訓練の感…
坂本さん:覚えておりますよ、それは。ああ、胸を突いたときの感覚、今も忘れないですよやっぱり。ああ。バッとこうなって(倒れて)ね、そしてそんときに周囲の    中国の人がこう、その 突く現場をこう見たっていう人がやっぱり  覚え   (?)
 その当時考えてみりゃ当たり前のことのように思え  が、今考えてみりゃ残忍なもんですよそりゃあ。


語り:無抵抗の生身の人間を突き殺す刺突訓練。
(テロップ「第39師団232連隊所属 玉木文治さん(97)」) いやいやながらも命令に従ったことを悔いる人は大勢います。玉木文治さんもその一人です。 
(画面:手書き原稿用紙)「度胸をつける為」「中国農民二人を杭に縛りつけ」、銃剣で次々と刺して殺害。さらに、上官の命令で、その亡骸(なきがら)の上を歩かされたのです。玉木さんの足の裏には、今も…

玉木さん:まだその感触というか、いうのがまだ残ってるような感じがしますわね。ざく、ざく、ざく、ざく、という、その、踏んだ時に、踏みつけてなんかすること自体がね、人間のやることではないさけにね。


(テロップ:第39師団232連隊所属 故・鹿田正夫さん(1918年生))
鹿田さん:適当な戦いではないんですからね。部落の掃討ですから。略奪、放火、強姦が目的でしたから。その一晩で連隊の約千名で二百数十名の住人のほとんどを殺害したんですよ。

語り:今は亡き鹿田正夫さん。中国戦線の最前線で戦い、ある村を全滅させる掃討作戦に加わりました。小隊長だった鹿田さんは、無抵抗の農民30人の射殺を部下に命令。(画面:印刷手記)自分自身も手を下します。病気で伏せている若い娘を見つけると、娘の命乞いをする父親の目の前で撃ち殺してしまったのです。

鹿田さん:かわいそうだとかそういうような気持ちは全然ないですわ。そんな、かわいそうだなあというような気持ちがあったら殺せませんよ。もう彼ら人間だと思ってないんですから。まあ日本の今までの受けた教育と、それから戦場心理と。戦場心理というのは非常に怖いです。それは連鎖反応を起こすでね。人間の良心とかそういうもの、もう人間でなくなっちゃう。

語り:鹿田さんは、戦争の記憶を家族には話しませんでした。娘たちも孫たちも、鹿田さんが晩年に書いた手記を通して多くを知りました。

(食卓の家族と笑い声、テロップ:鹿田さんの長女 高東恭代さん)
語り:鹿田さんは一方で、公の場では戦地の記憶を証言する活動を続けました。
(鹿田さんの妻 かをるさん(87))
鹿田かをるさん:あのこ(娘)が結婚する前に、広島で第1回の証言をしたって、それはあとから聞いたんですよね。なんにも言いませんでしたからね。ああ、そんなことあったんかと思うとったんですよ。
恭代さん:言葉で喋るのと書いたもんを読むのとははまた別ですから。あ、そういうふうに思ってたんだなというのは、本読んでわかりましたけどね。実際に直接聞いたことはないです。聞きたいって言ったら(首を振る仕種)話は、あんまりそういうのしたくないって。家族にはかえってそういう話はしたくないものだと思いますよ。
聞き手:それはなぜなのでしょう。
恭代さん:それはやっぱり、犯罪だからですよ。 胸張って自慢できるようなことじゃないから。

語り:戦場での加害。夫は悔やみ続け、毎晩うなされ続けた、と妻のかをるさんは言います。しかし、かをるさんの勧めで手記を綴り始めてからは、夜も眠れるようになりました。(画面:ハードカバー『自分史 私と戦争と ─ 大正・昭和・平成と生きて─ 鹿田正夫』)書き上げた翌年に夫は亡くなりました。
かをるさん:まあ自分の気持ちが、これを書くことによって楽になっていったんじゃないかなあと思うんですだんだんと。夜うなされていたっていうことも、亡くなる四、五年前から、そういう兆候は全然なくなりましたのでね。晩年は穏やかに過ごせたっていうことが、よかったんじゃないかなあと思うんです。


(手書き書類のコピーとテロップ:戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策 昭和14年6月 陸軍軍医 早尾〇雄)
語り:日中戦争が始まって3年目の昭和14年。日本兵による性暴力について、陸軍軍医が記録しています。(画面:「十七.性慾と強姦」の章)ある兵は、民家へ立ち寄ると、逃げ出そうとする娘を捕えて強姦したばかりか、翌日も到って再び強姦、ある兵は、軍刀を引き抜いて脅迫した上、強姦、ある兵は、戦友二人とともに支那夫人を輪姦、ある兵は、13歳未満の少女であることを認識しながら、姦淫。


(テロップ:第62師団所属 近藤一さん(97))
近藤さん:真ん中のきれいな布団に、ありましたから、何だろなあと思って布団をこうめくったら、そこにね、十二、三歳から15歳ぐらいだと思う若いね、女の子が寝かされててね、で、ひょいと見たらもう股間は血まみれになってて、あ、これは強姦したやつだなあと思って/

語り:近藤一さん97歳。歩くことはできますが、耳はほとんど聞こえなくなりました。近藤さんが中国戦線に加わったのは、軍医が記録した翌年の昭和15年。

(近藤さんによる地図)
語り:中国西部の山西省で4年間戦いました。その間、近藤さん自身も一度だけ、性暴力に加担したといいます。(当時20歳の近藤さん兵装写真)中国人女性をとらえ、所属する部隊の全員で、輪姦。上官にお前の番だと言われた近藤さんは、命令には逆らえず、その部屋に入るしかありませんでした。(この間、語りとの小さな差異のある手記の映像)

聞き手(耳元で):女性は相手は一人なんですか。
近藤さん:一人。で、こちらはね、軍隊で十二、三人か14人ぐらいの一個分隊でいましたから、それが入れ替わり立ち代わりしてそこへ行ってそういうような行為をやると。私はそういうことはあんまり…、あんまりって、やったことないしねえ、ずうっとねえ若い時分でも遊郭へ行ったことないんで。それでもね、自分だけ嫌だと (咳払い)仲間外れになってしまいますから、だからウンと言って部屋へ入ってったら、そこで女性が素っ裸で寝てますので、それをただ見てるだけでね、で10分ぐらいしてから「終わった」と言ってもとへ帰って/

語り:女性に手を出さずに、輪姦をとめられなかった近藤さん。部隊ではその後も少人数での輪姦がたびたび起こります。乳飲み子を抱いた中国人女性を輪姦したうえ、裸のまま一緒に行軍させたことも。女性が歩き疲れると、古参の兵隊が赤ん坊を取り上げ、谷底に投げ入れました。

近藤さん:隣にいた古い兵隊がねえ、立ち上がってね、抱えてる赤ん坊をぱあっとこう投げ捨てた。ちょうど行軍してる左側はね、二、三十メーター崖になっているんで、だから赤ん坊は当然亡くなってると思うんですけど、それを見た女性はもうすくっと立ち上がってそのあとを追って飛び込んでいったんです。当然亡くなってると思うんですね。ひどいことをやるんだなあって。そうしたら 「出発ー」ていう声がかかって、もう出発して5分もすると、それはがーって頭の中からどっかへ行ってしまいまして/

語り:中国戦線を戦った4年の間に、近藤さんは性暴力に加担したばかりか、みずから捕虜の殺害も。

近藤さん:もう毎晩のように夢に出てくるんです。悪いことしたことがね。やっぱり自分がね、その場でね、その中国の人に、殺さんでもいいものを、「お前ら並べ」って、向こうを向いて並べさせて、それでそれを20メートルぐらい離れたこちらからね、鉄砲で撃つんです。親や子ども、そういう者が一緒にいて、それがね、ああいう目に遇ったらどうだろかなあということで考えるようになって、ああ悪いことやったなあっていうんで/

語り:優しい祖父母に育てられた近藤さん。人を傷つけてはいけないと教わりました。それなのに、行きたくもない戦争へ。 近藤さんは長い間、悩み、苦しみ続けてきました。

近藤さん:まあ自分自身としてはねえ、いわゆる被害者だというふうに思いたいんです。そやけどもねえ、やっぱよく考えるとね、何やかや(?)  てやっぱり加害者やと  /

語り:近藤さんの所属する部隊は、中国戦線を戦ったあと沖縄へ送られます。アメリカ軍が上陸すると、すぐに戦闘は始まりました。近藤さんは右胸を撃ち抜かれます。肩の骨まで砕かれました。それでも、国の教えどおり(映像「戦陣訓」表紙)最後まで戦いました。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。
 部隊は後退を余儀なくされますが、誰一人逃げ出す者はありません。近藤さんも手当てを受け、3週間で部隊に戻ります。右手を吊ったまま左手だけで戦いました。部隊は壊滅状態。飲まず食わずで弾も尽きます。残った数人で最後の突撃に出ました。しかし近藤さんはあえなく転倒。頭を打って気を失い、捕虜となったのでした。

 近藤さんの脳裏にこびりついたままの沖縄の戦い。敵は見たこともない巨大戦車。何十もの戦車の列に生身の人間が向かっていくのです。教えどおり、仲間たちは皆、虫けらのように死んでいきました。

近藤さん:戦車が来る、と、急造の爆弾 手りゅう弾を発火させて、それを来た戦車の下へ放り込むと。一個のねえ、若い兵隊が急造の爆弾ですよ、戦車と戦争。これが沖縄の戦争。ほんっとにね …(発語ならず、抑えた嗚咽 掌で顔を覆う。 顔を上げ) みんなだーっと走って、戦車が20台、30台、だーっとやってくる。それを戦車の横へ放り込むんで。帰ろうとしてもすぐ戦車から撃たれてそこで亡くなる。もう10人が10人ともが亡くなってしまう。大きい戦車に対して一個の急造爆弾、それを持っていく。これが沖縄戦。(嗚咽)ほんっとにね、二十二、三歳、25までの若い者が戦車に対して急造爆弾で飛び込む。これが沖縄戦の戦い。そやけど、何も言わずに、命令されたとおりに、皆がね、ほんとに何も言わずに、国のため、家のため、みんなの部隊のために/


(写真とテロップ:岐阜県白川町黒川)
語り:岐阜県、山あいのまち黒川。かつて、国策の開拓団として600人が満洲へ渡りました。その黒川開拓団が、敗戦直後、やむなく選んだ道は

(黒川開拓団 安江菊美さん(84))
安江さん:もう集団自決するというときに副団長さんがその性接待を思いつかれて/

(黒川開拓団 綾子さん(仮名・89)
綾子さん:性接待に出た人はご苦労やったと思うよ。

(地図 満州国吉林省「陶頼昭」に入植 昭和16年4月)
語り:昭和16年、黒川開拓団は満洲中部の陶頼昭(トウライショウ)に入植。広大な大地には芋やコーリャンを植え、貧しいながらも肩を寄せ合い、ともに暮らしを立てました。そして敗戦。すぐにソ連兵による性暴力が始まります。(「あヽ陶頼昭」黒川開拓団の手記)そこへさらに満洲人が暴徒と化して襲ってきたのです。100人を超す満洲人の集団に村はたびたび襲われました。隣村は集団自決。我が黒川開拓団も死ぬしかない。
 そのときのことを、12歳だった安江菊美さんは鮮明に覚えています。

安江さん:もう集団自決する、というときに副団長さんが「それはするな」と。「何とか生き延びないかんで」ということで、その性接待を思いつかれて…。そこで、ね。集団自決すれば、そんで終わっちゃってるから。
聞き手:ほかの手段はあったかなかったかってお考えになったことはありますか。
安江さん:ないと思います。ほかの手段なんてないと思います。

語り:度重なる襲撃に食糧は底を尽きます。そんな中、600人の開拓団として決定したのが、若い女性たちを差し出すこと。性の接待でした。差し出す相手はソ連兵。満洲人を追い払ってもらい、食糧を得るために 駅に駐留していたソ連兵を頼ったのでした。

綾子さん:今夜はロシア(ソ連)兵が何名来るから何名の人が接待に出るように、幹部の人がねえ、みんな娘んとこへ頼んで歩いてねえ、そうやって出たわけですけど/

(当時17歳の綾子さんの写真 ~ 姉・和子さん(仮名・当時23歳)の写真)
語り:性接待に出されたのは18歳以上の女性たち。当時17歳だった綾子さんは難を逃れます。性接待を終えて帰ってくる女性たちの治療や手当てをする役に回りました。しかし、姉の和子さんは23歳。接待に出された一人です。
 「性接待の年齢は18歳で線を引くべき」、開拓団の幹部に強く訴えたのは 姉でした。

綾子さん:線引き、その18歳、うん…
聞き手:妹さんに対する思いというのがあったんですね。
綾子さん:そりゃああったと思う。「妹の分まで私が出るで、妹まで」ということをみんなに言ったらしいけど。そういうことは聞きましたけど。

語り:姉の和子さんをはじめ、犠牲になったのは独身女性ばかり15人。うち4人が性病にかかり、亡くなりました。

 性接待を耐え抜いた女性本人が重い口を開きました。(黒川開拓団 キミさん(仮名・91))黒川開拓団の性接待は、満洲人の襲撃がなくなるまで数か月間続きました。その接待を耐え抜いた本人が重い口を開いてくれました。
(キミさん(仮名・当時19歳))当時19歳だったキミさんです。開拓団の決まりに従うことしか考えなかった。と、振り返ります。

キミさん:奥さんは頼めんでな、あんたら娘やけども、どうか頼むって、頼まれたわけなん 。父が「日本へな、どうにもして帰らにゃいかんでな」って言って、家族にいつも言ってくれましたし、周りのグループも「帰らにゃいかんで」って。どんな目に遇っても、そこを切り抜けて、いくらひどい目に遇おうとも、命があれば帰れるから。日本へ帰りたいってことが一筋に。
 嫌で嫌でしょうない。逃げたいんだけれども、けども、どうかして黒川開拓団として全部引き揚げたいから、その犠牲になれって言われてるから、それ辛抱しましょうってって仲間で。
 きょうは接待役ばっかり、なんか食事をしてもらうでってって、寄ってね、食べたりしたときに、みんなお互いに涙こぼしながらも、 頑張りましょう! もう、そして、病…発疹チフスをもらったり性病をもらったりするんだけど、どうにか生きていけるんなら生きなきゃならんから、頑張りましょうってって/


綾子さん:こんなことはね、もう今まではね、まんだ、犠牲に立った人は結婚せんならん人もあるしねえ、帰ってきた当時は。結婚に携わって(?)くるで、もう絶対タブーにしとったのよ、こんな話は一切。こういうことがあったっていうことはもう隠しておりました私たち。みんなで隠しとって出さなんだわけだけど/

語り:姉の和子さんは去年亡くなりました。(黒川開拓団 故・和子さん(仮名・1922年生)写真)綾子さんが性接待のことを打ち明けてくれたのは、この悲劇を伝え残してほしい、と姉に頼まれたからです。姉は日本へ引き揚げたあと、理解ある夫に巡り合い、静かに暮らしました。しかし、周囲から心ない言葉をかけられたこともありました。

綾子さん:みんな、好きで んなの出る人はないでねえ、ほしたら内地へ帰ってきたら(姉は)「そんなものは減るもんじゃない」ということを言われたって。昔から言うよねえ、増え   減るもんじゃないということを。減るもんじゃないかしらんけどねえ、性接待に出た人は、ご苦労やったと思うよ。

 これが姉の字よね。(手書きの詩集)

語り:姉の和子さんは詩を残しました。支配する側からされる側に立たされた開拓団。さらに、その開拓団の中でも支配は続き、最後の最後まで犠牲となった女性たちの心の叫びです。

                       

安江さん:満人を追い出しといて日本人が入ったってことでしょう。ある程度のお金は渡してあったかもしれませんけど、もう、ね、無理やり追い出しといてそこへ入ったんで、襲撃に遭っても仕方ないと思いました。
聞き手:それは幼心にそう思ったと。
安江さん:そう。


綾子さん:なんてあの国(満州)の人は、日本人から土地を取られ、家屋を取られ、そういう目に遇いながら、なんてかわいそうな土地の人かしらんと、そういうことをよーく思ったことありますねえ。

                         (朗読詩ほかセツメイ語り一部略)




  ──────   加筆 2020-06-20

NNNドキュメンタリーが50周年だそうです。
けさの新聞に載った黒川開拓団に関する記録は、NHK ETV特集取材班によるものとのこと。






──── 2023-04-28 11:39

上野千鶴子朝日文庫女ぎらい p.35








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204号室

2018-03-06 08:58:36 | ・ことばの尻尾踏み。



「なんとなく。」
から聞こえた。
右の角から来て前の道を行く小学生
「ナントナクでごまかすなよっ」が響く。

なんとなくじゃいけないの?

なんとなくでいいときとゆるせないときが
あるだろ?
それは左の角を曲がり
訪れた更地の空気に
鳥の囀りとBSニュースが甦る

それに流されていくというでなく
それが擦り抜けてゆくようでもなく

私が瞬きをコントロールできたりできなかったりと
どう違うのだろう

宇宙の中で地球がさかさまになるのも
地球の中で日本がさかさまになるのも
なんとなくでどうなのだろう




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