人はどうしたら天使になるか。イヂワルになるか。

2006-11-21 22:17:58 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。

やさしさを発揮できなくて
ひとは意地悪になりましょう。


ひとに天使を感じやさしさを発揮させてあげられる人が
ひとを天使にするのでしょう。






* むかあし、「独特な人」という言い方が気に入った。その後、発する言葉としては使いはしなかったけれど、しばらく前まで、好きな言い方だった。ノーベル文学賞作家の作品にあった。
 去年ネットで出遭ったひとが、よく「天使」という言い方をする。例えば見境ないほど好きになった相手以外から天使と言われて素直に喜ぶひとはいないだろうから、面と向かって言う言葉ではない。それでも、そのひとの言うとおり、たしかにこの世には天使が思いのほかたくさんいるのだと思えてくる。すれ違っただけというなかで微かな温かみを残してくれるひとに、アノヒトハテンシダ、などと心の中でつぶやいている自分に気づくことがある。



 結露ごし
    氷雨あたたむる 陽のちからかな

   (日曜の冷雨に震えた翌朝はあかるい雲。
     そのなかにかたちを示す日輪にようこさんの名をかけて)




 鳥のこゑ
   あやに織りなし
            高く雲ゆく

   (紡ぐ前のわたが引き延び走るような白い雲が
     今朝の秋青の空に。綾と彩と文は言わずもがな)




 いき抜けよ いき急ぐまじ冬の芽よ
          しなやかにかたき四季ぞ包みて

   (風行き渡る壱岐は生き生きと意気さかんなり、
     なんのこっちゃの粋なため息が逝きましたとさ)




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礼儀。

2006-11-18 00:27:14 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。


昨日、谷戸公民館のロビーでオネエサンにもあげよう、と、緑の葉っぱにとまった緑の直翅目の虫をくれたかたがいました。いやオネエサンではありませんがとまた余計なことを言いながら受け取りました。この技能、生かさないともったいないよねえと思いながら、打ち合わせのあと戻ると、葉っぱのくずすら残っていませんでした。

ひさしぶりに週刊文春を買ったらニュースグラビアは美香容疑者で、私はページを閉じます。こういう事件を犯した者の「やっぱりねえ」を挙げた数に比例して読者の好奇心は満足するのでしょう。こういう事件を犯すということにつらくなる自分の気持ちにそれらの言葉は優しいわけがありません。

────────

コミュニティーにかぎらずかかわる世界何でもそうでしょうけれど、
ほとんどコミットしなくても
そこに在ることを提示された刻印はかぎりなく曖昧でも
心の中にひそかに根を張っているらしいのです。

そこからその対象が消えたと知るときの欠落感というのは。


在るだろうと安心しているものです。
在りますかと聞いては縁起が悪いような。
なんにでも終わりがあるのでしょう。
宇宙の不思議のように始まりに終わりは匿れてゆくのでしょう。


鷲田清一さんが存在はひとに与えられるものだと思う
とテレビ番組で言っていました。

なるほどなあ
というのは表面をなぞるだけで掘り下げる理知もなし。



与える対象を通じてひとは自分の存在を見るというように思いました。
与える経過をへし折られるような又は途への入り口を閉ざされるとき
惑うて足らずに狂えぬひとは死ぬかもしくは殺すのかもしれません。

人は人の惑いには、蜜の味を味わうとき以外は礼儀として無関心です。



コミュニティーの管理人さんが亡くなったことを知った後も何も書き込めず退会もしていません。ゆうばり映画祭はこの夏に終わっていたことを知ってもせいぜいばかなことを日記に書いたなというぐらいです。ともだちがそのともだちがミクシィから去ったことで凹んでいると聞いてワケワカ言葉がくるくる頭からわき出しまして、そのうちはなしはアッチのほうへ行ってしまいます。


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こえぽん。

2006-11-12 00:17:29 | ■だらだら。
11月のカレンダーは、ぽん・で・ら・りんだのきょうだい小鉄ちゃんのほぼ1年3カ月前の後ろ姿♡



シトしまくりによって入手した陣地──わがやの家財の中でも高価な部類に入るソファーを壁に立てかけたその上──で、ぽんが初めて 突然ばっ と挑発的な格好をしたときには、それが脅威を感じさせるためだったらまさしく功を奏した。
写真に撮れないのは、やおら右足と頭を寄せ合ってぺろぺろなめ始め、視線は私のほうを見て「なにか?」 というわけだからである。


──────

NHK東京カワイイウォーズ再放送はずいぶんいろんなことを思わせてくれた。ファッションもIモードも遠い私に結局残った印象は、私がえびちゃんのかおともえちゃんのかおを好きになるのは5年先だろうってことだけだったりして。あとは昔話との類似形。ビルの外観はほとんど変わらない109で昔は買い物をしていた。だけどイマドキなのは東急より西武・な当時の感覚。半世紀にわたる──私史以前のことはせいぜいミカドの肖像のデータ──西武vs東急だ。





もえちゃんえびちゃんを食い入るように目で追う私ごのみの^_^;女の子たちの陶酔顔が夢に出てきそうだ……。

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場ちがい。

2006-11-09 21:44:46 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。

ライブやホール、劇場などはまったくおそろしい。作品以外は流れるだけの美術館や暗い映画館はやや安心なのだが出入り口や待ち時間がある。習い事だって同じこと。

Sさんの掲示板にメリー・ジェーンのことをちょっと書いた。カウンターのしつらえとか壁のジャズメンのサインとかが目に浮かぶその店は今でもやっているはずだが、場ちがいなので行かない。今あそこの近所で時間をつぶしたくなったら喫茶オーワダだ。まだあるかな。

ジェーンつながりでレディー・ジェーンも思い出す。竹橋勤務の昼休み、レディー・ジェーンには一人で2度ぐらい一子さんを聴きに行ったかなと単に話の流れで言ったら、たまたまヘルプに来ていたサンチャ在住の社長の息子が即座に振り返って「にわあねえええええっ」とお叫びになった。やっぱりね、なのだった。

Kさんのコメントに対して新宿厚生年金のことを書いた。そのあと録画スマステを見たので厚生年金で上方から見おろした松田優作のヨコハマ・ホンキートンク・ブルースが浮かび上がる。一番最近が数年前の萬斎さんか。欲求が場ちがいに負けておろおろしているからいつも不完全燃焼で記憶はあまりにも頼りない。誰か一緒ならおまけの顔になれるが、誘ったときに断られたりその作品がおもしろくなかったりが二、三度あって、やっぱりね、なので誘えないから欲求は雲散する。

自分としては別に似合わなくてもいいが場ちがいは人に不快感をもたらす。ひとの目はどれも自分を逸れるということと場ちがい感というものがなぜか仲よしだ。これがなかったら世界はすこし違っただろうと過去を思うのは不毛というもので、これからもおそるおそる足を出したり引っ込めたりしていくほかはない。

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